Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

マケドニア履歴


マケドニアは元はバルカンの西半分を占めるピンドス山地から東の低地平野に進出してきた移動遊牧民族で、ギリシア化はアルケラオス王によって進められた。彼はペッラにゼウクシスという高名な画家を招いて王宮を飾らせ、エウリピデスも呼ばれ、この劇作家は亡くなるまで当地で過ごしている。そのため後のアレクサンドロス大王が「メーデイア」からの句を諳んじていてパウサニアスに語ったというプルタルコスの記録も有り得たという。
先の時代、ペルシア戦争マケドニアはペルシア側についたため、戦役後にギリシアとの関係を調整する必要があった。
ギリシアアテナイを盟主とするデロス同盟につき、多くの艦船の建造を要したが、前4世紀の学者テオフラストスによると、「大工が用いるための最良の木材はマケドニア産である」としている。ピンドス山脈は良質で豊富な木材を供給することができ、この点でマケドニアギリシアの必要に応えることができた。

フィリッポスⅡ世(BC382-336)は、子供時代にテーバイの人質として過ごし、この国の軍制を学んだとされる。マケドニアのバシレイオスとなったのは前359年で先王アミュンタスⅢ世の死後帰国を許され、甥であるアミュンタスⅣ世の摂政となった後、すぐに甥を退けて即位している。しかし、甥は殺害していない。

自分の代でペッラに都したが、トラキア方面に遠征したときにトラキア人の街を攻め取り、ギリシア人を入植させて自らの名をもってフィリッポイと名付けた。(356)


彼の四番目の妻は、ピンドス山地のエペイロス地方に中にあるドドナを首都とするモロッソイ王国の王女で名はポリュクセナであった。
彼女はサモトラケの密議でフィリッポスと出会い、彼のひとめぼれで兄弟(実際は叔父)のアリュッバスを説き伏せて婚約したとプルタルコスは「英雄伝」でいう。

エペイロスではディオニュソスの崇拝が強かったが、その神はゼウスがテーバイの王女セメレーに産ませた自然の豊穣と生殖力を体現し、葡萄酒の神ともされる別名「バッカス」である。
葡萄を発見してその酒の製法を知り、キュベレーから小アジアで密議を授かった。その後、人間に葡萄の栽培を教え、自らの神性を認めさせ、その祭儀を広めたという。
まず、小アジアを征服して多くの熱狂的な信女らを得てから、葡萄の蔦を絡ませてギリシアに来た。彼にはサテュロスやシレノスが従っていた。
その熱狂的な信女らは「バッカイ」と呼ばれたが、小鹿の皮をまとい、テュルソスという蔦を巻いた杖を握る。
山野を巡り、集団で饗宴乱舞し、神や自然と一体となって恍惚に酔うという。エウリピデスの「バッコスの信女ら」に描かれるところでは、その憑依により素手で牝牛を引き裂くとも。
この女たちは、村々を襲撃してはあらゆるものを引き裂いていったが、村人が槍を投げても傷も負わず、血も流さないという。
テーバイの王ペンテウスは、母親までが信女になってしまったのでディオニュソスを取り押さえようとしたが、母親の命令を受けた女らによって八つ裂きにされたとも。(教祖ディオニュソスは人間であったらしい)
(憑依された人が異常な怪力を持つところは福音書にもある)

こうした異常な憑依による狂乱の崇拝は、ディオニュソスだけでなく他の神々(カペイロス/サバジオス)にも見られ、こうした傾向は小アジアからピンドス山脈まで広く見られたという。
サモトラケの密議はカペイロス(商人の神か?)のものであったが、ギリシア人にはまとめて「ディオニュソス崇拝」と認識されていたとのこと。


フィリッポスⅡ世がカルキディケー半島に遠征したときに、三つの福音があった。
まず、度々北辺を侵してきていたイリュリア勢力に対し、腹心の将軍パルメニオンが勝利したこと、オリュンピアードで王の馬(車)が優勝したこと、四番目の妻ポリュクセナが男児を出産したことであった。そこでポリュクセナはその慶事からオリュンピアスと改称して呼ばれることになり、その子はアレクサンドロスと名付けられた。

彼女は密議に熱心に参与しており、激しい憑依状態を愛し、長い蛇を一匹ならず飼いならしていた。それらの蛇は、人間に良く馴らされていて、踏まれても害を為さなかったという。フィリッポスⅡ世は、オリュンピアスの傍らで共に休む大蛇を見て、疎遠になったらしい。

当時のマケドニアには蛇が多く、それらをペットとすることは容易であった。

 しかし、マケドニア貴族の生活はギリシアと異なって質素であり、家内奴隷を用いず、女たちは自らパンを焼いたという。

王はたいていは一夫多妻で、フィリッポスⅡ世の場合には、政略結婚の繰り返しで最終的に七人の妻を持った。だが、七人目のクレオパトラについては政略結婚ではなく、それがオリュンピアスとの決定的な不仲と出奔を招いたとも。王位継承の危機を抱えたアレクサンドロスも母と共にマケドニアから、幼馴染のアレクサンドロスが王となっていたモロッソイに去っている。

また、多婚については、ギリシア(特にアテナイ)とは異なり、妻たちの中で正妻と側室の区別はなく、皆が正統で誰も対等の「妻」という認識であった。

アレクサンドロスの帝王教育では、フィリッポスⅡ世は母親から引き離して(母親の呪術的蒙昧教育に危惧があったか)オリュンポス山の東に位置するエミザに、当時小アジアに居たアリストテレースを招いて何人かの少年たちと共に息子を教育させた。このグループが後のアレクサンドロスを支える諸将ともなり、ディアドコイ戦役のそれぞれの領袖ともなってゆく。アレクサンドロスはこの偉大な師を生涯忘れず、書簡の往来が続いており、アリストテレースの知性的影響の大きさを物語っている。

 フィリッポスⅡ世は前338年にカイロネイアの戦いに勝利してスパルタ以外のギリシアを掌握し、コリントス同盟を締結しその盟主となる。

その後、小アジアをペルシアから解放する目論見で、ペルシア遠征を計画し、先遣隊一万を先発させている。その間に、モロッソイに退いていたオリュンピアスと息子を呼び戻すべく、息子アレクサンドロスの妹のクレオパトラをモロッソイ王となっていたオリュンピアスの弟のアレクサンドロスと結婚させることにする。これにはオリュンピアスも賛同しないわけにゆかず、フィリッポスⅡ世は、かつてマケドニアの首都であった南部のアイガイで挙式させることとした。

広範な支配地域とコリントス同盟のギリシア各地から賓客を招き、饗宴や競技会の開催が予定され、フィリッポスⅡ世は権力の絶頂にあったのだが・・

 

 

ディアドコイ戦役に至る情勢