Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Luk17:22

NA28
[Εἶπεν δὲ πρὸς τοὺς μαθητάς· ἐλεύσονται ἡμέραι ὅτε ἐπιθυμήσετε μίαν τῶν ἡμερῶν τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου ἰδεῖν καὶ οὐκ ὄψεσθε.]


【NKJV】Then He said to the disciples, "The days will come when you will desire to see one of the days of the Son of Man, and you will not see it.

【口語訳】 Luk 17:22 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。

【新改訳改訂3】 Luk17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。

【新共同訳】 Luk 17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。

【岩波委員会】Luk 17:22 また彼は弟子たちに語った、「あなたたちが、<人の子>の日々を一日[でも]見ようと欲するが、見ることの[でき]ない日々が来るだろう。


所見
・「人の子の日」[τῶν ἡμερῶν τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου]については後の24節で「<人の子>も[彼の日]にはそのようになる」と臨御の輝きについて述べている。それは「見よ!そこだ、あそこだ」という偽メシアの地上の台頭を知らせる文脈にあり、その「人の子の日」が、メシアの顕現の時期であることが明白となる。その以前にだけは偽メシアの余地がある。また、その『輝き』は臨在を指し示しており、顕現を意味してはいないことも判る。

そこで、この「人の子の日」とは、臨在の時期を意味してはおらず、その先にある顕現後を意味する。しかも、その顕現もメシアを肉眼で見ることを意味しない。メシアを見るのは霊体となる聖徒だけとなる。

そう把握すると、聖徒が天に召されるまではメシアは顕現しないことと整合することになる。

彼らがどれほどメシアの顕現を渇望しても、それは彼らの迫害と殉教の時代が終わるまでは実現しない。それは聖徒らを極限まで試すことになるようだ。

この件に、ペテロの言葉『終りの日には嘲る者らが来て・・』はこの時期に適用されることはほぼ間違いなさそうに見える。(2Pet3:3-4)
それらの悪人は、聖徒らを愚弄することに於いて恰も勝利したかのように観え、自分の目的を達したかに思うことであろう。その自信が打ち砕かれるのは、聖徒らの去った後であり、『顕現』の時となるだろう。それこそは聖徒らへの復讐を込めた主の「到来」と言える。そのときに不法の人も終わりを迎える。

(それにしても、新約はエピファネイアがあることを知らせているのに、なぜ真っ当に見える「クリスチャン」方が揃って「地上臨在」などと造語してまで見える主の来臨を信じようとするのだろう?身近に感じたいからか)
臨在を肉体のメシアの現れと信じて、そのまま終わりの日に入る多くの「クリスチャン」と称する人々が、この『ここを見よ』という人々を構成することになる恐れは非常に高いようだ。
「臨在」とは、実態の隠され続ける恐るべき裁きを招来するということになる。おそらくは「顕現」の時に至っては裁きは終わっているのではないか。それは裁きの執行の時になる。これが終末のミュステーリオンの姿なのだろうか?古代に在ってはキリストを屠らせるためにユダヤ人に隠され、終末では偽メシアを存在させ、人類を神との戦いに集めるために「クリスチャン」に対して臨在の実態が隠されるという構図が見えてくる。


疑問点
では、「夜」はいつまで続くか?この件と関係があるのか?


影響
こうして観ると、宗教上の争点から終わりの日に入り、世界が宗教を処分してゆく過程で人類は神との戦いに臨むが、それすらも宗教的慫慂あってのこととなるようだ。つまり、無神論と宗教の戦いではなく、宗教と宗教の戦いとなる。(無神論的勢力は聖徒らを攻撃するが、そのあと急速に消滅してしまう)ただ、その慫慂者が大いなるバビロンから不法の人へと移り変わる。そこで多くの人々はバビロンから不法の人へと信じる対象を入れ替える。つまり、終わりの日の争点は常に宗教というものを軸に展開してゆくことになる。それに政治が引きずられゆき、この世は終わりに向かって落ち込んでゆく。大いなるバビロンの滅びで諸宗教が根絶されるのではなく、むしろ、一対一に宗教論争が先鋭化する。(ここはシオンにとって、恐るべき相当な圧力となるに違いない)そのひとつの過程が大いなるバビロンの滅びという段階と言える。バビロンの去った後の不法の人の強力な宗教は、政治とほぼ一体化したものであり、或いは、バビロンの滅びを使嗾するのは不法の人である可能性も相当に高い。なぜなら、人はそう簡単に宗教を変えられず、信仰心のはけ口が必要だからである。しかも、「クリスチャン」方が地上への主の来臨を期待しているのであれば、それはアンティ・クリストや不法の人を存在させる働きをすることになってしまう。「クリスチャン」の大半はバビロンから出ても、そのメシア観に縛られたまま、不法の人を神と崇める危険性は高い。そこで三位一体説は不法の人を神と崇めさせるという「最終的な役割」を果たしてしまい兼ねない。バビロンの滅びの煙を見て『王たち』までが嘆くのであれば、その変化は緩慢に経るものではないともいえよう。これはダニエルの言葉を補強する。・・・・・これでは現在の「地上臨在」や「三一論」の教えの正体とは何だろうか。それは単なる蒙昧ではないということか?!そうであるなら、これを何というべきだろう・・それは誤謬という以上のもので、メシアを屠らせたユダヤ思想のような、意図せずに神の経綸を推し進めてしまう「神への反対運動」ではないか。しかも、それは終末の争点に合わせて綿密に計画されたかのように狡猾である。神と聖霊を一人の人に集約してしまうその恐ろしさがどれほどの圧制をもたらすかを人類は目撃することになるのだろうか?
神の言葉とは・・誤解させることによって成就をもたらす!その実例には事欠かない。おそるべし・・人を狂わす諸刃の剣! それはメシアの口から出た裁きの規定というような概念を超えている。人はそれを誤解し固執することによって自ら裁かれることになる。動機は我欲と改善し難い頑固さなのだろう。
あるいは、その最後に残る宗教というのは名目上キリスト教ではないのか???おそるべきメシア教か??もしそうなら、最終的にはキリスト教キリスト教の戦いにならないものか???? それが『背教』ということか!



聖書は神を否定しようとする人に逃げ道を残しているだけではない。近付こうとする人々をも選別する。
人間の頑迷固陋であるところから、聞いてはいても聞かなかったことにしてしまう。目の前に在っても無かったことにしてしまう。そうするのはまさにその人そのものになる。
神は人間のこの頑なさを用いて、言い広めていながら奥義とし、人々に知らせていながら秘めて置く。
詰まる所、人は自分に都合の悪いことは無いことにしてしまう。そうして神の意志もその発言もかき消してしまう。
また、人は聖書の言葉に拘泥して、そこから動かなくなる。そう書いてあるからそれが正しいと思い込む。神はそれも利用する。そこで聖書にどう書いてあるかよりも重いものがあると言える。それは一歩引いて、神を眺めようとする姿勢なのだろう。文字が神でないように、人格的に神を見る必要がある。実際、文字や文法にこだわる方が人格者として神を見るよりはずっと容易になる。
そうなると、聖書というものは、単に神の意志を知らせるものとは言えない。それは近付く人をフィルタリングする目的をも持っていることになる。しかし、もちろん聖書自体にはそうとはっきり書いていない。聖書を信仰の厳密な基準のすべてとしてしまうのは、危険でさえある。それも人間の都合に合わせた観方ではないか?
聖書万能主義は無神論的とも言える。そのうえ、聖書には人間の欲さえ読み込ませることもできる。サタンはキリストについてさえ、それを行ってみせた。まして、許多のキリスト教の教師たちがこの点で無謬でいられようか?神の言葉に最も精通した人々が、最も神から遠く離れたサタンの業を行う者となったことは忘れるべきでないし、終末にもそのようになる危険性が極めて高い。サタンのそれを退けたのはイエスの神への忠節さであって、知識ではなかったというべきように思える。そこで聖書への「中立」や「客観」という概念は危険にも見える。自然界に見られる創造者の偉大さ、また人間への備えに親切心を見るかもしれないが、最も重要なことを欠いている。それが倫理問題なのである。神に対しては科学のような客観的アプローチでは到達できないものがあり、聖書に対しても同様であろう。聖書の知識ばかりの輩こそ神の前に、また終末において最悪の人種ではないのか?





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