Notae ad Quartodecimani

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古代公会議 H.Jedin

"Kleine Konziliengeshichte" Hubert Jedin からのノート ⇒ 以前のメモ

最古のシノドスとして知られるのは、第二世紀後半に小アジアで行われたモンタヌス派の諸分派に対処するために開かれた幾つかの会議である。これらと使徒会議とのつながりについては疑問の余地がある。
これらの類いの会議は、隣接地区の司教たちが各々の教区にとって悩みであった謬説や分裂について共同で議論し決議するために開いたものであると考えるのが最も当を得た見解であろう。
ローマ司教ウィクトルは197年にシノドを開催し、東方で慣習的に行われていた復活祭の日取りの決め方に反対を表明した。

第三世紀にシノドは制度として確立されていた。
256年にカルタゴ司教キプリアヌスは、異端者による洗礼は無効であると唱え支持を求めて87名のアフリカの司教を召集した。
第四世紀初頭には、イベリア半島の全司教区から19名のスペイン人司教と24名の司祭がエルビラに参集し、81ヶ条のカノンを決議したが、その内容は今日まで伝えられている。しかし、依然シノドの権威の有無は全教会からの支持を得るか否かにかかっていた。
しかし、第四世紀には制度としての確立が見られ、それはニカイアのカノン第五に年二回のシノドを開くべきことを規定しているところに表れている。
すでに、314年にはコンスタンティヌス帝により西方地域から33名の司教をアレラーテに召集し、ドナティズムと復活祭論争を討議させている。

それから十年を経て最初の普遍公会議がニカイアで開催されたが、これは最初の帝国公会議ともなった。
だが、その後のセルディカ343、東方のセレウケイアと西方のリミニで分かれて開催されたもの359-360などは普遍公会議としては実現しなかった。
その反面、帝国の東半分を対象として開かれたコンスタンティノープル会議381では、聖霊の神性という普遍的に重要性を有する教義を決定したのでローマ司教の権威に基き、西方でも普遍公会議として承認された。
大司教制と首都大司教制の成立に伴って、シノドスにもそれに相応する形式が出来上がった。総大司教シノドスと管区シノドスである。前者はアレクサンドレイアとアンティオケイア、時代が下るとコンスタンティノープルの総大司教によって召集されたもので、後者は、東方においては各管区で毎年二回開催されるべきことが定められ、司教選挙と叙階に関して決定を下し、各種の問題の解決に導く機会となった。

ゲルマン諸国家では、王が自国領内の教会に対する決定的支配権を行使したため、新しい型の教会会議、王国教会会議、国民教会会議というものが生まれた。それは一つの国家を網羅するものであり「総教会会議」とも呼ばれた。これは世俗の王国会議と結びついて開催されることもあった。中世を通してドイツの歴代の王らが帝国会議を催した際に、俗権の支配者らが出席することもしばしばあった。しかし、ブリテンではカンタベリー大司教の開催となり、俗権とは切り離されたものであった。
教会会議が支配者によって開催されたことに於いて、西ゴート、フランク、ドイツは「俗人支配」(ライエン・ヘルシャフト)を示しているということができる。
これに対してグレゴリウス改革の進展後に教皇が開催した教会会議は教皇権の自由を勝ち取る戦いの中で成功しつつあったと言える。


ローマ皇帝及び東ローマ皇帝に召集されて、帝国東部のニカイア、コンスタンティノープル、エフェソス、カルケドンで開催された八つの公会議は、その後ローマ教皇に召集されて西欧で開催されるすべての公会議に比べて著しく異なっている。
この為、年代的に観て、それらの一部分が初期中世に食い込んでいるとか、最初の四つの会議(厳密な意味での「古代の公会議」)が残りの四つに比べて重要性で卓越しているとかの相違にも関わらず、この八つの公会議を歴史的に一体と成すものとして扱うのが正しい。
教皇グレゴリウス一世は最初の四公会議を、その権威の観点から四福音書になぞらえた。これらの公会議が教会の基本的な教義である三位一体論とキリスト論に関する教えを定義したからである。この主要な機能に比べれば、取り扱われたその他の案件はいずれも二義的なものでしかない。
古代の公会議の場合、皇帝はその召集に当たってあらかじめローマの司教たちから同意、あるいはそれどころか委任さえ取り付けたかどうかという、宗教改革時代以来の、また最近では教義学者のショーベンと教会史家のフンクの間で激しく討論された問題がある。そのような同意や委任は存在しなかったということで決着がついたと考えてよかろう。しかし、それによって教皇たちが西方世界の総司教として、それも一種比類ない優越性に基いて公会議に代理を派遣したと、公会議に於いて教皇の特使が常に一種の特権的地位を享受し、時には議長を務めたこと、公会議の決義が普遍教会的効力を持つには、教皇の承認が不可欠とされたことも確かなことなのである。
コンスタンティヌス大帝は教会に自由を与えたが、また「教会を帝国に、帝国を教会に結びつけた」(シュヴァルツ)。しかし、教会と帝国とはそもそも至高者の問題、即ち創立者の位格を巡るひとつの宗教的紛争によって平安を乱されていた。
元来、教会は創立者を「主」(キュリオス)として崇拝し、創立者を神(創立者は自らを「その子である」と証言した)の側においた。また人々はイエスースの委託に従って父と子と聖霊との名に於いて洗礼を授けていた。問題は、この「主」の信仰、ならびに三位の名による洗礼式文と、キリスト教ユダヤ教から受け継いだ厳格な一神教の思考とが、どう一致しうるかというところにあった。
二世紀の末に神学的な思考が力強く興ったとき、それはこの秘儀と取り組むことになった。ロゴスと「世界形成者」(デーミウルゴス)それが神と人の間の神的・中間的存在の全段階のうちの最高位の存在という概念を提供して、この見掛け上の困難を解消し、人間理性に釈然と理解される道を拓いたかに見えたのは、ギリシア的思考であった。
三世紀の神学者たちの中には、この思考の延長線上にあって、サベリウスのように父と子と聖霊の三つの位格を一なる神の三つの現れ方だと説明する「聖子従属論」をとる人々が少なくなかった。
アレクサンドリアの司祭アレイウスは、その師アンティオケアのルキアノスからこのような見解を受継ぎ、これをさらに先鋭化した。アリウスによれば、ロゴスは「父によって創造されたもの」であり、永遠の属性を欠く「ロゴスが存在しなかった時がかつてあった」と言う。
アリウスは孤高の思索家のタイプではなかった。宗教家としての彼には、人の心を強く捉える一種の強烈な魅力と天賦の文筆の才とが備わっていたが、それで彼に傾倒する者たちが周囲に集まり、一種の共同体が形成されていた。
彼の上長の司教アレクサンドロスはある大きな教会会議で(318)アリウスを破門としたが、アリウスを支持する勢力はあまりにも大きくなりすぎていた。皇帝の信任の厚かったコルドバの司教ホシオスが調停を試みたが、徒労に終わった。この衝突が東方世界の全体を揺り動かすことになる。



■ニカイアの「三八一教父による大にして聖なる教会会議」

ロゴスの永遠性ばかりでなく、復活祭の日取りの問題など、教会内の論争が不穏な空気をかもしてしたので、コンスタンティヌスは帝国の司教たちをビティニアのニカイアに召集し、これに応じて参集する司教たちが高級官僚と同等の待遇で帝国の駅伝制度を利用できるよう命じた。
318名というが、今日その出席を確認できるのは220名余りであり、カエサリアのエウセビオスも250名を越す出席者を記すのみである。
その中では、シリア、キリキア、フェニキア、アラビアとパレスチナ、加えてエジプト、テーベ、リビアを含み、メソポタミアも居た。さらにペルシアからも一人、スキタイも欠けていない。ポントス、ガラティア、カッパドキア、アシア、フリュギア、パンヒュレイアからも派遣があった。トラキアマケドニア、アカイア、エピルスも派遣があり、ヒスパニアからは高名なホシオスも参加した。ローマはシルウェストルの高齢のため司祭たちが代理で来ていたが西方は甚だしく貧弱であった。

会議は5月20日から7月25日まで皇帝の夏宮殿内の大広間で行われた。
エウセビオス曰く、皇帝は親しく会議に臨み、平和を促すラテン語の挨拶を行ったが、討議そのものには干渉せず「公会議の議長たちに発言の権を委ねた」というのだが、この「議長たち」というのが誰かは分からない。この会議とこれに続くもうひとつの会議の記録が残されていないからである。

何人もの司教が「我らの主イエススの傷痕を身に帯びていた」というのはかつての迫害<313年以前の>迫害で毅然とした信仰を告白したからである。エウフラテス河畔のネオカエサレイアの司教パウルスは、灼熱した鉄で腱を切られ両手が萎えていた。エジプト人のパフヌティオスは、マクシミヌス帝のときの迫害で片目を失っていた。
アリウスは会議で自ら弁明に立った。彼の17名の支持者の内で最も雄弁であったのは、ニコメディアの宮廷司教エウセビオスであった。「度重なる長い審議と多くの争いと、綿密な熟慮のうちに」アンキラのマルケロス、アンティオケアのエウスタティオス、アレクサンドリア助祭アタナシオスらの指導する反アリウス派が優勢となり、彼らはカエサレアのエウセビオスの提出したカエサレア教会の洗礼用信経を改訂してニカイア信経を作成した。この信経は明確な表現を以って、ロゴスの、父への如何なる従属をも排斥している。--ロゴスは「父の本質から」出て、「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神、つくられずして生まれ給う者にして、父を本質(ホモウーシオス)の方である」。また、その付録で、アリウスの最も重要な諸命題が明確に排撃された。公会議は325年6月19日にこの信経を採択したが、二人の司教だけが署名を拒んだ。この両名はアリウスと共に教会共同体から除名され、追放に処せられた。信経は皇帝によって帝国の法として発布された。
公会議は、さらに一か月を要して他の小さい問題を扱った。復活祭の日取りは、春分の後の最初の満月の次の日曜とするということで和解(?)がなされると共に、アレクサンドレイア司教に算定が委嘱されることとなったが、この決定をも皇帝は帝国の法として採択した。
厳格なリコポリスの司教メレティオスは、ディオクラティアヌス帝の迫害に屈した人々に対するアレクサンドリア司教の処置に不満を持っていたが、公会議は彼に対してアレクサンドリア司教の権限への干渉を禁じた。
このほかに20の短い規定を定めそれらはカノンと呼ばれた。
<第2.4.6.11.20のカノンについては前記事を>
第17条は、利子収受禁止であり、これは以後の公会議で繰り返されたところを見ると、守るのが難しかったらしい。


■信経を巡る論争
ニカイアで敗北した親アリウス的な中間派は、数年後、ニコメディアのエウセビオスの指導のもとにコンスタンティヌス大帝に対する影響力を獲得し、アレクサンドリア司教に昇進していたアタナシオスへの容赦ない戦いに皇帝の力を利用した。335年アタナシオスはトリーアに追放された。(アントニウスの「伝記」は357に書かれる)
アリウス自身の教会共同体への復帰は、彼の死によって(336)かろうじて避けられた。342年のセルディカ会議は教会の統一を回復するどころか、新たな分裂を生み出した。西方の司教らはアタナシオスの廃位を不当だと訴えたが、東方の司教らは別個に会議を開いてアタナシオスの有罪を宣言し、アタナシオスを受け入れた教皇<ローマ司教>ユリウスⅠ世も排撃した。彼らはニカイア信経の「同一本質」(ホモウーシウス)の語を避けた新しい信経を作成し、子は父に「似た者」であるとか、「すべてにおいて似た者」あるいは「父と似た本質のもの」であるなどとした。
彼らはコンスタンティウスⅡ世を説得して、新たな帝国公会議を開かせ、西方ではリミニで、東方ではセレウキアでそれぞれ359年に開いたが、リミニで約400名はニカイア信経を再確認したが、セレウキアとは分裂することになった。コンスタンティウスⅡ世はトラキアのニケで起草された「聖書に従えば、父と子は似ている」という内容のニケ信経への署名を拒否した司教らを追放刑に処すると脅したが、教皇リベリウスとポワティエのヒラリウスはこれを拒み通し、このころヒエロニュモスの有名な一言が発せられた。
<このあと、著者の三一派偏重の主観的な文面があるので省略>
グラティアヌス帝とダマススによる平和政策(?)の成功を用意にしたのは、「新ニカイア派」バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリウス、ニュッサのグレゴリウスの仕事であった。彼らは「一つの本性と三つのペルソナ」という言葉でニカイアの定式文に適切な(?)理解を表現することによって、神学上の誤解(?)を一掃したのである。
もちろん、厳格な古ニカイア派(アレクサンドリアや西方)の人々が、不信の目を向けシスマの発生していたアンティオケアでは古ニカイア派のパウリノスと新ニカイア派のメリティオスの対立に関して前者に支持を与えたとしても理解できないことではない。
テオドシウス帝は、新たに帝国公会議を開くことによって、緊張を解き平和を確保する計画を持った。
この会議によって三位一体信仰に最後の要石をはめ込むはずであった。即ち、聖霊の神性に関するものであり、これにはアリウス派も半アリウス派聖霊は子の被造物であると説いてきた(?)。この人々にアタナシウスは362年と翌年の会議で論駁を加えた。ローマで開かれた幾つかの会議でこれらの「聖霊の敵対者ら」に有罪を宣したが、コンスタンティノープルの司教マケドニオスもそのような一人に含まれたので、その主張者はマケドニオス派と呼ばれる。



■著者のイェディンは、シュレジエン生まれ1900で、1924に司祭に叙階されている。その後ローマで研究を行い、宗教改革期とトレント会議に関わるアウグスティノ隠修士長ジロラーモ・セリパントについて著作を公刊している。彼の名著は「キリスト教公会議史」である。







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