Quartodecimaniのノート

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「崇拝」を追う


Luk9:31
οἳ ὀφθέντες ἐν δόξῃ ἔλεγον τὴν ἔξοδον αὐτοῦ, ἣν ἤμελλεν πληροῦν ἐν Ἰερουσαλήμ.

直訳
[彼が立ち去ることの栄光について告げる、つまりエルサレムで成就されようとしていたこと]




Joh5:28-29
μὴ θαυμάζετε τοῦτο, ὅτι ἔρχεται ὥρα ἐν ᾗ πάντες οἱ ἐν τοῖς μνημείοις ἀκούσουσιν τῆς φωνῆς αὐτοῦ 29καὶ ἐκπορεύσονται οἱ τὰ ἀγαθὰ ποιήσαντες εἰς ἀνάστασιν ζωῆς, οἱ δὲ τὰ φαῦλα πράξαντες εἰς ἀνάστασιν κρίσεως.
[ποιήσαντες]分)アオ能主男複 「する」ποιεω
[πράξαντες]分)アオ能主男複 「取り立てる」πρασσω

『善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』口語訳
『 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。』新共同訳
『善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。』新改訳
”and come forth-those who have done good, to the resurrection of life, and those who have done evil, to the resurrection of condemnation.”NKJV


Heb2:8?
Act6:13[τοῦ τόπου τοῦ ἁγίου ]
Mt24:15[τοῦ προφήτου ἑστὸς ἐν τόπῳ ἁγίῳ, ὁ ἀναγινώσκων νοείτω]

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トマス福音書に類似した『エジプト人福音書』#(2世紀ギリシア語でコプト語とは別物)では「父・母・子」が「三つのオグドアス」、また「男女なる父」、『三体のプローテンノイア』においては、母であり父であるプローテンノイアへの言及があるという。これについては大学図書館を利用のこと

#かなり初期に書かれたらしく、クレメンスalxとヒッポリュトスが引用している。そこで成立は120-150とされている。その状況からするとエジプトのキリスト教は相当に危うい。まだオリゲネスも活動していないという時期になる。但し、この書は引用で知られるのみで他には残っていない。


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・「ユダに居る者は山に」これをユダヤ人に言う意味
エルサレムのエクレシアが異邦人の共同体となって以降のユダヤ人イエス派の所在は

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ユスティノスmt 163-7年の間にローマで殉教した
パレスチナのフラウィア・ネアポリス(シケム/現ナブルス)の出身
ユダヤ
ギリシア文化を求めストア派ピタゴラス派、アリストテレス派、プラトン派を渡り歩き、おそらく135年にエフェソスである老人からユダヤ教の預言がキリストに成就したことを聴き、はじめて満足のゆく「真理」を得た。
その後は、キリスト教の教師となり、150年頃までにはローマに移動している。
現存著書は「弁明」と付録(第二弁明)グッドスピードは付録と見る
「トリュフォンとの対話」

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προσκυνέω
[πιπτοω]原)Mk5:22 Lk8:41「ひれ伏す」(イエスに)

ヘブライ語[תַּ עַ בְ דוּן]「タアヴドーン」
EX3:12「あなたがたはこの山で仕えるだろう」の「仕える」≒「伏し拝む」
「仕える」口語、新改訳、新共同、NKJV"serve"

これを「神聖な奉仕」と混同して良いか?問題になるのは贖罪に関わる「奉仕」、つまり祭司職が機能するような「仕え方」であったのか否かで、この語の意味と新約中の「プロスキュネオー」の意味とが明瞭になる。⇒LXX

「崇拝」⇒「仕える」
[לַ עֲבֹ ד]「ラヴォート」Ex10:26 「仕える」口語、新改訳、新共同、NKJV"serve"

[λατρεύω]「ラトレウオ」
儀礼、供物の提出、儀式の遵守、聖職者の職務執行

LXX Ex3:12[λατρεύσετε]
Ex10:26[λατρεῦσαι]
ギリシア語に置き換えられたときに両者の区別が無くなったか?

「崇拝」or「仕える」(奉仕)(異教を含む)

[וַיִּ פְּ לו]伏礼した(ヨセフに)Gen50
[וַיִּ שְׁ תָּ חו]身を屈めた(天使に)Jos5:14

Rev7:15の大群衆の上に張られる天幕は聖所を表しているかも知れない。神がそこに共に住む。
ここでの「仕える」は[λατρεύω]になっている。これは「神聖な奉仕」を含む。この語に比較すると[προσκυνέω]は神に対して然したる意義を持たないことになる。
しかし、この動詞[λατρεύω]は大群衆が祭司であることを示すようには思えない。そうで無ければ、贖罪を得る者が居ない。また彼らが祭司であるとは記されていない。
あるいは、彼らが既に贖罪されて、本来は祭司が得る御前での立場を得るこにより御前に出入りすることが許されることを表しているのかも知れない。新しいエルサレムにも、諸国民の王が出入りする。しかし、そちらは天幕ではない。
そうなると、この天幕というのは聖所を示唆している可能性が出て来る。そこで第二神殿での異邦人の中庭の意味が生じて来る。この黙示録7章が表すのは、神のイスラエルの完成とそれがもたらす益であると読める。「昼夜奉仕を捧げる」のはモーセの体制での祭司職も同様であった(使徒26:7)
異邦人の中庭は聖所の外にあり、黙示録では42ヶ月諸国民が踏み躙る#場所でもある。確かに、そこは神聖な奉仕の外ではあったが、最終的な贖罪を含意している。そこで「天幕を広げる」とは贖罪の終了を意味するのだろうか?つまり、聖所の外の領域にあった諸国民の上に聖所を表す「天幕」が広げられることにより、神の是認また義認の状態に入ったことを表すという解釈になる。それで大群衆が恰も祭司のようにそこで「神聖な奉仕」を行うとされている。もしそうなら、その「神聖な奉仕」とは贖罪に関わる祭司の奉仕ではないと見るべきか?それは新たな次元の奉仕であって、現在からは窺い知れないものなのかも知れない。確かに贖罪が完了しなければ「すべての涙が拭われる」と言われるだろうか?
非常に明らかなことは、この大群衆の描写は『聖なる者らの国』の完遂の後の事象にある。『新しい契約』はその役割を果たし終えており、聖なる者が天に集められ地上に居ない「千年期」に入っているのであり、聖なる者が地上に居る段階ではない状況でのその益に与る人々が表されている。

#「諸国民によって踏み躙られる」は祭司が聖所に入ってしまうまでは、世が祭司を迫害することを表すように読める。「聖なる都市」はシオンを表すのだろうか?それなら、シオンもまったく無害では済まない。

serve 16, worship 3, do the service 1, worshipper 1; 21 1) to serve for hire 2) to serve, minister to, either to the gods or men and used alike of slaves and freemen 2a) in the NT, to render religious service or homage, to worship 2b) to perform sacred services, to offer gifts, to worship God in the observance of the rites instituted for his worship 2b1) of priests, to officiate, to discharge the sacred office


ギリシア語では動詞幹に付いた sa (または3人称単数では se ) がアオリストの標識となる。

  • ske/o- という接尾辞がある。語根は、現在形をつくるときにのみこの接尾辞をとる。
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新約的「崇拝」とは何か?
供儀はキリストの犠牲により終了していた
聖徒による賛美、聖霊の業の顕現
また、その顕現を見て「神を崇拝(プロスキュネオー)する(ようになる)」
1Cor14:25
異邦人も神殿に向かって祈るとき」は神殿となる聖徒も存在せず、天的神殿も無いこの時代にどうするべきか?『信仰、希望、愛』とはこのことか? パウロ後、律法、犠牲、祭司が去っている。





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