Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ユダ・イスカリオテの裏切り

再臨のキリストを世への復讐者とみる場合
ユダヤ体制側に師を売り渡すことでユダはこの世の側に寝返った。
この世は、神から離れ貪欲で不信仰で理不尽で不義理な世界である。
終末とはこの世の終りであり、神はキリストを介してこれを裁かれる。
この観点かる見る場合、ユダの裏切りは世を裁くキリストという概念、サタンの世に屠られ「神殿への復讐」を遂げる者としてのイエス像は黙示録に何度か見出され、ヨハネ福音書にも見られる。
そこで旧約の予告の成就としてだけでなく、ユダの介在はサタンの世の側からの攻撃を最も象徴付けるものとなる。
彼は『滅びの子』であり『不法の人』の予型であって、聖なる者に選ばれながら変節を遂げ、世の先鋒また刺客となって主の殺害に関わることは不可欠なことであった。彼は過越しニサン14日に『神の子羊』が屠られるのにも重要な役割を果たしている。
使徒ヨハネは一貫して出エジプトの子羊に対応する『神の子羊』としてのキリスト像を描き出しており、黙示録もそうである。
犠牲となる羊には屠り手が必要であり、それを直接に担ったのが祭司長派であった。ローマは介錯者でしかない。しかし、ユダはキリストの側から参与することにより、聖徒にはなっていなかったものの、より高い使徒の立場から脱落している。これは終末における脱落聖徒の中でも最も危険な『不法の人』の前表と言えるように思う。この両者だけが『滅びの子』と呼ばれている。
終末の『滅びの子』を造り上げるのはキリスト教界の現今の教理であるように思われる。彼は終末にしつらえられる神の座に着き、「自分は、再臨のキリストであり、神だ」と主張するのであろう。『見よ、ここに』という警告はここに場所を見出す。
その教理とは「地上再臨」と「三位一体」がまず挙げられる。
彼らは「復讐者としてのキリスト像」を見ることはない。この世と妥協し、その一部であるからであり、感傷的に十字架上に屠られた状態のキリストをいつまでも飾ろうとするが、それを喜ぶのは誰だろうか。ユダヤ教の少なからぬ人々にとっては神殿の再建は夢である。しかし、過ぎ去った契約に戻る意味はもはや無い。それは神の歩みを無視するもので「エジプトに帰る」ようなものでしかない。即ち『罪の奴隷』である。
もし、これらが融合する場合、非常に奇妙な「聖書教」が出来上がるのであろう。それは大衆の宗教感情を触発し、聖徒の教えに反する巨大な宗教、『売り買いを禁じる』ことができるほどに世をほとんど包含し、人々の思いと行動を規制できるほどのものとなる危険性がある。それが『額と手の印』なのか。これは世の常識を形成し、強い圧制となるのであろう。


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もし地上のエルサレムに神殿が建立されるとするなら、旧教、新教だけでなくユダヤ教もこれを推進する教理を提供するのかもしれない。組織宗教が過去のものとなっても、教理は大衆の心からは消し難いものに相違なく、その主要な部分が終末の末期に寄り集まり、それまで存在していなかったほどの究極的偶像崇拝を招来するという将来像の蓋然性も無くはない。
神が『シオンに我が王を立てる』の句も曲解されるのではないか?
現状でも、その傾向は主要な宗教界に見られている。『大いなるバビロン』が去った後に、大衆は精神の空白を埋めるために、この最後の異教の策動に蝟集してくるのであろうか。それを取りまとめる国家があり、それは「羊のような二本の角を持つ野獣」という欺瞞的キリスト教の姿で描かれている。
だが、やはり終末のキリストはこの世と敵対して描かれており世との妥協の余地は無い。明らかに「復讐者」と言える。その復讐はこの世と裏切り者へ向けられるのであろう。これらはサタンより先に滅んでしまう。

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アダムへの誘惑で効果があったのは、エヴァへの愛着を利用するところであったのであれば、同じ問題は親しい者への愛着を神との関係性に優先させることに於いて起こり得ることになる。
肉親の情は自然なものであるし、神はそれを疎外させないとは思えるが、優先度という観点から見る場合、やはり神が人間の原因者であることは否定できない。
人が如何に誰かを愛するとしても、その対象を神との関係に強制すべきでないし、また引き離すべきでもない。
サタンが試みたことはこれに相当し、エヴァが神に無頓着であったところにアダムをその愛着を利用して神から引き離すことに成功したと言える。エヴァと異なりアダムはそれを意識しつつ、エヴァを失うまいとして、敢えて神との関係を犠牲にする道を選び取った。アダムは自らの忠節によってエヴァを贖い得ないことを悟っていたのであろう。『必ず死ぬ』からである。そこで彼の中で、神かエヴァかの二択以外に無くなった。これがサタンの狙う誘惑となったのであれば、相当な効果を発揮したことになる。木の実が美味そうかどうかという次元ではない。
キリスト教徒が肉親を愛する余りに同様の行動をとることは充分に考えられる。ひとつには、近親者に神関係を捨てさせることであり、ひとつには、神関係を近親者に強要することである。それらは共に自分の愛着を神関係に優先することであり、どちらも間違っていることになる。
幼児洗礼とその精神はここにあり、息子娘に宗教を強要することもやはりアダムの罠に嵌ることである。
律法体制は割礼によって宗教の選択を許さなかったが、それはアブラハムの血統上の子孫への契約あってのことであり、それに限界があることはイスラエルの歴史を通して明確に示された。
一方、キリスト教はエデンの問いに回帰していることになり、信仰は個人の選択により、それによって救いを得るものであり、だれも強制することはできない。『叩くなら死なない』とは律法体制のものであり、一式の規定に沿って人格を形成することを意味したが、キリスト教の場合には自発心を育てる以外にない。
したがって、個人の神関係は肉親の情とは切り離して捉えなければならない。それは親子であろうと夫婦であろうと同様であろう。ただ、唯一の例外はコリント第一書七章が示すような、親と幼児の関係であるように思われる。だが、それもその子供は成長を遂げた後についてはやはり同じ原則に従うことになろう。



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ナハムーの預言はゼルバベルの時に集中していて、ユダヤ戦役については語られず、却ってメシアの糾弾の言葉だけがある。したがって、血統のイスラエルにナハムーが起こることを期待はできない。それが起こるのは対型的「シオン」と「シオンの子ら」になる。だが、この辺りを将来のパレスチナに成就することを願望する「クリスチャン」は少なくない。これは大きな勢力となり、実現したかに思えた後に、悲惨に終わることになるのだろう。







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