Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エゼキエル第37章以降

前記事⇒ エゼキエル書の構造

 

37章1節にはそれより前の部分との終末啓示の下賜された期間とに違いがある可能性を含んでいる。それ以前は『第12年10月5日』即ち、前586年であることが記されているが、37章から一続きの内容として39章末尾まで続き、次いで40章からはいきなりに『第25年1月10日』即ち、前571年に飛んでいる。その経過は14年(15年目)となっている。

記述のままに、37章以降が属する33:21からの内容は、それ以前のように諸国への糾弾から、聖都エルサレムの陥落の報を受けた夕方から啓示が与えられており、イスラエルへの咎の宣告と捕囚民の無理解が予告される中で律法体制の牧者らの犯した悪行が描き出される。その後回復が幾らか語られて37章を迎えている。

従って、37章以降の背景は、イスラエルが聖都と失った後の預言であり、それ以前の内容である咎を責める語調から変化が見られる。全体的には「回復の預言」となっているが、40章以降は謎がある。

(神は常にエゼキエル自身を自らの側の者『見張りの者』として語り続ける)

 37章~39章の書かれた年台は前586年以降で前571年以前のどこかということになるらしい。

エゼキエル書は36章を最後に「エルサレム」と「シオン」の名が一度も現れずに終わる。37章から最後までこれは徹底しており、「イスラエルの地」または「イスラエルの山地」という曖昧な言葉に終始する。>

 

 

・骨の蘇生

37章の場面は明確にそれ以前とは異なって、エゼキエルは霊によって平原に連れ去られている。

その谷の平原には乾ききった人骨が無数にあったが、エゼキエルはそれらの骨に向かって預言することを命じられる。

それらの骨は肉体を構成するようになり、四方の風がそれらに命の息をもたらす。

神はそれらを『イスラエルの全家である』と言われる。

 

・二本が一本となる棒

『ユダ』と『イスラエル』の棒は預言者の手に在って一本と化す。YHWHは諸国から彼らを集め、『一人の王を戴き』、『もはや二つの王国に分かれることはない』。神は彼らを清め、彼らは神の民となり、神は彼らの神となる。

彼らは父祖の地に住み、その王はダヴィドであり、神は彼らの上にその幕屋を広げ、聖なる処は彼らの中に置かれる。その聖所が彼らの中にあるのを見る諸国民はYHWHイスラエルを聖なるものとしていることを知らねばならない。

<前518年(ダレイオス四年)以降にゼカリヤが記した二本の杖とは対照的> 

 Jer23:5/Jer30:9/Jer33:15・22/34:23・24/Ez37:24・25/Hos3:5/

Am9は別途

 

続く38と39章はゴグに関する預言で占められるが、これも終末(38:8)について語っている。

安らかなイスラエルを襲うゴグは、タナイームに恐れを与えてきたので、「ゴグの害を避ける方法」も唱えられた。⇒「ゴグとマゴグの戦いの不運」

滅び去る聖都として何度も語られた「エルサレム」の語は37章以降にはまったく出て来ない。また「シオン」の語に至ってはエゼキエル書に一度も無い。これは非常に示唆的で40章以降の謎も含めて解く手掛かりとも言える。

イスラエルという民に対する諸国の軍の攻勢を主導するが、その軍はアッシリアの攻勢の時とはっきり異なるのは、南方系クシュ、プトの従軍が有るとされるところにも表れている。殊にクシュはアッシリアを最後に脅かした勢力であるので、はっきりと別物であることが分かる。これについては「鉤をかけて連れて来る」がイザヤのものとは逆に語られている。しかし、双方共に神の強い意志により必ず行われることを言うのであろう。

また、語られているトガルマが北の果てというのは、当時の世界観で言えることであったのであれば、これはイザヤの語る北の果てとは異なる意味になる。しかし、ゴグが攻勢のために来る方向が北の果てとされているこちらの言葉は、イザヤの意味と同じものらしい。⇒「ゴグの民族について」

ここでのイスラエルというのは、諸国から集められる民だけを意味しない。城壁も閂もなく平穏に過ごしているのは、子の方ではなく母親の方といえる。この両者をつなぐのはメシアの祈りの言葉の中に見える。それは選ばれた民が天に去った後であれば、その蓋然性は十分にある。神が守るべき民とは選ばれた民とは言えず、ここでイスラエルへの攻勢が同士討ちに終わる記述からすれば、このイスラエルは聖徒にはならない。

<新しい角に関する情報はエゼキエルには無いようだ。契約を追うダニエルとは補完関係にあるらしい>

<その意味で言うと、40章以降を含めてエゼキエルはダニエルよりも暗い>

<以前に書いたタイムテーブルは幾つか順番が違ってきている>

 

 エゼキエルでのゴグの働きは黙示録16章での偽預言者を含む霊感の言葉と整合している。これはヨエル3:9以降にも通じる。エゼキエルでの、この結末についての同士討ちは古くはエホシャファトの故事に予型が見られ、それをやはりヨエルが預言して確証している。

同士討ちについてはゼカリヤ14:13-14にも予告されており、「ベラカの谷」の概念が再出している。これらは一つの事象を指していると思われ、それはエゼキエルの38:17で『先の預言者によって語ったこと』と念が押されている。即ち、エホシャファトの故事に発するヨエル(前9世紀)以来の神の預言を言うのであろう。

こうなると、ゴグ自身の場所が『北の果て』とされる意味に見えるものがある。彼は政祭の頂点に居る。更にマゴグがゴグの地所であるのなら、マゴグの正体も見えてくる。⇒「ゴグとマゴグの関係」

そこでエゼキエル40章以降の謎の神殿がどう関わるのかも繋がってくる。

これは相当にクリティカルな内容になるが、ネイヴィームとパウロと黙示とイエスの言葉が一事案の方向に収束されていることになる。当然ダニエルにも散見される。ただ、聖書中では総合されずに散らされている。その目的は理解を妨げるためであろう。直に知ることが避けられているというよりは、諸説が入り乱れ、謬説が流布することが意図されているらしい。理由は終末の背教を誘発することにあるようだ。<ダニエルの12:4は良い意味での預言でないのかも知れない>

というのも、その謬説が終末でのカイヤファと祭司長派の働きを為し、その協力者を招じ入れるための神の遠謀深慮が込められている可能性が排除できず、人は容易にその罠に嵌まる。というより既に嵌まっている。預言の前に人は恐懼すべきであるのに、自分の解き明かす身分に酔っていれば、たいへんなことになる。

 

 ・ハモナー 

 Ez39:16 הֲמֹונָ֖ה

39:15「ゴグの群衆の谷」 אֶל־גֵּ֖יא הֲמֹ֥ון גֹּֽוג 

モナーが二回あり、ハモナーそのものが「(組織された)集まり」また「群衆」の意あり。

「ゴグの群衆」の群衆がハモンであり、ハモナーで女性形。また「数えられた」の意あり。

「海の東」は死海を指すとのこと、「海の道」を意味しない。

敷衍して、「ゴグに蝟集した者たちの組織された群衆」。

16節では都市の名としてハモナー(f)であり、この都市が突然現れるかのように訳されているが、新共同訳は「そこで、ハモナ(軍勢)という名の町ができる」としている。ヘブライ語の簡略さがその由来の詳細を明らかにさせない。

ここでの『街』というのは、ニムロデの都市国家を含意していると捉えると、その墓としての象徴的意味に解せる。⇒『ゴグとマゴグに惑わされた民は地に広がり、聖なる者たちの宿営と愛される都市を囲む』Rev20:8-9

『その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える』の『墓地』はシェオルでなくケベル[ קֶ֜בֶר]になっている。通常の墓の意ではなく「埋葬地」となるけれども、「死体置き場」に近い。

 

 

 

メモの集積

-逆方向へ-

 

・滅ぼされたのはソドムとゴモラだけでないJr50:40

・「あなたの知恵と知識があなた(バビロン)を誘いだした」Isa47:10

・例年ペサハを行っているところにキリストが『主の晩餐』を始め、贖いと解放を示した。キリストの実体の前表であった晩餐そのものも前表であり続け、それはやがてキリストの臨在を知らせるものとなり得る。従って、それを推し進める聖徒ではない者が誰か居なくてはならない。忠賢者が主の到着の時期と深く関連付けられているので『シオンを嘆く者』が居なくてはならない。

・Isa60は聖徒ではない者たちについて長く述べている。

・神の裁きに於いて試されるのは何か?アダムとエヴァの場合には「決定」であった。だが、その子孫の場合には個人の内奥の倫理的傾向であるようだ。それは社会的道徳性には現れない。その例として、ダヴィド王の悪行と神の評価には人が理解に苦しむ程のアンバランスが見られるし、それはアハブ王でも変わらない。アハブやマナセJudに限らず、生涯の結論的評価が人の間では低いにも関わらず復活して神の裁きを受けるのであれば、神は人の表層ではなくかなり深く内面を見ると言える。従って、裁かれるのは個人の道徳の程度にはならない、特定の悪行によってその人が相対的に裁かれると考えられがちだが、そのように捉える人々にとって、ダヴィドへの神の処遇が上手く説明できないことになる。『彼(DVD)は、わたしの法と掟とを守ったからである』1King11:34  ⇒「子は必ず死ぬ」ダヴィドの贖いとされている「ダヴィドの子」か?

 

・救いへの願望がもたらす経綸理解

神の救いにすがりたいと願っているところで、聖書の断片的言葉にすがりつき、本来の神の言葉の意図を歪めて捉えてしまう。

 

・『また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。』口語

[οἴδαμεν ὅτι ἐκ τοῦ θεοῦ ἐσμεν καὶ ὁ κόσμος ὅλος ἐν τῷ πονηρῷ κεῖται]

『知っている なぜかを のものである 神の そして この世は すべてもの 悪いもの  横たわっている』

”We know that whoever is born of God does not sin; but he who has been born of God keeps himself, and the wicked one does not touch him.”NKJV

前の節

『すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。』

19節は聖徒について述べている。また、[κειμαι](原)は「操られる」ではなく、「横たわる、定まる」である。キリストに言ったように『属している』という以上の意味はない。

 

・あの動画(ハーベスト系)の欠陥は、テサロニケに書かれた「背教」を終末に来るものとは捉えず、いまだにローマ・カトリックに同定しているところにある。彼らには「終末の背教」という概念が欠けており、これはアメリカ系の新興キリスト教によく見られる。カトリックを踏み台とすることで自分たちの正しさを感じたいのだろうが、ダニエル書の理解が短絡的で、終末に関わる聖書の情報の総合が幼稚な段階に留まっている。

・神殿が再建された当時、ペサハは14日に行われていることがエズラ6:19-22で分かる。続けて七日間の無酵母パンの祭りを行っている。セデルの15日への移動はその後に時代のもので、おそらくはタナイームが元凶ではないだろうか。あらゆる聖句を絶対的に見做す以外に動機が見当たらない。

 

・『わたしたちは皆、一時は肉の欲に従って生活し、生まれながらに憤りの子であったものを・・』Eph2:3

-この世を推動しているものは貪欲である--この世に属するすべての人は(信者も含めて)憤りの子のままである-

 

・『神は天のものも地のものも、キリストに在って一つにする』[οικονομια]というパウロ論議から創世記を見ると、人が『地を治める』とは、地上の「管理」というだけでなく、「一つのオイコノミアにまとめる」という意味があるのかもしれない。それならば、先史時代、化石時代の自然界が弱肉強食であっても辻褄が合う。そこで人の特質は「愛」であると言えることになる。失楽園の時に自然界は以前の状態に戻ったと言い得る。

 

・『今この時期に百倍を』は、既にイスラエル同朋であった弟子らが、別の同朋を得ることを言われる。これは後の『同朋の兄弟全体』を指していたと思われる。どうして以前の同朋関係から離れたかと云えば『福音のため』とされており、メシア到来による『神の王国』の接近のために、弟子らとユダヤ体制との間に信仰を巡る異なりが出ていたことを言うのであろう。(Mk10/Lk18はより詳しい)

またルカは違った場面で『(永遠の)命を得る』ことについて記し、イエスは律法中最大の掟に関してこれを述べている。Lk10 ヨハネは愛と永遠の命を関連付けたイエスの発言を記録し、それは書簡とも一致する。Jh3

また、なぜ富者に主要な律法を守る事と『完全であるために』追随者となるよう求めたのかは、五旬節前であったので、律法体制下での要求がされたと見做せる。これは『義人はその義によって生きる』に代弁されている。従って、『信仰による義』が示されたのは、早くはキリストの死からであり、五旬節の奇跡に預かった人々はその信仰の義に達したと言える。

この件で問題となるのは、永遠の命が従順と関係しているかのように見えることだが、律法体制下に在った人々に語られた言葉をそのまま五旬節以降に適用するのは間違っている。特に使徒パウロ論議とは真っ向から衝突することになる。加えて、人は失楽園以来、支配されなければ秩序を保てない存在となり、その次の世代から神への崇拝が始まっている。この件が崇拝と支配とを混同し易いものとしているのかも知れない。

<「永遠の命が従順から来る」と教えるキリスト教の教師が居るなら、その者は信者を支配する陥穽に堕ち、支配原理は必ず恐怖となる。1Jh4:18>

 

・信仰の自発性

この点を考えてゆくと、『罪』有る人間にどこまで自由があるかという「あの二人の論争」が関わって来る。だが、究極的に『信仰』という一事に神が人の判断を委ねる以上、これは人間が論争するまでもない。むしろ、それが「見えてしまう」事の方が裁きを無効にしてしまうことになる。パウロ自身が自分について嘆いているように、罪人とはいえ、その罪を自覚することはできる。それはキリストの傍らで処刑された一人を通しても明らかにされている。

それであれば、どんな人も自分の信仰について「安心」するべきでもないし、不安に駆られる必要もない。裁きは己から離れたところで為される。それでも不安に思うなら、それは病的な利己心が働いているのであり、本来「裁き」とは自分の制御不能なものであり、その恐れは『愛』が欠けている証拠とも言える。愛は自分の処遇がどうかを主に考えることを「忘れる」。自発心からの「忠節」は他者の益を図るが「忠実」はそうではない。神を宥めて保身しようと自分に関心向いているのであり、実は利己的な動機の余地が大きい。全能の神が人にロボットのようになって欲しいわけもない。神にとっても人にとっても『命に勝るもの』がある。

従って「信仰」には「愛」が関わるもので、単に「信ずる者は救われる」という定式的理解にしがみ付いていると、神の御前には逆の姿勢を、利己的精神を募らせることになりかねない。多くのキリスト教は、この点で「信仰」をただ教会への所属のように見做して、利己心を培養してしまってはいないか。

 

・二世信者への影響は その宗教の質を試す

神は善悪の知識に木も二人も監視していないが、強制すればそもそも二本の木の意味がない。親の立場に在った神にとって二人に死んで欲しいわけもない。それでも強いなかったのは、譲ることのできない彼らの自由意志の選択にあった。彼らも『神の象り』であり、それを尊重するのは神自らの尊厳を守ることであり、彼らの神に似た特質もその不干渉によって守られている。

そこで信者に永遠の命を約束する宗教は、二世に対してジレンマを避けられない。どれほど親が子に永遠の命を得させようと努めても、そうするほどに神でさえ侵犯し得ない神性、また個人の尊厳を踏みにじってしまう。しかも、実際には命から遠ざけていることになる。蛇を用いたサタンが二人の前に誘惑を置いたように、親が子に命を得させようとして、サタンとは逆方向に誘うのであり、結果は同じく神の意向に逆らい、裁きを無効化しようという目論見に向かってしまう。当然、信仰の自発性は窒息させられる。もちろん命を与えるなどという事は人を超えたことである。

その宗教の前提として、自分たちだけが正しく「永遠の命」(或いは来世)の道を教えていると思うところが全く間違っている。だから、神の意志とは反対の行動をする。

また、これは精神的牢獄に子らを押し込んでしまうので、間断の無い「命懸けの緊張」が精神疾患をも与えかねないが、実際に「ものみの塔」には端的にそれが見える。この宗派が伝道を「命を救う業」としているのは、創造神を差し置いた傲慢な主張であるばかりか、圧政国家のような人間性への冒涜でもある。

 

・Act24:5によれば、すくなくともエルサレムでイエスの弟子らは『ナザレ派』と呼ばれていた。そういえば福音書中でキリストが「エシュア」なり「イエス」なりと人から呼ばれている場面をほとんど見ない。『あの方』『あの男』と呼ばれることが多い。エシュアがよくある名であったせいか?むしろその名は異邦諸国で広められる素地があったのか?

 

・Act12:24で「エホバ」を挿入するのはまったく支離滅裂なことになる。

・18-9世紀英米キリスト教には、異様な「取り繕い」を感じる。清教徒の影響らしく、非常に閉鎖的で外面的善人を気取るところが強い。人間の道徳的実際から遊離した潔癖性を特徴とするが、同じ人間であるところは変わらないので、それがあちこちから邪悪さとなって漏れ出てしまう。それを「取り繕う」のがキリスト教の働きになってしまっている。アメリカのWAPS主義は現在もその延長線上を生きており、戒律的また階層的でもある、あの国は人間をどう見做すかに於いて、そう優れてもいない。思想信条は自由とされながら、特に中西部では偏狭な新教キリスト教主義がむせ返っている。加えて安直にユダヤ教に共感している。あれでは宗教合同に向かい兼ねないうねりが既に存在している。(やはり二本の角の獣か) 聞くところでは、日本の精神風土の方がまだ自由に、あるがままに人を見ることができる。

<もっとも日本は、異教徒に理解があるわけでもないのだが、古来二つの宗教を同時に信奉してきたからか、「偏り」を避ける気構えができている。外部の偏ったものは偏ったものとして眺めていられる。しかし、公共の無宗教には程遠く、宗教を公平に見てはいないし、公明正大というわけでもない。この点でいずれ何かが有るだろうと思う。>

 

預言者の限界

預言者でさえ夜中にようにつまずくHos4:9預言者にはその道に罠がある Hos9:8 預言者は愚かな者となるHos9:7 敵愾心が大きいために狂気する。神はわたし(エリシャ)に隠してお告げにならない2King4:27⇔Ams3:7

 

・キリストが木に架けられた目的は、『アブラハムの祝福がキリストを通して諸国民に及び、そうしてわたしたちが信仰によって約束の聖霊を受けるためであった。』Ga3:13-14

 

・世相

武器や基地に反対することが平和を招くと思う人は少なくもないらしい。だが、争いは常に人間自身から起るのであり、武器や基地や軍隊や核兵器を無くすることが平和を招きはしない。

そこで『この世』というものを見切る必要がある。神の見方はそのようであろう。「神がいるなら、どうして悪の存在を許しているか」との問いは的外れであり、人間自身での解決を目指すことも同様である。

人間に倫理上の欠陥がある限り、人間が自ら争いを無くすことは全く不可能なことであり、権力を必須とする。

従って個人としては『この世』に対して一定の距離を置こうと努めることのほかにできることがなく、『この世』に居る限り、また倫理上の欠陥を持つ限り、権力の効用を受けながら生きる以外に方法はない。

権力と権力が衝突するのは、個人と個人が衝突することの反映であり、これを抑制しようと努めることはできても根絶することは絶対的に無理である。

加えて、権力と権力とが分立しているのは、必ずしも災いとなってはいない。

全球的絶対強権が防がれてきたからである。

今日のこの世で最大の強権集団は隣国であり、そこは実際には存立し得ない絶対正義が支配している。しかも国民の大多数の人々さえも、それが絶対正義に程遠いことを知っている。

では、なぜ絶対正義が説かれるかと云えば、極端な利己主義の横暴がそこに在るに過ぎない。この利己主義の究極的象徴は更に極まった形で終末に現れることになろう。それは隣国さえ遥かに超える超強権であり世界支配に近付く。

なんと恐るべきことか、これを公表するとなると

 

 

・仮説

エレミヤの諸国への糾弾とその後に集めるという繰り返しは、「北からの敵」が介在している。この北というのは十本の角の事であり、大いなるバビロンに含まれる諸宗教ではないのか?なので「集める」というのは、シオンに流れて来ることを指すのでは?そこでエドムだけが例外となる理由が生じる。

 

・復活について

『彼の復活と似た様になって彼を結ばれる』Rm6:5

『死人を生かし、無い者を在るかのように呼ばれる』Rm4:17

『働く者にとって報酬は賜物ではなく当然である』Rm4:4

Joh5:28はJoh11:25と同じものである。

1Cor15:13の『復活が無いとすればキリストの復活も無かった』というのは、キリストに復活が他のすべての復活の根拠であり基礎となったから 

 

・Isa11:13 どれほどユダとイスラエルが不和であったか

・神は高ぶる人を赦すことはない Isa2:12

 

 ・律法は契約としては終わったが、律法そのものが示した義の基準はキリストが満たすことを通し、その犠牲の完全性を永久に証しするものとなっている。従って一点一画も廃れてはならない。

 

・『愛を通して働く信仰』Ga5:6

・神殿再建時のレヴィが用いたのは『ダヴィドの楽器』であった。2Chr29:25 ダヴィドは楽器の考案から用法を指導し、自らの詩篇歌を自ら組織したレヴィの合唱隊に歌わせ、それはソロモンの代に神殿祭祀として定式化されている。銀製のラッパはモーセ以来使われていたが、音律の調整がされた可能性は高い。十弦の楽器はペンタトニックであったか?

 

・祈り

Joh16:24「わたしの名のよって求めたことがないが、これからは求めよ」-大祭司職への任命を含意か、祭司職の罪祭の浄めが可能となった-

2Chr7:14 祈って謙るなら祝福を得、心を整える作用が生じる。

祈りは自己正当化の根拠にならないし、そうすべきではない。

 

・ルカの例え

Lk14:25-18:34が一場面で語られる。あるいは14章からずっと続くイエスの講話集として書かれたかもしれない。この間の例えは相互に関連性を持っている可能性は無視できない。

 

・ディオグネートスへの手紙3-4

ユダヤ人たちはいわば不足を感じている神に自分たちがそれを満たしていると考えることによってエウセベイアではなく、むしろ愚かなことを考えているというべきだろう。・・EX20:11・・血や薫香や燔祭を神に捧げ、それらの表敬の品々によって神に畏敬を表していると考えている人々は、唖であるものに同じ表敬を示している人々と何一つ違わないようにわたしには思われる。後者は表敬の品を受けるこのできないものに向かってそうするのであり、前者は何一つ必要としていない方に供えていると考える。

食物に関しての彼らの小心さ、安息日に関しての彼らのエウセベイア、割礼に関しての彼らの自慢、断食と新月の祭りに関しての彼らの芝居じみた行動、これらは笑うべきものであり、言葉を費やすに値しないものであり、わたしはあなたがそれらについてわたしからお聞きになる必要のないものと考える。

 教祖や団体に個人の時間や労力を捧げて、本来の隣人である身近な人々への世話を減らす口実にしている信者たちは、上記のようであり、コルバンを理由に神を第一にしているつもりで、身近な人々を自己義認の犠牲にしているあらゆる信者の悪行をユダヤ教徒を例にして教えるところがある。

 

 *ああ、そういうことか・・ゼカリヤの仮庵が見えた  3.29.19夕

 

 ・『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。』

” if anyone hears My words and does not believe, I do not judge him;”

『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』Jh12:48

[ὁ ἀθετῶν ἐμὲ καὶ μὴ λαμβάνων τὰ ῥήματά μου ἔχει τὸν κρίνοντα αὐτόν· ὁ λόγος ὃν ἐλάλησα ἐκεῖνος κρινεῖ αὐτὸν ἐν τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.]

[ἐλάλησα](動)直アオ能1単 「話す」原[λαλέω])

 "He who rejects Me, and does not receive My words, has that which judges him-the word that I have spoken will judge him in the last day.

 

 

・「彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、直ちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁栄である。
人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう」
(ショーペン「意志と表象としての世界・正編」第六十節。西尾幹二訳・中央公論社

 

 ・バプテスマが祭司の水の浄めと関連するのであれば、祭司の崇拝奉仕に備えさせるという意味があったかも知れない。これはキリストに名によるものがそう言える。だが、地上での彼らの奉仕は神殿のものとは言えず、それは第二神殿再建以前の祭司らの立場に似ている。彼らが神殿定礎につき『身を清めていた』とされるところは、常供の犠牲を捧げることに於いてのみ、仮の奉仕であった。これは地上での聖徒の働きに準じるものではある。

あるいは、無意味な整合ではないのかも知れないが、もしそうなら、ヨハネバプテスマは信徒へのものとも言えることになる。その受浸者らからキリストの受浸者が現れて、その者らに聖霊が注がれている。そうなると、ヨハネバプテスマは祭司の水の浄めではなかったことになるが、それは何に相当するものか?

また、キリスト自身はヨハネバプテスマを受けて聖霊を授かることに於いては例外であった。これはアロンの何かを表すものだろうか?

それでもエチオピアの宦官はイエスの名による浸礼を受けながら聖霊は降っていなかった。これはコルネリウス以前であったためだろうか?これはエチオピア教会のユダヤ的特殊性と幾らか関係があるのかも知れない。それでも伝承によれば、使徒マタイはエチオピアで殉教しているので、これが正しければコルネリウス以後、この地にも聖霊を及ばせる働きであったのかも知れない。

 

 

・夜 Lk17:22 一日でも見たいと思いながら・・見よここに

光を必要とせず夜もないIsa60

⇒ 

⇒ 待たれるべき

⇒ 昼と夜

 

・pιστος には能動的に「本人が信仰を働かせている」意味と、受動的に「忠実な者」として第三者から評価されているふたつの意味があり、文脈によって判断される必要がある。(岩波委員脚注から)

<これなども翻訳者を試みる要因のひとつとなっている>

 

 

・神殿の緞帳

神殿の宮は、長さ90フィート(27メートル43センチ)、幅30フィート(9メートル14センチ)、高さ90フィート(27メートル43センチ)と告げられている・・・その宮は二つに分けられ、最初の60フィート(18メートル28センチ)は、聖なる聖地で・・・大いなるカーテンが、その聖なる建物のもう一方の三分の一の部分を隔てている(Dr. John R. Rice, The King of the Jews: A Commentary on Matthew, Sword of the Lord, 1955, p. 479)。

“その地震は、物理的素地を提供したかもしれないが、神殿の幕の引き裂きは疑いもなく、神の御手でもってなされた”(Alfred Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah, Eerdmans, 1945, volume II, p. 611)。 エダーシェイムは、その幕の厚さは、ひとの手の甲(2.5インチ=6.3センチ)の厚さであった、と指摘しました。 “もしその幕がタルムードの中で書かれているようにつくられているならば、単なる地震によって二つに引き裂かれることはない”(同著)。

幕が引き裂さかれたのはちょうど、“晩の犠牲を捧げる時、すなわち、その執行祭司が、焼香を焚くか、あるいは、他の儀式を行うために聖所に入った、その時に”(同著)、やってきました。 幕が引き裂かれたそのことは、これらのユダヤの祭司たちに、非常な衝撃を与えました。 チャールズ・ライリー博士は、“この超自然的に幕が引き裂された、ある結果は、使徒の働き第6章7節の中に記録されており、そこでは、‘そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った’と書かれている”(参照、Ryrie Study Bible, note on Matthew 27:51)と言いました。

キリストが亡くなられた時、その幕は二つに引き裂かれました。 そうして、キリストは仲介者ですので、あなた方は神に来ることができます。 あなた方と神との間を隔てる幕はもうありません。 イエスがあなた方と神との間にいるのです。 イエスに来なさい、そうすれば、彼はあなた方を、神のもとへ直接連れていくでしょう。

引用;https://www.rlhymersjr.com/Online_Sermons_Japanese/2014/041314PM_TheDayJesusDied.html

 

 

 

 

 

クリスチャンと称する人々の信仰

-LF-

 

概して「クリスチャン」と称する人々の信仰の特徴

・「信仰」を持てば「赦された罪人」である

 キリストが癒しに際し『あなたの罪は許された [αφιενται]直現受3複 』Mt9:2

・「信仰」持つのは神の奇跡でその人はこの世の前から選ばれていた

 エデンの『女の裔』の予告Eph1:4を誤解

・自分の中にキリストは聖霊によって住んでいる

 聖霊を注がれる聖徒が神とキリストと結びつく事を誤解 Jh14:23

・信仰ある自分は死後に天に召される

 契約にある聖徒への処遇を自分に向け経綸の目的を喪失(利己心へ)

・神に従順であれば敬虔な言行により神に近づける

 自分を敬虔な義人とする事に関心が向いている

 

幸福感の俗化

まず、神の意図するところが、信者を中心とした人々のこの世で幸福であると説き、その後は天国や楽園での至福に入れることであると信じる。

他方で、信仰を持たない人々は、その神の意図に入れず、人生で真の成功を収めず、死後は地獄、または滅びなどの神の裁きによって処断されるとも教えられている。

この教えは、宣教する側からすれば、信者獲得のためのアメとムチの便法ではあっても、キリスト教に限らず、この種の教理を受け入れた信者は、排他的にならざるを得なくなり、自然と優越感と蔑視を惹き起こされることになる。

これは、神を差別主義者であるとしてしまうばかりか、キリストに激しく反対したパリサイ人の精紳を懐くことでもある。

そこで「クリスチャン」やその指導者らは、この教えは聖書に基いていると唱えることだろうが、そこで聖書の字面を追って、そこに書いてあればそれがそのまま真理であると思い込む「聖書の偶像化」が起っている。

この手の「聖書への忠実」は、聖書がまったく神からの親切な指導の書であり、その通りにしていれば、神の是認に入れるという仮定に基づいている。

だが、キリストを葬り去ったのは、まさしく当時の聖書に精通し、その言葉を厳密に守ろうとしたユダヤ教の指導層であった。

もちろん、ユダヤ教徒は聖書の律法に口頭伝承の付け加えを行ってはいたが、律法そのものを一字一句守ることを目的としてのことであった。

だが、聖書そのものには、単に神の善意が語られてばかりではなく、人を糾弾する言葉も多く、むしろそのように厳しい内容の方が多いほどである。

それは、神の言葉が語られたのが、ほとんど神との契約関係に入った民に向けられたものであったことが原因している。

それは新約聖書でも変わらず、キリストを通して『新しい契約』に入った『神のイスラエル』への祝福と戒めがその内容であり、水のバプテスマによってメシア信仰を表した人々が選ばれ、聖霊を注がれて『聖なる者』として任命された以上、『多くを委ねた者には普通以上が求められる』ので、新約聖書にも多くの戒めが書かれているのである。

そこで神の意図というものが、ただ「信仰を持った人を祝福し恵む」ということを超えていることに気付くべきなのであるが、人は短絡的にまず自分に益があるかないかというところで信者になろうとするものである。

これは嘆かわしくも、人に普遍的な利己心の表れでもある。しかし、キリスト教というものは、キリストが自己犠牲の死を遂げたように、利他性を教えるものである。(コリント第二5:15)

特に『この世は始まる前から選ばれていた』という本来は聖徒に向けた言葉を信者一般に摘要してしまうことは「おめでとうございます!あなたが選ばれました」と射幸心を煽る不埒な商法と性質は変わらない、下劣な欲を引き出す人権を卑しめる教えである。どれほど聖書にその句があろうとも、適用が間違っているだけでなく、その教えによって信者にどのような悪を為すかを弁えていない。

 

自己義認

自分が「クリスチャン」であることにより、そうでない人々に対して高一等の誇りを持っている。それは敬虔さと品性を備えており、言動に節度と賢さがあって、神に通じているという自負心が見られる。十字架を身に帯び、また体の正面で印を結ぶことにより、神であるキリストへの帰依と献身と服従を誇りのうちに自認する。しかし、その正義感は自身のものであり、本人の良心の働きがキリスト教的常識に影響されることによる。その正義感は時に他者を圧迫し、また実力行使を辞さないこともある。その理由づけは、自分たちが神の側に立っているとの思い込みによる。

特にプロテスタント新宗教系に自己義認の傾向が強く、他の派を批判するところで自らの正統を唱えやすい。カトリック東方正教会は伝統と儀礼に重きを置くので、義化の方式が神秘主義的ではあるが、教理の合理性は弱く、そこに新興の宗派の拠って立つ場を与える結果となっている。

西欧では19世紀後半ころから「科学信仰」が勃興してキリスト教的伝統は、ほぼ好まれていない。積極的なキリスト教の中心は清教徒の植民した北米に移っている。現在ではアメリカ合衆国が自己義認の強いプロテスタント的国家であり、宗教の自由を標榜しながらも、政治までが極めてキリスト教的な慣行を持っている。対して中南米でのキリスト教は教会組織を通して政治に影響を与えることがあっても強くはなく、個人や家族親族の共通認識を形造り、信者は義認感よりは赦しを求める立場に置かれる。

 

聖書の見方

よく言われるのが「神からのラブ・レター」<これは軽率、いや、まったく軽薄>

聖書を自分を導いてくれる神との接点のように見ている。

また集団としては、聖書に従った教理を教え、崇拝を組み立て、自派の正統を確立できると捉える。聖書は正しく従う者に神の是認やさらに義をもたらすと信じる。だが、これはパリサイの轍を踏んでいる。

大前提として、自分や教団は神の是認に在ると思い込んでいる。その根拠は自分が信仰を持っていると考えるところにある。却って、神は自分を尊重し、救いを施すべき存在として見ており、自分が祈るとき必ず聴かれ、信仰ない人、また異教徒や異端者らと異なり神の前に高一等の立場を得ていると思い込む。

神との親密さを自分は得られていると思い込むが、それは教導者の差別的な教えに原因するところが大きい。

そのため『新しい契約』がどのようなものかを理解できず、むしろ自分たちが契約に預かっていると思い込んでいる。

そこで、神は自分に善意を懐いているに違いないから、自分は天国行きなり楽園行きにされるものとの決め付けが最初から置かれている。(ヨハネ5:39-40)

そのため自分の目的や都合に合わせた解釈をしようとはするが、神の真意を汲むことは二の次になり、聖書理解が荒唐無稽になる。混乱が明らかになると教師は「神の事柄は理解できない」と逃げる。それでは聖書の存在意義な何なのか?

しかし、聖書はそのような書物ではなく、悠久の時代に亘る神の経綸が収められており、これまでの神の行動からその意志を探り出すべきであるのに、自分が祝福など益を得られると思い込む願望が先行してしまい、古色蒼然たる神と人との交渉の積み重ねを単なるスピリチャルのように自分の利益に読み替えようとしている。

そこで重い教訓を得ることなく、生き方や生活上の決定や困難への対処法を得ようとして聖書に向かう。

そのため、このような信者は、自分に関する戒律や細々したことへの指導に迎合し、自分で判断し責任を持って行動することから逃れようとする。

<これは投資やギャンブルで失敗しない方法を知ろうとする動機と非常によく似ている。背景にあるのはこの世への対処の難しさであり、人格の未熟さも関係する可能性が高い。つまり、安直に従うことで間違いのない方法を得ようとしているのである>

 

 

ユダヤ教への接近

近年では、プロテスタント系の諸宗派がユダヤ教に接近しつつあり、ユダヤ人が依然として神の経綸を担う民であるとの信仰が強まりつつある。一部のプロテスタント派は、ファウンダメンタリストと結びつき、イスラエルキブツユダヤ人と共に過ごし、その仕事を手伝うなどまでしている。彼らはパレスチナ人の置かれた苦境に同情しているようには見えない。

カトリックユダヤ教への接近を見せているとは聞いている。アメリカ国内でのユダヤ教の崇拝はカトリックに似たものとなりつつもある。但し、イスラエル本国のユダヤ教は正統派が多く、こうした折衷を好んでいない。

また、ユダヤ教側からナザレのイエスをマシアハとして信じる「メシアニック・ジュー」が現れたことを歓迎する宗派もキリスト教側から出てきているが、メシアニック・ジューは律法を順守する事に於いて明らかにユダヤ教徒であり、人間の原罪とキリストの贖いについての理解に到達していない。だが、もしメシアニック・ジューに接近するキリスト教の宗派が、律法順守を容認するのであれば、キリストの犠牲の重さを知らず、キリスト教を保持しているとは強い難い。イスラエル本国でメシアニック・ジューは立つ瀬も無く、ほぼ存在しないと言うに等しく、その分彼らは他の国々に浸透することを主にしている。

米国ではメシアニック・ジュー以上に、ユダヤ教そのものに改宗するキリスト教徒が女性を中心に少なくない。まず、夫がユダヤ人であるためのケースがかなり多いが、男性での改宗者が然程多くないのは「割礼」が影響しているのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エホバの証人の排他性の由来

 

エホバの証人の排他性は、その「生き残り」願望を煽る教理に由来する。 

本来の所属動機は自己義認を得た少数者となっての「永遠の命」の獲得にある

彼らの聖書理解の優越性は、常にキリスト諸教会の中世的な解釈に比較する場合に限られており、聖書との整合性や論理性では未だ蒙昧の域にあり、突き詰めようとすれば会話を止め、ほとんどの場合、考慮することそのものを拒絶してしまう。

その原因は、自らが与えられるつもりの永遠の命が危険に曝されると妄想するからであり、その点では真理を愛するよりはよほど「ご利益信仰」であって、「神の経路」を称する「ものみの塔」は実質「見える偶像」とされ、その教理にも命令にも逆らうことは許されていないのであり、信者である「エホバの証人」は「ものみの塔」に対して重要な信仰内容の個人判断は差し控える。これは彼らの「信仰」が組織的に規定されたもののコピーであることを証している。

その自己判断の放棄も、個人で抱く信仰の体裁をとってカムフラージュされているが、実のところ、永遠の命を質に取られた教団組織への隷属となっている。他者との関係に於いては、神の是認を持つと妄想しているために、外面はともかくも軽蔑的であり、社会一般の権威を認めず、ごく一般的な人々と変わらぬ仲間を過大に評価し過ぎており、「兄弟」と呼び合いながらも厳格な身分階層が存在している。即ち、実質的に「現代のパリサイ人」として古代と同じ轍を踏んでいる。

彼らは、輸血や兵役の拒否など一般社会の人々との差別化により、自分たちには神の是認があり、また自分たちだけが永遠の命に値するとし、「ものみの塔組織信仰」に無い外部の人々を内心で蔑視しつつ伝道するので、基本的に利己的ではあるが、これについては不信者は皆「地獄行き」とする諸教会とも変わるものではなく、欧州キリスト教の価値観から出てはいない。特にプロテスタント諸派に同じく「聖書に厳格に従うことから神の是認を得られる」という前提を共にしているところでは根本的に同じパリサイ的精神構造を持っているが、その差別化が激しいために、諸教会ばかりか社会一般までをも見下し、信仰を別にした自然な人間評価というものを想定していない。その不自然な視野の狭さ、また周囲への隔絶性が彼らの排他的行動を形成している。

⇒ quartodecimani blog : 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆概説

最重要視されるのは「命」であって、神や他者との関わり「愛」ではない。

この逆転は、「命」の機会を与えることが「愛」になっており、「愛」が「命」を生み出すとは教えられていない。「命」の由来は「愛」ではなく「従順」にあり、これが人間の組織からの搾取を許している。

エホバの証人に「人にとって最重要なものは永遠の命ではない」と言えば、理解できないと思われる。

しかし、全能の神がそう意図すれば、あらゆる人に永遠の命をすぐにも与えることは不可能でないに違いないが、そうでないからには理由があるはずであり、その理由こそが「神との関係性」に由来する重大事である。

しかし、エホバの証人の場合には、神との関係を超えて「命を得る」ことが優先され、本末転倒に至っている。これは利己性を根幹としており、信者の内面で他者との関係性が後退させられている。神との関係性も歪められ、神の全能性とキリストの犠牲の価値に依拠するよりは「自らの業によって神に救いの代価を支払うこと」に信頼を置いている。

それを煽っているのが「ものみの塔聖書冊子協会」であり、精神的にも労力的にもエホバの証人を強い支配下に置いているが、これは聖書の神の性質に反する圧制と隷属に他ならない。その隷属の代価は人間には保証不能の「永遠の命」になっている。そこで証拠として聖書の記述を持ち出すのだが、そこに書かれた事柄といえども単なる人の解釈を経ていることは黙殺され、かつてユダヤ人らが聖書に書かれた事柄に硬直的であったために神の意志から逸れ、メシアを見誤り殺害にまで至った件は自分たちに無縁であると考え、同じく頑迷固陋に当時に事情を考慮するよりは、ただ文面に従うことで神との関係を結ぼうとしており、これは典型的なパリサイ主義と言える。

その原因は、神の意志を「時」という行動予定に置き換えてしまった非人格性にあり、唱道者のC.T.ラッセルの信仰のアプローチに起因しているのであり、これを改めるとすれば、初代の指導者の教理から放棄しなければならないことになる。

ラッセルの信仰のアプローチは彼から始まったものではなく、英米の覚醒運動の影響から始まっており、C.T.ラッセルはその年代を訂正した教理を説いた一人の素人研究者に過ぎず、1914年に主の来臨と自分たちの携挙とを主要な教理としていた。『七つの時』と2520年とするところは英国のJ.A.ブラウンに起源があり、そこからミラー派の系統樹に分類され、借用された信仰の型はアドヴェンチスト派のものであって、ラッセルがただ年代を訂正したところではなおアドヴェンチストの一派であった。⇒ ミラー派の系譜

予告した1914年に主張していた事は発生せず、世界大戦が勃発したため、本来予告した事柄は廃棄して、キリストの終末預言の災厄に同年のキリストの臨在の根拠を結び付けたのは、ラッセル派を再興させたラザフォードであった。以後、年代を何度か予告しては唱えた事柄が起きない度に、教理を訂正し続けてきているので、この宗派は未だにミラー派の範疇にあると言える。即ち「年代信仰の宗教」であり、今では年代主張を留め土曜安息にシフトしたアドヴェンチスト(SDA)以上にミラー的信仰にある。

従って、生き残りを懸けた純然たる「ご利益信仰」であり、自己利益の確保がその主題であることは「人生の成功」を謳うところに如実に露見している。『永遠の命』を自分たちが占有するかのように信じるところでは、神の意志が閉鎖的であるとの宣伝を行い、結果的に神を中傷することになり、その利己性はキリストの犠牲の精神に胡坐をかいている。

これはユダヤ教パリサイ派の轍を踏む愚行であり、キリストの裁きを恐れぬ異様なまでの蒙昧にあることを表している。(ヨハネ5:39-42)

端的に言って、「エホバの証人」とはハルマゲドンの恐怖に脅されて屈した人々であり、「楽園での永生」の確約を願望して、間違えもする単なる人間に操作されている人々である。これをどう評価するかは本人次第であるとしても、この事実は揺らがない。

その恐怖への焦りから、関心の中心は自分たちの生き残りにあるために「義」を求めつつも、人の内奥の倫理性に基いて裁こうとする神の意志ではなく、裁きの要諦が外面的な個人の行動による道徳性(業)であると考える結果、排他性が避けられないばかりか、その排他性がむしろ「救いの証拠」として錯覚させられている。そこで宣教が他の人々の「命を救う業」と称しながら、実は保身のための義認への誘いとなってしまっている。

このような業による救いは、既にユダヤ教とメシアとの対立の中で否定されていることはエホバの証人たちも承知はしているが、神の裁きの時の来ていない現状で、救いを先取りしたい願望から、業と道徳性の基準を作りあげ、救いの条件としているところで、本来の「信仰による救い」から外れ、ユダヤ教の「業による義」の原理に戻ってしまう指導層の教理の歪曲に賛同してしまった。

この歪曲は「神に関わる時の認知」を主な信仰の要件とする場合に避けられない。ものみの塔の信仰要件は構造的に誤謬を免れない「時への信仰」の形にラッセルを土台として初めから形成されていた。だが、これはキリスト教の本旨から逸脱している。神の裁きに関する「時の認知」は、自己保存本能の刺激を避けられるものではない。『あなたがたは、けっしてその時を知らない』とのキリストの言葉には、神の裁きにおいて人が善人の仮面を着けることを許さないことを意味する道理がある。だが、彼らの信仰はその逆で、聖霊もなく自ら『新しい人格を身に着ける』ことができ、その結果として救われると勘違いしている。

また、その誘因は、救われる者が少数であるに違いないから、その少数者に含まれるからには、社会一般とは異なっているはずであるという仮定から来ている。この根拠としてルカ13:24などが用いられる。この信条の基礎を成すのはノアやソドムの裁きのモデルであり、キリストの初臨に於けるユダヤの裁きのモデルではない。(マラキ3:2/マタイ3:12)

そこで「救われる少数者」の条件を聖書に求め、聖霊を注がれて「新しい契約」に預かった聖徒たちへの「聖なる者となるように」との訓戒を、一般信者にまで要求し、それを基準として教団が更に設けた基準に従う人々に「救われた実感」のような錯覚を与えることになっている。この自己義認を錯覚させる点で、伝道活動への強制は信者が義であるために社会的に孤立していることを印象付け、同時に新たな信者獲得にもつながるので、指導者側からすればメリットが大きい。

 

◆知ったつもりで知らない聖書

その原因の一つには、聖書への無知が挙げられる。個人的で自由な研鑽が許されず、多くの時間を非効率で無関係な事柄に消耗させられているからである。

これは「永遠の命」があたかもこの教団との関わりのみによってもたらされるかのように誤解させるところにまで本来のキリスト教が歪められた結果であり、宗教上の理由により行動の違いが出ることで、周囲から目立つところに自らの義認を再認識し、且つ組織は信者自身への操作、また周囲への義の誇示や宣伝を目的としてはいるが、行動基準に従うところでキリスト教との関係性は無く、このヒステリックな強制の犠牲者は主に子供や学生となっている。やはり、こうした排他的行動の本人や親たちの動機はやはり滅びへの恐怖である。

だが、キリストに続く者として厳しく試され吟味されるのは『聖徒』であって信徒にはならない。むしろ信徒の集団は聖徒の試みの期間を含めて保護を受ける。(黙示12:14/イザヤ26:20)

『入ろうとしても入れない者は多い』とは彼らではなく、『新しい契約』を全うし、神の王国を相続するまでにキリストに従う『聖徒』は多くなく、聖霊を注がれながらも脱落する者があることを指している。彼らには聖霊の罪が生じ、赦されることはない。(ルカ13:24/ヘブライ6:4-6)

しかし、ものみの塔は神の裁きに対する恐怖を強調し、その組織の下に人々を集めて操作し、支配を実行してきた。それがキリストの支配であり、その支配がものみの塔を通して地上で始まっているという主張ではあるが、その原理はやはり恐怖である。バプテスマを受ける時には、楽園か滅びかの選択を行う動機が働いており、教団もそれを請け負っている。もちろん「無条件の献身」とさえ言えない。献身先は神でもキリストでもなく、救いをもたらすはずの教団になっている。

「楽園」への生き残りの代価として、個々の信者は「エホバの証人」であることが何にも勝って強調されるため、あらゆる生来の個性を抑えて「エホバの証人」という人格を強要され、生活の細部にまで統制を受けることを許してしまっている。そのように命惜しさの偽人格が形成されているのを『新しい人格』として永遠の命に不可欠なありがたいものとして受け容れている。もちろん、それは聖徒が聖霊の内に得る人格を指しており、この教団の信者には単なる集団の心理作用である。

 

◆単なる一時逃れ

彼らの宗教を例えると

「対向車がパッシングする」のに似ている

「この先でネズミ捕りをしているから速度を落せ」というサインを受け、普段の自分らしくもない模範的行動によって「ハルマゲドン」という「取り締まり」を逃れようとはするが、本人の内面は「アダムの罪」に於いて何も変わらない。

つまり、今エホバの証人であっても、その場で模範を装って逃れようというだけの伝道奉仕であり言動である。それは表面的「業」の義であって、その「義」も一つの宗教組織を支持する行動を取るかどうかに置き換えられたことに気付いていない。集会という集団圧力に屈し流されている。

しかし、人間が『義』とされる方法は『信仰』という内心の価値観によるもの以外にない。それは自分の『罪』が人の努力の及ばないほどに改善できないものであるので、一重にキリストの犠牲の適用されることを願うことである。その『信仰』は、『聖霊』の現れである印を信じるところから生じる。

聖書に書かれたところは、かつての信仰の例ではあっても、読者個人を決定的な『信仰』に至らさせることはない。

 

 

◆教理の特徴

・1914年からキリストの臨在が始まっており、世界は「終りの日」に入っている。黙示録に描かれる『ハルマゲドン』が起るとき、『この世』は裁かれて滅びることになるが、エホバの証人は救われて、「楽園での永遠の命」に入る。<聖霊が注がれ、既に(仮の)救いに入った『聖徒』への言葉が誤用されている>

 

・組織の指導層はキリストの予告した『忠実で思慮深い奴隷』であり、信者たちに定めの食事である霊的な糧を備えている。

<キリストの支配が自分たちによって既に地上に到来していると唱えることに於いて、彼らは主人が到着していないのに仲間を叩いて強制し、宴会を始めてしまった家令に相当するばかりか近年その糧の質が劣化し続けている>

 

エホバの証人の宗教組織である「ものみの塔」は「ノアの箱舟」と見做すべきもので、エホバの証人として水の浸礼を受け、この組織に加入した信者は、世界の終りを生きて通過できる。したがって「ものみの塔」だけが神の救いを占有している。<キリストの救いの原理は、贖いの犠牲の提出によってノアの箱舟とは内面的に異なっている。ここから様々な強制が生じている>

 

・滅ぼされる『この世』は悪魔の支配下にあるが、エホバの証人は『神から出ている』(1Jo5:19)

 この違いは、ものみの塔を代表する『忠実で思慮深い奴隷』に従い、毎月伝道することで、『キリストの兄弟たち』を支持し、善を行っているかどうか、また、『この世』とは異なり『清い行状と敬虔な専心』を表しているところからくる。<マタイ25章の聖句の適用は歪曲されており、ヨハネ書簡も聖なる者らについて『世から選び出された』ことを述べている>

 

・『ハルマゲドン』を生き残って救われるためには、滅ぼされる『この世』とは異なっていなければならない。そこで聖書に生き残るための条件を求める。

 これは『この世』に見られる偽宗教(大いなるバビロン)的、また政治的、闘争的な慣習を離れ、不道徳な汚れを避けている必要があり、そうして神に嫌われる行いを避け、神の是認に入り、滅ぼされることなく救われる。

<聖徒たちへの契約に関わる道徳規準が他の人々の救いの要件ではない。またハルマゲドンの戦いで世の裁きが完了するわけではない⇒四騎士

 

・信者であっても、指導者層(統治体)を代表する「組織」に従順でない傾向を示すなら、神の是認は薄らぎ、新約聖書に書かれた道徳律の規準から逸脱しているなら神の是認は無い。だから聖書に従う自分たちは絶対に正しい。

<聖書にさえ従えば神の是認があるという仮定でパリサイ派の轍を踏んでいる>

 

・以前には信者であったが、後に通告して辞めた「断絶者」、また、組織の定めた規準を著しく犯した「排斥者」とは、家族信者を含む一切の交流や会話も断つことが強制されている。そうしないなら信者であっても同罪と見做される。

パウロは聖徒の清さの保持について、ヨハネは異教分子(グノーシス派)の混入を警告している、一般信者らへの忌避ではない。まして実害ある忌避が『自分にして欲しい』ところだろうか>

 

・『ハルマゲドン』が何時になるかは分からないにしても、1914年から百年以上の年月が「世代が重なる」ほど経過しているため、世界が滅ぼされる時は日々ますます近づいている。更に時が経過するに従い、いよいよ緊急感を抱いて熱心にならなくてはいけない。

<神は人の内面を裁くのであり、第一世紀のユダヤに同じく準備し善良を装って逃れられるものではない。イエスの終末預言は世代が去る以前の37年後に一度成就した> 

 

 

◆これらの教理が信者とその周辺にもたらす影響

概要     ギャンブラーに似た精神構造 

・代償としての救い

人間は交換社会に依存して生きているため、優れたものを提供する相手に代償を支払うことで救いや恵みまでも所有、または領有して安心したい性質を強く持っている。エホバの証人の場合、永遠の命や煩いない社会を希求する余りに、役に立ちそうな代償の提出を求められれば応じてしまう。

その代償も、信者らに納得し易いものでなくてはならないので、品性のある言動であったり、間違いのない真理であるものみの塔の教えの伝道であったり、寄付を寄せることでもある。

そこで信者の時間や労力が無駄に消費され、前時代的非効率の結果、指導に服するよう馴らされることになる。しかし、まるで無報酬でも熱意を削ぐので、称賛や「特権」という名義と権威が、より多くの努力を積んだ者に下賜される。ここに『救い』を得たと思う傲慢の源がある。そこで欲望のままの人が、生存の次に求めるものが地位と支配であることを露呈する。<これが指導層の相貌を暗示している。特権保持者はその「象り」となっている>

一般の社会生活では、支払を済ませた者には当然の権利があると思うのが、「この世」の交換社会の大前提であるので、エホバの証人は自らの払った労力や犠牲が大きいほどに、その利権を確保したいと自然に願うので、それが「永遠の命の確保」となり、その大損害を認められないために強硬で頑迷な排他性を発揮することになる(埋没費用効果)。それが永遠の命という最大利益を請合った組織を擁護する最大の動機であり、また懸案願望ともなっている。

彼らの「信仰」というものは、この「利権に対する信用」を言うのであり、神との関係性がどうこうということではない。それが証拠に、彼らに神を崇拝する理由、また宣教する理由を尋ねるなら「楽園での永遠の命の希望」を間違いなく挙げる。

だが、聖書を貫通する神の求めは何等かの「支払」ではなく、個々の人の「倫理の決定」即ち「信仰」にある。それは決して個々の人の道徳性の程度を云々するものでないことはキリストの犠牲に明らかであるが、ものみの塔は律法主義に後退してまで、エホバの証人に「支払」を要求してきた。人々は神に代価を支払っているつもりで、実際には組織を拡大させ肥えさせるために身を挺して仕えてきた。Rm4:4-5

例えエホバの証人が組織の指導の欺瞞に気付いたとしても、永遠の命は人間同士の需給関係を超えているため、支払った代償に見合う酬いが無くても指導層を訴え出て何等かの処置や制裁や賠償を求めることができない。組織側は信者たちが自発的な信仰を懐いて行動したことに於いて自己責任を唱えて逃れることができる。

その点では、神が何時ものみの塔エホバの証人と契約を締結したか、といえば、そのような契約が存在した客観的証拠は無く、ただ1914年の「預言の成就」に信頼を置くほどでしかない。

どれほど聖書に従うとしても『新しい契約』とは聖霊を注がれた『聖なる者』『キリストの兄弟ら』だけのことであり、それ以外の一切の人々には関わりのないことである。むしろ聖書記述に従うなら、依然としてすべての人は、その思想信条や道徳性に関わりなくアダムの罪を免れず「神の裁き」の以前に居る。

しかし、そこに宗教家の旨味がある。人は死を恐れて自分という存在を虚無に過ぎ去らせたいとは思わないので、「神はこう言っている」と脅すことが可能であり、彼らには驚くほど多くの人々が簡単に従ってしまうのを目にしているであろう。

疑う者が出るなら「信仰が足りない」あるいは「霊性が下がった」ということで処分を下せるが、ものみの塔の場合には更に「忌避」という情報遮断の手段を「愛のある行い」として実行し得る態勢が築かれている。しかも、この宗教体制の是非が信者からも決定的に問われる時期が定めなく延長され得るので、「ますます近付いている」と言っては逐次言い逃れができる状況が続いている。

 この責任感のない体制の存続を許しているのは、他ならぬ信者「エホバの証人」という以外に有り得ない。したがって、個々の信者がどれほど清廉潔白に言動を慎んでも、却って自ら盲点を突くことを指導者に許し、まさしく彼ら「エホバの証人」こそが様々な巨悪の原因となってしまっている。そこで彼らの中にも良い人は居ると言うのは的外れなことであり、むしろ良心ある人こそが、彼ら自身の救いや恵みへの貪欲によって、どれほどの悪を自分と周囲とにもたらしているのかを内外で気付いた人々が信者に知らせるべきと言える。

ただ、確信を留めるエホバの証人は現実を知ることが自分たちの将来を危うくすると勘違いするので、やはり、あらんかぎりの方法と力とを使って、その現実を拒絶し、実際には信者より貪欲な指導層の与える夢の中に留まろうとするところでこの人々に実態を気付かせるには大きな障碍を残している。彼らのその拒否感の強さは、ほぼ例外なく論理を超えて偏執的感情にまで膨らんでおり、情報を拒絶することが「正義」と置き換えられている。これが排他性の原動力である。

これは投資詐欺に遭っている被害者や「次は当てる」と思い込むギャンブラーが抱くほかの可能性を考えに入れない精神に似ている。だが、他の情報を遮断しようと、それが現存しているのであるから、考慮に入れないことは自ら危険に身を曝すだけのことになる。

<この辺りは洗脳のこれ以上ないほどの成功例の域に達している>

 

◆差別化による自己義認

即ち、信者たちは神に受け入れられているが、そうでない人々は神の不興を買っており、意図しなくても裁かれて滅ぼされる悪魔の側に組みしていると信じ込んでいる。そこで世間一般の人々と異なる習慣を多くする必要が生じ、幾つもの戒律でエホバの証人である規準を作り、周囲との差別化を図ることによってのみ、自らの義認を自覚することができる。

特に輸血の拒否は、この差別化において命をかけるまでの自己義認の方策となっている。この差別化がエホバの証人たちに、神の是認を得て永遠の命の規準に達したとの思い込みと、一般人に対する優越感を惹き起こさせ、他者への憐れみから伝道する誘因を形成している。これは自らが既に神の是認にあると見做すところで、隣人愛というよりは、かつてパリサイ人が懐いた自己義認を伴う傲慢さを基本としている。

この輸血拒絶を組織側から見ると、ものみの塔の指導への従順が一命を賭すところにまで極まり洗脳が完成する。また組織は健康問題と血の禁忌との違いをリンクさせて語り神からの実際的な知恵であると語るところが少なくない。

使徒15章の適用は、当時のユダヤ教会堂の習慣を見落としている)

 

◆模範性

自らの命の存否が、神の規準を越えて感覚的好き嫌いにかかっていることになり、それはこの宗教組織である「ものみの塔」また、その代表である「統治体」への従順の度合に左右されることになり、実際に「ものみの塔」は神が何を好み、何を嫌うかを代弁し公表しては、信者を掌握しているので、実質的に「ものみの塔」への従順の程度による模範性が終始問われている。

これは組織の外部に対してだけでなく、信者同士にも優劣の区別をもたらし、排他性を強化するものとなっている。実際「模範的」という不明瞭な規準があり、それに達していないと中間幹部(長老)に見做される場合には、組織内の「特権」が付与されない。<ヨブ記の解釈は間違っているというよりは、指導部はよく読んでいないらしい>

 

◆二重の法規

信者となるに向けての指導過程から、集会への定期的出席や伝道への参加、加えて道徳規準を守るよう促し続けられる。これは、既にキリストが地上を支配しており、それに従うことであるとされるところから来ている。

その結果、公の法規に加えてもう一つの法を守るように求められ、信者となると罰則が伴うので重い頸木を負うことになる。それでもこの組織が社会一般より道徳的であるとは言いきれず、どれほど教育を重ね、排斥を行っても人間の本質は変わらないので、組織の法規を守るという義の仮面の下で、却って道徳に悖る不正が行われることがある。

キリストの犠牲は、この変われない人間の悪を赦すためのものであったのだが、ものみの塔エホバの証人を法で縛り、キリスト以前のユダヤ教の原理に戻ってしまっている。したがって、信者は国家の法や条例と共に、二重国籍化したかのようになり、組織の法も負うことになる。ユダヤ教徒が住む国の法規との葛藤に曝されるように、それが時折、公の法と齟齬をきたすこともある。

しかし信者にとって、より重要なのは組織の課す法規であり、『人よりも神に従うべき』との聖書の精神に基づくものであると考えている。これは組織の指導が神の王国の支配であるとの思い込みから惹き起こされた事態であり、神の王国の支配が現に実行されているものであるかのように妄想することを助長するものともなっている。

それにしてはキリストの臨在は長く信者の負担も大きいが、それが救いの要件であると教えられているので、滅ぼされないために生涯にわたる忍耐が必須となっている。そのため信者は重い頸木を負いつつ、中枢の恣意的指導に耐えている。規準から逸れる者に寄り添う姿勢が見られるかと言えば、「組織を清く保つ」ことが第一に意識され、人間の現実の事情に目を背ける傾向が強い。

<これは、滅びへの恐れでも、法順守の業による救いでも本来のキリスト教からは大きく外れている>

 

◆信者への支配

統治体は信者の生活方式や決定事項に介入するが、それが神からの導きのように刷り込んでいる。しかし、その目的は信者が信者として留まるよう細々と指示を与えて依存関係に入れることにある。なぜなら、新約聖書にある道徳規準は契約関係に在る『聖なる者』に向けたものだからであり、それを守るべきは契約関係に在ると主張する者らの方である。指導層が「神はこう感じられる」と主張するとき、それは聖書に根拠が薄弱な上、人々の良心をもてあそんで、自分たちの命令に従わせる動機としているが、信者はそれを神の経路からの指示と信じて畏れて従ってしまう。

この指導層は、その一言によって信者の財産であった集会所や貯金の名義を中央組織に変えさせ、信者の意向を諮ることもなく、彼らの善意の結晶のような大会場を売り払って入手した代価を信者の誰にも還元する様子を見せていない。洗脳された集団の大半は形ばかりの決議に異を唱えることもなく、多額の財産が移管された。

<この神の威を借りた権威の横暴は支配嗜好者の傾向をしめしている。本来、信仰ある立場からすれば、神を代弁するところは悪辣というほかない。これは傍目にも適性な処置とは言えず、所有権というもの、また信者の人格への攻撃に見える>

 

◆間断の無い緊張

道徳性の清さと、宣教への熱心さに生き残りがかかっていることになり、信者が神経質に自らと他の信者とに注意を払うことになり、それは自分への緊張感と周囲の信者への監視を招いている。これは信者の全生活が、一挙手一投足について『言い開きを求められる』かのように、神に見られているという脅迫観念に支配される。しかも、終わりの時は不可逆的に近付いているのは間違いないのであるからと、信者の緊急感を煽り続けている。これに誠実に従おうとする信者自らだけでなく、家族、親戚、友人にも影響するものとなり、少なからぬ対人関係や精神疾患の実害をもたらしている。

会衆では模範性が常に要求され、道徳上の幾つかの種類の懲罰的措置が下されることがあり、その最たるものに忌避がある。それは家族の絆に対して、宗教団体の関係性が勝ることを主張するものであるので、家庭も無条件に憩える場とはならず、そのうえ、実質的に家族の生活方式にまで細かな規約が存在するために互いに監視するような関係を余儀なくされる。

 

◆優越感

様々な犠牲を払って「清い立場を維持している」ために、そうしていない人々に対し優越感は避けられない。また、優越感は自らエホバの証人であることに誇りを持たせ、宣教に邁進する動機を形成している。加えて、信者の中でも幹部となる「特権」が推奨されており、「兄弟」と呼び合いつつも、優越感が増強されるよう、組織内は立場が段階的に細分化されている。これは利己心を助長し、他者の弱さを自らの誇りのために利用することになっている。また、個人の判断は地位の上位者に相談や委託することが相応しいことにされ、個人の自発的判断は抑制される。この集団では「清さ」と「偉さ」の区別が非常に不明瞭になっており、偉くなることが熱心さの燃料となっている。しかも、これがサタン的特質を煽っていることに大半の信者が気付いていない。

 

◆蔑視が避けられない宣教

正義が自分たちにだけは有ると主張すれば、どんなドグマであれ周囲への蔑視は避けられない。エホバの証人の場合、単に、自分たちの聖書解釈が正しいというところを越えて、神の是認と救いが自分たちにだけは有ると信じ込んで他者と接するために、宣教において相手を蔑視していることを悟られることが観察されるが、蔑視していることで相手に反発される理由が自分たちにあるとは感じず、反発する相手に問題があると考える。これはエホバの証人が傲慢を自覚できないほど洗脳されていることに無感覚であることの証拠となっている。

加えて、伝道への貢献度は費やした時間により計測され、物理的な観点から伝道者の間に階級を設け、それによって効果性によらず、時間浪費の労働に信者を駆り立てることに成功している。個人の良心が時間数に対して働くので、奴隷的扱いを可能にさせているのは、それに疑問を呈さない信者も貢献している。時間数への忠実さが信者同士の間に優劣をもたらすだけでなく、伝道される側に対しても優越性を感じさせる特権意識は拭えない。

 

◆情報の閉鎖性

『この世』との異なりを求めることが救いの条件となっているために、外部の広大な領域を悪魔に影響された有害で敵性を持っているものと見做している。そこで「ものみの塔」は信者であるエホバの証人に、外に世界の情報に常に警戒するよう促しており、実際、SNSに参加することから、宗教的題目を検索することまでをも良心的な行いとはしていない。これによって、「ものみの塔」そのものの情報の真偽や価値の程度を自らのリテラシーに照らして判断することを非良心的行動として放棄させ、個人に自責の念を抱かせるよう宗教的指導に於いて操作している。その結果、エホバの証人は、入信以後に自らの判断や決定を避ける習慣が身についており、これは強権国家での人権蹂躙の手法と変わるところがない。

 

◆教育の軽視

情報の閉鎖性の一貫をも成しているが、それは二世以降の信者が情報リテラシーを得ず、ものみの塔の脆弱な学問的基盤に疑いを持たないためである理由がひとつには挙げられる。例えれば進化論やオリエント考古学に触れることで、教理への信頼は揺らぐことになる。なぜなら、その教理でこれらの学問に指導層は自説を唱えてしまっており、宗教の範疇を逸脱しているからである。

子弟に高等教育を避けさせるもうひとつの理由には、組織拡大のための宣教奉仕に駆り立てるためでもある。これは1975年に「ハルマゲドンが来る」(この発想自体が異様)と「預言」してしまったために、大学に行くよりも僅かな猶予期間を宣教に費やすことが「命を救う業」であり、「人生は繰り返せない」と主張したところが大きい。熱狂が去った後には、大学の環境に性的誘惑があるという理由に切り替えられた。

しかし、十代後半から成人してゆく時期は、人格や教養の形成と就職して家庭を安定的に支える能力を得るために最も重要な期間であり、エホバの証人アルバイターが多く、周囲との協調性に問題を抱え、常識はずれな言行がまま見られる原因は排他性と共にこの教育の軽視にも由来する。そのため、この団体を離れた人々には、周囲の社会環境の成熟さに開眼し、それに慣れるまでにしばらくの期間と自己再教育を要する結果となっている。

 

◆幼児教育の偏り

20世紀の終りまで、旧約聖書の律法時代の教訓を現代キリスト教徒に適用し、子らを鞭で叩いて教育するよう指導していた。それは集会に幼児も連れて来るようにとのネヘミヤ記にある、捕囚後に律法再教育が必要であったユダヤ人のパレスチナ帰国の場面を今日に適用したものであった。だがこれは『聴いて理解できる者』に対するものであったが、かつて集会への主婦の参加が多く、乳幼児を伴っていたために、鞭打ち教育がそこで適用され、集会の静粛を守るために利用された。組織が絶対正義を唱えたところで、親は子に対して逃れ難い「絶対の指導者」となって人格形成を妨げる壁と化した。

その結果、子供から「遊びという社会経験」を奪い、「小さな大人」を量産することになり、これは幼児期の自然な発育を阻害することとなった。加えて大人になっても心に傷や社会性の未発達を残すことになり、鬱病ばかりでなくACや自閉症関連の後遺症の事例を少なからず招かざるを得なかった。

だが、組織側は巡回訪問などを通し、精神疾患は世に広く見られるのであり、自分たちが特別ではないと主張した。これは同時に、この宗教が社会一般以上の健全さを持っていないことを証しする。現に、エホバの証人の開業する診療内科系の医院では信者たちが溢れるほどになり、待合室は各自で集会の予習をする受診者たちで占められる光景も見られた。<そこに原因と結果が如実に見えてはいないものか>

 

・極端な忌避の強要

外部への優越感と蔑視は内部においても、信者であることを望まない者、または道徳的に定められた規準を破った信者には、家族であろうと交流を断ち、さらには会話さえしないという「忌避」が現役信者には要求されている。これにより、家庭内にもこの宗教組織が分断の線引きを行うことになり、宗教組織との関係性が家族関係に勝ることを信者に強要している。もちろんこれは家族関係を破壊する以外になく、家庭という本来社会に在って無条件に助け合える場を人々から奪い、異常な緊張感をもたらしているのだが、同時に、この制度によって信者の登録数の維持が促進されている。

ものみの塔」はそれが忌避された者の悔悛をもたらすための「愛ある行い」であるとしている。しかし、聖書の言葉の適用は尽く間違っており、単なる家庭や交友関係の破壊は悪魔的であり、そのうえで組織体制維持を図っている。エホバの証人の排他性は、この忌避制度に於いて最も破壊的な作用を信者とその周囲にもたらしている。

 

◆幹部の堕落と横暴

強権独裁体制が幹部によって維持されるように、「ものみの塔」という宗教体制も「長老」という各集り(会衆)を束ね監視する幹部により広く維持され、これら「長老」たちを定期的に巡回してくる「巡回監督」が組織の意向が反映されているか、また各会衆の資金の動きをも監査し、この教義の矛盾の目立つ宗教組織も維持されている。これら「ものみの塔」の体制を維持してゆくために必須である「長老」や「巡回監督」は特権職とされ、一般信徒らからの支持や援助、尊敬と階級意識が要求されており、そこで独裁体制や他の宗教団体に広く見られるように、幹部が組織的に優遇されるところで、幹部による職権乱用や人格の蹂躙、幹部同士や一般信者への恣意的で不当な扱いの醜聞は絶えない。

その最たる例が幼児性虐待を行った幹部の犯罪を隠匿しているところである。各集りからの貯金の回収と印刷物の退潮に膨大な金額がこれらの裁判に関わって支出されていることは疑いようがないのだが、組織中枢の「統治体」や、宗教法人としての「ものみの塔聖書冊子協会」からこの隠蔽体質が見られる。これは宗教団体によく見られることながら、寄付金の流れや使途が内外に明朗であるとは言い難いうえ、統治体に含まれる各人からの生活や服装などへの神経質なほどの指導、信者一般や被害者らに対する敵対的態度に公正さが見られるとは言えない。

 

◆組織的商行為

ものみの塔は組織を商行為に利用することを信者に戒めてきたが、近年は、組織そのものが寄付の請願に加え、信者たちへの電子機器購入を要請しながら、特定のメーカーに出資もしている。投資については自らの信仰原理と一致しないであろうタバコや武器産業などにも行って信者には秘匿を努めている。

加えて、自前の商標を持った様々な物品の販売をなぜか禁止ぜず、旧来の商売を宗教に持ち込まないと謹んできた方針を自ら通告もなく破り、そのうえ集会所そのものや不動産の販売、集会所備品の有料提供も開始している。

これはキリストの当時の祭司長派が、神殿境内の商売人と癒着していた古代の型に類似する。

<既に、この点でもこの宗教組織の品格は地に落ちた。このような実態を指摘する者を権威を用いて黙らせる横暴は、悪辣な圧制者に共通するものとなっている。すなわち、指導部にその自覚があるということである>

 

◆法律を盾にとる

信教の自由が認められている場合に、彼らはこれを積極的に活用しようとして、善良な宗教を装うが、実質的には彼らは反社会的に外部一般を滅び去るものと蔑視しているのである以上、法に訴えて自分たちの自由を唱えるより以前に、信者たちの脱退の自由を信教の自由として認めるべきである。だが、信仰を既に失っている人々に対するこの団体の懲罰規則は常識を逸脱したもので、家族であっても接触を拒ませるというものである。これこそ法を以って処置すべき野蛮な人権蹂躙である。

加えて、法廷命令により幼児への性虐待の加害者リストの提出を現時点まで拒んでおり、この点では『人よりも神に従う』と弁明しているのだが、そこまで「二人以上の証人」を求める聖句を倫理的に誤用した例も珍しく、実質に於いてまったくお粗末な矛盾を見せている。この指導層の道徳性は信者ではなく、外部や司法によって問われている。だが、彼らはこうした情報を「背教者の嘘」であるとする。

<では裁判所は「背教者」なのだろうか?これでは「この世」の道徳性の方が高いということにならないものか>

 

 

◆問題の根源

 

・唯一の正しい宗教と吹聴

ものみの塔」だけが正しい宗教であり、「統治体」は「神の経路」である

  その根拠には聖書絶対主義がある。しかし、イエスを殺害に追いやったユダヤ教徒が既にこの同じ轍を踏んでいる。

 この前提で、この宗教組織の排他性が方向付けられている。他のあらゆる宗教や宗派を間違いで悪魔のものと否定することで、信者を囲い込んで、そこから出ることへの恐れを植え付け、それを具体的に忌避の制度によって神から否認されることへの強烈な恐れを煽っている。

唯一正当を唱えていながら、教理では旧来の他宗派の研究成果、また各界の識者に立脚しており、「ものみの塔」はそれを選択編集して教理を作ってきた。

年代計算もラッセル独自のものは、『七つの時』と『異邦人の時』を同じものと見做した程度に過ぎない。その教理は今日でもアドヴェンティスト派に近く、「年代計算によるキリストの臨在の察知」、「魂が死ぬ」ことや、預言したことの「天での見えない成就」など、核心的な部分での共通的教理が見られる。

にも関わらず、唯一正当を唱えることで、実は他者から学んだ借り物の特徴ある教理が、様々に選択され、根幹的な部分でも取り入れられていることを信者には知らせず、自分たちから教理が生じたように装うところは少なくない。<その理由は、指導層が『忠実で思慮深い奴隷』を装う必要からのものと思われる>

そのため、情報面で閉鎖的にならざるを得ず、幾らか矛盾を突かれると論理は脆弱であることが露見する。「ものみの塔」が唯一正しいと教えられている信者らは考えることも止めてしまい、質問者を悪魔的背教者として避ける。

本来、存在しない唯一正当を吹聴することにより、他の誰とも変わらない倫理性の普通の人を不当に高めてしまうことになり、そこから「誰がより偉いか」を問う権威主義的体質が育ってしまい、それが組織を腐敗させている。他の誰とも変わらない人同士で、神への序列が生じている。

それが「特権」と名付けられたヒエラルキアであり、秩序のためと主張しつつ、神の威を借りた不公正の温床を形成している。「巡回監督」も「統治体」も聖書に存在しない役職であり、パウロバルナバも巡回監督ではないし仲間に負担を掛けまいと生活費用を自ら工面していた。エルサレム使徒会議は常設ではなく、ヤコブのグループは遅れたユダヤ教理解に留まっていた。しかしエホバの証人であればそれらの権威にも疑念さえ許されない指導が毎週二度ずつ行われている。この指導は「霊的ライフライン」とも呼ばれ、間断の無い洗脳の刷り込みと査察が信者相互に行われる。

 

 

・死への恐れが利用されている

 人の存在は儚く、人生に空しさが拭えない。

人々は、この状態から逃れたいという願望が普遍的に有る。

そこで、実は「楽園での永遠の命」を聖書なり、キリスト教なりが提供していたという教えに、旧来の宗教に無い新鮮な希望を見出すよう教えてきたのがこの「ものみの塔」であり、それを信じた人々が「エホバの証人」となっている。だが、そこから「ものみの塔」の教えに悪質な問題が混入している。

神もキリストもこの「ものみの塔」を通して人々を救うというところに大きな罠がある。

神は『ハルマゲドン』で人類の大半を滅ぼす役割を持ち、「ものみの塔」という宗教団体に加入することが救いであるということになる。だが、人類を救うことは神の意志であるからこそ、キリストを地に遣わしたのであり、それはアブラハムへの契約の言葉にも明らかである。したがって、神もキリストも人類救済のために、終末には自ら行動するに違いなく、救うための証しを人間任せにしたと言うなら、それは神もキリストをも偽り伝えている。(マタイ10:18/イザヤ52:15/ミカ7:15)

全能の神であれば、初めから人類を死の無い、また幸福な状態にできないということは無い。そこで苦難と死の空しさが避けられない現状には、理由が有ってのことである。それが人類に宿る『罪』という、創造の業の意図しなかった欠陥にあることはエホバの証人も認められるところである。したがって、人が創造された当初のように永遠に生きるためには、アダムが試されたように、各個人の倫理的選択が問われるはずであり、これを「ものみの塔」は、結果的にエホバの証人となることがこの選択、つまり裁きの要諦であるとしてしまっている。

これがエホバの証人の閉鎖性を決定付けた。

つまり、神の裁きの要諦が「エホバの証人かどうか」に置き換えられてしまった。エホバの証人になるに当たって行う選択というものは、自分が救われたいか否か、その為に浸礼を受けるか否かになっている。

それでも、実際にはこれは倫理的に良い選択とはなっていない。なぜなら、キリストが言うように『その実によって・・見分ける』なら、上記のようにエホバの証人となることは、基本的に利己的な願望の追求することになり、死の恐れから逃れることを請合う宗教家に絆され、自分たちは「ノアの箱舟」に保護されたつもりになっただけのことである。(教会の信徒席も「ノアの箱舟」を意味するネーヴと呼ばれ救済願望で根本的違いはない)

そこで、エホバの証人の中ではいよいよ人間の『罪』が目立ってくることになる。それが自分の永遠の命が確保された安心感を得た『罪』ある人間の姿であり、神の是認があるつもりで油断することで生じた。それは道徳性の優劣を意識しない一般人をも下回るほどに倫理性の欠如したパリサイ派的に傲慢な姿である。

エホバの証人の熱心さは、死への恐れの裏返しであり、実は創造神の全能性への確信は持っていない。神による人の生死の分かれ目を気にして怯え、神の好意を得ようと腐心していながら、実は、神に関心を向けてはおらず、自分という存在を確保することに熱心なのであり、そのうえ「時の緊急性」が繰り返し唱えられるために伝道に追い立てられ、信者は信仰を得て後に、その教えを熟考し検討する時間を奪われ、聖書の研究を個人で深めることを困難にされている。

したがって、エホバの証人の信仰の目的は何かと問うなら、滅びを免れ「楽園の永遠の命に入ること」なのである。

(これは諸教会の天国行きと同じようでいて、年代予測も相まって、より具体的であるために、教理の日常生活への影響が遥かに大きい。)

 

他方、神の裁きの要諦は命の確保には無い。

なぜなら、神は人類に永遠の命を与えられないのではなく、何者にそれを与えるかが問題なのであり、そこで問われるのは各個人の倫理性であり「エデンの問い」である。

アダムが強烈な試みに遭って、エヴァと命運を共にしたように、罪に堕ちる者は悪魔に倣い利己心の道を行くのであり、神を含む他者とどう生きてゆくかという倫理を弁えないことを選び取る。同じく永遠の命を求めて利己心の道を歩んでいることが、またキリスト言われた「実」としてならせている宗教団体に信を置くことがどうして神の是認をもたらすものか。

まさしく、その閉鎖性、排他性こそが、利己的であることの否定し難い証拠となっている。利己心のままに永遠の命という木の実を求めても、神がそれを与えるものだろうか。むしろ、回転する炎の剣がその行く手を妨げないだろうか。

 エホバの証人の神への賛美というものは、永遠の命という、自分にとっての最大益を与えてくれることへの喜びが基本的な動機であり、死への恐怖を最大限度に消してくれるご利益への賛美となっている。

だが、神の意図はそこになく、神が生かそうとする者の要件は利他的に神を含むすべての他者を愛せるか否かなのであり、来るべき終末の裁きに於いて、それこそが問われなくては『神は愛』ではなく、恐がる者を永遠に生かすということになってしまう。実のところ、その恐れを利用した支配欲が「統治体」の願いではないのだろうか。

 

 

 

神の裁きの要諦については

blog.livedoor.jp
 

ものみの塔指導部は信者の死への恐怖を敢えて利用している

以下のような挿絵の少なからぬ例には、不安を煽る印象だけでなく、巧妙な人々の深層心理への操作が見られる

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サブリミナル効果を意図した例

 不安を煽る配色と構図を持ち、核爆発のような「きのこ雲」を背景ににして不明瞭に随所にドクロや牙をむいた口が描き込まれており、見る人はそれと気付かずに深層心理で死への恐怖を煽られるよう工夫が凝らされている。

地上も暗く描かれ1914年からとされるキリストの巨大な臨在と死の恐れを結び付け、見る人々に意識させずに深層心理に訴える意図が見られる。ページをいっぱいを用いたこれは、単に挿絵という以上の役割を負っている。

その一方で「楽園となる地上」の明るい希望を伝える落差により、保身願望を更に煽ることになる。

こうした図版は、たまたまこのように描かれてしまったというわけではなく、四色カラー版の出版が始められた1984年以降、こうして見る人々に無意識の恐れを懐かせる工夫が凝らされ心理効果を意図したと指摘された図版が散見されてきたが、近年に出版された書籍の図版でもこのように繰り返されている。このようなサブリミナル効果は商用では禁じられて久しい。

私見だが、おそらくこれは教団の意向を端的に示す例、また、指導の方向性を物語るものなのであろう。即ち、深層心理にまで働きかけて人を掌握しようとする意図であり、それが曖昧で、いざとなれば言い逃れできそうな範囲の施策であればこのような手段も躊躇しないということになる。しかし、これが「神の経路」と称する団体の取るべき方法と言えるだろうか?

おそらく指導部は、これが人々に永遠の命をもたらすことであるから、こうした手段も正当化されると念じているのかも知れない。だが、それでは人に知られないところでの行いは何でも許されることになりはしないものか?

ものみの塔は「神の経路」を主張するのだが、このように人に曖昧な仕方で関わるのは神ではなく、別の霊的存在者が人間にアプローチする方法ではないのだろうか。

 

 「神の王国は支配している!」2015年刊 より

 

 

 結論

「神の裁き」というものに対する観念が、結果の生と死に集約され過ぎてしまい、そこから「生き残る」という発想で捉えてしまっていた。

従って、人の利害の観点からキリスト教にアプローチしてしまっている。それが「楽園での永遠の命」を得るという目的意識に結実してしまった。

だが、「神の裁き」の意図は、保身目当ての魂と共に神が生きることにはないと言える理由がある。神を含む他者とどのように関わって生きて行こうとするのかがエデンの「二本の木」の選択以来問われている。これが「倫理」という問題であり、それはエデン以来すべての人に問われるべきものであり、その先に「永遠の命の木」がある。

ゆえに、「神の裁き」には人々のこの種の選択、即ち「倫理」が問われているのであり、その倫理上の選択が「信仰」となって現れることを聖書は再三示している。

しかし、エホバの証人の信仰とは、恐れに動かされて精神的な袋小路の狭隘な奥に追い込まれてしまっており、自然な価値観から遠く離れて、却ってその歪んだ価値観が正しく善良な事と感じるよう平素から慣らされてしまっている。

この人々にとっては、理性的というよりはずっと感覚的にこの組織に属する事が正しく、安全であるという信念に取り込められているのだが、その原動力はつまるところ恐怖であり、生き残ることを目的とするあまりに、自由な選択としての信仰、エデンのアダムとエヴァがそうであったような、監視も障碍もない環境下での選択を許した神の意図を無視しているというべきであろう。

言うまでもないことながら、規則化によって救われる者が分けられるとするなら、それはユダヤ教のものであり、神が本来意図したものとは言えない。律法はキリストが現れるまでの教師であり警護者であり、また神の全き義の精神を映し出し、義なるキリストひとりを指し示したものであったが、キリストの犠牲の実現によって、その役割を十全に果たし終え、そこから信仰による義が到来する事となった。

義をもたらす信仰とは、恐れなく自由な選択ができる状況下でこそ抱けるものにほかならず、脅されるものではけっしてない。神が脅して従順になる人々と共に生きようとすると思えるだろうか。むしろ、自発的に神を敬う人々を望まないのではないか。神は誰にも永遠の命を与えることは不可能ではなく、そうしないのは、共に生きる者すべてが愛で結ばれることを望まれるからである。

この点で、根本的にものみの塔はこれまで「神の裁き」を災害のように生存を脅かすもの、逃れるべきものと教えて来たのであり、この点で神の意図を見誤った。それは天国と地獄を教える「キリスト教世界」のご利益信仰と本質は変わらなかったという他なく、教会員が不信者を地獄行きだと確信しているように、同じく排他的なのである。

では、エホバの証人の方々は、この排他的独善をどうなさるだろうか?

人間に由来するものは間違いを避けられず、聖霊によって神と結ばれた宗教というものは今日存在しない。では、せめてそれを認めて謙虚に振る舞うことくらいはできないものか?そうすれば少なくとも圧制の害は相当程度避けられるのではないか。

 

 

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-LF-

(しかし、長文なので引用に利点あり)

 

 

新世界訳日本語版に見られる原文からの乖離

 

マタイとマルコに於ける日本語重訳の際の付け加えと省略(おそらく新版でも)

 

念のため

(概して新世界訳聖書は大方のキリスト教会が主張するほどの問題ある翻訳とは言えず、自分の見るところ、全般的には日本語の主要な翻訳に比べて原語への忠実性では読者への配慮に優れたところが多く、その点ではむしろ優良と言える。但し、翻訳母体となった「ものみの塔」の教理に影響され、訳が意図的に調整されているところも散見される。それでも、それらを除いたところでは、ある程度の日本語の不自然さもそのままに原語に従う姿勢から、他の翻訳に勝って配慮が為されている。いずれにしても、どのような翻訳も完全無欠なものを作ることは不可能であり、訳者の解釈が避けられるものはない。従って、聖書を探求しようと思うなら、翻訳の比較と原語の照合は必須であり、研究者はその過程を通して各翻訳を評価できるものであり、聖書理解を深めることができる。この頁も、そのような照合によって得た知識であり、いずれかの翻訳聖書を称揚また誹謗する意図をもたない。まして、ヘブライ語本文には母音がないために同定されていない単語、古過ぎて意味不明の単語もあり、ギリシア語本文では多くの異本が存在する以上、「逐語霊感説」のような聖書の捉え方は「偶像化」の危険を冒すばかりであろう)

 

 

◆以下は非常に大きな問題になるけれども、誰も気にも止めないのだろう

 

Mt24:5-9(口語訳)

24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

 

アンチ・クリストの現れと戦争の噂を並置し『まだ終わり<テロス>ではない』

6節から9節は以下の通り

[6μελλήσετε δὲ ἀκούειν πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων· ὁρᾶτε μὴ θροεῖσθε· δεῖ γὰρ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω ἐστὶν τὸ τέλος.

 7ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπὶ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν καὶ ἔσονται λιμοὶ καὶ σεισμοὶ κατὰ τόπους·

 8πάντα δὲ ταῦτα ἀρχὴ ὠδίνων.]NA28

6節は一文が終わっており、7節には前節を関連付ける単語は存在していない。

 

次いでMk13:6-10(口語訳)

『13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。』

[6πολλοὶ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες ὅτι ἐγώ εἰμι, καὶ πολλοὺς πλανήσουσιν.

7ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων, μὴ θροεῖσθε· δεῖ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω τὸ τέλος.

 8ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν, ἔσονται σεισμοὶ κατὰ τόπους, ἔσονται λιμοί· ἀρχὴ ὠδίνων ταῦτα.

  9Βλέπετε δὲ ὑμεῖς ἑαυτούς· παραδώσουσιν ὑμᾶς εἰς συνέδρια καὶ εἰς συναγωγὰς δαρήσεσθε καὶ ἐπὶ ἡγεμόνων καὶ βασιλέων σταθήσεσθε ἕνεκεν ἐμοῦ εἰς μαρτύριον αὐτοῖς.

 10καὶ εἰς πάντα τὰ ἔθνη πρῶτον δεῖ κηρυχθῆναι τὸ εὐαγγέλιον.]

 

やはり7節で一文が終わっており、8節には前の節を解説するようには語られていない。

 

Lkの相当部分21:8-13(口語訳)

『 21:8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。
21:9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。
21:11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。
21:12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。
21:13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。』

[8ὁ δὲ εἶπεν· βλέπετε μὴ πλανηθῆτε· πολλοὶ γὰρ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες· ἐγώ εἰμι, καί· ὁ καιρὸς ἤγγικεν. μὴ πορευθῆτε ὀπίσω αὐτῶν.

 9ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκαταστασίας, μὴ πτοηθῆτε· δεῖ γὰρ ταῦτα γενέσθαι πρῶτον, ἀλλ’ οὐκ εὐθέως τὸ τέλος.

  10Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς· ἐγερθήσεται ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν,

 11σεισμοί τε μεγάλοι καὶ κατὰ τόπους λιμοὶ καὶ λοιμοὶ ἔσονται, φόβητρά τε καὶ ἀπ’ οὐρανοῦ σημεῖα μεγάλα ἔσται.

  12Πρὸ δὲ τούτων πάντων ἐπιβαλοῦσιν ἐφ’ ὑμᾶς τὰς χεῖρας αὐτῶν καὶ διώξουσιν, παραδιδόντες εἰς τὰς συναγωγὰς καὶ φυλακάς, ἀπαγομένους ἐπὶ βασιλεῖς καὶ ἡγεμόνας ἕνεκεν τοῦ ὀνόματός μου·

 13ἀποβήσεται ὑμῖν εἰς μαρτύριον.]

 

10節は[Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς]「それから彼は言った」or「その折に彼は言った」とあり、前の節とは分かたれており、ますます、前の内容を説明してはいない。

そこで『戦争や戦争の噂を聞く』事と、『民は民に、王国は王国に決起し』という相互戦争とが同じものであると確言はできない。

ものみの塔」の新世界訳英語版でマタイの7節の前半は

”For nation will rise against nation,and kingdom against kingdom,”

NKJVでも

”For nation will rise against nation, and kingdom against kingdom.”

違いは節がコンマで終わるかピリオドで終わるかだけである。その前の節の中にも"because"などの句は存在していない。

同節の新世界訳ドイツ語版では

"Den Nation wird Nation sich gegen Nation erheben und Königreich gegen Königreich,"であり、英文のままに踏襲し前の節と関連付ける単語は存在していない。これは中国語版でも守られている。(中国語版には別の箇所に問題を発見:Mr13:10「但是」これを"kαι"の訳語としている日本語訳には新共同があるが共に前節との関連を断っているがこれはNWTの本意とは言えない)

しかし、新世界訳日本語版では

『そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。』

 

Mkでも『7 また,戦争のことや戦争の知らせを聞いても,恐れおののいてはなりません。[これらの事は]必ず起きますが,終わりはまだなのです。 8 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,』

この『というのは』と原語にも翻訳原文にもない一語をマタイとマルコに付け加え、『戦争の噂』と相互戦争とを関連付けているのは、新世界訳でも日本語のスタンドプレーになってしまっている。これが重訳される際には意図的な付け加えであったことは言い逃れできないに違いない。どうしてこのようなことが起ったか。

 

以上の付け加えによって、日本語版での『戦争や戦争の噂』は後の節の相互戦争と同じものであると解釈することが不可避にされたが、ルカ当該部分では

『9 さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには[来]ないのです」。

10 それから[イエス]はさらにこう言われた。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。』としており、『それから』”furthermore”という語が前後の節を区切っており、他のふたつの共観福音書との意味の上での整合性を『というのは』の付け加えによって失っている。

日本のエホバの証人にとって、これは気にもならない付け加えなのであろうが、ダニエル書と照合してゆくと、この理解でゆけば、終末期で非常に重要な違いに直面することが分かる。⇒「二度救われるシオンという女」

これはけっして些細な違いとは言えない。

(それでも「というのが」の句が適切に訳されている箇所もあるExp;Joh6:40 文頭の[τοῦτο γάρ ἐστιν]で、これには確かに 「これは即ち」の意であり、このような場でこそ用いるべきものであろう)

 

なぜ問題かを態々悦明すれば・・

『戦争の噂を聞く』のは『まだ終わりは来ない』段階のことである

それに対して『国民は国民に敵対』する事態は別である可能性が原文には存在している

この二つは同じものでないと言えるのは

一方が噂を聞くことで怖れ慄かないよう訓戒しているが

もう一方をルカと比較すると聖都の存亡に関わる戦争について『国民は国民に敵対』としている。それは『噂を聞く』ので『怖れ慄かないようにする』では済まず、『山に逃れる』べき事態の到来を指す。それはユダヤ体制の『終わり』(テロス)を意味しており、ローマの侵攻であって『まだ終わりは来ない』段階のものではない。

第一世紀でも最後のローマ侵攻までに騒擾は何度も起っていたが、終末にはそれに相当する象徴的な南北対立が予告されている。それは諸国の権力の集合が同士討ちをする結果には終わらない以上、それは最終戦争にはならず『まだ終わりは来ない』段階の戦争である。

この『戦争の噂』の語句はヨセフスが戦記で使っており、その場合も実際の戦闘は皇帝カリギュラ崩御によりすんでのところで回避されている。

この違いが分からないなら、これらの事態が発生する終末にも双方の戦争が何かも分からないことになる。これら二つの戦争は範囲も性質も異なっていることを聖書全体は暗示していると言える理由がある。

殊に、ダニエル書の第11章の中に描かれる南北の覇権国家の対立が、ヨエルやゼカリヤなど旧約の預言に予告される同士討ちであるかと言えば、それらを共に『国民は国民に立ち上がり』という当該次節の言葉と同じものを指すかといえば、ほかならぬキリスト自身の『終わりはまだ』との発言がこれを否定している。

 

(思うに「ものみの塔」の解釈では、なんでもかんでもハルマゲドンにテロスを集約し、大患難を単純化し過ぎて、世界が滅ぼされても自分たちは救われることばかり妄想しているので、この辺りがどうでも良くなっているのであろう)

だが、これはどうでも良いことにはならない。ふたつの戦争の間に重要な事態が生じることを聖書が暗示している。なぜなら、聖徒は終末期の三年半が終わると地上の終末の舞台を後にするからであり、テロスを地上で見るのは信徒であるから、キリストの終末預言は聖霊注がれる聖徒の事だけでない事柄が織り交ぜられている。

『北の王』による『南の王』の領域への侵入は、聖徒攻撃を惹き起こすとしても、やはり、聖徒らは脅迫に屈するべきでないことに於いて『恐れてはならない』し、信徒の場合にも、聖徒の滅ぼしに成功したからといって『北の王』の脅迫に恐れるべきではない。そのすぐ後に『北の王』は最後を迎え、信徒らは救われるからであり、ハルマゲドンの戦いに至ってはなおのこと安全に守られる。その点は迫害に消える聖徒とは異なるが、共に脅迫に屈してはならない。

 

 

つまるところ・・「クリスチャン」と称する人々は

おしなべて自分が救われるなら、あとはどうでもよいらしい

そのために教師らには神を信じてやっているのであり寄付もしている

神の意志や計画や想いを探り、その偉大さを畏れるというわけでもないらしい

『人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか』

 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆ 終末預言に関しては、もう一か所に英文と整合するとは言えない重要箇所あり

Rev6:4

すると,別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。

問題箇所は「人々がむざんな殺し合いをする」との訳文中に「互いに」の語が省略されている点で英文では

”And another came forth, a fiery-colored horse; and to the one seated upon it there was granted to take peace away from the earth so that they should slaughter one another; and a great sword was given him.”

となっており、これはNKJVの

”Another horse, fiery red, went out. And it was granted to the one who sat on it to take peace from the earth, and that people should kill one another; and there was given to him a great sword.”

とも異なり新世界訳日本語版だけ「互いに」に相当する単語が存在していない。

 

また、新世界訳ドイツ語版

Und ein anderes,ein feuerfarbenes  Pferd kam hervor  und dem,der darauf saß, wurde gewährt, den Frieden von der Erde wegyunehmen, so daß sie einander hin schlachten  würden, und ein großes Schwert wurde ihm gegeben.  

ドイツ語訳では英語に近いこともあってか、この点で寄り添っている。

 

以下、中国語版

有另一匹马出来,是火红色的。骑马的可以夺取大地的和平,叫人互相残死。他还得了一把大剑。

中国語版も英文に忠実であり原語にも適うのだが、日本語版の異なりが目立つ

これは他の日本語翻訳と比較しても言えることで

 

すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。【口語訳】

 

すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。【新改訳】

 

ただ、新共同訳だけが

すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。

として同じく「相互の闘い」であることをぼかしている。

 

この問題点は、ハルマゲドンに集められた軍勢について、「エホシャファトの谷」などの描写を通してネヴィイームの唱える同士討ちによる破滅の概念をこの黙示録の句の理解から遠ざけている点にある。

だが、上記に見るように英語版新世界訳でもそのようにはしていない。

この項で扱った例からすると、日本語版新世界訳の翻訳委員には、ものみの塔の終末解釈を英文新世界訳以上に誇張し、原語にも英文にも無い句を挿入し、また存在している句を省いている。

その翻訳の精神といえば、英文翻訳への忠実性でも、原語本文への配慮でも、少なくともこれらの点で十分とは言い難く、読者にはものみの塔の教理だけを植え付ける強権を感じさせる。

もちろん、どのような翻訳であっても訳者の解釈の影響を受けないものはないのだが、日本語版新世界訳には、英語版への忠実さも欠けたところがないとは言えず、必ずしも良識的かといえば、肯定するには無理がある。

 

日本語版新世界訳では、「というのは」との句が少なくない。

それがJh1:16、3:16など正当な箇所もある、同じMt5:46も有って然るべき箇所ではある。Mt16:26などは、他の翻訳聖書が明らかにそこに有る[γαρ]を省略しているケースが多い中で、はっきりと「というのは」を訳しており、それは原語本文に寄り添う点では新世界英文だけでなく、NKJVなどにも準拠している。

それなので、殊更Mt24:7の怪が深まる。

 

Mt5:46

Mt14:3

Mt16:26

Mt20:1

Mt24:7

Mr6:17

Mr7:3

Mr9:49

Mr13:8

Lk8:29

Lk9:7

Lk22:27

Lk23:31

Jh1:6

Jh3:16

Jh5:21

Jh6:40

ほとんどが節の頭に「というのは」を置いている

「それというのも」は全巻でエステル記一か所のみ

「というのは」が翻訳上の口癖になったらしい

 

・上記の他に、英文NWTそのものに明らかなミスがあったのに

各国語への翻訳者が意義を唱えなかったか、黙殺された句

⇒ 

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エゼキエル書の構造

エゼキエルに通告された預言の時期

・エホヤキムの第4年はネブカドネッツアルの第1年
・エホヤキンの捕囚BC597から37年間
・一人称と三人称で書かれた部分が交錯する

 ・エゼキエル個人
BC593-571まで活動していた
父はブジであり、エレミヤのようにザドク祭司の家系に在った
妻をエルサレム攻囲の始まった588年に亡くした
第一章はじめにある『第三十年』が何を意味するかは諸説あるが、タルグムの註解のヨシア王の律法の発見の時期というのは年代が一致する。
また、祭司の任官である三十歳に彼自身が達したとの説もある。
彼は度々川の畔に居るが、これはディアスポラの民が異教の地で頻繁に浄めの儀式を行う必要に応じるものであったとも。cf;フィリッポイでのパウロ
バビロニア資料によれば、ケバル川はニップールを囲むように流れていたらしい。

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1:1-3:14.第30年4月5日(捕囚の第五年BC.593)
<ネブカドネッツアルの第13年>
ケバル河畔で神のレクーヴと4個体のケルヴィムを見る<エルサレム神殿が存在していた>
エゼキエルは両面の巻物を食し、聴かない民に話すことを命じられる

 

3:15-7:27 第30年(第5年)4月12日
イスラエルの家に有責の警護者とされる
低地平原で神の栄光を見て唖者とされ次に話すのは神が語る時とされる
レンガにエルサレムを刻み攻囲する模型を作る
左腹を下に390日を寝て過ごし、右腹を下に40日を過ごし、人糞に代えて牛糞を燃料とし減らした飲食で過ごす(この430日の間妻の世話を受けることができたろう。妻の死は24:18に記される)
髪と髭を剃りそれらを三等分して火で焼き、剣で打ち、風に散らすが
それらは疫病、飢饉、剣によって三分の一ずつが滅びることを表す

 

8:1-19:14 第6年6月5日(592)
年長者らの前で神から髪を掴まれ幻視でエルサレムに連れられ、神殿で悪行を見る
六人の殺害者と一人の書記官の幻、ケルヴィムと神の栄光
一つの心と一つの霊が与えられ、ユダとイスラエルは集められる予告
エゼキエルは住居の壁に穴を空ける
自分の前に置いた糞像から立ち返れ
剣と飢饉と野獣と疫病の害を逃れる僅かな者が残される
サマリアエルサレムの売春、大鷲と大杉による周辺情勢の比喩
義なる者が義を離れるとき、その魂の罪により死ぬ

 

20:1-23:49 第7年5月10日(591)
伺いに来た年長者らの前で霊感を受け、荒野以来のイスラエルの咎の歴史が語られる
将来にイスラエルは棒の下をくぐり、悪行者は排除され、聖なる山に戻される時が来る
(南の森林の秘儀)
剣による殺戮の予告、二本の道の分かれ目で占うネブカドネッツアル
神殿を蔑み安息日を汚したイスラエルは悪行と共に散らされる
義なる者の血の罪を負うオホラとオホリバは淫行の相手によって攻められ悪行の酬いの杯を飲む

 

24:1-25:17 第9年10月10日(589)

エルサレム攻囲について広口鍋で羊を料理する例え
汚れが溶解するほどの滅びが臨む
エゼキエルは妻を失うが喪は禁じられ、捕囚民もそうなる
聖都陥落後にエゼキエルが語ることの予告
アンモン、モアブ、セイル、エドム、フィリスティアへの宣告

 

26:1-28:26 第11年1月1日(587)

ティルスへの宣告
サタンへの暗喩「わたしは神だ」
突然の崩壊とイスラエルの回復

 

29:1-30:19 第10年10月12日(588)

30:20-30:26 第11年1月7日(587)

31:1-31:18 第11年3月1日(587)

32:1-32:16 第12年12月1日(586)

32:17-33:20 第12年1月15日(586)

33:21-39:29 第12年10月5日
エルサレム陥落[4月か5月か?]の通知に応じ)
<37:1に変わり目があるかも知れない* ゼデキヤの11年;前586以後>

骨の満ちる谷の幻視

イスラエルとユダとは一つの杖となる

マゴグの地のゴグによるイスラエルの山々への攻撃とまったき敗北

 

40:1-48:35 第25年1月10日(エルサレム陥落から14年目572)

 謎の神殿の詳細にわたる寸法の記述と祭祀への指示→意味不明の箇所

前半には幻の神殿の善悪属性に疑問を感じさせる記述が混じる

(レヴィの任職にも謎の文言あり)

水量を増す川が死海を活かす

十二部族の新規の割り当て地と、『長』とされる者の卓越

(現状の地形では面積が足りずズレが生じる)

 

 

--------
全部で13回(14?)啓示されているが、必ずしも順に並べていない
第11年と12年にかけて3回ずつと多く、エルサレム陥落の後に終末黙示が集中している。
「第三神殿」の幻は13年隔たっており、別格に扱われている
励ます意味があったなら、どうしてこれほど待たせたか?<励まし?>

啓示順にするとどうなるか?

 *<37:1の最初の動詞がワウを伴っていない過去形で、日付が先行していた可能性が高い>

エゼキエル書ではエホヤキンを王(メレク)とし、ゼデキヤを君主(メラーコース)として区別することがある(17:12-13)但しゼデキヤを蔑んではいない。おそらく、バビロンの傀儡王の意ではないか。

何人かの識者は38・39章をエゼキエルの作とは見ていない。

 

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自由主義では20:25を律法を神自らの罠として捉えることもある

・20章からは各々が独立した断章となっている
 ・24章冒頭は前588年とされる J.Blenkinsopp"Interpretation A Bible Commentary"

エルサレム陥落後の数年間はエドムが真の敵となっていた。(25:12-14)エドムの語はセイルの赤土からきているとも、エサウが求めた赤い煮物から来ているとも、その赤ら顔にも由来があるとされる。エドムはユダ滅亡に乗じてユダに侵攻している。(35:6=Gen9:6)エドムにだけは運命の逆転は起こらない。

・37章は「YHWHの手がわたしに臨んだ」の四つの幻の第三に当たる

1.霊感の停止 2.神殿の悪行と破壊 3.骨の蘇生 4.謎の神殿 

自由主義では38-39は37に先行すべきとも言われる

・ヨセフスはエゼキエルが二つの書を残したとしている(古代史10:79-80)

・ゴグの部分は「YHWHはこう言われる」に続く七つの単元を持っている

・ゴグの正体について推測されていたのはカバラーからのバビロン、前2世紀のアンティオコス・エウパトルの幅があるが、最も云われるのはアレクサンドロス大王であるが、タルグムはローマ人に同定し、アウグスティヌスは北からのゴート族としてきた。しかし、ゴグの匿名性を打ち破るには至っていない

・「メシェクの総首長」”ローシュ・メシェク”は語源はどうあれロシアを意味しない(ルーシ「漕ぎ手」<奴隷?>は古ノルウェーの家系の属するらしい)

・ゴグは七つの他民族の軍を持つ、ペルシアを除けばすべてが創世記10に表れている ゴメルはアッシリアの碑文に見られるギミライまたキンメリアと同定されている。トガルマはアッシリアの記録ではコーカサス山麓のティルガリムであろうとも

・「北の果て」はペルシア、クシュ、プトには当てはまらない。ベトトガルマへの付加なのか結論は出ないが、繰り返されるので(38:15/39:2)象徴であろう

エルサレムは前5世紀のネヘミヤの時まで無防備であり、それは神の保護によると見做されてきた(Zec2:9)

・オペリム「通りかかる者」、アバリム「東の旅人の谷」、埋葬の後はハモン・ゴグ、「・・わたしはイスラエルの中に一つの場所をゴグに与える。それは彼の墓である。アバリムの谷・・・」と訳されるべきであろう。ヘブライ語本文では「オベリム」と読んでいる。「海の東」については意味不明。「アバリムはすべてそれらで塞がれる」これは「オベリム」を「旅人たち」と解釈したうえで語呂合わせをしており「旅人たちの道は塞がれるであろう」としている

・ハモナは街の名として唐突に表れるが、これは本題から離れて、不明の都市ハモナをゴグの大群*と説明している。<*「俗衆」の意が有ったはず>

レビヤタンの肉を食らう」Ps74:13は終末論的宴会としてラビ的表象となっている(29章)

 ・「もはやあの大群のことは聞かれない」は「それゆえ、その町の名はハモナである」が直訳になる

 Keith W.Carley"The Book of Prophet Ezekiel"1974

 

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20:25の問題は、タルグムの中で和らげられている。

『彼らは自分たちの愚かな性向に従って、本来のものでない宗教的宣言やそれによって生きることのできない法を守ったのである』

エゼキエル書にだけ『イスラエルの土地』(アドゥマス イスラエール)が存在し、18回に及んでいる。これは北イスラエルを指す語を別にすればエゼキエル書独自のものである。

エゼキエル書の捕囚の原因としては、名の清め(キドーシュ ハシーム)が関わっていることが繰り返されている。

 

 

 

--------------

ユダヤには儀式的沐浴があり、その水は人工的に集められたものであってはならず、自然に集まった水の中に身を沈める。これを規定したトホロートはパレスチナ以外で守ることは難しい。自然に集まった水は『生きた水』という。貯水槽の水はそうは呼ばれない。泉や川から汲まれた水でなくてはならない。(Ezk.Zec.Revの水がそうでは?ヴェート ハショエバー?)

 

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人と宗教

 

人の周囲は善意ばかりで構成されている環境ではない。

むしろその人が生きることにさえ抵抗があり、競ったり、争ったり、あからさまな敵意さえ受けるのが、『この世』という、現在まで人々が逃れられなかった敵性環境である。

そこには人間相互の素っ気なさだけでなく、生まれ出たところで、諸苦が襲い掛かり、やがて老化を経て身体が劣化し、動き難くばかりか、多くの病を避けられなくなり、死に至る宿命を負わされている。

人間は、自らの存在を俯瞰して、それが儚いもの、いつ果てるとも知れない不確かなものであることを悟らざるを得ない。抽象的思考能力を持つほどに、人々は自分自身というものを省み、争いや苦しみや寿命の中に囚われていることを見出すことになる。

それであるから、人の置かれたこの境遇を変えることはできないものの、思いの中で自らに存在意義を与え、人生という空しい労役と最期の消滅を回避する方策が発生し、古来、維持されてきた。その端的なものが宗教であり、またその教義である。

したがって、宗教とは、抽象概念を把握できる人間が『この世』に生まれてくる限り、その必要を満たすために常に求められるものとなってきたが、それは無神論や不可知論であっても人生に何らかの答えを与える働きでは変わるところが無い。考えないことを信条とする場合であっても、それを自らに課す場合に、人はそのように強く念じる必要があり、それは宗教信条を守ろうとする姿勢と変わるところがない。

だが、こうした人の必要に応じた宗教や思想という心理的な人生問題の仮想解決策もそれぞれであり、共通点はあるにしても、矛盾や対立的な教義や教条が目立つものとなっている。しかも、その違いは相互の宗教なり思想なりの存立を否定し兼ねないところが避けられず、それは宗教や思想を自らの人生という問題の解決策とした人々、即ち、個々の信者の人生全体に関わる意義や、教えられて想定している死後の利益などが、単なる心に中だけの「事実」または「空想」であるとされ、その人に大きな損失をもたらしてしまい兼ねない脅威でもある。

ゆえに、人々は信仰する宗教の異なりによって、必然的に相争うことになり、この点で妥協することは、教えそのものを否定することにならざるを得ない。

多神教であれば、まだ譲歩の余地を持てるが、それでも排他性の強いもの、信じる宗教を変える者、まや辞める者への極端な扱いを躊躇しない多神教もやはり存在している。

こうして見えて来ることは、宗教はそれぞれに人々の大きな利益をその心に約束していることである。

だが、その利益そのものは未到来なものが大半を占めており、その多くが「死んでみなければ分からない」という、きわめて不確かなものなのであり、その正否の確約は誰も示すことはできず、そこが「信仰」であるとも言える。

近世フランスをはじめ、それぞれの思想信条を人権として保護する制度が始まることにより、宗教同士、信仰相互の直接的な衝突は緩和されている。それでも、宗教そのものの本質からすれば、いずれかが正しいのかは問われるべきものであり、本来、それは妥協ができないものである。

だが、その結果が倫理問題を生じさせ、人々の間に分断や差別や、紛争をもたらすとすれば、人は自らの人生の問題、『この世』の諸苦を改善するどころか、争いを増し加え、自らますます住みにくい場に周囲を変えていることになる。これが宗教最大の問題となっている。

 宗教とは押しなべて「信仰するもの」であるゆえに、本質的に心の中から具象の証明には出て来ない。この点で、科学が信仰を立証したかのように語られるのは、宗教の本質を失われることになり、そこには強制によって他者の信仰を破壊、また勝ち得ようとする精神的圧制の手段が見えているが、これは逆に非論理的なことになり、自ら宗教の信仰性という土台を攻撃してもいる愚行である。

確かに、宗教には多様性があるだけでなく、時代性も拭い得ず、人間の社会や科学の進展に即してこられていないところが散見される。そこで普遍的価値のないものは人々から関心を失われることが避けられないが、それを伝統性や地域社会性、また葬儀という避けられない儀礼制度の中に存続の活路をわずかに見出しているところもある。これは信仰の形骸化を招いており、いざ、教条への確信が問われるような事態が生じれば、短時間にそれらの宗教の存続の土台は崩れることになるように見える。

<例えれば、ユダヤ教が動物の犠牲の祭儀に立ち戻ったとしても、それはユダヤ人に農耕牧畜民族の性質を要求しており、そこにメシアの犠牲の意義が問われるなら、時代性のゆえに即座に限界の壁に直面することになろう>

そして、宗教は、その教えが「人を超えたもの」を想定するほどに、時代に即応して発展するには難い性質を帯びることになり、それが却って宗教自体の不合理性を露呈してしまい兼ねない。しかし、それでも気付いた人々が宗教を離れないのは、他に代替すべきものを見出さず、惰性が働くからである。ある地域では人々は「宗教疲れ」のような精神的背景を抱えており、宗教改革以来の宗教闘争に明け暮れたことのある西欧がその例に挙げられよう。キリスト教の新旧に関わらず、「クリスチャン」に名は留めても、心底確信を教義に捧げてもいない。<だからと言って、教義を科学に摺り合わせ、宗教を現代化しようとするのは、宗教そのものを却って不確かで、本質を逸したものにする>

 

したがって、宗教は今日に在って、宗教相互の、また社会や科学の進展によって、その真偽が絶えざる吟味に曝されているのではあるが、この吟味は各個人の中で進行しているのであり、特に伝統ある宗派で、表立ってその根幹的教義が急激な批判の的とされることは起っていない。

その一方で、その実質がどう評価されようとも、古式の非合理的な教義に固執し厳格に従おうとする反動も、旧来の伝統的宗教で見られるが、これはそれらの宗教の非合理性を内心では感じつつも、それを振り払い、本来的に宗教がもたらすはずの人間につきまとう不安の払拭を願っての回帰行動なのであろう。

それであれば、宗教一般のこの根本的役割は、併存する多くの宗教の存在と、人類社会の進歩によって脆弱にされており、人々の必要に充分答えているとは云えない状況にある。

<これは16世紀にカトリックが日本への布教を行った際に、同じ性質の障碍に突き当たっている 教義そのものが理知的に吟味されるという当時には珍しい現象が起こったが、これに宣教師はたじろいだのであった 「キリスト教の常識」はそこで限界を露呈した>

 

 

 

 

 

 

マケドニア履歴


マケドニアは元はバルカンの西半分を占めるピンドス山地から東の低地平野に進出してきた移動遊牧民族で、ギリシア化はアルケラオス王によって進められた。彼はペッラにゼウクシスという高名な画家を招いて王宮を飾らせ、エウリピデスも呼ばれ、この劇作家は亡くなるまで当地で過ごしている。そのため後のアレクサンドロス大王が「メーデイア」からの句を諳んじていてパウサニアスに語ったというプルタルコスの記録も有り得たという。
先の時代、ペルシア戦争マケドニアはペルシア側についたため、戦役後にギリシアとの関係を調整する必要があった。
ギリシアアテナイを盟主とするデロス同盟につき、多くの艦船の建造を要したが、前4世紀の学者テオフラストスによると、「大工が用いるための最良の木材はマケドニア産である」としている。ピンドス山脈は良質で豊富な木材を供給することができ、この点でマケドニアギリシアの必要に応えることができた。

フィリッポスⅡ世(BC382-336)は、子供時代にテーバイの人質として過ごし、この国の軍制を学んだとされる。マケドニアのバシレイオスとなったのは前359年で先王アミュンタスⅢ世の死後帰国を許され、甥であるアミュンタスⅣ世の摂政となった後、すぐに甥を退けて即位している。しかし、甥は殺害していない。

自分の代でペッラに都したが、トラキア方面に遠征したときにトラキア人の街を攻め取り、ギリシア人を入植させて自らの名をもってフィリッポイと名付けた。(356)


彼の四番目の妻は、ピンドス山地のエペイロス地方に中にあるドドナを首都とするモロッソイ王国の王女で名はポリュクセナであった。
彼女はサモトラケの密議でフィリッポスと出会い、彼のひとめぼれで兄弟(実際は叔父)のアリュッバスを説き伏せて婚約したとプルタルコスは「英雄伝」でいう。

エペイロスではディオニュソスの崇拝が強かったが、その神はゼウスがテーバイの王女セメレーに産ませた自然の豊穣と生殖力を体現し、葡萄酒の神ともされる別名「バッカス」である。
葡萄を発見してその酒の製法を知り、キュベレーから小アジアで密議を授かった。その後、人間に葡萄の栽培を教え、自らの神性を認めさせ、その祭儀を広めたという。
まず、小アジアを征服して多くの熱狂的な信女らを得てから、葡萄の蔦を絡ませてギリシアに来た。彼にはサテュロスやシレノスが従っていた。
その熱狂的な信女らは「バッカイ」と呼ばれたが、小鹿の皮をまとい、テュルソスという蔦を巻いた杖を握る。
山野を巡り、集団で饗宴乱舞し、神や自然と一体となって恍惚に酔うという。エウリピデスの「バッコスの信女ら」に描かれるところでは、その憑依により素手で牝牛を引き裂くとも。
この女たちは、村々を襲撃してはあらゆるものを引き裂いていったが、村人が槍を投げても傷も負わず、血も流さないという。
テーバイの王ペンテウスは、母親までが信女になってしまったのでディオニュソスを取り押さえようとしたが、母親の命令を受けた女らによって八つ裂きにされたとも。(教祖ディオニュソスは人間であったらしい)
(憑依された人が異常な怪力を持つところは福音書にもある)

こうした異常な憑依による狂乱の崇拝は、ディオニュソスだけでなく他の神々(カペイロス/サバジオス)にも見られ、こうした傾向は小アジアからピンドス山脈まで広く見られたという。
サモトラケの密議はカペイロス(商人の神か?)のものであったが、ギリシア人にはまとめて「ディオニュソス崇拝」と認識されていたとのこと。


フィリッポスⅡ世がカルキディケー半島に遠征したときに、三つの福音があった。
まず、度々北辺を侵してきていたイリュリア勢力に対し、腹心の将軍パルメニオンが勝利したこと、オリュンピアードで王の馬(車)が優勝したこと、四番目の妻ポリュクセナが男児を出産したことであった。そこでポリュクセナはその慶事からオリュンピアスと改称して呼ばれることになり、その子はアレクサンドロスと名付けられた。

彼女は密議に熱心に参与しており、激しい憑依状態を愛し、長い蛇を一匹ならず飼いならしていた。それらの蛇は、人間に良く馴らされていて、踏まれても害を為さなかったという。フィリッポスⅡ世は、オリュンピアスの傍らで共に休む大蛇を見て、疎遠になったらしい。

当時のマケドニアには蛇が多く、それらをペットとすることは容易であった。

 しかし、マケドニア貴族の生活はギリシアと異なって質素であり、家内奴隷を用いず、女たちは自らパンを焼いたという。

王はたいていは一夫多妻で、フィリッポスⅡ世の場合には、政略結婚の繰り返しで最終的に七人の妻を持った。だが、七人目のクレオパトラについては政略結婚ではなく、それがオリュンピアスとの決定的な不仲と出奔を招いたとも。王位継承の危機を抱えたアレクサンドロスも母と共にマケドニアから、幼馴染のアレクサンドロスが王となっていたモロッソイに去っている。

また、多婚については、ギリシア(特にアテナイ)とは異なり、妻たちの中で正妻と側室の区別はなく、皆が正統で誰も対等の「妻」という認識であった。

アレクサンドロスの帝王教育では、フィリッポスⅡ世は母親から引き離して(母親の呪術的蒙昧教育に危惧があったか)オリュンポス山の東に位置するエミザに、当時小アジアに居たアリストテレースを招いて何人かの少年たちと共に息子を教育させた。このグループが後のアレクサンドロスを支える諸将ともなり、ディアドコイ戦役のそれぞれの領袖ともなってゆく。アレクサンドロスはこの偉大な師を生涯忘れず、書簡の往来が続いており、アリストテレースの知性的影響の大きさを物語っている。

 フィリッポスⅡ世は前338年にカイロネイアの戦いに勝利してスパルタ以外のギリシアを掌握し、コリントス同盟を締結しその盟主となる。

その後、小アジアをペルシアから解放する目論見で、ペルシア遠征を計画し、先遣隊一万を先発させている。その間に、モロッソイに退いていたオリュンピアスと息子を呼び戻すべく、息子アレクサンドロスの妹のクレオパトラをモロッソイ王となっていたオリュンピアスの弟のアレクサンドロスと結婚させることにする。これにはオリュンピアスも賛同しないわけにゆかず、フィリッポスⅡ世は、かつてマケドニアの首都であった南部のアイガイで挙式させることとした。

広範な支配地域とコリントス同盟のギリシア各地から賓客を招き、饗宴や競技会の開催が予定され、フィリッポスⅡ世は権力の絶頂にあったのだが・・

 

 

ディアドコイ戦役に至る情勢

 

 

「忠実で思慮深い奴隷」の背景

 


『忠実にして聡き奴隷』についての記述は、マタイ24:45-とルカ12:41-の二か所に有る。

Mt24:47

[amhn legw umin oti epi pasin toiV uparcousin autou katasthsei auton]

 

Lk12:42

[καὶ εἶπεν ὁ κύριος τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον;]

 

どちらも[καταστησει]<動)直未来能3単 >語られた時点では未然


この『忠実にして聡き奴隷』については、他にダニエル11:33が関係しているのかも知れないし、ネヴィイームの中に散在している可能性も考えられが、とりあえず、イザヤの『子ら』に付随して存在している。

彼らの存在は、神の聖霊の介入なく始められる必要があると思われる。

『奴隷』に関するこれら福音書の記述では、明らかにキリストの到着以前の段階で活躍する者らのことを述べており、成功と失敗の双方の可能性が記されている。
またキリストの『誰であろうか』という問いかけは、存在することになることの確定性と共に、その働きの不確定性とを同時に示している。

そこに、キリストの帰還の時の不明性が強調されており、それはダニエルの70週の最後の一週の終りが語られないことによって分割されているところとも合致している。
即ち、『契約を保つ』メシアの最後の三時半が何時到来するのかという謎と、『あなたがたはその時を知らない』という弟子らの不可知ばかりでなく『子もまた知らず』という『天の父がその管轄する時』のことであり、『夜半になるか、明け方になるかを知らない』下僕らの置かれた、主人の『婚礼からの帰還』を待つ期間のことである。


これらは、どれもが時の不可知性を強調しており、覚醒運動以来の各派のような「年代計算」の悲劇的失望とも却って整合するものとなっている。したがって、『忠実にして聡き奴隷』と「時を予告する」という行いとは正反対のものであることになり、むしろ、『主人は遅い』と云う事態を招く必然性を帯びているし、実際にアドヴェンティスト派や、そこから派生した「ものみの塔」がそうなっている。なぜ『主人は遅い』と云うのかを問えば、自分の予想が有ったからにほかならず、それは主人中心の態度ではなく、自己本位な願望を持ったからではないか。その誘いとなっているのは「いちじくの例え」などのようである。

 『忠実にして聡き奴隷』では、時の不確定性への忠実さが強調されており、主人が何時到着してもよい姿勢は、マタイでもルカでも直前の『夜盗』の例えから繰り返されており、第二夜警時でも第三夜警時でも『篝火を焚き続けている』べき務めが求められている。『仲間の奴隷たちを打ち叩いて(強制して?)』宴会を始める者らに対しては、彼らの『まさかと思う時刻に(人の子)は来る』という。その不意打ちの原因を作っているのは彼ら自身なのである。

 したがって、『忠実さ』は時をどう待つかに強くかかっている

そのために「時の予想」はきわめて厳しく戒められているのであり、『打ち叩かれる』鞭打ちについても、これは実例が幾つか存在している以上、実現するものとして語られているとみるべきなのであろう。

 しかし、キリスト教界の伝統的な趨勢では、主人の帰還について意識も低く、むしろ再臨という事柄の発生であってさえ望ましくもないような姿を見せている。他方で、再臨によって自分たちは救われると決め付け、裁かれないものと想定している宗派もよく見かけるが、その自信の由来は、『新しい契約』に預かる『聖徒』への言葉を自分に当てはめてしまっており、あまつさえ『聖徒』の受けるべき裁きによりその多くが殉教に倒れることを無視し、キリストの地上への有難い祝福の降臨を期待してしまっている。それもキリスト自身により、地上再臨が起らないことを再三警告されているにも関わらずのことであり、これは救いの利己的願望が築いた「信仰」という以外ない。

しかし、『罪』を赦されている『聖徒』であってさえ裁かれる終末に、どうして裁かれるべき赦されていない『罪人』に向かって、神にもキリストにも最初から善意を注ぐよう強制できるだろうか。そこで彼らは「バプテスマを受けた」「道徳的であるからノアのように生き残る」「キリストの品性に倣って予審を通過した」等条件を挙げるのだが、これは「裁き」の真意を知らないからであろう。これがつまり根本的な倫理性が各人に求められる「エデンの問い」である。そこに自己保存本能の出る幕はない。全能の神がすべての人を救わない理由にこそ意識を向けるべきだからである。

それから、ひとつ謎がある。ルカの『世界の臨もうとする事柄を想うために、人々が息を失う』ときに『あなたがたの解放が近付いた』の『あなたがた』が聖徒ではないように読めるところがある。天に霊の復活を遂げているにしても、幾らかの不自然さが残る。これは『忠実にして聡き奴隷』の直前でペテロが質問したような、両者に関わる事柄として語られたのだろうか。

いや、これは明らかに聖徒のことを言っていない。これは神と人の戦闘の後になり、全聖徒が天軍に参加する以上一人も地上に居ない。この辺りを理解するには、ゲッセマネの祈りを加味する必要がある。

 

また、『忠実な聡い家令』に関わる前後の記述では、何度か食事に関して述べられている。
その家令は仲間の奴隷らに定時の食事を備えており、不忠な家令は仲間を起こし、強制して宴会を始めている。
また、忠実であった家令には、主人がそのものに給仕するとも言っている。
したがって、主人の婚宴からの帰還においては食事、また宴会が行われることが二度示唆されている。マタイでは、続く25章でもやはり婚宴から帰る主人を持つ乙女らの例えが続いており、当時までのユダヤの風習を通して、不定の時刻に戻る主人と、それが何時になろうとも待ち続けるべき奴隷の務めとが描かれ、主人の帰還の時をどう迎えるかという観点が強調されている。


加えて、『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている』ことが命じられているところは、『主の晩餐』との関連を連想させる側面を持っていると見てよいように思われる。なぜなら、共観福音書の後の過越しの場面で、イエスが『主の晩餐』を制定し、それを行ってゆくようにと使徒らに命じている。


これは使徒らに代表される『聖徒』への直接の下命であるとしても、正式な儀礼聖霊の再降下なくして行い得ない。
だが、聖徒がいきなりに登場して『主の晩餐』を祝うかと云えば、聖徒という極めて高い立場への認識ないところで、聖霊の注ぎが起るかには問題がある。あのシャヴオートの日の以前に、信仰を懐いた120人が居たから『子ら』の誕生もあったのであり、パウロは信仰による義によって聖霊で油注がれたと述べている。
即ち、メシア信仰を懐いたことにより義を得て、そこに認証である聖霊が与えられている。


そうであれば、終末の『三時半』に契約を保つメシアは、あのシャヴオートの時と同じ手順を踏むべき重要な理由があることになる。

最初の主の晩餐がキリストの臨席があり、使徒らが油注がれてはいなかったものの、やはり聖霊降下に先行してペサハが行われている。そこではシャヴオートまでの七週という期間の象徴性が意味を持つように見える。モーセを通してペサハとシャヴオートが制定されたとき、既に、大麦の『初穂』としてのキリストの復活と、その犠牲の最初の益に与る小麦の『初穂』としての聖徒らの登場とは予見されて、神の経綸とされていたことがここに明示されている。

この場合の『忠実で聡き家令』の位置付けは、エルサレムに留まり二階の間に隠棲するガリラヤの弟子であり、それを指導し使徒職を12名に整えている使徒ペテロが相当するように見える。<聖徒らに対する使徒らの優越性は、聖霊降下の前に試練をキリストと共にし、主の晩餐に預かっているところに表れている。然るに、彼らは聖徒らを吟味する立場が与えられた>彼らはシャヴオートを境にキリストの奇跡の業を聖霊によって継承し、その立場がキリストの肉と血に与る者であることを『主の晩餐』によって象徴的に示し、同時にそれは『新しい契約』への参与を自らの内に刻むことにもなったに違いない。

従って、シャブオートを待つガリラヤ人たちは、一回目の食事儀礼の後の聖霊降下を待っていた人々であったことになる。彼らは迫害の渦中であっても『エルサレムを離れずに居る』べきであった。

 では、その間どんな『定時の食事』に与っていたか?また供給者は誰であったのか?あるいは『忠実な聡い家令』とは終末に特徴的な存在なのだろうか?

 

 Mt24:45

[Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ τοῦ δοῦναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;]

 Lk12:42

 [καὶ εἶπεν ὁ κύριος· τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον; ]

 マタイではドゥーロス"Servant",ルカではオイコノモス"Steward"

『ダマスカスの人、エリエゼル』サラの独り子イサクの嫁の導き手としての

エサウは長子の権を軽んじた』Gen25:34 <脱落聖徒or旧基督教?>

エサウは双子ながら本来の相続権を持っていたが;血統上のイスラエル⇔神のイスラエル?(但し、ガラテアではイサクとイシュマエルが双方の母親を通してユダヤ教キリスト教が対照される)

”lest there be any fornicator or profane person like Esau, who for one morsel of food sold his birthright.”NKJV Heb12:16 

日本語訳では『俗悪な』(口語、新改、新共)とされるが"profane"は「神聖でない」の意があり、これは当該ギリシア語[βεβηρος]  の字義” 1) accessible, lawful to be trodden 1a) of places 2) profane 2a) unhallowed, common, public place 2b) of men, ungodly ”にも含まれている。

Isa14:1-2 『主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。』

 

Isa61:2-6 『の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
しかし、あなたがたはの祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(口語)

『【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
しかし、あなたがたは【主】の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。』(新改訳3)

『主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼ら主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。』(新共同)

 

『彼ら』という三人称の者らは『あなたがた』という二人称とは明らかに別なものとして語られている。

二人称の者らはイスラエルであり聖徒の予表であることは『祭司』の語から分かるので、その以前に語られている『彼ら』と『異国の者ら』が同じものを指していると見るのは不自然でない。だが、異邦人がシオンを嘆くか?<キュロスとペルシアはどうか?>

 

Isa66:22『「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」』(口語)

『わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる』(新共同)

『わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする』(新改3)

[וְגַם־מֵהֶ֥ם אֶקַּ֛ח לַכֹּהֲנִ֥ים לַלְוִיִּ֖ם אָמַ֥ר יְהוָֽה׃]

<選ぶに相当する単語は無い>しかし、全部がそのままというのは極めて考えにくい

 


quartodecimani.hatenablog.com

 

 

Ams9:9-12

『「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。
わが民の罪びと、すなわち/『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と/言う者どもはみな、つるぎで殺される。
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を/所有するためである」と/この事をなされる主は言われる。』(口語)

 

10節まではイスラエルの選別を指している。それが行われる『日には』となるが、その期間が狭く限定されているかは予断を許さないように思える。なお、荒れ跡を再興するのは神自身として語られる。だが、イザヤではそうなっていない。これは、荒れ跡を再興するのが異邦人であり、神の命によると捉えることもできる。キュロスの故事では、異邦人は荒れ跡を直接に再興してはいない。使徒会議では、聖徒への異邦人の採用がアモスに関連付けられた。だが、ヤコブが限定的に句の意味を固定したかは不明。<アモス書9:11-12/イザヤ書45:20-21>

しかし、Isa60章以降は明らかにシオンに向けた言葉が多く、それは54章辺りから始まっている。これほど聖徒前の者らに向けて語られた預言がほかにあるだろうか。

 

 

ものみの塔の統治体を検証する



 

 

教会のキリスト教についての雑録

教会のキリスト教についての雑録

 

・目的は何か

信者が神に近付き、是認や親密さを得て、信者については地獄行きを免れ、天国行きを確定させることにある。

<早速、この段階で指摘するべき誤謬が幾つも見えているが>

つまるところ、信者個人の益のための宗教である。

 

だが、教師の目的はそこにない。教師の意図は信者集めと資金獲得である。

教会堂を維持し、教団に上納し、かつ自分の生活を成り立たせるのに、日本の宗教環境ではかなり厳しい。

そのため、ますますご利益信仰の面が強められるきらいがある。また、結婚式場のチャペルでのアルバイトなど、本来のキリスト教ではない文化面を売りにする傾向は今後も続きそうに見える。但し、これは外人教師に人気がある。

仏教が葬式の宗教となっていったように、本来の部分が形骸化しつつ、派生的文化面で商業化するところは、その宗教の本質が社会に対して弱いという証と思われる。

 

・第一には、自分たちに与えられる祝福に酔っている。

これはキリストの自己犠牲の精神と同じ方向性にはない。

原因のひとつには、洗礼を受けた「クリスチャン」という身分で、キリスト教の全体を見ようとするところにある。

そこから、自分たちはお目出度く神の前に格別な存在となったと思い込む。

神がアブラハムにその意図を告げた人類の祝福という経綸の成就としてのキリスト教という理解は皆無に近い。むしろ、利己的ご利益を得ることに関心が向いている。

そこで、自分たちも裁かれる『この世』の一部であるという意識は持っていない。したがって、アダムの罪は自分たちについては既に赦されているというパウロの聖徒に関する言葉を自分に語られたものと解釈している。(『新しい契約』が『アブラハムの裔』を生み出し人類を益するという理解がないため⇒「聖徒理解)

だが、おおよそ宗教を望んで信仰する大衆の動機といえば、「信じるメリット」であり、よそよそしいこの世に在って、自分がどう扱われるかに関心が向き易いのは自然な成り行きといえる。

だが、それはキリスト自身が示した生き方でも、使徒や初期キリスト教徒の精神でもない。どこで変わったかといえば、キリスト教のコミュニティ化、また大衆化を画したローマ国教化までにははっきりしていたのであろう。

三位一体説、天国と地獄、刑具の象徴、パスカのイースター化、俗説の混入などは、目出度い自己へのメリットを中心に飾られる異教のかき集めになっている。

教会が煽るのぼせた高揚感によって幾らかの活気も演出されるが、土台に誤解がある危険で終末の裁きがどういうことになるだろうか。そこに心配があるが、言っても聴いてくれるようでもない。自分が正しいのはメリットを失いたくないからで、神に関心があるでもない。まず「終末」をどうこう言うことそのものを「異端」などと断じる教会や信者もある。

 

・聖書偶像化と通読の奨励

新教系の「クリスチャン」が聖書をほぼ絶対視するのには動かし難い目的がある。それは自己義認であり、聖書はそのための道具となっている。

「聖書に書かれた通りに行えば、その人は神の是認に入る」という前提条件を盲信しているのだが、その動機は自分を義とし(かつては旧教を断罪して)「正しいキリスト教」を実現しようとすることにあるだろう。

何が正統かを巡り論争を続ける内に聖書主義者は「ヨブの罠」に落ちて行く。ヨブ記は「義なる者が苦難に遭う理由」を説明しているのではなく、「ヨブが自分の義を高め過ぎ、神の義を否定すべきでないことを悔いた」のであり、どんなに自分が義人に思えても、詰まる所『義人はいない』事を悟り、キリストの贖いに頼るべきことを教えているのである。

そこで聖書を自分の義のための道具としたい教会員は、聖書を絶対化したい衝動に駆られ、却って神を聖書の言葉に押し込めてしまい、神は聖書でないにも関わらず、その全能性を無視することになる。これはキリストに反対した当時のユダヤ教指導層の著しく誤った轍を踏むことになる。

また、この傾向は「聖書通読の奨励」にも表れている。本来、新教派は当時の旧教の聖書への無知と異教的慣行にプロテストしていたにも関わらず、聖書通読によって「聖書の中の巡礼」を作ってしまった。通読を何度行ったかで敬虔さを測るとすれば、それは教会員の蒙昧を促進し、教師の側の聖書への無理解が露呈するのを避ける便法になってしまう。

なぜなら、聖書理解は通読によっては甚だ不十分にしか得られないからである。聖書を知ろうと思えば、集中的に部分を研読し、次いで部分と部分とを比較し、歴史資料などを参考にしなければならない。しかも、聖書を読む個人の度量によっても得られるものは違ってくるのであり、聖書ばかりを読んでいる人には、人格的問題が避けられない。「聖書だけを読んでいれば良い」という発想は「異様な人間」を作るだけのことである。その人には人格というものが育たない。実際の人間というものに目を向けないからである。

 

・「聖書を読むと分からなくなる」という原因は、自己中心のアプローチで聖書に向かうからではないのだろうか。

やはり、神に祝福されるのが、この信者らの主要な崇拝目的となっている。それに関連して硬直的な「聖書主義」もよく見られる。聖書の絶対化が自分たちの正当化に直結しているのは、神との絆がほかになくなっていることの証しでもあるが、聖書そのもので理解できるところは字面を追えるところだけだが、それも「有難い言葉」を断片的に拾っては自分に向けられた言葉として喜んでいるばかりで、聖書を貫く神の意図全体への見通しはほとんど持っていない。

しかも、キリストの犠牲は既に自分たちに適用されており、神の是認を得ていて、ひどい場合には、聖徒にのみ語られた『世の基の置かれる以前から』などの言葉を自分に当てはめてしまい、自分は神に選ばれていて、信仰を持ったのも神の選びだとまで信じ込んでいる。これは信者以外の人々への裏切りとならないものか。まして、神の意志は『地のあらゆる家族が自らを祝福する』選民を召し出すことにあるのに、自分の救いばかりを願うという、おおよそキリストに自己犠牲の精神とは真逆の利己性を教会の教えによって培っていることになる。

 

・射幸心を煽られる

ほとんどの教会で、1Col12:3等を理由にして「信仰を持ったことそのものが神の聖霊によることで、その人は神に選ばれた」と教えられているが、この教理の帰結を教師は知っていてのことだろうか?

その句は、当時に実際に奇跡を行う聖霊が注がれていたエクレシアの環境で、悪霊の霊感を吟味する方法として述べられたものであるにも関わらず、霊感を持つでもない一般信者に適応してしまえば、「選ばれた自分」という高慢な選民意識を免れない。だが、本来の聖霊を注がれた『聖徒』は『新しい契約』によって激しい試練と迫害を通して練り清められ、そうして後にはじめて『天でキリストと共になる』光栄に浴するのであるから、イエスも『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われている。即ち『多く与えられた者にはより多くが求められる』のであるが、教会はメリットは語っても、『人類の祭司にして王』となるべき者のキリストの続く地上での殉教を果たして教えるだろうか。

教会が信者一般に、「あなたが信じたのは神の選びだ」というとき、その人は自分は周囲から一等高められた意識を誘っているのであり、それは射幸心を煽るという以外なく、「パリサイ人」を作っていることになる。それを信者獲得と囲い込みの一便法としているのであれば、本来のキリスト教とは逆の方向に信者を誤導していることにもなってしまう。キリスト・イエスが『実によって見分ける』ことを言われたのであれば、射幸心を煽られたときに喜んでいてよいわけもない。それは利己主義への罠であり、そこに落ち込んだ人はパリサイのように頑なになってゆく。

今日に於いては、聖霊が初期に注がれて以来、絶えて地上にどこにも無いにも関わらず、「クリスチャン」には、聖霊が人格を持って個人の中に有り、それと共にキリストがその人の中に住むという、やはり聖徒にのみ象徴的に語られた言葉を、心理的妄想として自分の中にキリストが住んでいると思い込むが、それによって現実から遊離した道徳的潔癖症と周囲の未信者への蔑視が避けられなくなっている。キリスト信仰にない人々は地獄に堕ちるものと決め付け、パリサイ派の轍を踏みながら、実に自分たちこそ神の憤りに曝されつつあることはまず警戒しない。

 

・ハーヴェスト

ダニエル書と黙示録から終末期の情勢がどう予告されているかを探る。

おおよそは覚醒運動の流れを汲んでいる。

障碍になっているのは、欧米のキリスト教の轍を踏んでいる、というよりは、そのまま移植されたものであるので、やはり「クリスチャン」という単一の信仰者としか見ていない。

そこで拯救が信者だけに独占されるところは、他の教会的キリスト教と変わるところはない。

ユダヤ教文化への嗜好があるようで、再臨のキリストについては・・

それから、キリスト教の目的とするところが何かについての説明は弱く、一般宗教の領域に留まっているらしい。

聖書理解に思考のほとんどが費やされ、それが内外に人々に意味するところが不明瞭で、そうではないと言いつつも、やはり知識を取り入れることが宗派の目的のように見える。

どこの教会でも教えられるように、信仰とは「神が自分を守り愛して導いていると個人的な信頼を寄せることである」という。また、科学によってより深く神を知ることができるとも。

 

・SDA

十戒の絶対化からして吟味されるべきだが、人類への命令として譲らない。「十戒だけは別格」として律法契約から取分けるように考える「クリスチャン」は多い。それがごく一般的道徳律を教えているように見えるからである。

だが、そこに安息日を含んでいるところで、問題が生じた。改宗したと主張するローマ皇帝により、それまでの初期キリスト教徒の多くが採用していた「日曜安息」が法制化されたところには確かに問題があった。なぜなら、それは当時キリスト教の天敵であったユダヤ教に対抗して始められた習慣であったからであり、パウロが教えるように、キリスト教としては安息日の規定の下にない。(ローマ14:5) むしろ、安息日が示す、生きることを神に頼り、生業によって聖なる物事をなおざりにしないという精紳は日毎に抱けるものであり、且つそうすることを休暇を何時とるのかという肉的で些末な事柄に落とさないでいられるのである。

労力の多くを割いて、それを安息日に捧げる姿は、ユダヤ教のラビたちの陥った悪習を批難しながら、わざわざその同じ道に入り込むことではないのか。

 

 

・総じて

まず、「救い」や「祝福」を望むというのは、元来『この世』が人間にとっての「敵性環境」であることの証しといえる。そのため、人は強く宗教に自己存在の保全や確保を求める姿勢は人類に広く見られ、それはキリスト教ばかりのものでもないが、その傾向は一神教に強く出ている。

キリスト教の場合に、自分の救いなり永遠の命なりが確定したと信じ込んだところから、人間の貪欲が促進されているように見える。他の信条や信者への蔑視もその一つとなっているが、より明解に強い欲となって顕在するのが支配欲である。

これは情況からしてサタンの精紳そのものである。というのも、人間には『罪』のために、その存在そのものが脅かされた状態に置かれ、その境遇は『罪の奴隷』であるのだが、これがキリストの犠牲が既に自分には適用されたと思い込み、もはや自分が裁きを通過すると確信さえしている状態では、罪の道に入る前の天使であったサタンと同様に神の是認や栄光を得た立場を妄想していることになり、その人に元から宿っているアダムからの『罪』への警戒心が解かれてしまい、その人の素のままの悪しき虚栄の欲望が引き出されるのである。

人が同じく『神の象り』である人の上に立ちたいと思うのであれば、機会あれば神に対しても同じ願望を懐き得るのであり、これこそが倫理の基礎を打ち崩す元凶ではないか。

したがって、こうした神の是認を信者に請合う「キリスト教」というものは、キリストの精紳から信者を引き離し、キリストの教えに関心を払う人々をも利己心に堕落させるサタンの影響力に加担していることになる。

それはボランティアなど社会貢献や伝道を行ってさえ、実は自己に関心が向いているという内面の真実を問わない姿勢にも巧妙ではないか。

もちろん、偉くなりたいという貪欲は、十二使徒らですら払拭し難かったのではあるが、キリストはこれを再三にわたり訓戒し続けているのである。それこそはアダムからの『罪』の現れの一つであるだけでなく、そもそもサタンが陥った罪の始めであった。

この悪しき貪欲の発端となるものは二つある。第一が人が人の上に立ち、支配したいと願う悪であり、もう一つは、人が誰かの下に入りたいと願うことであり、聖書はこの双方を非としている。

宗教の信者は、当然ながら何かの教えを受け入れることで、信仰の対象に帰依する。その場合、創世記は人は「神の象り」に創られたことを記すけれども、往々にして、宗派の創唱者なりは、信者を大衆化させて自分が仕切り、教えを守らせることで支配すること欲望の陥穽に堕ちる。神の象りを支配しようとすれば、それは神を足の下にすることではないか。

また、信者は教師に自分を委ねてしまえれば、判断を怠けることができ、それでも「天国」などのご利益は確保されていると思い込むし、そうしたい欲求に駆られる。生計を立てるのも楽ではないし、楽しみ事も多ければ、誰かに一切を任せてしまえればそれほど楽なことはない。日曜毎に礼拝に行くことで自分という存在が安泰で、幾らかの友誼も楽しめれば、キリスト教の「天国保険」もまったく掛け捨てでもない。

こうして、教師と信者の相互依存が築かれる。そのうえ、キリスト教の信者は教師を支えるには不足しがちであれば、事業として「教会」を成り立たせようと、信者の乱造につながり、相互依存の傾向が強まってゆく。

何が欠けているかと云えば、自分のご利益を傍らに置いて、神の意志を探ろうとする気概なのであろう。⇒漁師アンデレのように

しかし、これを大衆に求めるのは難しい。「福音化」を望めば二律背反になる。イヴリートが「端」を意味するように、この世と神とは本来妥協できないものである。その証拠に、使徒らが『この世』を敵対するものとして語るのが、『荒野』から語る固有の神と整合している。

教会とは、やはり「世のもの」、大衆に依存するべきものなのではないか。

 

                                 .

キリスト教宣教に盛られた毒

 

特にキリスト教の場合
信者になれば、救われる、天国行き、成功できる、楽園に行ける、イエス様が自分の中に住んでくれる
などを吹聴されるとすれば、それは本来のキリスト教とは言えない。
また、神の全能性も認めてもいない。

なぜなら、神が全能であるなら、諸苦で溢れるこの世から人類を残らず救えないはずがない。
そこで、神がそうしてはいない理由があるはずであるのだが、それが単に信仰を持たせるため、人生は試練のため、人を選別するため、等々理由付けする。
そうなると、神の意図するところや、その性格が規定されてくる。
それらの教えによって、「神は、人をより分けるので、人の方から神に対して上手くコンタクトをとり、宥めた者は好意を受ける」と言っていることにもなり、神は賂を受けるというに等しい。

そこで聖書に道徳律を探し出し、それらを守ろうとして人間の実態と異なる善人を演じることも誘発されてくる。
だが、それは常に神に取入ろうとする不自然な緊張感と、差別を人々の間にもたらすことになる。その端的な例が「パリサイ人の祈り」に集約される。他者との比較によってのみ神の前の立場を実感し、それでいて、実は人間は誰も神の前にキリストの犠牲を要する罪人であることから逃れようとする。
これはキリストの犠牲の価値を卑しめるものであるばかりか、キリストの示した自己犠牲の利他性の逆の精紳を植え付けることにもなっている。
これはキリスト教界、特に新教系の宗派の中に広く見られる独善性の原因であり、その由来は「聖書主義」という一種の偶像崇拝にある。

だが、聖書は人に「正しい生き方」を教えるものではないし、人生の指南書でも、道徳の本でもない。聖書とは、より根源的な人間の問題、人類の宿痾ともなっている倫理上の欠陥を指摘し、その隷属から解き放ち、創造されたままの『神の子』の栄光に回復させるという、神の偉大な目的と、その進捗を知らせる書なのである。

それを、神の目的は「人に崇拝させるため」、また「神の主権に服させるため」やら「天に召すため」などと神中心の都合を吹聴するのは明らかに間違っている。
神は人を地上に『その象りに創られた』のであり、恰も悪魔のように人を平伏させて喜ぶとすれば、それは神が自らを卑しめるに等しいことである。
この誤謬をもたらしているのは「聖徒理解」また『聖霊』が何であるのかを把握していないところにある。そこに宗教指導者らの権威獲得の願望も絡んでいるところが問題の根を深くしている。

 

更に程度が悪いのが、『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び』などの句を根拠に、自分たち「クリスチャン」が信仰を持ったことそのものが神の業であって、生まれる前からの定めだというものまである。

さらには、自分に対する神の処遇がどうなるかは生まれる遥か前から決まっていることで、その運命を自分でどうすることもできないとまで決め付けているものもある。

これらの教え手は、それぞれ人にどう影響し、どのような神への観念を持たせてしまうかを考えるよりは、「聖書に書いてあるからそうなのだ」という意識に凝り固まっていたのであろう。つまりはズーゴートやパリサイ派のようなものである。

 

また、キリスト教界の謬見は「この世」というものをどう見るかも関わってくることになる。
この世界が、試練の場であるとすれば、この世には神の摂理が働いていることになり、起こる諸悪も究極的には神の為すところになってくる。
これは「神がいるなら、どうしてこれほどの悪や苦しみがあるか」という問いへの簡便な解答にされてしまう。
しかし、それでは神は優れた者を好むところの、差別主義者であると言っている。「キリストの助けを得て」などと言いつつ、ますます自分を善人に仕立てつつ、「神の是認は自己努力で獲得できる」と言っているではないか。


これはパリサイ派のような優越感と周囲への蔑視を造り出すための環境として「この世」が在ることになる。
この観方は、この世に諸苦が溢れることを積極的に捉えるようでいながら、実はこの世に潜む人間自身の害悪、つまり『罪』から目を背けさせている。

 この世とは、神の創造の意図から離れた人類が、背負い込んだ倫理上の欠陥によって自ら苦難を招き、その不倫理性に対処しながら何とか秩序を与えようともがいてきた「逸脱した世界」なのであり、そこですべてに神の意志も摂理もなく、ただ法則が支配している。

しかし、その中でも、神は創造の当初の企図を成就するべく、一定の介入をしてこられたが、その記録が聖書にまとめられている。
多くのキリスト教は、この点でも大きな誤解をしている。
自分たちが実は『罪人』であることを弁えず、神がまったくの善意の内に自分たちを置き、間違いなく是認するものと思い込み、またそう教えるのが「キリスト教」と言って良いほどである。聖書は、その善意を信者に与えるために書かれたとまで決め付けている。

だが、これは危険極まりない誤謬であり、聖書を熟知し、律法の規定を守ることに於いて揺らがぬほどの自信を持っていたユダヤ教徒によってメシアが殺害されたことは、その明らかな警告となっている。

それであれば、「クリスチャン」とは、神が人を裁くことは認めざるを得ないとしても、自分は許されると決め込んでいるのであり、その傲慢こそが神から最も離れた精神的場に自ら追いやっているのである。パリサイ人という端的な学習素材を、新約聖書に於いてあれほど与えられていながら、いったい何を読んでいるのだろうか。キリスト教界の信者諸氏、所謂「クリスチャン」と称する人々のこの点での変化はまず無理に見える。パリサイ派がそうであったように、ご利益を確定させるべく利己主義に於いて妥協する余地は極めて小さいほどに凝り固まっており、教えを受けるほどにその道を正義と信じて邁進するからである。

 心を静め、自らを省みるゆとりある人がいるのだろうか。

 

 

「教会の唱える救い」と原始キリスト教の「救済」

 <いくつかの側面が有って、どのような順番でどうまとめると読みやすいか>

「このような解釈を信じると、人はどのような影響を受けるか」

「それが神の意図やキリストの精紳と合致するのか」

「その解釈によって神はどのように描き出されるのか」

「自らの解釈の絶対性を唱えることで人間能力の限界を超えてしまう」

「絶対性は神だけが唱え得る」

「教師も信徒も神を代弁していると唱えれば責をすべて負うことになる」

「そうしたい動機はどこから来ているか」

「宗教が信仰に立脚するのであれば絶対はない」

「絶対がなければ人を究極的には裁けない」

「信仰上の真理とは常に相対的なものでなくては矛盾する」

「客観的事実は信仰を必要としない」

 

 

 

「この世」という人間の生まれ出る苦悩の世界への対処として

序説試

 


人は誰も自分から意図して生まれ出るわけではない。

しかも、生まれ出た「この世」という環境は降りかかる諸苦の苦悩と寿命の制約に縛られた場であり、古今東西の人々に空しさを嘆かせてきた。

人生を満足の内に閉じることのできた人は僅かであろうし、殆んどの人は望まず死を迎えることになる。

「この世」は様々な危険に満ちていて、生まれ出る人々をそう歓迎しているとは云えず、そう長くもない人生に問題を負わせてくるものである。

幾らかの幸福を見出せたにせよ、誰にも人生の終わりが、或いは突然に、或いはじわじわと迫って来るのはどうにも避けられない。

人はただでさえこうした空しさの中で生きているにも関わらず、わざわざ苦悩を付け加えてきた。即ち、社会悪であり、また対人関係の煩いである。

個人間の争いや軋轢から、組織内での確執や不当な扱い、そして格差や差別、また政治がもたらす失政や圧政の犠牲になることまで、総じて人との関わりとは実に難しい。それらが「人が他者とどう関わって生きてゆくのか」という「倫理」の問題である。

このように生きるに難しい環境である「この世」に人が生まれてはきたのであるが、そこで、この環境をどのように生きて、諸苦に対処できるのかについての導きを人々は古来切望してきたものである。

その「生き方」の一つの回答様式が「宗教」であったと云えよう。

これは便利なもので、「この世」に投げ出されたようになっている人々に、「倫理」という他者との関わり方を教え、または規定し、同時に「死」が人生にもたらす空虚さと恐れを軽減、さらには解決してくれるものともなってきたので、実に多くの人々がすがりつき、信心に励んでもきたであろう。

それだけでなく、「宗教」は人が「この世」に生まれ出た理由まで解説し、人が知りたいところの自分の存在する不思議や人生の意義までも教えてくれ、しかもその内容が自分たちの都合や願望に沿うものであれば、大衆社会にその「ありがたい宗教」も定着してきたのである。

(この点で、多神教はスピリチャルに近く、教理が浅いため、多神教同士の並立の融通性はあっても、人間存在への理解を深める教理は持ち合わせない。ただそれぞれの民間伝承の共通性は意外に高い)

 

それでも、「宗教」に問題がないわけでもなかった。様々な宗教の教えの内容もまた様々であり、共通するところと言えば、空しい人生と苦しみ満ちるこの世への対処法ではあるとしても、その具体的対処法は合致していないので、特に一神教の於けるその違いを巡って、どの教えが正しいのかと争いが避けられなかった。

その争いは、心の中で人々にとっての人生の全てと、死後の益まで関わる「最大利権」つまり「ご利益」の得失を左右する重大問題となってしまった。

そこで、宗教紛争は政治的な争い以上に苛烈なものとなってきた歴史を見ざるを得ない。

それは今では、その反省から宗教間対話などの緩和が見られにせよ、その精神環境と云えば、社会全体に占める人々の宗教的関心の低下という趨勢の上に成り立つものであり、依然として熱烈な信心が盛んな人々に於いては、強烈な正義感と共に他の宗教信条を排撃する姿勢に変わりない。それは様々な宗教の原理主義の活動に見られる通りであり、武器を執ることを厭わない「過激派」にその典型的な姿が見える。

だが、それは本来の「宗教」の働きの目指すところからは逸脱し失敗しており、むしろ、社会悪を付け加えて憚らない結果を刈り取っている。

だが、熱心に宗教を奉じ、そこから得られる「最大利権」を確実に求めようとするなら、他の教えの存在そのものを容認することは易しいことではない。

なぜなら、自分の信奉する教えが相対的なものとなってしまい、絶対確実な「ご利益」の獲得が薄らぐからである。

そこで、人が宗教を信奉する理由が見えてくる。

それ即ち、「我欲」なのである。

 

それにしても『この世』は人に薄情で、人生の終りが近付くにつれ、ほとんどに場合、人に豊かな収穫を与えない。「裸で来たように裸で返す」ばかりか、マイナスにして返すとも言える。

『この世』にどう対処するかという重大な問題は、人間各個人に生まれながら突き付けられた剣のようであり、怯えていない者はまず居ない。

 

 

 

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Hatena Blogに移行してみると、随分面倒になった

書き込みも編集も別のソフトで行わねばならないようだ

自分の場合、商売するでもなく画像を掲示する必要もなかった

どんなSNSを張り付けるでもないから、高機能である必要がなく

ブラウザがタイムラグを持たずに読み込める方がよい

幾分ローテクの方が便利という需要はないのだろうか

即、書き込めるところでDiaryがうってつけであったが

サーヴィス終了では致し方ない

「昔はよかった」と云うのは知恵がないとソロモンは書いたが

この場合は少々違うと思う。

しかし、まあ、世話になり続けるわけであるし

文句も云えぬ。

お、自動改行はそのままだ・・

しかし、なかなか良いデザインに出合えない 

 

 

G.H

 

ゲーハーとは謎解きのようではある

ユーフラテスの水が涸れる

黙示16:12-16 / 黙示9:13-

(蛙はゾロアスターでは邪神;Lohmeyer)
(Moffat;16:15⇒3:3a-b or before3:18)
(15[βλεπωσιν]不定の人々<受動態を好まないアラム語の影響か>)



Jer51:11・13 矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそ主の復讐/主の神殿の復讐だ。13 多くの水のほとりに住み、多くの財宝を持つ者よ、あなたの終りが来て、その命の糸は断たれる。


Jer51:41-44 シェシャク#(バビロン)は占領された。全世界の賛美の的であったものが捕らえられた。バビロンは国々の間に恐怖の的となった。
混沌の海がバビロンに襲いかかり/バビロンは高波のとどろきに覆われた。
町々は廃虚となり/乾ききった地、荒れ地となる。そこは住む者のない土地となり/人の子ひとり通らぬ所となる。
わたしはバビロンでベルを罰し/彼が呑み込んだものを口から吐き出させる。国々が川の流れのように/そこに集まることはもはやない。バビロンの城壁は倒れた。
#( כ→ל ש→ב に文字順を入れ替える手法でバビルを隠語化していた)


Jer51:45-46 わが民よ、その中から出よ。おのおの自分の命を救え/主の激しい怒りを逃れて。
お前たちは心挫けてはならない。この地で耳にするうわさを恐れるな。一つのうわさがこの年に来れば、別のうわさが次の年に来る。この地に不法が行われ、支配者と支配者が争うなど、と。
それゆえ、見よ、その日が来れば/わたしはバビロンの偶像を罰する。全土はうろたえ/殺された者は皆、国のただ中に倒れる。


Jer51:48-49 天と地とそのうちにあるすべてのものは/バビロンの事で喜び歌う。滅ぼす者が北の方からここに来るからであると/主は言われる。
イスラエルの殺された者たちのために、バビロンは倒れなければならない、バビロンのために全地の殺された者は倒れたのだ。


Rev17:15 天使はまた、わたしに言った。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。


Ezk13:22-23 あなたがたは偽りをもって正しい者の心を悩ました。わたしはこれを悩まさなかった。またあなたがたは悪人が、その命を救うために、その悪しき道から離れようとする時、それをしないように勧める。
それゆえ、あなたがたは重ねてむなしい幻を見ることができず、占いをすることができないようになる。わたしはわが民を、あなたがたの手から救い出す。そのとき、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。


Ezk 22:19 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがみな金滓となったので、わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。
銀、銅、鉄、鉛、錫が炉の中に集められ、火を吹きつけて溶かされるように、わたしも怒りと憤りをもってお前たちを集め、火を吹きつけて溶かす。
わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。
銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」



Jer6:13-15 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/わたしが彼らを罰するとき/彼らはつまずく」と主は言われる。


Jer14:13-15 わたしは言った。「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」
主はわたしに言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」
それゆえ、主は預言者についてこう言われる。「彼らはわたしの名によって預言しているが、わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。



Isa 44:25-28 偽る物のしるしをむなしくし、占う者を狂わせ、賢い者をうしろに退けて、その知識を愚かにする。
わたしは、わがしもべの言葉を遂げさせ、わが使の計りごとを成らせ、エルサレムについては、『これは民の住む所となる』と言い、ユダのもろもろの町については、『ふたたび建てられる、わたしはその荒れ跡を興そう』と言い、
また淵については、『かわけ、わたしは/あなたのもろもろの川を干す』と言い、
またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』と言い、エルサレムについては、『ふたたび建てられる』と言い、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言う」。



2Pet2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。


Mt24:24-28 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
あなたがたには前もって言っておく。
だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」


2The2:9-12 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、
こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。


Deu13:1-3 あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。


2Chr18:10-11 ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて滅ぼし尽しなさい』」。
預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。


Ps75:8-9 主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。


Mic4:11-12 いま多くの国民はあなたに逆らい、集まって言う、「どうかシオンが汚されるように、われわれの目がシオンを見てあざ笑うように」と。
しかし彼らは主の思いを知らず、またその計画を悟らない。すなわち主が麦束を打ち場に集めるように、彼らを集められることを悟らない。


Lev16:32-34 贖いの儀式は、聖別の油を注がれ、父の跡を継いで正規の祭司職に任じられた祭司が行うべきである。彼は聖別した亜麻布の衣服を着け、至聖所、臨在の幕屋および祭壇を清め、祭司たちと民の全会衆のために贖いの儀式を行う。
これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。


Joe 3:1-2 見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。彼らがわが民を諸国民のうちに散らして、わたしの地を分かち取ったからである。


Joe3:14-15 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。


Mic4:11-14 今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり/「シオンを汚し、この目で眺めよう」と/言っている。
だが、彼らは主の思いを知らず/その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように/打ち場に集められたことを。
娘シオンよ、立って、脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし/お前のひづめを銅として/多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に/蓄えた富を、全世界の主にささげる。
今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。


                • -

Jer50:28 バビロンの国を逃れ/脱出した人々の声がする。彼らはシオンで我々の神、主の復讐を告げる/主の神殿の復讐を。


Jer51:11 矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそ主の復讐/主の神殿の復讐だ。


Isa29:7-14 アリエル#を群がって攻撃する国はすべて/夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み/苦しめる者はすべて。
「飢えた者が夢を見た。見よ、彼は食べていた。だが目覚めてみると、彼は空腹のままであった。渇いた者が夢を見た。見よ、彼は飲んでいた。だが、目覚めてみると、疲れ果てて渇いたままだ。」シオンの山に群がって戦いを挑んだ国は/すべてこのようになる。
ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。
それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。
字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。
主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

#[אֲרִיאֵ֣ל]そのままなら「炉床」この名称はイザヤ書のみ<この名を手掛かりに何か単一の意味を見出すことには無理があるらしい。エルサレムの二面性から二つの意味でイザヤが用いていると捉えることができる>






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太陽・天の光

[天の光] ≒ [太陽]
黙示8:12 黙示16:8

[天の光]

Isa59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。(ユダの歩みについて)


Jer4:27-28 それは主がこう言われたからだ、「全地は荒れ地となる。しかしわたしはことごとくはこれを滅ぼさない。
このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる。わたしがすでにこれを言い、これを定めたからだ。わたしは悔いない、またそれをする事をやめない」。(エルサレムが攻囲されることを予告するなかで)


ezk7:26-27 災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。
王は悲しみ、司は望みを失い、その地の民の手は慄きによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らを扱い、その裁きに従って彼らを裁く。(ユダの悪行への処罰として)
cf;Hos9:7 刑罰の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。


Ams5:20-21 YHWHの日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。
(イスラエルの背教、荒野で「あなたがたの王シクテをにない、あなたがたが自分で作ったあなたがたの偶像、星の神、キウンをになった。」5:26)
このAmos5:26は要注意!これだけを調査対象にするべき含蓄あり


Mic3:6 それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。(ヤコブの頭たちに公義がない酬いとして)



Mrc13:22-25 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。


Lk21:24-26 彼らは剣の刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。(καιで関連付けられたこの区切りで読むと聖都蹂躙の意味によくよく見えるものがある⇒Rev11:2)


Mt24:29-31 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
(この場面の成就が短時間なためか、かなり要約されているのが分かる)

NWTのMt24:7日本語訳冒頭の「というのは」の訳は、同英文と比較してもかなり問題がある。本文中の接続詞[γαλ]は、前節を説明して挿入されているのではなく、諸国民が対立する仕方を説明するためのものである。




[鉢での太陽]

Isa3:1-6 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。
勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老、五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。
わたしは若者(幼児)を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。
人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。
(支配の崩壊の予告だが、これは未成就では?)


Isa25:4-7 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、炎暑を避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。
砂漠のひでりのように#、あなたは他国人の騒ぎを押さえ、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
万軍のYHWHはこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除く。これはYHWHが語られたことである。
#(この5節の新改訳の翻訳は不条理で、口語など他の翻訳なら日本語として意味を成すが・・)


Isa49:8-10 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(使いは聖徒か?)



■結論として黙示8:12 と 黙示16:8は天界の光という点では共通する意味がありそうながら、異なる状況を指している。
前の句で、三分の一の世界が指導を失うが、後の句では逆に強烈で横暴な支配が行われることを暗示している。
おそらくは、キリスト教界が指導を失っても社会秩序は維持されるが、世界的政府の統治(指導)の妥当性に根本的疑念が現れてしまう場合には、強制的に服従させるより方途が無くなることを指しているように思える。その意味に解するなら、双方に共通性は残る。








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川と水源


黙示8:10 黙示16:4


Isa48:18 わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。


Isa58:11 は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない#泉となる。(口語は「焼け付く地」を省く)#「偽らない」


Jer2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。


Jer2:18 あなたがナイルの水を飲もうとして、エジプトへ行くのは何のためか。またユフラテの水を飲もうとして、アッスリヤへ行くのは何のためか。


Jer8:14 何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、が我々を黙らせ/毒の水を飲ませられる。我々がに罪を犯したからだ。


Jer9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍のは言われる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。


Jer17:13 イスラエルの希望であるよ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源であるを捨てたからだ。



Ams5:6-7 を求めよ、そして生きよ。さもないとは火のように/ヨセフの家に襲いかかり火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。
裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。


Ams5:23-4 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。


2Kng5:12 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。


מְ קור[Mekol]源=井戸 [ベエル]とは異なる


Ps78:15-16 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。


Isa66:12 はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。⇒Isa48:18



מַֽיִם־חַיִּים֙ [MaimHyiim] 生きた水

Ezc 47 BhSev ⇒黙示22=Ymkpr

Zec 14:8

Jh4 シャカルの井戸


1Cor11:4 = Nmb20:11
モーセが自分に由来すると唱えるべきでなかった理由






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