Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Ⅴ24.アジアのエクレシアとの論争

 アジアのエピスコポイは彼らの先達に倣うべくその慣習を守るようポリュクラテースの下によく努力を積んだ。
 同時に彼はローマのヴィクトルに宛てた書簡の中でその慣習について陳述している。

 『我らは、純正な時代に何も付け加えることはしない。アジアの光明は眠りについたが、再び主の顕されるときに回復するであろう。そのとき彼は天の栄光をもって到来するだろうし、聖徒たちも生き返るだろう。
 フィリポスすなわち十二使徒のひとり、彼はヒエラポリスに彼の年長のふたりの娘と共に死の眠りについている。同じく聖霊の下にあった彼のほかの娘も今はエフェソスに埋葬されている。

 そしてイオアンネーンスつまり主のふところで安んじた祭司(「祭司の系統」の意か?)であり迫害を忍んだ教師にして殉教者である。

 彼はエフェソスに葬られ、エピスコポスにして殉教者のスミュルナのポリュカルポスもまたそうである。またスミュルナに埋葬されたエウメネイアのエピスコポスにして殉教者(もそうである)
わたしはエピスコポスにして殉教者サガリス~についても言及するべき(必要がある)だろうか?彼はラオディケイアに埋葬されていないだろうか?
 そのうえ、祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう。

 これらのすべて(の人々)は福音にしたがい(ニサン)14日の過越しに参加し、信仰[の規則]からけっして逸脱しない。

 そして、あなたがたの間で最小のわたしポリュクラテースも伝統と自分の知る七人の人々に八番目として続いた。彼らは常に人々(ユダヤ人)がパンから酵母を除くその日を[守って]きた。

 わたしは信徒となって65年を主のうちに過ごし、世界中の信徒たちと協議し、聖書の全体を学ぶ機会を得てきたのである。
そしてわたしを脅かすところのすべてに対して少しも恐れを感じない。彼ら(先達)はわたしより優れており、「わたしたちは人よりも神に従うべきである」とわたし(も)言おう』。


 彼はこのあとで彼と考えを共にするエピスコポイについても書いている。
 『あなたがわたしを通して召喚した人々についてもわたしは言及でき、その人々の名前については既に書いた。わたしはこの点で相当数を挙げることができるし、わたしのやせ細った体を見てもこの手紙に[同意を与えるに]しても、わたしが主イエースースにあってすべての年月に自分の生き方を調整してきたし、それがわたしの白髪を無駄にはしていないことはよく知られたことである』。


 ここにおいてローマのエピスコポスであるヴィクトルはアジア地区のすべてのエクレシアイを非正統として切り離そうと努めはじめた。そして広く書簡を公布してその地の信徒はまったく破門されると宣した。
 しかし、これはすべてのエピスコポイの意向ではなかった。却って、彼らはすぐに互いに愛と一致の平和を保つ方策を探るように進言したのである。
実際に、これはヴィクトルを苦しめるものとなった。

 そして(その中に)エイレナイオスがいる。彼の名はゴールの信徒たちを束ねるものとなっている。彼は(一年の)主の日のみにその復活の神秘を祝うよう義務付けるべし、との手紙を書いた。またヴィクトルには、ふさわしく伝統を守った神のエクレシアを切り捨てるべきでないと助言もした。そして、多くの奨めの言葉の後に信徒には次のようにも書き添えている。

『論争は単に日を尊ぶものだけでなく、記念そのものを尊ぶものともなっている。そのため、ある人々は一日だけを記念するし、ある人々は二日を、またある人々はより多くの日を記念し、あるいは40時間を数えて彼らの日を記念する人々もいる。この多様性は現在の我々の問題(である)ばかりでなく、我々のかなり以前(過去)において、それ(記念)は厳格に施行される規則を持たなかった。当時の未経験さと単純な中から慣習が起こされたのである。そして現在もそのようである。それ(その記念)は平和を宣明[公に]したが、我々も平和を他の人々に宣明[公に]する。我々の記念(の仕方)の相違は、むしろ全体の一致を確立するものとなるのである』。


note----------
~殉教者サガリ
おそらく使徒パウロの弟子であった(と言われるが年代が合わない)、彼はラオディケイアのエピスコポスであったことが知られている。彼は皇帝マルクス·アウレリウス(121-180)の治世中(161以降)に殉教した。

ロバーツとドナルドソン(Roberts and Donaldson)はPolycrates c.130 - 196は第八世代のエピスコポスに属していたと指摘し、そして彼は聖ヨハネの伝統は彼の生涯中ではまだその心の中で新鮮だったエフェソスのエクレシアを主宰。使徒イオアンネーンスは確かにポリュカルポスを知っていた。エイレナイオスは少年時代にポリュカルポスの話を聞き、それを記憶に留めて生涯を過ごした。
エイレナイオスによれば、またポリュカルポスが復活祭のこの問題(パスカ論争)を検討するために一緒に来たアジアの司教会議(西暦196)を主宰しているようだ。

160年以前の150年代にポリュカルポスがローマにアニケトゥスを尋ね、その折にパスカの日付を巡って話し合ったが、これは平行線となった。しかし、ローマ側はポリュカルポスを尊重し、十四日式を容認している。これをウィクトルも承知のはずであった。


所見;上記文章で使徒イオアンネーンスを「祭司」と呼んでいるのは、その母サロメが実際に聖母の姉妹であり、共にザドク系の血を引いていたことを言う可能性もある。ユダ族との接点はソロモンの次の代でザドク系に関わったことが聖書にあり、バビロン捕囚期にも一度二つの家系が交差している。両者はミリアムとヨセフに於いて交叉する。この証明は神殿付属の倉庫の消失のため使徒時代以降は不可能となっている。同時に、今後も律法祭司職を主張できる者も絶えた。そこで神殿損失後に使徒イオアンネーンスを「エフォドをまとう祭司」と呼ぶことは、ユダヤナザレ派の影響とも言える。即ち、ユダヤ教に勝る祭司としての敬称として用いられている可能性がある。(殊に、黙示録を受けた格別さはザドク系祭司であるべき預言者エゼキエル的な意味を有する)

以後、決定的に十四日派が異端宣告を受けるのは341年のアンティオケア会議(The Council of Encaenia is held in Antioch)からとなる。しかし、この習慣は僅かながら八世紀頃まで追跡できるようである。


 ⇒ 小アジアの原始キリスト教
 ⇒ 
quartodecimani.hatenablog.com


ローマのエピスコポス 
・アニケトゥス 位155c-166c
おそらく名前からして次代のソーテールと共にギリシア人。名の意味は「征服し難いもの」


・ヴィクトルⅠ世 位189c-198c
アフリカ出身(エジプト?)主の晩餐の日付の強制に西方は従ったが、小アジアなどの反対を受けた


⇒ 十四日派人士
quartodecimani.hatenablog.com


中世の十四日派の痕跡
In 1880, Louis Duchesne showed that quartodecimanism was not the subject of Nicaea I.

Wilfrid, the 7th-century bishop of York in Northumbria, styled his opponents in the Easter controversy of his day "quartodecimans",though they celebrated Easter on Sunday.
⇒ 「ブリテンキリスト教
quartodecimani.hatenablog.com

Stephanus, Eddius (1988), "Life of Wilfrid (chapter 12)", in Farmer, DF, The Age of Bede, London: Penguin, pp. 117–18.                         .