Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エホバの証人の信仰分析

◆典型的主張

神が行動される時,どうすれば生き残れるか
神は「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」,と聖書に述べられています。(啓示 11:18)これは今の時代に神がふたたび行動されることを確信させるものです。しかし「エホバはご自分を愛するすべての者を守っておられる」一方,「邪悪な者をすべて滅ぼされる」と聖書は約束しています。(詩 145:20,新)神を愛する人々は生き残るのです。
しかし『神を愛する』とはどういうことですか。それを言うだけで十分ですか。「そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛だからです。でも,そのおきては重荷ではありません」と聖書は答えています。(ヨハネ第一 5:3)ノアのように神に従う人々は,清められた地に確かに生き残ることでしょう。” 80.9/8 p10

詩篇を契約にある民への言葉とは捉えずに、契約にあるわけもない信者に適用し、しかもそれ以外の人々を滅びに価する「邪悪な者」とし、その対照に信仰の根拠を置いている。またヨハネ文書の抽象性と契約にある『聖なる者』への配慮なく、言葉の表層だけを追い『愛』が「業」に置き換えられているが、これは契約に在る『聖なる者』に求められる行いであり、要らぬ規制を契約外の信者に負わせ、組織の権威への服属と献身と貢ぎを強要しているところに、この宗教団体のピラミッド構造が顕著に表れている。この教団の強権的体制は所謂「カルト宗教」に共通する特徴であり、「信者支配」の目的性が非常に色濃く表れている。その教理は聖書の表層を追うところに正しさを唱えているが、その体制構造を維持するために信者に気付かれない程度に歪曲されている。また、明確な矛盾や誤謬については情報統制の手段を長年にわたり、あからさまに用いてきた。信者全般に見られる特徴は、道徳に関する潔癖症と自己義認の激しさの利己性であり、一般社会との関係性の衰弱と不成長により周囲には非常識に振る舞うことが多い。これらはかつてパリサイ派が踏んだ轍でもある>


◆大前提
「キリストが臨在し、神が世界を裁いて滅ぼす時は近付いた」
すでに「神の王国」は1914年から天で建てられたので、統治体を通してエホバの証人の中だけで支配を始めている
この根拠が聖書の記述と、考古学上の年代から更に類推して計算できた


◆小前提
「時を悟る幾らかの救われる者が居る」(ノアを模式とする)
それはC.T.ラッセルを祖とする「ものみの塔聖書冊子協会」に追随する者たちである
これを知らせて信じさせることは、人々の「命を救う業」であり人のあらゆる生活でも最重要なものである
印刷物や電子機器を通して世界に知らせることは神の前に正しさを示すことである


◆世界が滅ぶ理由
キリストの千年統治が、ものみの塔の中枢指導層「統治体」によって既に地上では始められているにも関わらず、それを認めない者は皆、神の王国に逆らっているのであるから神に滅ぼされる
滅びたくなければ、ニューヨーク州に本部を置く「統治体」の支配に服し、指導される伝道と教団中心の生活様式を守らなくてはならない
それに従わない者は、名目上のエホバの証人であってもなくても、模範的でなければ神の怒りに触れ滅ぼされる危険を負う
神もキリストも見えないが、目に見える統治体に従えば「永遠の命」がもたらされるから、これは「王国の良い便り」であり「創造者の約束」である


◆信仰要件

ものみの塔聖書冊子協会にだけは神の是認がある」
「キリストは1914年から天で支配を開始している」
「1914年以降は終わりの日であるから緊急感を持ち普通の生活をする場合ではない」
「キリストの兄弟である組織幹部に従い伝道すれば救われる」
「組織は間違うことがあっても常に神に是認される」
「組織に疑念を懐くべきでなく、外の情報は悪魔のもので遮断すべきである」
「子供は神からの賜物であるから、嬰児から懲らしめても信仰を植え付けるべき責務あり」

ものみの塔 聖書冊子協会
エホバの証人で「ものみの塔聖書冊子協会」に加入している者はほとんど居ない
その「協会」は「統治体の用いる器」というが、実態は逆に600人ほどの部外者が多い投資株を持つ「協会員」が統治体を任命している
その他、運営方法や教義の決定も多数決でこの「協会」が行い、会員は収益の配当を購入株数によって得ている
ものみの塔聖書冊子協会」(ペンシルバニア州)とは、会員投資による宗教投機組織であり、信者には「統治体の用いる法人」を永く称していた
この営利性は創唱者C.T.ラッセルの資産事業家としての性格に由来する
当該協会が「非営利」を名乗るのは、協会そのものが経費を除いた利益のすべて会員に配当することを目的とするところにある
しかし統治体は実体の不明瞭な「組織」という言葉を用いて信者を含む集団を言い表すことがあり、また信者には権威の源として「協会」を名乗る
他方で、各集りの「会衆」は独立して宗教法人登録をしているところが多く、この宗教集団の実体は分割されており、個別の責任の所在が判り難い
また、個別の所有権が曖昧であり、協会名義や各国支部の名義による一報により決議が要請されて短期間に金銭財産の移転が行われる
その一方で、支部事務所以上の出納は秘匿されている
教団内部での建設工事には信者の無給または薄給の労働が用いられてきた
近年はそれらの規模の大きい施設までが売り出され、幾つかが別の宗教団体の使用に供されていることが知られている
伝道の先頭に立つ「特別開拓者」には、経費の支給と(月掛?)数万円の代理積立制度があり、リタイヤの備えとしてきたが、金額の低さと価値の変動は考慮されない。(金利については筆者不明)


◆信仰目的
・信者側では
宣教内容を一言に凝縮すると「仲間にならなければ大患難#で滅ぶ」となる。#(大患難とハルマゲドンの区別が曖昧になることが多い)
(しかし、キリストは自ら命を投げ打ち迫害者にも執り成しを祈ったのであれば、その精神とは逆に命の追求であり、最も重要なものは愛ではなく命であり、それも今の命よりも永遠の命の方が価値が高い)
・組織側としては
報酬を払わずに人海戦術で組織の拡大を図る
集まった信者を管理し、伝道から生活まで指導して支配する
(それが楽園での永遠の命に至る唯一の方法であると信じ込ませる必要がある)
その支配のための施策が集会と伝道奉仕への定期参加の強要であり、対価には永遠の命と罰則(子供への体罰、大人への権威名声の剥奪と忌避)がある。
ヘブライ書の集りへの勧めの句、また(カト オイコン)の用例には当時の背景が考慮されておらず、罰則の根拠にも歪曲がみられる>

大患難を生き残って神の新しい世に入るため,わたしたちは何をすべきでしょうか。わたしたちのうちのだれかが誤った期待を抱いていたとしても,わたしたちはクリスチャンとしての務めに関して眠りに陥らないよう警戒すべきです。(ハバクク 2:3。テサロニケ第一5:1‐6)1914年以降の出来事を思い起こせる人の数はいよいよ減少しています。ですから,用心する必要があります。無駄にする時間はないのです。(マタイ 24:42)サタンの邪悪な世の終わりを生き残りたいと思う人は皆,霊感による次の言葉に同意していることが分かるような行動を今取らなければなりません。「全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです」―啓示 11:17。

ここに生命危機への切迫感があり、結局は教理が人を組織に服従させる理由付けにされている。
しかも、その指導の絶対性は「間違っていても従う」というほどに強烈で反論が許されず、信者の奴隷化が酷い。
即ち、「永遠の命」を質に取った脅迫である。
だが、キリスト教が最重要視するのは愛であって、命はその結果として添えられるものである。
これは大いに本末転倒であり、そのカルト性の由来は明らかにこの教理の脅しに原因している。
教理の脅しは長い期間で徐々に指導層によって付け加えられ、現状のカルト性に至っており、各世代の指導者の支配欲が蓄積されている。

◆信仰形態
父であるエホバ神は処刑を執行する
母である組織は保護を与える
「神が怒り人類社会を処罰する時が近付いている」
「母である組織に逃げ込んで保護の条件を守れ」
<「神の裁き」の要諦は不明瞭>


◆年代計算の信仰の経緯
実業家C.T.ラッセルは20歳代から19世紀北米の宗教流行に乗りアドベンチスト派とエジプトのピラミッドの構造の寸法というオカルティックな方向から聖書の年代予測にアプローチした
ダニエル書第四章のネブカドネッツアル王の政務を離れた『七つの時』を2520日とし、それを預言として年数に捉えたのは、英国のJohn Aquila Brownが先んじていたので、ラッセルはそれを踏襲したとみられるがBrownは「異邦人の時」とは関連付けていなかった

軍人また農民であったW.Millerが、当時の理解で677年から2520年後を算定して1843年が『七つの時の終り』としていたが、その根拠に考古学の進展を拠り所とする脆弱さがあった。そのうえ彼は計算上0年を省くことに気付いていなかった(それはラッセルも同じ)。
ミラー派は1842また1943年の予想が外れたため、「大失望」と呼ばれる信仰の結末を迎え、多くの追随者が離れていったが、一部はその年代による信仰形態を引き継ぎ今日まで命脈を保っており、特にセヴンスデー・アドヴェンティスト派は、1843年にキリストが人には見えない天界の至聖所に入ったと唱え、地上に変化のないことの釈明として教理を存続させた。この派は今日1900万人の信者を擁するとされている。

ミラーの「七つの時」の概念は、ミラー派が四散した後もアドヴェント派とセヴンスデー・アドヴェンティスト派に受け継がれているが、ミラー派に共鳴していたバーバーもロンドンでブラウンの著作を調べた後、ニューヨークに戻り「朝の先触れ」を発行して自ら主張する年代1871年を唱えていたが、この派は五千人規模以上にならずに終わった。そこに富裕なCT.ラッセルが共鳴して協力を申し出て来る。バーバーは1871年を失意の内に終え、その後ラッセルとの間に贖いを巡る教理の議論を始め、ラッセルは独立し「シオンのものみの塔」の発行を始める。
この一連の流れはミラーに発する第二次覚醒運動に連なるものであり、ものみの塔の基本教理とセヴンスデー・アドヴェンティストのものが重なるところがある
⇒「ミラー派の系譜

ラッセルは1914年をキリストの即位する年であると唱え、自分たちが天に召される年と公表したが、同年に第一次世界大戦が起こり、予告の一部ハルマゲドンが発生したかにも見えた
ラッセルの没後これを利用したのがラザフォードであり、実は1914年に地上ではなく見えない天でキリストの臨在が起こったのであり(それをどう察知したか?)、既に王国が設立されたと宣伝するよう命令し、当時の世代は死ぬことなく楽園に入るとして、より多くの信者を戸別伝道によって募り始めた。ラザフォードも1925年を大ヨベルと見做し、古代の預言者をはじめ信仰の人々の復活を予告した、その受け入れ先としての豪華な宿舎ベート・サリムまで用意したが、これも予告倒れに終わった。今日のエホバの証人は基本的にこの年代による信条を保持しその延長線上に存在し続けている

1914年に「見えない」キリストの王国支配が始まったということについての証拠は、大戦と飢饉とスペイン風邪地震の頻発とされているが、その後の長い期間については、災厄の規模が高まったというところに説明される。しかし、肝心の「支配」については、諸国民に何ら影響がなく、ただ、ものみの塔内部だけの支配がキリストの統治とされたので、統治体の指導がそのままキリストの支配ということになる。その理由は、エホバの証人の伝道活動が不十分であるので、諸国民がエホバの証人になってハルマゲドンを通過できるよう諸国民に助けを差し伸べる期間が続いているとされる。 そこで、この期間の延長がほぼ限りなく可能であるが、共観福音書にある『この世代』の内に『すべてのことが起る』と教えたために、1914年からひと世代で『大患難』が起ると、かなり長く(1920年頃から)信仰されてきた。これは「神の行動を数値化して予測する」という類いの信仰である。「『神の王国』が既に設立されている」という主張にはキリスト教の教理としてもかなりの弱点を有しているが、信者がそれを問題にすることはほとんど無い。<「楽園で永遠に生きられる」という褒賞にあまりに心を奪われているところに彼らのつけ入られる問題がある>

しかし、その間にオリエント考古学が著しい進展を見せ、エルサレム陥落の年が前607年ではあり得ない根拠が積み重なってゆく。それに加え、ものみの塔の「世代信仰」は成就せずに百年を経過する数年前に「ふたつの世代が重なる」と変更されたが、信者にとっては既に長きに亘って信仰生活を継続しているため、そこに懐疑を抱く余裕もなくなっており、このまま惰性で多くの信者の信仰が誘導されたまま続いてゆくとみられる
但し、このまま「この体制」と称される人類社会の趨勢が継続してゆくなら、ものみの塔は遠からず「世代」の教理を維持することが困難になり、それを捨てる時には、宗派としてのアイデンティティを喪失し、教理面から相当数の信者を失う危機が襲うことになると見られる


◆利益と損失
宣教で「楽園の希望」の利益を標榜するかのように語られるが
それは常にハルマゲドン#の滅びとセットされ、天国と地獄を教える旧来のキリスト教界と「飴と鞭での信徒集め」では変わらず、災害を終末の印とした為に、災害の発生を教理の証拠と見做し伝道する好機と愉悦する傾向は否めない。災害の被災者への本来的な共感や同情が伝道の機会に置き換えられているが、現状の命は有限であると考えるので、他人の死への共感が阻害される。
信者にとってはハルマゲドン#で滅ぼされないようにすることが第一で、「神の裁き」の意義や理由への考慮は薄弱にされ、保身が信仰動機となっている。
しかし「楽園」という言葉にあらゆる現実の問題を投げ込む誘惑があり、具体的問題の努力や解決を放棄し、「いつか正される」という無責任の口実を許す結果を招いている。これは幼児の責任逃れと同質であり、個人としての自覚を失って社会人の責任感も育たず、すべてを指導層に委ねて従い、自己の見解を述べることも許されていない。そのため内面の人格的成長も妨げられる傾向にあり、その非社会的影響はこの教団で成長した人々に顕著に表れるが、信仰に熱心な内はそれと意識されない。
そのため、神が自分の何を裁かれるかを顧みず、既に道徳的信仰行動が神の救いの実現になっていると妄想されている。この独善性が周囲との軋轢の原因となる。
#(キリストの終末預言と黙示録6章の解釈のために、しばしばハルマゲドンが大患難と混同される)


◆信仰原理は「裁きへの恐怖」
「神がいて、キリストがいて、ハルマゲドンが来る。だから命が欲しくば神の支配権を持つ統治体に従い伝道して道徳的に振る舞え」が教理の概要となっている。
これは救いに「業」の条件が付随しているところに見えている。
その業は、滅びはすぐに到来するものであるから緊急感を持つべきとされてきたため、一般的な生活をかなりの程度犠牲にして、この教団の信者を増やすことに専念するよう、ほとんど強制に近い教えがなされたきた。そうして急速な組織の拡大を得たが、そこでは組織に属することが、そのまま神の裁きを通過しているかのような誤認が避けられない。だが、ものみの塔も、神の裁きは信者となる事とは別であるとしてはいるが、信者には不明瞭にされ、全面には出していない。そこに指導層の都合が見える。


その指導される教理に反論が基本的に許されないように、外部の多用な聖書理解や思想などを教理と照合することを信者に避けさせている。
主な教理の証拠には第一次資料が参照されることは稀で、資料の引用ではそれぞれの筆者の趣旨を無視して正反対の意味に述べ、訴訟を起こされているケースも珍しくない。
これら情報操作の理由として考えられるのは、1914年の根拠などの教理の脆弱さと、その教理がもたらす信仰行動に人権蹂躙が見られるところにあると思われる。
そこで外部を「サタンの支配下にあるもの」として、信者の「永遠の命の敵」として恐れさせるべき理由を聖書から拾い出している。
従って、内部だけが神の領域であり「霊的パラダイス」と称している。
この信者の囲い込みについては、外部に対しての蔑視と敵視とが用いられる。しかし、これは人間というものの現実を忘れさせ、評価すべき人々の資質を模範的信者であるかどうかに置き換える危険を冒すことになっている。
この排他性から逆説的に信者同士の結束の強さが生まれ、不信者への一定の警戒心を抱くようにも指導されている。
これは利己心を利用した閉鎖社会であり、倫理性に於いて然程変わらない信者の人間の真相を道徳行動で覆い隠している。
このような外部に対する優越感は、同じ人間を公正に評価することを阻害し、人種差別に等しい敵意を煽り、不信者にヒューマニティや共感を抱くよりは「裁く」ことに邁進させるものとなっている。
その内心の「裁き」によって、信者には「自分は救われる」という実感を抱かせるものとなり、これをものみの塔も繰り返し指導してきたことは、数十年来の出版物にも明らかである。


◆二世問題
永遠の命を失うとの恐怖心に基く閉鎖性により、信者の子らには親から信仰が強要に近い状態で要求されている。
この問題は、「信仰」というものが「滅び」との対照で捉えられていることで、本来的に信仰にあるべき自発性が押し殺されている点にあり、これは法的な思想信条の自由との人権を犯すものでもある。
また、子らには確信を得た大人のように大胆な信仰告白(証言)が要求され、他者と異なることが正義の証しであるかのように強制的に振る舞わせる状況にある。
子らは嬰児の頃から伝道に伴われるだけでなく、その参加が当然のように求められ、集まりに於いては静粛にできない、集中ができないなどの子供の成長に特有な性向を体罰を以って矯正することを旧約聖書の律法主義を根拠に習わしとしてきた。
さらに長じては、進学を勧めず、特に大学教育の軽視が著しい。これは嬰児から青年期という人格形成期での精神的発育を阻害することであり、一人の独立した人間を育てるという、どのような時代であっても求められる人間の必要を踏み躙るものとなってきた。
そのため、幼児期の遊びから成人に至る間の趣味や交友という貴重な人間関係を学ぶ過程を不十分に過ごしたエホバの証人の子弟には、社会性が育たず非常識な言動が特色となっている。また、社会生活を営む上での技能、生涯的な計画性が欠如しており、そのため貧しさに曝されるケースも多い、これはこの宗教によって育った人間がどうなったかという悲惨な『実』というべきものであろう。「伝道者」以外での有能な人を育てようとせず、家庭が一般より貧しいことから「楽園」に依存することになり、有能でこの組織の瑕疵に気付く者を作らないことに於いて、組織側はより安泰でいられることになり、しかも「伝道者」として以外の人格を形成することが妨げられるので、自然と団体は拡大する方向に進むことになる。

この教えの下では、教育の軽視により経済的な差異が縮められるので、自然と信者同士の一体感があり、統治する側にとっての愚民化策ともなっていった。そこに全体としての運命共同体意識が強く醸成されている。しかし、組織も高等教育を受けた者によって支えられないわけにはゆかず、そこにグレーゾーンが存在している。
教育軽視の愚民化策による規則順守と指示への従順という行動また金銭を要求するのが現実のこの組織であり、組織が楽園はおろか罪の許しや生存さえもたらすわけではないのだが、統治体を戴く組織が神からの唯一の経路とされ、或いは組織が「神」のようであり、これを信じる事がキリスト教信仰とされている。信者のそれぞれが組織の中に「業」によって自らの居場所を見出し、神の怒りからの逃れ場を得るという、律法的な純然たるご利益信仰である。
特に近年に見られる教えの趨勢は、聖書を単なる道徳的訓話とする方向に大きく傾いており、奥深い知恵を探るようなところはほとんど見られない。これは醜聞への対処の失敗と共に、指導層の著しい劣化を物語っている。彼らには聖書探求の意欲はほとんど無いと見てよいようである。ただ、先代から受け継いだ巨大な組織を持て余しつつ維持するのみであり、そこに相次ぐ訴訟の経済的大損害が襲い掛かったらしい。

◆中間幹部「長老」
中間幹部である「長老」は、直接的に信者を支配する階層であり、「統治体」という不遜な名を持つ指導層は、その権威や威光をこの長老たちに分与することで、無給の信者管理を効率よく行っている。
長老は選挙など信者の意向で任命されることはないため、自ずと教団中央に阿る傾向を持つことになる。ものみの塔に於いては、この特権意識から洗脳度の高い「長老」こそは欠くことのできない信者支配の重要職であり、この階層を監視するために「巡回監督」が置かれている。この職は長老を監査し、その上に君臨する権威を有する上級幹部ではあるが薄給であり、巡回する先の信者の集団である「会衆」が必要物を備えるようにされているので、ものみの塔の人件費は軽く済まされている。それもあって20世紀中では信者への寄付要請は余り見られなかったが、近年では事情が変わり長老たちの不祥事、特に幼児への性的虐待への訴訟が先進国を中心に各地で相次ぎ、それを統治体はキリスト教団体らしからず不適切にも隠蔽しようとして、却って莫大な罰金、補償費用を発生させてしまい、信者に発展途上国での建設が急務であるとして頻繁に寄付を要請することになっている。これら長老の不行状はこの宗教団体を内部から蝕んでおり、集会や伝道での率先とは裏腹に、信者の間に相当な不和と軋轢、また多様な実害を生む原因ともなっている。これは、この教団の判で押したような行動優先主義が生み出した精神性の貧困からきたものと言えよう。この趨勢が改善されることは相当に難しいように観察される。それは精神性の軽視という、時の予告というオカルト的なラッセル以来の根本からの変化の無い限り、また、自らを正視して省みることの無い限り、このまま惰性で進み徐々に軽薄な宗教団体に衰弱する以外にないであろう。


間断の無い緊張感とキリストの犠牲の軽視
「エホバ」に喜ばれるか悲しまれるか、という行動基準が強調されるので、神がキリストの犠牲によって人類の罪を贖うというキリスト教上で最重要な点が後退し、明らかに神を前面に出し過ぎ、神自らキリストを際立たせる意図を阻んでいる。それは発見された新約聖書古写本のすべてにテトラグラマトンが無いにも関わらず、ヘブライ語への還訳新約聖書に想定記載されたシェム・ハ・メフォラーシュを拾い集めてまで一般的キリスト教会との差別化を図ろうとして行き過ぎた報いとなっている。
信者は常に、神と悪魔の引き合いの渦中に居ると妄想させられてキリストの重要性が見過ごされ、実質律法の細目に従順であろうとしてユダヤ教に戻ってしまっているのだが、熱心な信者ほど気付いていない。この教団の唱える「エホバ」という神は、その性質に於いて、もはや聖書に描かれる神とは異質で、気まぐれで処罰好きな別の神となっている。
これに加え「終わりが近い」と「緊急感」を煽られるために、信者の生活感覚は間断の無い緊張感にさらされる。年代予測が外れ続けたために、この状態が延々と終わらないので、精神衛生に問題がないとは言えない。むしろ、精神疾患に陥るのが自然な反応と思われる。特に信者を親に持った子の場合には、この精神環境から逃れるのに相当な困難がある。それはエホバの証人の信条が絶対化され、信じなくなった者、組織の意向に従わなくなった者への反人格的な制裁が集団的に加えられるからである。これは一般社会の良識からは大いに逸脱しており、強権独裁国家や反社会勢力のような集団のほかにはあまり例をみない。


信者の偏見と傲慢さを助長
教理においては、楽園に入ることが目標になってしまい、神との関係性、特に何故裁きがあるのかが問われることなく、ノアの洪水の時のように行状の善悪で判断され、キリストの犠牲の大きさによる世の罪の赦しが、神経質で些末な裁きを行う神に取り違えられている。おそらく信者はパリサイ的行状の清さが人を救うと誤解させられているので、『人はあらゆる罪を赦される』の言葉をそのまま理解することはできないと思われる。同時に『聖霊を冒涜する』ということが何を意味するかも把握していない。むしろ、聖霊の介在を自分たちへの指導や任命に適用するのみで、自分たちの信教を受け入れない他者を滅ぼされるものと見なすことにより、自分たちの救いが担保され寡占化されているので、その他の者を踏み台にする精神はキリスト教とは真逆のものである。また、その精神が圧制を免れることはあり得ない。


信者の自己判断の停止
その「義」は年代を予告した組織の預言性に信仰を持つもので、他の聖書解釈は認めず、自分たち以外は教理も人も押しなべて悪魔の支配下にあり、楽園の利益から疎外されていると教えられている。従って個人のリテラシーを捨てることが救いとされ、判断力を自ら抑制し、指導部の実態を問わないことが信仰に組み込まれ、それが善とされる。これは圧制国家の情報統制と異なるところがない。個人の思考判断は、この組織だけが神の経路であるという以外には実質的に禁じられている。そこではキリストの教えに関する自分の見解を述べることも憚る。つまり、組織の信仰を強制されているという他ない。
信者らの信仰上の判断は、ヒエラルキーの上へ上へと委ねられるため、「誰がより上位に居るか」が信者個人の判断の規準に入れ替えられている。これは「組織だけは神の是認されている」という信仰形態の当然の帰結であり、それぞれの階層の個人ができる限り自己判断を避けようとする動機は、「永遠の命」を喪失する恐れにある。
従って、エホバの証人に見られる「組織絶対」の信仰の動機は、各人の恐怖によって支えられている。


伝道時間申告制度の奴隷化
伝道への貢献度を費やした時間によって人を評価するというこの制度は聖書にまったく根拠を持たないが、その弊害は人を宗教上の立場で評価するところから、人々を普遍的また実際的に敬うという自然な資質を損なっている。
「統治体」が「神の経路」という、やはりどちらも聖書に先例のない事柄を信仰要件に加えていることにより、これに反論は許されないばかりか、信者は自らの伝道時間数に良心を左右される。
その結果、ものみの塔は信者らを非効率な伝道に於いて馬車馬のように働かせ、組織の拡大を図る奴隷とすることに成功してきた。そこで伝道する信者らは、自らがどれほどの価値あることを語っているかではなく、組織中央の指示の通りに語ることを目標としてきたため、伝道内容が陳腐化しても時間数の維持に気をかけてしまう傾向を改善して来なかった。だが教団としては、無為に信者が時間を過ごすことが益となる。信者の時間をコントロールすることで教団の要求から奴隷化が進み、社会から反対され、不効率な伝道時間の消耗により仕事時間を削られて貧しくなることで、ますます教団の教えに依存を深めるからである。そこで強調されるのは従順であり、伝道相手に対する個々の伝道者の判断さえ歓迎されず、伝道のどちらの側にも益なく、多くは信者掌握の便法として伝道義務が課されてきた。ここの信者がネット上でそれぞれに効率的に伝道しないのは、個人の判断力を奪い、教えでも教団に依存させるためであろう。
近年の指導の劣化に伴い、伝道内容はますます価値を下げることが予想されるので、ものみの塔が伝道時間申告制度を放棄することは考え難い。
伝道に関する指示がいよいよ的外れになるに従い、伝道の効果性も低下するので、脱落による信者数の維持に窮するとなれば、この奴隷化的制度にますます頼り、信者掌握の強力な手段として手放せなくなるように思われる。そうなれば、いよいよ愚民化が進み、自らの人間としての価値に気付く人々から去って行かれ、最終的に存続はしても精神的にも経済的にもスラム化に行き着くと思われる。



多数の訴訟
以上に加えて、21世紀に入って以降、組織としての経済的逼迫が起っている その理由の多くを占められると思われているのが、先進国各地で訴訟が増えていることである。その内容は、この組織がまさに自負する聖書の言葉に従う点で起こっている被害であり。ひとつには「審理」と呼ばれる組織内、特に「会衆」と称される各地に散在する信者のコミュニティ内部でも裁判に関するもので、人権への無配慮と、著しい精神的圧迫によるものである。
また、「会衆」の中での幹部「長老」を保護する目的で、『二人か三人の証人』が揃わなければ、これらの幹部は免責されないために、幼児への性的虐待を行う長老たちが野放しにされた件についての訴訟があり、これは裁判所からの懲罰的高額罰金、また相当額の賠償を求められており、近年、この訴訟の数は一宗教団体としては多くなっている。但し、カトリックのような加害者の罷免や、指導者からの謝罪はものみの塔の場合は行っておらず、これらの事例を報じる外部の情報を「背教者のデマ」と断じ、内部の信者には情報を遮断する方策を執っている。そのため、信者には寄付の要請が増え、その一方で出版物は減り、信者の負担も求められたデジタル化が推進されてきたが、そのほかに教団の施設の売却が目立って行われるようになっている。また、各地の会衆が持っていた貯金の大半が、組織のものであるとの宣告がなされるや否や、即刻回収されるという、それまでにない異様な事態が起った。これらの急速な経済的施策の変化の背後には、多数の敗訴に関わる膨大な金額の支出が見込まれる。


指導層には信者と同様の信仰はあるか
統治体については、おそらく、世界は滅んでも自分たちが神に滅ぼされずに天に召されると本気で思い込んでいると思われる
(そうでなければ、通常なら良心が咎めて行えないような輸血拒否などの生命に関わる大胆な「指導」は普通は出来ない)
また、その教理がもたらした信者への多大な害や損失について責任は感じていないからこそ、組織の拡大が義行であるとの主張を続けられる
しかし、統治体をはじめ、上層部のすべてが信じ込んでいるのか、また、一部の教理や指導内容に疑念をもっているのかの個人の内心については何らの表明もないので不明ではあるが、元統治体であったレイモンド・フランツ氏のようにキリスト教を精査する立場にある場合には異議を懐いてなお役職に留まっている例も十分に考えられる。
それでも、現在であれば、統治体構成員であっても、辞任することで忌避は受けても上記の責を軽減される道は残されている法的可能性はあるだろうし、それはとりあえず責任ある行動とは言える。


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特徴的教理の骨格
七つの時は異邦人の時であり1914年に終了した
その年にキリストは王に即位し地に臨在を始めた
現在、神の王国はエホバの証人の組織の中を小規模に支配している
以降ふたつの世代が重なる間にハルマゲドンが来る
救われる者はこれを警告する義務がある
この警告を伝えた組織を神に是認を受けたと見做すべき
現在は終わりの日であるから目覚めた状態で緊急感を持って生活すべし
従って、教理の主眼は「1914年を言い当てた」*ところに在り、その予言性から他のすべての教えへの恭順が導き出されるので、「1914年教」とも言える。*時代の印


派生教理
救われるにはノアの箱舟の様に少数者(宗派)に含まれる必要がある
この宗派にだけは救いがあるので伝道は「命を救う業」である
初期キリスト教徒は戸別伝道を行っていた
初期キリスト教徒は神名を発音していた
新約聖書には神名が書かれていた
信者たちは「霊的パラダイス」と言える程の高揚感ある関係を享受している
組織内は神の是認を受けているので地上のパラダイスに入る
待ち望むハルマゲドンは時間が経過するほどに近付いているので緊急感を更に増してゆく必要が常にある
(いずれも根拠なし)

◆子供への影響
人格形成と教育と職業の軽視
子供への体罰と遊びと交友の制限、集会参加と伝道の強要(聖書は生き方のすべてを指導しているという仮定に成り立つ)
・子供としての社会性獲得を阻害し、信仰を訓練によって得させるものとし、個人の選択の余地を相当程度に狭めている
・成人するまでの人格形成を、自派の価値観を押し付けることにより阻害する
・一般社会を蔑視した見方を間断なく教えるため、社会性が育たず、人格評価が偏り、常識的対人関係が築けず、部外者との協調や対処が困難
・道徳的言動に努めるので、人間一般の不完全さから自分たちは逃れていると思い込み、自分たちの現実的道徳性の認識が築けない
・性についての神経質なまでの潔癖さを求めるために、自然な性的成長が歪曲され、修道院制に時折見られるような抑制と隠れた奔放が交錯することがある
・年代計算からの緊急感と職業と教育の軽視により、人生設計を十分に考慮はしていないため、家族のための働きが薄く、老後の備えがかなり薄い
・家庭内でも信仰の程度で互いを評価するため、本来的に家庭が備える多様な益がなおざりにされ、忌避に至ってはまったくの分断を起こす


神の是認の証拠(唯一正しい理由)
・年代計算によってキリストの臨在の年を示した
・戦闘行為に携わる事を拒絶して投獄された
・血を避けて輸血もしない(その以前1930年代迄には種痘を拒絶した。また、禁令下に在っては組織への損害を避ける理由で、輸血の拒絶は免除されているとの情報がある)
現在の差別化は、選挙拒否、格闘技拒否、異崇拝拒否、国家行事拒否
一般人との差別化により、この派の正しさが表わされるので、常に外部との比較で成り立つ律法主義的正しさであり、神の是認との関わりは証明できない。

キリスト教界は十字架、三位一体などを教えるので間違っている
・この宗派は教義で諸教会よりも優れている
神の名を掲げて知らしめている
・世界的伝道活動を最も熱心に行っている
聖霊を注がれた信者がこの組織に存在する


・道徳性の高さ
この組織の道徳規準は聖書のものであり達しない信者を排斥する
排斥によって組織を清い状態に保つことができる
その道徳規準を守ることが神に受け入れられる方法である
それが守れない個人は滅びに曝されている

従って神の是認を組織は常に得ているが個人では努力する必要がある
救われる方法は神に好まれる事で神に嫌われると滅ぼされる
神の是認を失わぬよう条件を守って振る舞うことで救われる
そのためにはこの組織の権威者にも嫌われてはならない
ヒエラルキアを構成する彼らは神の経路であり代理管理者である
組織の権威者は聖霊によって任命されているので恐れるべき
ヒエラルキアの上層は統治体でその命じるすべてに従わなばならない
統治体は誤りを犯すこともあるが人は皆不完全でありいずれ正される
組織が間違いを教えているときでも従うことが神への従順である
(「組織崇拝」や「組織の偶像化」としばしば指摘されるのは、この無謬ではないとされる「組織」にも関わらず、神からの是認があるとの決め付けが為されているところから来ている)


・高等教育とその機会への阻害
元々は、切羽詰った終末論を唱える過程で、若者を動員させるためのものであり、特に1975年にはハルマゲドン発生への異様な期待の高まりに付随していたように見える。しかし、それが外れたときに、指導の誤謬をぼかすために、高等教育の与えられる環境に対して「不道徳の温床」との批難に入れ替えられた。
それは指導層の信者掌握の目的を達成するのにも都合よく、信者から情報リテラシーを奪うことにより、組織と指導体制の安泰を図ることができ、それは期待を煽っていながら外れた予告を行った指導部の権威を補強するものとなった。その理由とされたのが、大学の環境で性的誘惑が大きいというものであったが、それは労働環境でも然程変わらない。ものみの塔指導部が恐れたのは、組織の中核を形成することになる若い信者への統率力を失い、組織が弱体化することにあった。信者が学識を持つと、この宗教教理の脆弱性が明らかにされやすく、特に年代計算の根拠などは、信者の考古学の情報の疎さに初めて立脚できるものである。そこで情報統制の一貫としても、高い教育を大多数の信者には受けさせない施策をとる必要もある。


所見
聖書が述べるところへの著しい単純化と決め付けが見られる。
特に激しいのは、「自分たちが神やキリストから唯一任命されている」という強い思い込みにある。
これは、人並みに謙虚であれば、よほどの証拠でもなければできない不遜さの表れであり、その子供のわがままのような主張を迎合する人々を集めてしまった。
アメリカによく見られる独善的な宗派で、パリサイ的偏狭さの強制に著しい問題がある。
神の王国によって全人類の贖罪が為されるという発想を置き去りにし、諸教会に同じく「信者が救われる」という狭い観点に縛られている。その動機は諸教会に同じく利己的な救済願望であろう。

そこでは利他的行為さえもが、自派の増加や繁栄に置き換えられてしまい、個人としての性質ではなく「業」の多少や貢献度によって評価されるという無機的な体制が構築されてしまっている。
神の意志を探求する態度は個人から奪われており、命惜しさに服従することに置き換えられているが、信者はそれに気付いていない
これらは他宗派との差別化し特別視させる「人の義」となる
しかし近年の教理の劣化低迷や矛盾は著しい
聖書の適用は他の多くの宗派同様あちこち誤っているが、特に「エホバはこうである」と断言するところに合理的根拠を示しておらず、強圧的に『人の命令』に従わせるところは「洗脳」と呼ばれても仕方がない。

自派を絶対化しているところに最大の欠陥がある、人の義は不完全であり使徒らのように聖霊の霊感の言葉を語るほどの高さに達しておらず、他宗派に変わらず聖霊の導きの下にあるとは言い難い。それは昨今の訴訟に見られるような、極めて人間的で程度の低い指導部のミスリードとその隠蔽工作に見えている。
そのために根本的改善の機会を自ら閉じたので、根本的見解を変更し誤謬を謝罪のうちに反省することが困難になっている
また信者を精神的牢獄に閉じ込めてしまったが、それは精神を患う信者の多さと多様さに表れている。鬱病は勿論のこと、コミュニティ障害、自閉症に苦しむ信者は少なくない。また二世以降にはACが問題化している。


信者になり易いタイプ
一般社会は、規律性でも道徳性でもグレーであり、親や教師も曖昧な基準を持つだけであり
社会も将来への展望も見せているとは言い難い
政治家に至っては混迷の原因となることさえあり、人生に確固たる指針を与えるものが存在しておらず
旧来の宗教界も「科学信仰」の隆盛の中で形骸化を見せている
これらの社会状況に対して、自分を見失うことなく、生きて行くべき何かの確固たる導きを願う人
また、自分や周囲について系統立て、整理しておきたいような生真面目な人には魅力がある
特に、幼児を持った若い母親たちにとって、保育に関する世の指導の多用さと不確かさは、この宗教の唱える指針が優れて見える
たいていの場合、信者になるのは中程度の生活水準にあり、社会を評価する一定にゆとりのある人で、教育水準も中程度の層が多い
自分たちの置かれた水準の上にも下にも一定の不満を持っていて、その原因を社会構造に見ている。これはかつてのファシズムの支持層と重なるところがある
他方で、忙しすぎ生きることにすべての時間を奪われている人、社会の曖昧さが性に合っているような人、世の中の流行や風潮の変化を好む人には向いていない
仕事を愛し、高度な職業に打ち込んでいる人、社会改革に取り組んでいる最中の人にもむずかしいものがある
『神の王国』の支配が実現しているとの教えから、政治家は論外であり、統治体そのものが行政体を自認する政治家であり
長老たちは、自治体議会と役所を兼ねた政治官僚的役割を負う政治家であり、時に精神的な専門家を自認して信者の生活に干渉する
ただし、その政治体制は紛れもない独裁的圧制であり、政治権威者は信者全体の選挙で選ばれず、「聖霊による任命」とされ、先任の権威者の推薦が主である
したがって、権力乱用が防げる機構を持っておらず、度々に長老は信者や仲間の長老同士で軋轢を避けられない
また、神の指導の名の下に、専制政治が末端まで高圧的であるため、人格の保護や育成が軽視、また無視されたうえに教理が脆弱であるために情報統制がある
自らの人間性や社会性の低さに無自覚な「統治体」が信者生活のあらゆるところを指導しようとするため、人としての自然な感情や欲求が抑え込まれ
「常識のない二世」が育つのは、この体制の場合避けられない
エホバの証人同士は、人と人が真実の接触をしておらず、真実の社会性が存在しない。仮面をかぶった「会衆」社会を皆で演じてしまっているからである




以上の信仰が構造的にもたらした「果実」
「統治体」の支配形態は「専制政」であり必要原理は「恐怖」
救われるとされる条件を人に提示し暗に脅して強要する
自分たちの伝道を通してはじめて人は救われると信じ込む
聖書の学習法は画一化され個人で深化することは許されない
反論や教理に関する自由な思考も許されていない
組織への反論や自由な思考を持つことは自らを滅びに曝すことになると解するので脅しによって思考が制限されている
統治体が信仰と判断の主人であり信者は他人の信仰を護持している
宗教的推論は自派の教理をどう擁護できるかに向かうので公平な観点に立てない
教理が論理的に破綻すると信者は思考を停止するので実際には非論理的である
組織には神の是認が常にあるが個人はそうではなく条件がある
道徳上の条件を満たした「善人」を振る舞うよう強制される
全人類の「罪」は条件を満たすことで贖罪されるので終末の裁きを前倒しする
人間普遍の「罪」の傾向を表面的に覆い隠すことが救いの要件となる
パリサイ派のような業の模範者を立て憐れみを欠く方向に導かれる
家庭に権威者が立ち入ることになり自然な情愛が制約を受ける
救いの条件を守ることが神への愛に置き換えられ人相互の関係性(愛)が薄れる
指導層は個々の信者が指導によらず自ら倫理判断を下すことを非常に嫌い、信者もそれを恐れる
信者には天与の判断力や価値感が保持されているのでこれを封じるために情報統制と身近な権威者が用いられる
「時代の緊急性」が強調され緊張感が延々と続き平常な生活が様々に疎外される
考古学の成果とは異なる年代を信じる必要が生じる
唯一正統を自認するため家庭や社会や宣教でさえ不信者との軋轢をもたらす
「罪」の赦しはキリストの犠牲への信仰である事が生活様式を守る業に置き換えられている
道徳上の要求が人間性の実際から乖離しており不自然に偏向している
「排斥」は組織を清く守るものとはなり得ず腐敗は防げてはいない
互いを「兄弟」としながらヒエラルキアの序列は「秩序」の名目で強固に守られる
組織の見解が過大評価され専門家の見識が通用し難くなり個人の良識判断も衰える
実際に神が聖霊の賜物を以って介入することをほとんど想定していない


沿革
19世紀から1914年が「七つの時」の終わりとなることを表明
同年ハルマゲドンを期待したが第一次世界大戦が勃発
二年後に創唱者が死去
1919年に二代目の会長により再興される
キリストは臨在中なので以後は王国を宣伝する時代であるとされる
1920年、大患難が終わり王国が到来するまでは1914年から「ひと世代」とされる
1919年にはものみの塔が神から是認を受けたとされる
1925年、大ヨベルにハルマゲドンの期待が高まり復活も予想
1931年、信者の名称として「エホバの証人」を採択
1935年、天的成員を集める業の収束と大群衆の収穫の開始を宣する
1939年、第二次世界大戦が勃発し各地で兵役の拒否から迫害を受ける
1943年、七つ頭の野獣の正体を国際連合と発表、現代の預言と解釈
1975年がアダム誕生から六千年とされハルマゲドンが期待される
1995年第四代会長の死後「ひと世代」の教えは一度撤回される
2009年ふたつの世代の「生涯が重なる」と訂正・・現在に至る


現状
地獄は強く否定し、代りにハルマゲドンを常に追う宗派であった
緊急性がこの教えの根幹を成し信者を集めてきたが疑念が広がっている
神の是認の証拠とされるその他の「正義」の特徴は付随的な差別化に用いられてきたが、近年起こされた訴訟とその報道により「善性」の仮面は一般社会では既に剥がされている
宗派の要諦は「年代計算」であったが計算は外れ続け、1914年から百年以上が経過しても予想された変化が無い為に教理は窮地にある
1914年はアイデンティティであり今後これを基礎教理から外すなら信者を大量に失うことになる
信者の間に疑念を抱いた状態の「覚醒者」と呼ばれる人々が増加傾向にありこの人々は脱退に伴う異様な制裁である「忌避」を恐れ所属を続けることが多い
信仰を続ける人々はこのジレンマにあっても根底を流れる動機は「神の裁き」への恐怖という他ない
例えこの組織が過ぎ去ったとしてもこの恐怖は形を変えて残り得る
関心は「業による生存」であり神を探求する気概に欠け典型的な「ご利益信仰」の範疇に入れられる


◆評論
この派を一言で表すなら「ハルマゲドン恐怖の圧制キリスト教であろう。しかもキリスト教界特有の「幼稚さ」も随所に散見される。
人間に共通する死の恐怖からくる「自己存在の儚さへの不安」を広く利用しているところは多くの他の宗教と同じだが、それを「ハルマゲドン」という固有の事象に特定し、明瞭化した上で、その回避方法を教えるというところにその意義を唱えていることになる。その死や滅びの「回避方法」が詳細でほどよく合理的であるところに多くの人々が吸い寄せられたと言えよう。この点では教会の教えの陳腐化も大いに手伝っているところは「共作」とも言える。
この信仰内容は年代計算に立脚し、他宗派の蒙昧と社会悪や災害の指摘に依拠しているところは「覚醒運動」に同じく時流に乗った一過性の教理であり、入口は広いが初めから時の移ろいに耐えられるものではなかった。それでも存続を続ける理由は、脱退への報復や情報統制があるにせよ、人間の損得勘定を含む頑なさと年齢が進むことによる不自由さといえる。
信者には、宣教奉仕も、宗教教育も、道徳性の保持も、血の禁忌も、排斥処置も、政治不参加も、その原動力は「滅ぼされまい」とする動機において強力に作用している。それらの差別化が彼らの救われるべき「義」となっている。これに比べれば「楽園への希望」も補助的動機に過ぎない。だが、これはキリストの犠牲による贖罪の福音を利己的に歪めるものである。

この宗派を信奉する根本的動機は、楽園での永遠の命という善的な印象を強調しているにも関わらず、本質的にはまず間違いなく「恐怖」が強調されており、それは出版物に描かれる挿絵の中に「ドクロ」などの隠し絵が頻繁に見られ、サブリミナル効果を狙っているところに強い意図の証拠を見せている。そこには脅す側と慄く側が見て取れその関係は相互的でもあるが、統治体など上層に位置する者は高圧的に振る舞う傾向が強く、常に信者を集会を通し細目にわたって良心的に責め続ける。
そのために離脱者の最大の後遺症は滅びへの恐れとなるほどである。
これが真実のキリスト教であるとすればまったく恐ろしいことである。まだしも聖書理解の蒙昧にある教会員や不信者の方によほど望みがあるように見えることもある。
加えて、「排斥」という脱退者や規約不順者への忌避行為は、世俗法との間で人権問題を孕んでいるが、それ以上に、人々相互の情愛や関係性を質に取って、信者の脱退を防ぐ結果となっている。そこでは既に、宗教そのものの効力が人を引き寄せてはおらず、制裁への怖れで信者を縛っている実態をもたらしてしまっている。これはキリスト教ばかりでなく、宗教として観た場合にも、破綻した窮状にあり、『その実によって知る』と言われるキリストの言葉をも無効化することになっているので、どれほど教理の優越性を唱えようとも、一般人から見てさえレベルの低い宗教と見做される以外にない。


しかし、人は誰であれ聖書記述に従えば、そこに真正な崇拝者が生まれるものだろうか?
だが、誰も聖書の全容を理解することはおろか、根本的記述にも謎が多い状況で、真正な崇拝者はもちろん、神の是認を聖書理解とその履行から得ることができるだろうか?
聖書の通りに行動する業によって人が神から是認される、または聖書の通りにするなら、そこに神の是認が生じるという捉え方は律法時代の遺物であって、けっしてそのように成就しないことは新約聖書から明らかなのでは?
これは人の側からのアプローチに過ぎず、アブラハムモーセ、そしてメシアがどう是認を受けたかの過程を見ると、それは全て神の側からのものであった。バプテストにしてもそうである。この人々のその後は神の是認の側に立ったとしても、それ以前については必ずしもそうは言えない。
人の行動が是認に至ったものとしては、後に使徒となるアンデレやヨハネの活動、またホレブに至るまでのモーセの生き方くらいであろうか。但し、それがどこまで評価されたかは分からない。しかも彼らは自分がそれに価するなどと言ってはいない。
この教派では、ノアやロトのような救済に於ける道徳的業の是認を主要な観点としているのであろう。だが、彼らは道徳律の細目を守ったわけではなく、アブラハムは信仰によって是認を得ており、その報いは邪悪な社会からの自己の生存を遥かに超える、子孫への王国の相続と人類の救済であった。
この教団は、ヨブをサタンへの反証を与えた人物と称揚し、同じように行動することを教えているが、これはヨブ記を読解できていないことを自ら露呈している。ヨブは自らの義を主張して神の義を退けたのであり、彼が悔い改めたのはこの点であったのであるから、ものみの塔の理解は正反対で、ヨブのように行状によって神の是認を受けろと言っている。これはひどい誤解である。ヨブ記の意味するところ

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ものみの塔の教えに欠けているものは、総じてエマニュエル・カントが唱えた「他者を手段としない」に見られる「人格性」と言える。
だが、カントの「目的」の仮定には「アダムの罪」の概念がないので究極の完遂は起らないが、ものみの塔は神とキリストをカントの思想にさえ到底届かないものに汚している。

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実質的には既存のキリスト教界から進歩が見られない分野
地獄=ハルマゲドン、幼児洗礼=輸血拒否カード、破門=排斥
検邪聖省=審理委員会、密告制=悪行の報告、不信者の地獄=不信者の滅び
懺悔=長老への告白、贖宥=模範的、巡礼=ベテル見学・移動
浄め=長老団の許し、天国の至福=楽園での永遠の命
十字架=JW.org、聖務日課=日々の聖句、叙階=任命
洗礼の救い=浸礼による是認、有給の聖職者=巡回・ベテル奉仕者
司教座=支部事務所、枢機卿=統治体、法王庁=世界本部


ものみの塔の賞罰体質は一般的キリスト教と本質的に変わりない
これでは旧来の宗派をどうこう言えるものでもない
ただ、様々な差別化に義認を錯覚しているご利益信仰である

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エホバの証人の善意
彼らは自分たちなりにでも善意を働かせてはいる。ただ、教理が偽善的なために行うことが正反対になってしまう。例えれば、伝道に長い時間携わることは自己犠牲とされるが、家族や家庭を犠牲にするので、自己犠牲というよりは自己満足に周囲を巻き込んでいる。社会からの様々な圧力の中で家族を保って生きて行こうと真剣に努力する人々と共に生きる目的を一致させることができず、払うべき努力を組織に貢いでしまうことが家族の益であるとする。これはそう信じない家族からある種の裏切りと取られても仕方がない。家庭という場の見方も変わってしまうので、家庭そのものを維持することさえも難しくなるケースさえ少なくないのは、この教団の教理に由来している。
それでも、彼らの善意は一度受け止めないと、説明(説得ではなく)が先に進まない。
彼らの善意とは、まだものみの塔の教理に反対していない人々に対して「楽園での永遠の命」を与えようと外面では努めているところにある。
証人は相手が反論者であると知ると無視するか、あるいは強い敵意を表し排斥者のような忌避の対象とする。これは平素「憎む」という教えをも受けているためである。ここに彼らの「隣人愛」というものの本来的な姿が見える。それは自分と同じ教理を信じる者には便宜を図るが、それ以外の何者をも排除するという条件付きの「偽隣人愛」であり、それは自己充足感を求めるもので、本質的に利己的であり、一般からは「隣人愛」とは見なされることはまず期待できない。また、「永遠の命」を「今生きている命」よりも価値あるものとするよう教え込まれているが、どちらの命も神からのものである以上、共に貴重さでは変わらないうえに、今の命を軽視し他の人にもそれを勧めることは天国行きを願って自爆テロを起こす目的に変わらず、指導者に命を消耗品として差し出すことになってしまい、それは命への敬意に欠けた行いをしていることにならないかを段階的に推論させることも効果があるかも知れない。
信者らは、それがご利益信仰であることは分かってはいるのだが、それを超えるべきものを見出してはいないので、それが善意になっている。
証人には、自己判断することへの恐れが強いので、価値感を鼓舞する必要があり、価値あることが何かについて思い起こすよう促す必要がある。親切さや公正さなど人の資質の美について事前に会話しておくことに有効性がある。
その後、ご利益を得る目的、また幸福を求めて神を信仰するべきかについて共に推論するのが早道であるように思える。その信仰の目的が何であるのかを共に考えると、最重要にしているものが「自己利益」であることに気付ける可能性をひらく。
これはたいていの宗教も同様であって、ものみの塔だけの問題ではないが、それゆえにも、この件を脱することの意義は非常に大きい。つまり、信仰の型に誤解があり、神を中心としているつもりになっていながら、自己中心の態度を神に対して取っているところに気付いてもらえると良いのであろう。それでも改まらない人は根本的な利己主義者かも知れず、放っておくに限る。
また、このご利益信仰がもたらす閉鎖性については、二次的な問題とする方が彼らには受け容れ易いものと思われる。
論議は、最終的に指導層である「統治体」の真偽、つまり『忠実で聡い家令』か否かに収束することになる。そこで信者は、これを何としても守ろうとする。その動機は救いのご利益がそこに掛かっており、自らを捧げ尽くしてしまった以上、それを追求されることが、その人生や人格までも否定されることに繋がるのを察知するからであり、純粋な神探求をしようとしてするわけではない。主役は常に統治体であって、本人の決定権も失われているが、その危険はまるで察知されない。楽園での永生への希望を信仰し人格を失ったご利益信仰であるのに、神中心に生活していると勘違いしているが、詰まる所、人間とはやはり貪欲なものであり、自分を脇に置いて神の意志を追求するところに達する人は稀であるようだ。従って、理詰めに逃げられないほどに追求することは避けるべきで、その信仰を選ぶのも、その人の倫理性から来るのであり、そこは人ではなく神の裁く領域となってくる。


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エホバの証人の忌避の効用
終末の裁きで何が問われるか
ヨブ記の結論 唯一正統な宗派があるか
「エホバの証人」という矛盾した在り得ない名称

×聖書に厳密に従えば清い崇拝が可能であるという仮定
×神の意志は年代計算が可能であるという19世紀の妄想
×当該組織だけが神に是認されており、救いがあるとする独善
×永遠の命を最重要視させ、保身欲求の信者を操作
×神の意図や経綸に対する探求意欲を妨げる
×個人の見解の相違を認めず、組織の不安定な教理を信仰させる
×指導部への絶対的服従とヒエレルキーの順位順守
×長老など中間職の偏重と弱者への不公正
×信者から判断力を奪う、道徳生活指導と相互監視体制の教唆
×没人格的な一致行動への強要
×行動の多寡による賞罰と偏見
×道徳律に従うことで神の是認を得るというユダヤ教への回帰
×社会への蔑視と差別化が正義の根拠とされる
×子供への鞭を使った人格蹂躙、教育や教養の阻害
×家族制度への介入と破壊、人生設計の妨害
×規範に達しない者への処罰(律法的従順要求)
×精神疾患への無頓着
×忌避制度での指導部の保身主義と個人の権利の制限
×良心的脱退者や教団被害者までをも忌避し情報遮断
×信者集団の所有権の否認誘導による財産強奪


全体的に観て
年代計算を行って神の行動を言い当てた(当たってはいない)組織をギャンブル性からくる宗教心を用いて高め過ぎており、信仰者を恐怖によって支配する独裁体制を打ち建てたことになる。
この原理は、独裁国家と同じだが、支配についてだけ見れば、宗教を用いて成功した例と言える。結果として、独裁がもたらす被支配者層の苦しみの多くが共通している。
外見が宗教組織であるために、独裁国家とは異なり目立たず、伝道で国境を越えて広がり易く、各個人に支配を行うところで強権は見えにくい。しかし「会衆」などの集合体の中での独裁的強権は著しく、個人を宗教という「密室」に連れ込んで、社会の目を忍んでの圧制を行っている。信者の多くがそれを喜んでいるところで、この体制は維持されている。現状での最大の被害者は、この制度から制裁を加えられている人々、また、その制裁を恐れて内部に留まるほかない人々であり、それは独裁体制がそもそも人間の本性に反し、閉鎖性を持たねば維持存続できないことの証明ともなっている。これらに加え、この宗教信者の狂奔的行動の影響を受けている周囲の人々がいることも忘れられるべきでない。



                    • -

・「命を救う業」;比較として杉原千畝 ⇒裁く神からの保護? (生殺与奪の権を持つのはだれか)/彼らの言葉を聞いて信仰を持つ者たち (何によってキリストの左右に分けられるのか⇒伝道するか否か×神の音信は聖霊によるので無謬/伝道によって迫害されるのは聖徒の方である区別なく迫害されるならどのように親切を示せるか)

エホバの証人が戸口を訪ねる時に人々が裁かれるわけでないことは認めている。では、裁かれるのは何時また何をもって分けられるのか?
また、エホバの証人がすでに分けられていると言えるのであれば、その理由は何か?
この件に関する1997.7/1p30-31の記事の論旨は、1995.10.15の訂正された論議とそれまでの「命を救う業」との矛盾を収めようとしてはいるが、「裁きの証拠が積み重なり」判決が出るという事例をキリストの終末の裁きに準え、同様に見做すよう説いている。だが、「油注がれた者」が天に召される時が不明瞭で、それまでの間は依然として「親切を示す」ことは可能であることになる。それにも増して、助けを必要とする事態が「キリストの兄弟らが世界伝道の業を行い切れないから助ける」に置き換えられてしまっており、聖句の描写を無視し、油注がれた者らの境遇はそうでない者らと然程変わらないことにされている。そこに油注がれた者らこそが世の迫害によって精錬淘汰されるという聖書に繰り返される警告を無視しており、『新しい契約』から脱落する事柄が「毒麦の例え」に込められていること、またタラントやミナの例えがそれを警告していることに注意が向いていない。

『神の王国』の支配が1914年から、または1919年から地上の組織を通して始まっているという仮定は、かなり危うい。
つまり14万4千人が天のキリストの許に集められていないことを認めながら、『神の王国』が設立され、しかも未召喚の「天的成員」を通してキリストが地上を支配するかという問題は、「統治体」が『主人の到来を待たず、仲間を叩いて宴会をはじめてしまった』の概念の方に的確に当てはまる。これは『賢くも忠実でもない』ことになり、自らの傲慢な支配欲の赴くままに、キリストを待たず、自分に従おうとする信者をまさに「打ち叩き」虐待して、無理に王国が到来した宴会をはじめているとするなら、聖書の『忠実で思慮深い奴隷』の例え話では、よほど適格に整合している。

これらは、分かっていながら主張しているように思える。そうでなければ聖書を余り読んではいないとしか結論できない。おそらくは「天的成員」特に「統治体」の権威を守るために、それらは油注がれた者らの激しい選別については沈黙しているのであろう。だがそれがために、14万4千人という数の枠からはみ出ることができなくなり、それが年毎の表象物を受ける人数の増加という、この組織の矛盾となって不利な証拠を積み重ねる結果に終わっている。結局は、組織を守るための人間の過ちが更なる過ちを呼んで、もはや言い逃れに終始するという醜態を曝すに至ってしまった。この論旨の決定的破綻はすでに1995年10月に遡るが、それ以前の教理の矛盾という崩壊の種もあちこちに撒かれていた。もう幾らか聖書に通じていたなら避けられたであろうが、唯一正統を誇る強権組織にしてきた為、もはや取り返しがつかない。

・Mt25:34で”リデルとスコットの希英辞典は,ここで「王国」と翻訳されているギリシャ語のバシレイアが,受動態の意味で,人が『王によって支配されている』という意味に解することもできると述べています”としている(生き残る15:13)が、これはこの書籍を翻訳したときに何か勘違いをしたのでは?受動態をとるのは「備えられた」["ετιμάζω]になっている。つまり『支配されている』のではなく『備えられた王国』であり、備えられたものであれば、受け継ぐときには存在していることになり『羊』の参加を『王国』の成立は必要としていない。聖徒らが『受け継ぐ』のは『王国』の設立であって『備えられ』既に存在している王国ではない。

ものみの塔は信者にクリティカル・シンキングをさせないし、指導層みずからしていない。これでも盲信を勧め、反論を力でねじ伏せる体質にならざるを得ない。情報統制はこの宗教団体の脆弱な教えの体質が当然にもたらす必須のもので、一般社会や他の宗教の比較にすら耐えられないのである。指導層の目的は「自分たちが支配者として信者の上に君臨すること」にある。欠けているのは神への畏敬ある姿勢であり、これで情報シテラシーが培われるわけもないし、それで聖書を知ったつもりでいるとすれば、妄想の領域での「知識」ということになる。
これを可能にしているのは信者に対する「永遠の命」喪失の脅しの成功であろう。

ものみの塔の聖書の活用法、特に信者への聖句の適用を見ると、つまるところ、組織体の拡大への動員と信者の帰属意識の発揚に用いられていることに気付かされる。それらの多くは、どうしてこうまで曲解させることができるのかと思えるところまで踏み込んでいるものがあり、それは教理を学ぶ過程ではなく、宣教への指示の中に顕著で、ほとんど指示を徹底させるために取って付けたような聖句の裏付けが頻繁に見られる。ここにこそ、この宗教団体の体質が表れている。
まず団体の拡張という目的があり、そこに信者を動員させるための聖書なのである。
それだから、宣教を受ける側からの質問に、自分たちに手に負えないもの、指導されている範囲を超える質問には答えないし無視して考えようともしない。そこで聖書やキリスト教の探求に向き合ってはおらず、ひたすら団体の拡大に没頭している。
彼らにとって重要なのは信者の獲得と、信者を労役に慣れさせ支配することにある。この動機を察するに、教団の懐く根本的な目的は「支配」であって、キリストの王権も「統治体」存立のための理由付けの看板となっている。実質的には世俗的な支配欲の充足のためにキリスト教の表面を利用しているのであり、『神の王国』とは関わりのない人間の支配欲の産物という以外にない。実際には命惜しさを人々から煽って動員しているのであり、おそらくこの強欲な構造には指導層も気付いていないと思われる。これがこの団体の根本的な問題であろう。この貪欲な支配が成功してしまった背景には、人の命の儚さを巧みに脅したところにある。



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