Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「忠実で思慮深い奴隷」の背景

 


『忠実にして聡き奴隷』についての記述は、マタイ24:45-とルカ12:41-の二か所に有る。

Mt24:47

[amhn legw umin oti epi pasin toiV uparcousin autou katasthsei auton]

 

Lk12:42

[καὶ εἶπεν ὁ κύριος τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον;]

 

どちらも[καταστησει]<動)直未来能3単 >語られた時点では未然


この『忠実にして聡き奴隷』については、他にダニエル11:33が関係しているのかも知れないし、ネヴィイームの中に散在している可能性も考えられが、とりあえず、イザヤの『子ら』に付随して存在している。

彼らの存在は、神の聖霊の介入なく始められる必要があると思われる。

『奴隷』に関するこれら福音書の記述では、明らかにキリストの到着以前の段階で活躍する者らのことを述べており、成功と失敗の双方の可能性が記されている。
またキリストの『誰であろうか』という問いかけは、存在することになることの確定性と共に、その働きの不確定性とを同時に示している。

そこに、キリストの帰還の時の不明性が強調されており、それはダニエルの70週の最後の一週の終りが語られないことによって分割されているところとも合致している。
即ち、『契約を保つ』メシアの最後の三時半が何時到来するのかという謎と、『あなたがたはその時を知らない』という弟子らの不可知ばかりでなく『子もまた知らず』という『天の父がその管轄する時』のことであり、『夜半になるか、明け方になるかを知らない』下僕らの置かれた、主人の『婚礼からの帰還』を待つ期間のことである。


これらは、どれもが時の不可知性を強調しており、覚醒運動以来の各派のような「年代計算」の悲劇的失望とも却って整合するものとなっている。したがって、『忠実にして聡き奴隷』と「時を予告する」という行いとは正反対のものであることになり、むしろ、『主人は遅い』と云う事態を招く必然性を帯びているし、実際にアドヴェンティスト派や、そこから派生した「ものみの塔」がそうなっている。なぜ『主人は遅い』と云うのかを問えば、自分の予想が有ったからにほかならず、それは主人中心の態度ではなく、自己本位な願望を持ったからではないか。その誘いとなっているのは「いちじくの例え」などのようである。

 『忠実にして聡き奴隷』では、時の不確定性への忠実さが強調されており、主人が何時到着してもよい姿勢は、マタイでもルカでも直前の『夜盗』の例えから繰り返されており、第二夜警時でも第三夜警時でも『篝火を焚き続けている』べき務めが求められている。『仲間の奴隷たちを打ち叩いて(強制して?)』宴会を始める者らに対しては、彼らの『まさかと思う時刻に(人の子)は来る』という。その不意打ちの原因を作っているのは彼ら自身なのである。

 したがって、『忠実さ』は時をどう待つかに強くかかっている

そのために「時の予想」はきわめて厳しく戒められているのであり、『打ち叩かれる』鞭打ちについても、これは実例が幾つか存在している以上、実現するものとして語られているとみるべきなのであろう。

 しかし、キリスト教界の伝統的な趨勢では、主人の帰還について意識も低く、むしろ再臨という事柄の発生であってさえ望ましくもないような姿を見せている。他方で、再臨によって自分たちは救われると決め付け、裁かれないものと想定している宗派もよく見かけるが、その自信の由来は、『新しい契約』に預かる『聖徒』への言葉を自分に当てはめてしまっており、あまつさえ『聖徒』の受けるべき裁きによりその多くが殉教に倒れることを無視し、キリストの地上への有難い祝福の降臨を期待してしまっている。それもキリスト自身により、地上再臨が起らないことを再三警告されているにも関わらずのことであり、これは救いの利己的願望が築いた「信仰」という以外ない。

しかし、『罪』を赦されている『聖徒』であってさえ裁かれる終末に、どうして裁かれるべき赦されていない『罪人』に向かって、神にもキリストにも最初から善意を注ぐよう強制できるだろうか。そこで彼らは「バプテスマを受けた」「道徳的であるからノアのように生き残る」「キリストの品性に倣って予審を通過した」等条件を挙げるのだが、これは「裁き」の真意を知らないからであろう。これがつまり根本的な倫理性が各人に求められる「エデンの問い」である。そこに自己保存本能の出る幕はない。全能の神がすべての人を救わない理由にこそ意識を向けるべきだからである。

それから、ひとつ謎がある。ルカの『世界の臨もうとする事柄を想うために、人々が息を失う』ときに『あなたがたの解放が近付いた』の『あなたがた』が聖徒ではないように読めるところがある。天に霊の復活を遂げているにしても、幾らかの不自然さが残る。これは『忠実にして聡き奴隷』の直前でペテロが質問したような、両者に関わる事柄として語られたのだろうか。

いや、これは明らかに聖徒のことを言っていない。これは神と人の戦闘の後になり、全聖徒が天軍に参加する以上一人も地上に居ない。この辺りを理解するには、ゲッセマネの祈りを加味する必要がある。

 

また、『忠実な聡い家令』に関わる前後の記述では、何度か食事に関して述べられている。
その家令は仲間の奴隷らに定時の食事を備えており、不忠な家令は仲間を起こし、強制して宴会を始めている。
また、忠実であった家令には、主人がそのものに給仕するとも言っている。
したがって、主人の婚宴からの帰還においては食事、また宴会が行われることが二度示唆されている。マタイでは、続く25章でもやはり婚宴から帰る主人を持つ乙女らの例えが続いており、当時までのユダヤの風習を通して、不定の時刻に戻る主人と、それが何時になろうとも待ち続けるべき奴隷の務めとが描かれ、主人の帰還の時をどう迎えるかという観点が強調されている。


加えて、『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている』ことが命じられているところは、『主の晩餐』との関連を連想させる側面を持っていると見てよいように思われる。なぜなら、共観福音書の後の過越しの場面で、イエスが『主の晩餐』を制定し、それを行ってゆくようにと使徒らに命じている。


これは使徒らに代表される『聖徒』への直接の下命であるとしても、正式な儀礼聖霊の再降下なくして行い得ない。
だが、聖徒がいきなりに登場して『主の晩餐』を祝うかと云えば、聖徒という極めて高い立場への認識ないところで、聖霊の注ぎが起るかには問題がある。あのシャヴオートの日の以前に、信仰を懐いた120人が居たから『子ら』の誕生もあったのであり、パウロは信仰による義によって聖霊で油注がれたと述べている。
即ち、メシア信仰を懐いたことにより義を得て、そこに認証である聖霊が与えられている。


そうであれば、終末の『三時半』に契約を保つメシアは、あのシャヴオートの時と同じ手順を踏むべき重要な理由があることになる。

最初の主の晩餐がキリストの臨席があり、使徒らが油注がれてはいなかったものの、やはり聖霊降下に先行してペサハが行われている。そこではシャヴオートまでの七週という期間の象徴性が意味を持つように見える。モーセを通してペサハとシャヴオートが制定されたとき、既に、大麦の『初穂』としてのキリストの復活と、その犠牲の最初の益に与る小麦の『初穂』としての聖徒らの登場とは予見されて、神の経綸とされていたことがここに明示されている。

この場合の『忠実で聡き家令』の位置付けは、エルサレムに留まり二階の間に隠棲するガリラヤの弟子であり、それを指導し使徒職を12名に整えている使徒ペテロが相当するように見える。<聖徒らに対する使徒らの優越性は、聖霊降下の前に試練をキリストと共にし、主の晩餐に預かっているところに表れている。然るに、彼らは聖徒らを吟味する立場が与えられた>彼らはシャヴオートを境にキリストの奇跡の業を聖霊によって継承し、その立場がキリストの肉と血に与る者であることを『主の晩餐』によって象徴的に示し、同時にそれは『新しい契約』への参与を自らの内に刻むことにもなったに違いない。

従って、シャブオートを待つガリラヤ人たちは、一回目の食事儀礼の後の聖霊降下を待っていた人々であったことになる。彼らは迫害の渦中であっても『エルサレムを離れずに居る』べきであった。

 では、その間どんな『定時の食事』に与っていたか?また供給者は誰であったのか?あるいは『忠実な聡い家令』とは終末に特徴的な存在なのだろうか?

 

 Mt24:45

[Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ τοῦ δοῦναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;]

 Lk12:42

 [καὶ εἶπεν ὁ κύριος· τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον; ]

 マタイではドゥーロス"Servant",ルカではオイコノモス"Steward"

『ダマスカスの人、エリエゼル』サラの独り子イサクの嫁の導き手としての

エサウは長子の権を軽んじた』Gen25:34 <脱落聖徒or旧基督教?>

エサウは双子ながら本来の相続権を持っていたが;血統上のイスラエル⇔神のイスラエル?(但し、ガラテアではイサクとイシュマエルが双方の母親を通してユダヤ教キリスト教が対照される)

”lest there be any fornicator or profane person like Esau, who for one morsel of food sold his birthright.”NKJV Heb12:16 

日本語訳では『俗悪な』(口語、新改、新共)とされるが"profane"は「神聖でない」の意があり、これは当該ギリシア語[βεβηρος]  の字義” 1) accessible, lawful to be trodden 1a) of places 2) profane 2a) unhallowed, common, public place 2b) of men, ungodly ”にも含まれている。

Isa14:1-2 『主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。』

 

Isa61:2-6 『の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
しかし、あなたがたはの祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(口語)

『【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
しかし、あなたがたは【主】の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。』(新改訳3)

『主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼ら主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。』(新共同)

 

『彼ら』という三人称の者らは『あなたがた』という二人称とは明らかに別なものとして語られている。

二人称の者らはイスラエルであり聖徒の予表であることは『祭司』の語から分かるので、その以前に語られている『彼ら』と『異国の者ら』が同じものを指していると見るのは不自然でない。だが、異邦人がシオンを嘆くか?<キュロスとペルシアはどうか?>

 

Isa66:22『「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」』(口語)

『わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる』(新共同)

『わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする』(新改3)

[וְגַם־מֵהֶ֥ם אֶקַּ֛ח לַכֹּהֲנִ֥ים לַלְוִיִּ֖ם אָמַ֥ר יְהוָֽה׃]

<選ぶに相当する単語は無い>しかし、全部がそのままというのは極めて考えにくい

 


quartodecimani.hatenablog.com

 

 

Ams9:9-12

『「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。
わが民の罪びと、すなわち/『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と/言う者どもはみな、つるぎで殺される。
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を/所有するためである」と/この事をなされる主は言われる。』(口語)

 

10節まではイスラエルの選別を指している。それが行われる『日には』となるが、その期間が狭く限定されているかは予断を許さないように思える。なお、荒れ跡を再興するのは神自身として語られる。だが、イザヤではそうなっていない。これは、荒れ跡を再興するのが異邦人であり、神の命によると捉えることもできる。キュロスの故事では、異邦人は荒れ跡を直接に再興してはいない。使徒会議では、聖徒への異邦人の採用がアモスに関連付けられた。だが、ヤコブが限定的に句の意味を固定したかは不明。<アモス書9:11-12/イザヤ書45:20-21>

しかし、Isa60章以降は明らかにシオンに向けた言葉が多く、それは54章辺りから始まっている。これほど聖徒前の者らに向けて語られた預言がほかにあるだろうか。

 

 

ものみの塔の統治体を検証する