Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

トゥールのマルタン (聖マルティヌス)

316年、パンノイアのSavariaで生。
父は北イタリアのTicinum(現在パビア)に配属されて後、護民官(騎士隊長?)

ローマは313年にキリスト教を公認していたが、西方ではまだ勢力は無かったにも関わらず、彼が10歳のとき(326)に両親はエクレシアに通わせて教理を学ばせる。(コンスタンテイヌスに希望を見ていたか?)

15歳のときに、高官の息子として騎兵になった。
334年ころ、彼はガリアのAmbianensium及びSamarobriva(アミアン)に配属されたが名高い「重装騎兵」☆に属した可能性もある。
有名なマントを二つに切って半分を震える乞食に与えたという挿話はこの時期のものとされている。
その半分にされたマントがカッパと呼ばれるようになり、英語圏でケープとして使用されるようになった。

彼はユリアヌス帝に仕え、25年の兵役の予定であったが、Borbetomagus(現ウォルムス)でのゴールとの戦いに際して、ついに自分がキリストの兵士であるから戦えないと宣して、獄につながれたが、(釈放条件として?)彼が前線に武装せずに立つと申し出た。しかしゴール族が和平を申し出てきたので、戦いは起こらずに終わってしまった。このために彼は兵役を解かれ自由となった。

後に彼はCaesarodunum(トリアー)に向かい、そこでポワティエ[Pictavium]のヒラリウスに師事する。その役職は祓魔師であり、立場の向上を望まなかった。
彼は宮廷の単性説と争い、その過程でヒラリウスがポワティエから逃亡するときに、イタリアに向かったが、そのときのことについては彼の伝記作者スルピキウス・セウェルスは次のように伝える。
彼は途中でアルペン山賊を帰依させて、自分自身はサタンに対峙した。また、夢で彼の家に再び戻るように求められ、彼はアルプス山脈を越えて、ミラノからPannoniaへ行き、そこで、彼は父を除く母と一部の他の人を転向させたという。

マルティヌスはメディオラヌムに居たときに、当地のエピスコポスであったアウクセンティウスから三一派ゆえに追放処分され、そのまま南に向かいリグリア海の小島Gallinariaに他の聖職者一名と共に渡ってしばらくを過ごしている。

361年にヒラリウスがフリュギアから帰国すると、その許に戻りポアティエ近郊での修道院建設に加わった。
その建物はリグージェ(Ligugé)のアベイで、ヨーロッパで現存する中で最も古いとされる。
そのアベイは西ゴールの宣教の中心地となり、マルタン自身も各地を布教して回り、各地に伝説を残した。

371年、彼は計略によってトゥールの街につれてこられ、しぶしぶそのエピスコポスの役を受け容れた。
しかし、その地の異教の(あるいは異端を含め)神殿や偶像の破壊を命じ、それは実行された。

彼は修道生活を続けるべく、ロバや小船で旅行を続け各地に修道会を設立して回り、異教を排撃してヴィエンヌにまで及び、その地では眼病であったノラのパウリヌスを奇跡をもって治療したとされている。

やがてトゥールのエピスコポスとしての雑務を嫌い、近郊に修道院を建てて80名の修士と共に修道を始めるが、自らは代表者とならず、活動を多彩に続けた。

スルピキウス・セウェルスはその伝記に多くの奇跡や蘇生を行ったことを記しているが、そのあたりはこの時代のカトリック信仰によく見られる聖伝承の範疇にあるように見える。

トゥールのマルタンは、軍人からの聖人として崇められ、フランスの守護神と目され、それはフランス革命後に再燃するほどに根強い。



☆「重装騎兵」(クリバナリイ)ペルシア軍が用いていた装備を模倣した部隊で、弓や投槍、また投石器などの投擲兵器を用いたらしい。この部隊と戦うことになったコンスタンティヌスの対処法からすると、この騎兵には剣の刃が役に立たなかったように読める。(コンスタンティヌスの生涯)





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