Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

過越しの日付に関するユダヤの混乱

こちらの記事では再考を加え2014年での認識として要点を整理しています。⇒ http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20141113/1415879848

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 まず、聖書そのものに幾らかの曖昧さをみる識者もあり、根拠としてはエゼキエル45章も挙げられていますが、この部分は第三神殿の記述の後の部分に属するため、本来のトーラーのペサハと同等にみる必要はないように思えます。
 しかし、出エジプト記そのものにニサン14日から21日までの「七日間」とありますが、これは実際には8日間であり、まずここに幾らかの問題の入り口があったかもしれません。加えてレヴィ記23章6節には明らかに15日が無酵母パンの「食べはじめ」とされ安息が規定されています。
 ではニサン14日の過越しの食事は「食べはじめ」ではないのでしょうか?


 これらの「主の晩餐」の日付設定に不明瞭さの拍車をかけたのが、ユダヤ暦の度重なる変更とキリスト教徒の嫌ユダヤ感情です。
 カエサレアのエウセビオスが「コンスタンティヌスの生涯」の中で、この皇帝がニカイア会議の後に各地のエクレシアに書き送った手紙を引用しており、その中では次のように指摘されています。
 『冒頭、この至聖なる祝祭をユダヤ人の慣習によって執り行うのは適切でないとする意見が表明された。ユダヤ人は己の手を恐ろしい犯罪で汚したので・・(中略)・・汝らとユダヤ人の忌むべき大衆の間に共通のものがないようにするがよい。』(秦 剛平 訳から引用)
 このあとにユダヤ人を主殺しの狂気の民として断じ、また彼らが『同じ年に二度も』過越しを執り行っているとも指摘しており、キャメロンユダヤ人が同じ春に二度の過越しを祝っているかも知れないとしています。

 それでなくても、既に西暦一世紀すなわちキリストの時代にパリサイ派エッセネ派は異なる暦を用いていたと伝えられており、こうした曖昧さからか、パレスチナユダヤ人・及び改革派とディアスポラの民との間でもセデルを第一日に食すか第二日かという違いが生じていたとのことです。(ディアスポラユダヤ人のペサハは八日間行われます)
 これらにはユダヤにおける過越しの日付の混乱が見えます。
つまり、ユダヤ暦自体が曖昧になっていた上、過越しと無酵母パンの祭りの関係が判然としないのです。




 現在のイスラエル人はニサン15日(に入った晩)にセデルの食事をとります。彼らにとってニサン14日は徐酵祭「ハグ・ハマッツォート」で、準備はしてもセデルの食事はとりません。翌15日を「無酵母パン」の最初の日として安息し、それから七日の間無酵母パンを食して21日の日没(22日の直前)に及びます。

 こうした背景がヨハネ福音書に表れているようにとれないでしょうか?
つまり、ユダヤ人が現在のように15日を祝するようにして、イエスの時のユダヤ体制派も15日にセデルの食事をしていたのではないかということです。
これについては、現在のユダヤ教の大半が、棺桶に入ってエルサレムの攻囲から逃れたヨハナン・ベン・ザッカイを通じたヒレル・パリサイ派の流れを汲んでいる、という事実が後押しをします。
つまり、イエスを葬った当時のままのパリサイの習慣が、そのイエス嫌いと共に継承されたと見ることができるように思えます。

 もし、伝承のように使徒ヨハネは母がサロメであって、イエスの母マリアの姉妹であったとすれば、レヴィ族がヨハネの母方であり、しかもエリザベツとの親族であったなら大祭司に連なる家系であったことになります。その関連でヨハネは大祭司に知られており祭司長派にも顔がきいたので、カヤファ邸の庭にペテロと共に入り込むことができたのでしょう。(使徒ヨハネについてエフェソスのポリュクラテスはヴィクトルに宛てた書簡の中で「エフォドと付けた祭司」と記しています)
ナザレ人イエスについては、ヨセフとの関わりから王統であることを内密にしていたためか、マリアと祭司長派との関係が薄かった可能性があり、12歳の聡明な少年の家系まではパリサイの教学院に追及される前に急いで親たちに連れ戻されたとみることは可能でしょう。であれば、ゼベダイはユダ族でなかった可能性が高いともいえます。


 このように、使徒ヨハネ自身の出自には、メシアの従兄弟に当たるだけでなく、祭司長派に近いという他の使徒らにない有利な背景もあったとすると、ヨハネ福音書の『準備の日』という記述の背景が見えてきます。ヨハネが祭司長派の習慣に通じており、または成長の過程でそれに従ってきた可能性もあります。
これについては、使徒ヨハネの教えの残った小アジアに関してエフェソスのポリュクラテスは「わたしたちは(ユダヤの)人々が酵母を除く日を(聖餐日として)守ってきた」と証言しており、その「酵母を除く日」とは、現在の習慣はともかくヨハネの記した『準備の日』であり、それがニサン14日であったと言う以外ありません。なぜならこの地方のキリスト教徒は「十四日遵守派」(クワルトデキマーニ)と呼ばれ中世にまで及んだからです。ニサン14日を守っていた彼らには、そこに価値を見出していたに違いなく、同時にどう呼ばれたことは、他の人々がそうしていなかったことも示しています。こうした主の晩餐に関する曖昧さが、後に十四日派の消滅を促し、終末での再興を必要とさせる原因を作ったともいえます。

 これらを総合してイエスの当時を眺めるなら、祭司長派の過越しの行ない方はイエスと異なり、15日に入った夜にセデルを食したので、彼らはニサン14日という24時間の『ふたつの夕の間』に子羊を屠り、かつレヴィ記23章にしたがい15日を無酵母パンの初日として安息するので、彼らにとっては14日は単に羊を屠っておくべき『準備の日』であり、過越しの食事を済ませていない祭司長派は、異邦人との接触による「穢れ」が15日夜の過ぎ越しの食事を取らせなくなることを嫌ってローマ総督の屋根の下に入らなかった。ということが成り立つことでしょう。
 ヨハネ福音書がそのことを大胆に記載しているのは、ヨハネ自身が祭司長派の習慣に通じており、それを然して不自然な事とはしていなかったからではないでしょうか。

 しかも、ここで屠られる側と屠る側の時間差が生じ、過越しの子羊としてのキリストの死が実現することになます。
 そうすると、過ぎ越しを終えたイエスがユダ・イスカリオテに「すぐに済ませなさい」と指示したことは時間的要請の意味を強く帯びてきます。
 しかもイエスは二日前に過越しでの死を予告しており、祭司長派はイエスの処刑について「祭りの間はいけない」(15日以降の七日間)と述べていたので、民が忙しくしている無酵母パンの『準備の日』の外に選択肢がありません。




 各福音書が『準備の日』と『安息日』について伝えていることも、こう見ると頷け四つの福音書に混乱はないことになります。(例としてルカ23:54〜は安息日前日にイエスが刑死したことを示します)
 つまり、ユダヤ体制派のセデルとイエスの行なったセデルはズレていたということでヨハネの記述が解けます。
 またヨハネ福音書の最後の夜に関する扱いとイエスの懐にいたという記述は共に、この使徒がこの夜について非常に深い印象をもっていたことを示しており、日付であってもぞんざいに記すことはなかったでしょう。(後の小アジアの伝統からしてもそれは到底考えられません)

 出エジプト記からみれば、やはりニサン14日の晩が『記念すべき夜』であり、羊を屠りセデルの食事をとったその後にイスラエルがエジプトを発ったと読まれるのが自然に感じられます。イエス自身は祭司長派とは異なり14日に過越しの食事セデルを終え、続いて主の晩餐を行なったとみるのは『世々に記念すべき夜』という言葉に合致することになります。

 それがユダヤ人内部のズレであったのか、イエスだけが特別にユダヤ一般より一日早くセデルを済ませたのかは分かりません。しかし、使徒たちがニサン14日の晩のセデルに誰も異議を唱えた記述がないことからすると、いや、むしろ弟子らの方からニサン十四日に準備するかのように申し出ているところからすると、それがイエスの四年に亘る習慣となっていたことさえ示唆していると言えるでしょう。
 おそらく当時も、ディアスポラパレスチナとがペサハの日付を異にしたようにユダヤ人の間でも分かれていて、あるいは民衆の間では然程厳密に日が規定されなかったのかも知れませんが、この点を断定できる人は今日居ないことでしょう。

 しかし、以上の理解では、遥かな年月の厚みの彼方に混沌としてしまっている暦法上のズレというよりは人々の認識上の差異がポイントであって、その認識の差が「用いられて」キリストを過越しの犠牲として14日に屠られるよう事を運び、翌15日を大安息日として丸一日墓の中に横たえられるよう取り計られたと見ることは間違いとなるでしょうか?



 祭司長派のセデル認識に導いてゆくのが、再三現れる『ふたつの夕方』という言葉の曖昧さでしょう。(出エ12:6.16:12/レヴィ23:5/民数9:3,4,11等)

 これは創世記のように『夕となり朝となった』のようにも読め、その場合は14日の始まる夕方から15日の始まる夕方までのまる一日を示します。
 そのように捉えるとニサン14日の昼に神殿で羊が屠られていた習慣に妥当性が成立します。(出エ16:12?)

 また、[カライ派やサマリアの捉えるように]『ふたつの夕方』は陰暦の特殊性から二日間に跨るただひとつの夕、つまりニサン14日に入る日没頃をさしているようにも取れますが、これが出エジプトのときに羊を屠ったタイミングのように思われます。(出エ30:8)
☆以上の『ふたつの夕方』についてはEX30:7-8を見る限り、ふたつの日にまたがる夕方だけを指している。2015.10.12

 前述のように、この『ふたつの夕方』に加えてニサン14日から21日の『七日間』とされる実質八日間も曖昧にする要素として存在します。(出エ12:18)この場合にはニサン15日から無酵母パンを食することで七日間は満たせます。

しかし、その一方で出エジプト記は、やはり明白にニサン14日から無酵母パンを食するべきことを記載しています。(12:18)
 また、例えれば祭司長派が軌範にできたであろう歴代下30章でセデルがいずれの日に食されたかを確認できません。それはあたかも意図された曖昧さのようにも見えます。しかし、エズラ6:19では明確にニサン14日の過ぎ越しが記載されており、流刑後の初期にはこの日付が守られていたことを伝えています。
 このエズラの件からすると、その時代以降のパレスチナにおいてイエスの時代までに、ニサン14日は羊を屠るだけの「準備の日」と変化することで「過ぎ越し」と「無酵母パンの祭り」が合体して実質七日になり、それがメシアに定められた時を進ませる素因とされたなら、そこに不思議な力が感じられます。
 そこで思い起こされることに、歴代下に見られるような邪悪な者を欺くための神の霊の事例があります。(歴代下18:18-22)まして、メシアを除く計略を廻らす者らが邪悪でないわけもありません。

 このイエスの件については、もしユダヤ体制がニサン14日の夜にセデルを設定していたなら、その一日は『準備の日』ではなくなり、祭りに入った祭司長派はセデルの食事をとっている最中で、とてもイエスの死刑裁判や処刑の慫慂も行うどころではなく、イエス出エジプトの子羊と同じ日付に犠牲の死を遂げなかったでしょうし、『世々に記念すべき夜』に最後の晩餐をとれなかったことも考えられます。
 このタイミングのずれにはユダヤ体制派のセデル認識が関わっており、そこに「早く済ませ」と命じられたイスカリオテのユダの裏切りも用いられ『世々に定められた』夜の晩餐とその日の犠牲とが実現したように読めます。つまり、イエスはよくよく準備された「神の定めた時」を進んで行ったと言えましょう。
 つまり、セデル認識の違いは聖書記述の曖昧さに端を発し、その仕上げはキリストの死の日を確定することになって、その結果として数々の予型を空しくはしなかった、ということではないかと私には思われるのです。即ち、このすべては神の企図するところであったということになるでしょう。


明瞭な点は
1.トーラーの指示に日付の曖昧さがあったこと。
2.かつてユダヤ人の中でもパレスチナディアスポラで過ぎ越しと無酵母パンの祭りの扱い上の日付に違いがあったこと。
3.今日のユダヤ教が当時を継承するパリサイ派であり、ニサン15日に安息をもって祭りを開始していること。
4.イエスの死の日の夕方が大安息日の始まりであったこと。

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 ヨハネ福音書にみられる『準備の日』に関する識者のいくつかの解を拝見しましたが、その上で以上のような見方もできるように思います。
 また、ここには暦法上の事柄を加味していませんが、それは問題そのものをカオスに投げ込んでしまうように思えたことに拠ります。それでも「週は暦より信頼性がある」といわれるので「大安息日」に注意を集めました。
 あるいは、もうこの見方は既に誰かによって唱えられ、世に知られるものなのかも知れませんが、その場合は単にわたしの情報不足であります。


 現時点での結論をまとめました ⇒ 「主の晩餐とは何か」 


小アジアのパスカ問題 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20100726/1280126975


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mt26:1-2
二日後には過ぎ越しが
祭りの時はいけない
その後ベタニヤで香油を受ける(憤慨したのは弟子たち)
(そのとき)ユダは祭司長派と接触
酵母パンの最初の日、イエスは弟子に食事の用意をさせる
夕方になって十二人と食卓に就く

Lk22:1-
ユダは祭司長派と接触
酵母パンの日となったがそれは羊を犠牲にする日であった
その時刻がきたとき、イエスは食卓に横になった

Mr14:1-
過ぎ越しと無酵母パンの日は二日後であった
祭司長派はイエスの捕縛を企む
ベタニヤのシモンの家で香油を受ける
それからユダは祭司長派と接触
酵母パンの最初の日、それは慣例として過ぎ越しの犠牲にする日
エスは弟子らに命じて食事の準備をさせる
夕方になりイエスは十二人と共にその場に来る

Joh13:1-2
エス過ぎ越しの祭りの前に父の許に行くべきことを知った
晩餐が進んでいる間に、既にサタンはユダに裏切りを入れていた
18:28
身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとして総督官邸に入らなかった
19:31
それが準備の日であったので安息日に苦しみが残らぬように・・




ユダが祭司長派と接触したのは13日の夜であるようにとれる
ギリシア文であるためか、おそらく筆者共に太陰日付にこだわった書き方をしていない)

ニサン12日:[陽暦第1日][日中]「二日後」の発言(終末預言の後)
ニサン13日:[夜] ベタニヤで香油を受ける ユダは祭司長派と接触 /[陽暦第2日][日中] 弟子らは食事の場所を用意
ニサン14日:[夕刻以降「準備の日」]最後の晩餐 聖餐の制定 ユダの外出 イエスの捕縛と裁判  / [陽暦第3日]総督官邸へ (準備の日)ゴルゴタへの行進/正午過ぎ、神殿で子羊が屠られる/第九時イエスの死/15日の夕暮の近付く中で埋葬
ニサン15日:[夕刻以降]大安息日ユダヤ体制派のセデル)
ニサン16日:[早朝]イエスの生き返り



















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