Notae ad Quartodecimani

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ブリテンとキリスト教

アングロ・サクソン系がブリテンに入るのは五世紀中葉であった
それ以前にはケルト人が多くを占めていた。
マームズベリー(William)によると、アリマタヤのヨセフが、サマセットシャーのグランストンベリーにマリアのための礼拝堂を建てたという伝承があったと
ビードの英国国民教会史によると304-5頃、ディオクレティアヌス帝の迫害から逃れてきた司祭をオールバイン(アルバヌス)というローマの兵士が匿い、身代わりに処刑されたという。(聖オールバン大聖堂Saint Alban)

アイルランド聖パトリック(389-461c)はウェールズのセヴァン川下流に生まれたとも、スコットランドで生まれたとも言われる。彼はアイルランドに拉致されたが、その地をキリスト教化したと
アイルランドからは聖コロンバ(521-597)がスコットランドに宣教を行った。563年に内ヘブリデス諸島のアイオナ島に彼は修道院を建て、そこからケルト人へのキリスト教化が発展した。
しかし、これらのキリスト教(非三位一体)は南から進んできた組織的ローマ教会と衝突することになった。
グレゴリウス一世は、眉目秀麗な奴隷少年に目をとめ、出身を尋ねるとブリテンのアングル族であり、ヨークのデイラから来ていた。
その地がいまだ教化されていないと聞き、以後アウグスティヌスを団長に40名の宣教師を遣わした。彼らはガリアで苦難に遭い+諦めようとするもグレゴリウスに押されて、ブリテンのケント州サニエット島に至った。ケント王エゼルベルヒトは588年にフランク王カリベルトの娘ベルサと結婚したが、フランク側はキリスト教信仰の自由を条件にしていたために、ベルサは教師を連れて嫁入りしていた。
その背景からアウグスティヌスカンタベリーに住居を与えられ、ベルサの礼拝堂であったセント・マーティン聖堂を中心に布教に努めた。(後代に最初のカンタベリー大司教とされる) 彼は601年ころにはケント州の教化を終え、次いでローチェスターなど東に範囲をひろげた。ロンドンのセント・ポール寺はエゼルベルヒトの建立したものである。609年にアウグスティヌスが逝去するとキリスト教化の勢いはしぼむ、エゼルベルヒトの息子エアドバルドはキリスト教を継がなかったからである。そこでロンドンとローチェスターの司教らはガリアに逃避した。
そのころ、ノーザンブリアの王エドウィンは625年にケント王エゼルベルヒトの娘エゼルベルクと結婚したが、カンタベリーから来たパウリヌスが精力的に働きかけて、キリスト教の受容が会議でも承認された。634年には、教皇ホノリウスの認可を受け、カンタベリーとヨークの大司教管区が成立したが、その前にエドウィンマーシアに敗れて戦死していたために、ノーザンブリアのローマ教会は衰退する。
そこにノーザンバーランドが近隣と合併してノーザンブリアを形成し、その王であったオズワルドが635年にアイオナからのアイダンを迎えてリンディスファーンとメルローズ修道院を開設したので、ケルトキリスト教が繁栄する。(後代18世紀に、この地からロバート・モリソンが誕生している)
このリンデスファーンLindisfarneの島は特に「キリスト教のゆりかご」と呼ばれるほどに、ブリトン島北部の宣教の要衝となった。ここは793年にヴァイキングの襲撃を受けたが、四福音書ラテン語訳と聖カスベルト(c634-687)の聖遺物は無事であった。シュルルマーニュは捕えられた修道士らを気遣い、身代金を準備させた記録があるが、それはリンデスファーンの西欧への影響力の大きさを物語っている。後の875年に二度目の襲撃を受け、修道士らはこの地を去りダーラムに移っていった。
その後、ローマとケルトのふたつの教会は勢力を争うが、やがてノーザンブリアのオズウィク王の裁定によりローマが趨勢を得た。
そこにベネディクト会の修道院も入ってきたが、八世紀末からデーン人の来襲によってブリテンは全体が蹂躙され、教会組織もズタズタにされている。この影響は960年ころまで収束しなかったが、デーン人も先住民族に同化吸収されていった。このころダンスタンがカンタベリー大司教となり、クリュニー式の修道制を取入れている。



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  1. ガリアのキリスト教徒については、2世紀後半にエイレナイオスが「不教養で言葉については蛮族ではあるが、考え方、習慣、生き方に於いては信仰のゆえに極めて理知あるもの、神に喜ばれるものである。・・彼らに異端者の言説を告げれば耳を塞いで一目散に逃げるだろう・・彼らには権威的な集まりも、確立された教義もない」と異端反駁3:4に記している。
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[καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.]Gn1:27LXX





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