Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

小アジア地震歴等

17:サルディス壊滅アルテミス大神殿は地滑りで地中に埋没
 ラオディケイアとヒエラポリス倒壊 
19:フィラデルフィア大破
23:フィラデルフィア壊滅
29:エフェソス倒壊 12都市の被害の報告あり(タキトゥス)14都市がティベリウスへ感謝


60:ラオディケイアとヒエラポリス倒壊
  コロッサイ
70:ラオディケイヤ倒壊

115:アンティオケイア(シリア) 死者26万(!イグナティオス)
117 : スミュルナ倒壊
118 : 同上

178:スミュルナ倒壊
180:スミュルナ倒壊



◆ヒエラポリス
前190頃ペルガモン王国によって建設。
元はヒエロン神殿有り、その後アポロン神殿下部のプルトニウムの穴による神官の生還と託宣(デルファイに似る)
アルテミス、大蛇崇拝もあった(→コロッサイのミカエル?)
第2〜3世紀に市域を拡大
総督によるフィリッポスApsの逆さ吊りの殉教は80年とのこと
市の全体がキリスト教に改宗したとの情報あり
遺跡全域にバリシカ多数有
野外劇場跡の北西山上にフィリッポス殉教記念堂有
11世紀以降戦場化し、地震もあって14世紀頃に廃墟化


◆ラオディケイア
前265年の創建
AD70地震で倒壊多数、富裕であったために自力で復興したことを州知事でもあったタキトゥス年代記に記載。
第五世紀の地震から廃墟化


◆エフェソス
創建は前十世紀とたいへんに古い

⇒「エフェソス書簡

アルテミス神殿は後三世紀のゴート族の侵入に際して完全に破壊される。(地震ではないらしい)
その後、勢いある
マイナンドロス川の運ぶ土砂によって海岸沿いにあった市は、内陸3kmほどになっている

◆スミュルナ
エフェソス同様前十世紀のアイオリス人の移住に伴って創建
前6-5世紀に衰退し、前四世紀に南約5Kmに移転して再建、それをアレクサンドロス大王が助けたとも
その後アンティゴノス(Ⅰ?)によりヘレニズム化

前1世紀にキケロはこの町をアシアで最も繁栄しているとした。
ティベリウス帝は皇帝崇拝の町として、アシアの11の候補の中からこの町を選んだ。

117or118年の地震でほぼ倒壊
マルクス・アウレリウスは十年間の租税免除と再建資金の供与を行う


                                                                    • -

フリュギア[Φρυγία][Phrygia]は前七世紀にリュディアのアリュアッテスに降るまで栄えた王国であった。ハリュス川の戦い(585年5月28日の皆既日食)、ホメロス(BC8C.ca)はフリュギアはハリュス川の西であるとしている。⇒「指名されたメシア キュロス
ヘロドトスによると、アルメニア人は植民したフリュギア人であったという。首都はゴルディオン
キンメリア人の侵入によりゴルディオンは破壊される。
やがて、ゴート人が欧州から入ってきて、この地方はガラティアと呼ばれる。
前188年、西からペルガモン王国の支配に入り
前133年にはローマ統治領となる。ローマはガラティアを分割し、西はアシア州に東はガラティア州として、フリュギアの名称は地図からは消える。フリュギアの入り口はリュコス渓谷。
しかし、その文化的影響はグレコローマンに強く、キュベレー・アッティスの崇拝、フリュギア旋法とアウロス、先の曲がった三角帽、衣服などが当時の世界に広まった。印欧言語のフリュギア語はフェニキア系アルファベットで書かれるが、ほとんど解読に至っていない。




カッパドキアは「美しい馬の地」の意、ペルシア帝国後期にポントスと分かれた。
ヘロドトスによれば、この名はペルシア人によって与えられたという。
前一世紀のストラボンの時代には独立した王国を保っていて、首都はキリキアのマザカに在った。これは後にカエサレイアと呼ばれる。それは紀元17年にローマの属州となった後のことと思われる。
第四世紀、このカエサレイアのエピスコポスであったのがバシレイオスであり、この人物は「大バシレイオス」として知られ、カッパドキアの三教父、また三成聖者の一人に数えられている。
カッパドキアの奇岩にはキリスト教徒が避難した場所が点在し、その中では十字形が見られる。しかし、それは十字架ではなく、偶像崇拝を忌避してキリスト自身を人間のかたちに描かないためのものであった。
後に、アリウス論争でエジプト側に立った三教父らは、カトリック令を出したテオドシウスを援護することになったが、十字形を十字架として意味づけし、結果的に偶像扱いさせる転機を作ったのはカッパドキア派のさせる業であったのかも知れない。⇒おそらくその通り
三教父の年代は
大バシレイオス 330ca-379コンスタンティノポリス第一回会議でアタナシオス(298-373)に接近360(ここにエジプトとの接点がある)
神学者グレゴリオス 329-389 (ナジアンゾスの)378コンスタンティノープルエピスコポス
ニュッサのグレゴリオス 335-394(大バシレイオスの弟)
これらの年代はカトリック教令への影響をはっきりと物語る。⇒「アムブロジウス 俗世との岐路に立った男
これに三成聖者の
金口イオアンネーンス 344or349-407 (クリュソストモス)この人物が聖職者になったのは381年であるという。389年コンスタンティノープルのエピスコポス。その後、妬まれ讒言されアルカディウス帝の妃(皇后)アエリア・エウドクシアの怒りを買いアルメニアの流刑先に着く途上で客死。
これらは一連のカッパドキア派である。このスクールは大バシレイオスを契機にエジプトに近付いた観がある。当時の数少ない三一派としては強力な助っ人であったろう。
しかし、いったいエジプト派の何が魅力であったのだろう。確かに今後の趨勢を形成する途上で、自派を有利に打ち立てることはできただろうが・・

(雅歌注解の多いアンブロジウスが読んだ東方の諸書とは、彼らのものであった蓋然性があるのでは)



.