Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

信仰というもの

Heb11:1 Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις, πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων.

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(口語訳)
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(新改訳)
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(新共同訳)
”Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.”(NKJV)

[さて、信仰とは、望みを掛けていることを固く信じ、見ていない事を証拠立てることである](試訳)



「信仰」そのものは客観的事象とは言い難い。それは個人の中で働くものであって、その原動力は価値観にあるように思われる。(マタイ13:45)

そこで、信仰は各人により異なる働き、また強弱、性質の異なりが生じるのであろう。筆者はその働きの具体例を挙げてゆく。

そこで比較したり優劣を断じたわけではなく、どれも同じように作用したと言ってもいない。(ローマ14:22/ルカ8:25)
エル・バアルは信仰に至るまでに異兆を何度も求めた。これはエジプトへの災厄が十度に及んだことからしても不義理ではないように見える。また、ヤンネとヤンブレの異兆からして、終末での偽預言者のカエルに表される不完全な印にも、この種の信仰への妨害が予型されているのであろう。
それでも筆者は「確信し」「見ていない事実を確信」させるという予見確信に人を至らせるところに共通性があると述べているのであろう。(ルカ1:20)

もちろん『信仰はすべての者が持っているわけではない』ので、持つか持たないかを外から規定することも強要することもできない。(テサロニケ第二3:2)

また「信仰とは何か」を法条文のように定義付けるには無理があるように思える。なぜなら、それは主観的事象で、あらゆる他者との共観は在り得ない。ただ、似た信仰の持ち主が存在し、そこに連帯は生じる。ヨナタンダヴィドと結びついた理由はその価値観の共有にあったろう。

もし、画一的な信仰を信者に求めるとすれば、そこで個人の価値観、また判断力は抑制を受けざるを得なくなる。それが真にその人個人の信仰と言えるかどうかは危うい。

パウロは信仰と自由、律法と服従を関連付けて再三述べている。律法は社会を規制するものであったから、信仰という個人に依拠する事柄よりは、法への遵守が重要視されるのは当然であるが、信仰には逆に個人がどうかが問われるのであり、規制されるべきものではない。この相違が理解されていないと、キリスト教が真にキリスト教とはならないだろう。

多くの宗派、特に新興の宗派において差別化による正当の根拠を捻出するような団体では、組織の定めた「信仰」に信者が合わせるという事態が起こっているのだが、これは本来的キリスト教信仰とは言い難く、組織が「信仰の主人」となっており、しかもその信仰の質は当然に低く弱い。そのような信仰は組織在ってのものであり、それを失えば個人の価値観も判断力も萎えているだろうから、これはキリスト教によるキリスト教信仰の磨滅喪失である。

そのような組織の指導の無い状況では、信者同士であってすら信念も行動も不一致となってしまう危険が大きくなり、一般人以下に良識も磨滅して弱っているだろう。この良識というのは、人間に本然的に備わったものを意味し、単なる道徳規準をいうのではない。この情況下ではそのキリスト教の影響下にない一般人の方が本来のキリスト教信仰を懐き易くなっているであろう。

そこで「信仰」というものをどう見做すかによって、非常に大きな差が生じることになる。この意味においてキリスト教信仰は安易なものではない。

また、教理の知識に信仰の条件を細かに規定してしまうと、本人の内的な自発心が委縮して、その良心の働きを留める結果が避けられそうにない。そこでは知識を超越したものがあることを教え手が常に意識する必要がある。
つまり、知識は判断材料として提供されねばキリスト教の場合意味を成さない。知識が信仰を威圧してしまい、信仰を育てないからである。

パリサイ派が律法に関連する膨大な知識を誇っても、メシアの前に無力となり、彼らが蔑視していた「地の民」に勝る判断力を持たなかったように、宗教的知識は各人の良心的判断を歪め、また無効化する危険が大きい。パウロ自身はヒレル系パリサイの詰め込み教育を受けた背景を持っているが、その回心は奇跡から到来した。そのうえで彼は『キリストにとっては愛を通して作用する信仰にこそ価値がある』と述べている。(ガラテア5:6) これは割礼の遵守するか否かを論じる文脈にあるが、信仰の本質をアガーペーに置いている点で示唆的であり、福音書中のユダヤの宗教家らは同朋が重病から癒されることにさえも価値を見出せなかった。そこで知識が大いに邪魔をしていた。即ち、信仰は倫理的問題を孕んでいたと言える。パウロもペテロも愛を信仰に勝るものとして語る理由はここにあるのであろう。信仰は知識に立脚するとしても、信仰は愛に誇るところを持てない。それは不動のものではなく、神に出会ういつかに去るべきものである。

したがって、人に義や救いをもたらすのが信仰であるとはいえ、その信仰が愛に基くものでないのであれば無意味であるに違いなく、ここに隠された事柄がある。(ガラテア5:6)
それは知識に埋没した律法体制がメシアを見出さなかったように、信仰を救いの要諦であると強調するキリスト教徒が愛という本質を忘れて、裁きに至ることであろう。真実の裁きとは、人がその内奥を曝すところで起るのでなければ意味がないからである。キリスト教徒は信仰を強調している間に愛を失い、むしろ不信者に劣る結果を招くとしても、キリストの初臨の事例からして起り得ない事とは言えない。まして教条主義、規則偏重に陥っているなら問題外である。(エフェソス2:8-9)


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「キリストの律法」(二か所)

Gal6:2
Ἀλλήλων τὰ βάρη βαστάζετε καὶ οὕτως ἀναπληρώσετε τὸν νόμον τοῦ Χριστοῦ.
[τὸν νόμον τοῦ Χριστοῦ]キリストの律法



1Cor9:20-21
τοῖς ὑπὸ νόμον ὡς ὑπὸ νόμον, μὴ ὢν αὐτὸς ὑπὸ νόμον, ἵνα τοὺς ὑπὸ νόμον κερδήσω· τοῖς ἀνόμοις ὡς ἄνομος, μὴ ὢν ἄνομος θεοῦ ἀλλ’ ἔννομος Χριστοῦ, ἵνα κερδάνω τοὺς ἀνόμους·
[ἔννομος Χριστοῦ]キリストの法の中(に)
わたしは「神の法にないものでなく、却ってキリストの法にある」



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以下のように訊かれた場合に簡単に答えると
「正しいキリスト教がありますか?」
ありません、どこにも間違いはあります
「どの宗派に入るのがよいと思いますか?」
その人によって異なります
「どの宗派が比較的に良いでしょうか?」
それも、その人によって異なります
「どの宗派が最も聖書に従っていますか?」
五十歩百歩です。聖書をすべて分かる人はいません
「あなたは自分の宗派に入って欲しいとは思わないのですか?」
その人によります
「どの宗派に入れば幸せになりますか?」
その人の幸せと、宗派の価値観によります

<多分訊かれないので、こちらから言うことは>
あらゆる宗教、あらゆるイデオロギーにはあまり意味がありません、こだわらない方が良いでしょう

まず、ほとんどの一神教や急拡大する宗教の目的は「自分の救済」と「信者の支配」です
つまりは貪欲と貪欲に支えられた塊であり、それを覆い隠す裏の動機により善行を行います
人間の精神性と同時に醜さの象徴でもあります

つまるところ、宗教とは人間というものをよく表す現象であり、自分自身と社会の悪に気付いているからこそ成り立つものです
それが無ければ存在する必要もなく、それこそが理想であり、政治と共に存在しない事こそが人の真の姿であるべきですが
現状ではまったく不可能です



































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ある宗派が自らを正しいとする理由

・神の是認の下にある
根拠;行いが清い、教理が優れる、神の導きを感じる
様々な不思議や異兆を示すのは悪霊の常套手段であった。


・マッツォで聖餐を行うなら、年に一度も過ぎ越しに行うことを表す

・「愛の掟」を行い倫理性を守っても、何の見返りがあるわけでもない。
天国に入るわけでも、神の是認を受けるというわけでもない。
世の「勧善懲悪」には正義が勝つことや、良い結末を得るなどが込められている。
そこに益が無いなら意味がないと思うなら「愛の掟」を守ろうとする必要もない。
それはキリストの自己犠牲の精紳に感化されたところで「信仰」という動機を得るのであるから。


KX用 気付いた点

・収穫の時期にさえ入っていない
・クリスティアノイと呼ばれ始めたのであって神の名YHWHはその発音は一度ですらギリシア語に書かれなかった。

・聖書に奥義があるということも、聖書が上からの著書である証拠
誰か完全に知っていて、それを解き明かすのではなく、誰も知らずにいたことが漸進的に明かされてゆく。

・キリストの忠節さは、宗教家たちと異なり「自分を遣わした方の栄光を求める」ところに表れている。
それが真実の担い手たる理由であり、今日も多くの宗教家が自分や自派の正義を主張して自らに栄光を求めている中に真実を証しする態度は見られない。
キリストの奇跡の業によって神は証しを与えていたのであって、人間からの栄光を必要とはしなかった。






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