Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

小アジア初期キリスト教のメモ

LF


・小アシアの地震
AD17年 12都市の被害 スミュルナの被害甚大
AD60年 ラオディケイアはすぐに復興

タキトゥスC.68-c.120は晩年をアシア属州の知事として過ごす
「小アジアの地震」


・第二次ユダヤ戦役後、ユダヤ人のエルサレム域への進入が禁止され、以後のエピスコポスは異邦人から任じられる。最初の者はマルコスと言った。七代目


・パピアスの証言
ヨハネ・マルコはペテロの通訳となった。
「主の言行について聞いたことを順番通りにではないが、正確に記した」
「彼は主の言葉を聞いたことも、主に従ったこともなかった」
「マタイはヘブライ語で託宣をまとめた」
HEⅢ39.15



・「言葉も交わさぬように」HEⅣ14



・モンタモス(179以前に没)
預言者らを引き連れ聖霊が自分たちにあると主張。
プリスキラ、マクシミラ、もう一人名前があまり良くない
アルダバウはフィラデルフィアから24km(直線?)
小アジア進出の起点として「フリュギアの入り口」であるヒエラポリス、コロッサイ、ラオディケイア方面ではなく、沿岸部との中間点であるフィラデルフィアがモンタモス派宣教の中心地とされたのはこの距離の短さに原因したのか。
エピファニオスはマルキオンとタティアノスの関連を156年としているが、その後で、テュアティラが172年にモンタノス派に改宗したことをつたえている。しかしヒエラポリスの反論は激しかった(H.E:V16)アポリナリスはマルクス=アウレリウス帝にこの反論を込めた護教論を献呈している。⇒ 十四日派人士 - Notae ad Quartodecimani

モンタノスの教説は177年にローマで審議され、ルグドゥヌムから審査員が呼ばれている。しかし、この時期はルグドゥヌムでは大迫害の最中であった。(正確にはローマ召喚の直後だったらしい)
預言者マクシミラは179年に死亡した(らしい)が、アンキュラとエフェソスはこの教説によって動揺していた。193-196年にかけてこの派は小アジアで更に広がり優勢となっている。使徒ヨハネ影響下の諸都市が勢力圏に入ってしまった。
アンティオケイアではセラピオンがこの派に反論を加えている(H.E:V19)


リュディアのアンミアは第二世紀後半の女預言者とされているが、その霊感の由来は不明(H.E:V17)

▼「パウロ言行録」リュカオニア起源でエンクラト教説が見られる

200年頃のセウェルス帝迫害時期には、多くの人々が終末の再臨を予期したが、ヒュッポリュトス(ローマ?)はローマ帝国がダニエルの第四の国を占めているため、終末はまだ先であると主張していた。





十四日派人士





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