Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

メモの集積

-逆方向へ-

 

・滅ぼされたのはソドムとゴモラだけでないJr50:40

・「あなたの知恵と知識があなた(バビロン)を誘いだした」Isa47:10

・例年ペサハを行っているところにキリストが『主の晩餐』を始め、贖いと解放を示した。キリストの実体の前表であった晩餐そのものも前表であり続け、それはやがてキリストの臨在を知らせるものとなり得る。従って、それを推し進める聖徒ではない者が誰か居なくてはならない。忠賢者が主の到着の時期と深く関連付けられているので『シオンを嘆く者』が居なくてはならない。

・Isa60は聖徒ではない者たちについて長く述べている。

・神の裁きに於いて試されるのは何か?アダムとエヴァの場合には「決定」であった。だが、その子孫の場合には個人の内奥の倫理的傾向であるようだ。それは社会的道徳性には現れない。その例として、ダヴィド王の悪行と神の評価には人が理解に苦しむ程のアンバランスが見られるし、それはアハブ王でも変わらない。アハブやマナセJudに限らず、生涯の結論的評価が人の間では低いにも関わらず復活して神の裁きを受けるのであれば、神は人の表層ではなくかなり深く内面を見ると言える。従って、裁かれるのは個人の道徳の程度にはならない、特定の悪行によってその人が相対的に裁かれると考えられがちだが、そのように捉える人々にとって、ダヴィドへの神の処遇が上手く説明できないことになる。『彼(DVD)は、わたしの法と掟とを守ったからである』1King11:34  ⇒「子は必ず死ぬ」ダヴィドの贖いとされている「ダヴィドの子」か?

 

・救いへの願望がもたらす経綸理解

神の救いにすがりたいと願っているところで、聖書の断片的言葉にすがりつき、本来の神の言葉の意図を歪めて捉えてしまう。

 

・『また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。』口語

[οἴδαμεν ὅτι ἐκ τοῦ θεοῦ ἐσμεν καὶ ὁ κόσμος ὅλος ἐν τῷ πονηρῷ κεῖται]

『知っている なぜかを のものである 神の そして この世は すべてもの 悪いもの  横たわっている』

”We know that whoever is born of God does not sin; but he who has been born of God keeps himself, and the wicked one does not touch him.”NKJV

前の節

『すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。』

19節は聖徒について述べている。また、[κειμαι](原)は「操られる」ではなく、「横たわる、定まる」である。キリストに言ったように『属している』という以上の意味はない。

 

・あの動画(ハーベスト系)の欠陥は、テサロニケに書かれた「背教」を終末に来るものとは捉えず、いまだにローマ・カトリックに同定しているところにある。彼らには「終末の背教」という概念が欠けており、これはアメリカ系の新興キリスト教によく見られる。カトリックを踏み台とすることで自分たちの正しさを感じたいのだろうが、ダニエル書の理解が短絡的で、終末に関わる聖書の情報の総合が幼稚な段階に留まっている。

・神殿が再建された当時、ペサハは14日に行われていることがエズラ6:19-22で分かる。続けて七日間の無酵母パンの祭りを行っている。セデルの15日への移動はその後に時代のもので、おそらくはタナイームが元凶ではないだろうか。あらゆる聖句を絶対的に見做す以外に動機が見当たらない。

 

・『わたしたちは皆、一時は肉の欲に従って生活し、生まれながらに憤りの子であったものを・・』Eph2:3

-この世を推動しているものは貪欲である--この世に属するすべての人は(信者も含めて)憤りの子のままである-

 

・『神は天のものも地のものも、キリストに在って一つにする』[οικονομια]というパウロ論議から創世記を見ると、人が『地を治める』とは、地上の「管理」というだけでなく、「一つのオイコノミアにまとめる」という意味があるのかもしれない。それならば、先史時代、化石時代の自然界が弱肉強食であっても辻褄が合う。そこで人の特質は「愛」であると言えることになる。失楽園の時に自然界は以前の状態に戻ったと言い得る。

 

・『今この時期に百倍を』は、既にイスラエル同朋であった弟子らが、別の同朋を得ることを言われる。これは後の『同朋の兄弟全体』を指していたと思われる。どうして以前の同朋関係から離れたかと云えば『福音のため』とされており、メシア到来による『神の王国』の接近のために、弟子らとユダヤ体制との間に信仰を巡る異なりが出ていたことを言うのであろう。(Mk10/Lk18はより詳しい)

またルカは違った場面で『(永遠の)命を得る』ことについて記し、イエスは律法中最大の掟に関してこれを述べている。Lk10 ヨハネは愛と永遠の命を関連付けたイエスの発言を記録し、それは書簡とも一致する。Jh3

また、なぜ富者に主要な律法を守る事と『完全であるために』追随者となるよう求めたのかは、五旬節前であったので、律法体制下での要求がされたと見做せる。これは『義人はその義によって生きる』に代弁されている。従って、『信仰による義』が示されたのは、早くはキリストの死からであり、五旬節の奇跡に預かった人々はその信仰の義に達したと言える。

この件で問題となるのは、永遠の命が従順と関係しているかのように見えることだが、律法体制下に在った人々に語られた言葉をそのまま五旬節以降に適用するのは間違っている。特に使徒パウロ論議とは真っ向から衝突することになる。加えて、人は失楽園以来、支配されなければ秩序を保てない存在となり、その次の世代から神への崇拝が始まっている。この件が崇拝と支配とを混同し易いものとしているのかも知れない。

<「永遠の命が従順から来る」と教えるキリスト教の教師が居るなら、その者は信者を支配する陥穽に堕ち、支配原理は必ず恐怖となる。1Jh4:18>

 

・信仰の自発性

この点を考えてゆくと、『罪』有る人間にどこまで自由があるかという「あの二人の論争」が関わって来る。だが、究極的に『信仰』という一事に神が人の判断を委ねる以上、これは人間が論争するまでもない。むしろ、それが「見えてしまう」事の方が裁きを無効にしてしまうことになる。パウロ自身が自分について嘆いているように、罪人とはいえ、その罪を自覚することはできる。それはキリストの傍らで処刑された一人を通しても明らかにされている。

それであれば、どんな人も自分の信仰について「安心」するべきでもないし、不安に駆られる必要もない。裁きは己から離れたところで為される。それでも不安に思うなら、それは病的な利己心が働いているのであり、本来「裁き」とは自分の制御不能なものであり、その恐れは『愛』が欠けている証拠とも言える。愛は自分の処遇がどうかを主に考えることを「忘れる」。自発心からの「忠節」は他者の益を図るが「忠実」はそうではない。神を宥めて保身しようと自分に関心向いているのであり、実は利己的な動機の余地が大きい。全能の神が人にロボットのようになって欲しいわけもない。神にとっても人にとっても『命に勝るもの』がある。

従って「信仰」には「愛」が関わるもので、単に「信ずる者は救われる」という定式的理解にしがみ付いていると、神の御前には逆の姿勢を、利己的精神を募らせることになりかねない。多くのキリスト教は、この点で「信仰」をただ教会への所属のように見做して、利己心を培養してしまってはいないか。

 

・二世信者への影響は その宗教の質を試す

神は善悪の知識に木も二人も監視していないが、強制すればそもそも二本の木の意味がない。親の立場に在った神にとって二人に死んで欲しいわけもない。それでも強いなかったのは、譲ることのできない彼らの自由意志の選択にあった。彼らも『神の象り』であり、それを尊重するのは神自らの尊厳を守ることであり、彼らの神に似た特質もその不干渉によって守られている。

そこで信者に永遠の命を約束する宗教は、二世に対してジレンマを避けられない。どれほど親が子に永遠の命を得させようと努めても、そうするほどに神でさえ侵犯し得ない神性、また個人の尊厳を踏みにじってしまう。しかも、実際には命から遠ざけていることになる。蛇を用いたサタンが二人の前に誘惑を置いたように、親が子に命を得させようとして、サタンとは逆方向に誘うのであり、結果は同じく神の意向に逆らい、裁きを無効化しようという目論見に向かってしまう。当然、信仰の自発性は窒息させられる。もちろん命を与えるなどという事は人を超えたことである。

その宗教の前提として、自分たちだけが正しく「永遠の命」(或いは来世)の道を教えていると思うところが全く間違っている。だから、神の意志とは反対の行動をする。

また、これは精神的牢獄に子らを押し込んでしまうので、間断の無い「命懸けの緊張」が精神疾患をも与えかねないが、実際に「ものみの塔」には端的にそれが見える。この宗派が伝道を「命を救う業」としているのは、創造神を差し置いた傲慢な主張であるばかりか、圧政国家のような人間性への冒涜でもある。

 

・Act24:5によれば、すくなくともエルサレムでイエスの弟子らは『ナザレ派』と呼ばれていた。そういえば福音書中でキリストが「エシュア」なり「イエス」なりと人から呼ばれている場面をほとんど見ない。『あの方』『あの男』と呼ばれることが多い。エシュアがよくある名であったせいか?むしろその名は異邦諸国で広められる素地があったのか?

 

・Act12:24で「エホバ」を挿入するのはまったく支離滅裂なことになる。

・18-9世紀英米キリスト教には、異様な「取り繕い」を感じる。清教徒の影響らしく、非常に閉鎖的で外面的善人を気取るところが強い。人間の道徳的実際から遊離した潔癖性を特徴とするが、同じ人間であるところは変わらないので、それがあちこちから邪悪さとなって漏れ出てしまう。それを「取り繕う」のがキリスト教の働きになってしまっている。アメリカのWAPS主義は現在もその延長線上を生きており、戒律的また階層的でもある、あの国は人間をどう見做すかに於いて、そう優れてもいない。思想信条は自由とされながら、特に中西部では偏狭な新教キリスト教主義がむせ返っている。加えて安直にユダヤ教に共感している。あれでは宗教合同に向かい兼ねないうねりが既に存在している。(やはり二本の角の獣か) 聞くところでは、日本の精神風土の方がまだ自由に、あるがままに人を見ることができる。

<もっとも日本は、異教徒に理解があるわけでもないのだが、古来二つの宗教を同時に信奉してきたからか、「偏り」を避ける気構えができている。外部の偏ったものは偏ったものとして眺めていられる。しかし、公共の無宗教には程遠く、宗教を公平に見てはいないし、公明正大というわけでもない。この点でいずれ何かが有るだろうと思う。>

 

預言者の限界

預言者でさえ夜中にようにつまずくHos4:9預言者にはその道に罠がある Hos9:8 預言者は愚かな者となるHos9:7 敵愾心が大きいために狂気する。神はわたし(エリシャ)に隠してお告げにならない2King4:27⇔Ams3:7

 

・キリストが木に架けられた目的は、『アブラハムの祝福がキリストを通して諸国民に及び、そうしてわたしたちが信仰によって約束の聖霊を受けるためであった。』Ga3:13-14

 

・世相

武器や基地に反対することが平和を招くと思う人は少なくもないらしい。だが、争いは常に人間自身から起るのであり、武器や基地や軍隊や核兵器を無くすることが平和を招きはしない。

そこで『この世』というものを見切る必要がある。神の見方はそのようであろう。「神がいるなら、どうして悪の存在を許しているか」との問いは的外れであり、人間自身での解決を目指すことも同様である。

人間に倫理上の欠陥がある限り、人間が自ら争いを無くすことは全く不可能なことであり、権力を必須とする。

従って個人としては『この世』に対して一定の距離を置こうと努めることのほかにできることがなく、『この世』に居る限り、また倫理上の欠陥を持つ限り、権力の効用を受けながら生きる以外に方法はない。

権力と権力が衝突するのは、個人と個人が衝突することの反映であり、これを抑制しようと努めることはできても根絶することは絶対的に無理である。

加えて、権力と権力とが分立しているのは、必ずしも災いとなってはいない。

全球的絶対強権が防がれてきたからである。

今日のこの世で最大の強権集団は隣国であり、そこは実際には存立し得ない絶対正義が支配している。しかも国民の大多数の人々さえも、それが絶対正義に程遠いことを知っている。

では、なぜ絶対正義が説かれるかと云えば、極端な利己主義の横暴がそこに在るに過ぎない。この利己主義の究極的象徴は更に極まった形で終末に現れることになろう。それは隣国さえ遥かに超える超強権であり世界支配に近付く。

なんと恐るべきことか、これを公表するとなると

 

 

・仮説

エレミヤの諸国への糾弾とその後に集めるという繰り返しは、「北からの敵」が介在している。この北というのは十本の角の事であり、大いなるバビロンに含まれる諸宗教ではないのか?なので「集める」というのは、シオンに流れて来ることを指すのでは?そこでエドムだけが例外となる理由が生じる。

 

・復活について

『彼の復活と似た様になって彼を結ばれる』Rm6:5

『死人を生かし、無い者を在るかのように呼ばれる』Rm4:17

『働く者にとって報酬は賜物ではなく当然である』Rm4:4

Joh5:28はJoh11:25と同じものである。

1Cor15:13の『復活が無いとすればキリストの復活も無かった』というのは、キリストに復活が他のすべての復活の根拠であり基礎となったから 

 

・Isa11:13 どれほどユダとイスラエルが不和であったか

・神は高ぶる人を赦すことはない Isa2:12

 

 ・律法は契約としては終わったが、律法そのものが示した義の基準はキリストが満たすことを通し、その犠牲の完全性を永久に証しするものとなっている。従って一点一画も廃れてはならない。

 

・『愛を通して働く信仰』Ga5:6

・神殿再建時のレヴィが用いたのは『ダヴィドの楽器』であった。2Chr29:25 ダヴィドは楽器の考案から用法を指導し、自らの詩篇歌を自ら組織したレヴィの合唱隊に歌わせ、それはソロモンの代に神殿祭祀として定式化されている。銀製のラッパはモーセ以来使われていたが、音律の調整がされた可能性は高い。十弦の楽器はペンタトニックであったか?

 

・祈り

Joh16:24「わたしの名のよって求めたことがないが、これからは求めよ」-大祭司職への任命を含意か、祭司職の罪祭の浄めが可能となった-

2Chr7:14 祈って謙るなら祝福を得、心を整える作用が生じる。

祈りは自己正当化の根拠にならないし、そうすべきではない。

 

・ルカの例え

Lk14:25-18:34が一場面で語られる。あるいは14章からずっと続くイエスの講話集として書かれたかもしれない。この間の例えは相互に関連性を持っている可能性は無視できない。

 

・ディオグネートスへの手紙3-4

ユダヤ人たちはいわば不足を感じている神に自分たちがそれを満たしていると考えることによってエウセベイアではなく、むしろ愚かなことを考えているというべきだろう。・・EX20:11・・血や薫香や燔祭を神に捧げ、それらの表敬の品々によって神に畏敬を表していると考えている人々は、唖であるものに同じ表敬を示している人々と何一つ違わないようにわたしには思われる。後者は表敬の品を受けるこのできないものに向かってそうするのであり、前者は何一つ必要としていない方に供えていると考える。

食物に関しての彼らの小心さ、安息日に関しての彼らのエウセベイア、割礼に関しての彼らの自慢、断食と新月の祭りに関しての彼らの芝居じみた行動、これらは笑うべきものであり、言葉を費やすに値しないものであり、わたしはあなたがそれらについてわたしからお聞きになる必要のないものと考える。

 教祖や団体に個人の時間や労力を捧げて、本来の隣人である身近な人々への世話を減らす口実にしている信者たちは、上記のようであり、コルバンを理由に神を第一にしているつもりで、身近な人々を自己義認の犠牲にしているあらゆる信者の悪行をユダヤ教徒を例にして教えるところがある。

 

 *ああ、そういうことか・・ゼカリヤの仮庵が見えた  3.29.19夕

 

 ・『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。』

” if anyone hears My words and does not believe, I do not judge him;”

『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』Jh12:48

[ὁ ἀθετῶν ἐμὲ καὶ μὴ λαμβάνων τὰ ῥήματά μου ἔχει τὸν κρίνοντα αὐτόν· ὁ λόγος ὃν ἐλάλησα ἐκεῖνος κρινεῖ αὐτὸν ἐν τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.]

[ἐλάλησα](動)直アオ能1単 「話す」原[λαλέω])

 "He who rejects Me, and does not receive My words, has that which judges him-the word that I have spoken will judge him in the last day.

 

 

・「彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、直ちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁栄である。
人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう」
(ショーペン「意志と表象としての世界・正編」第六十節。西尾幹二訳・中央公論社

 

 ・バプテスマが祭司の水の浄めと関連するのであれば、祭司の崇拝奉仕に備えさせるという意味があったかも知れない。これはキリストに名によるものがそう言える。だが、地上での彼らの奉仕は神殿のものとは言えず、それは第二神殿再建以前の祭司らの立場に似ている。彼らが神殿定礎につき『身を清めていた』とされるところは、常供の犠牲を捧げることに於いてのみ、仮の奉仕であった。これは地上での聖徒の働きに準じるものではある。

あるいは、無意味な整合ではないのかも知れないが、もしそうなら、ヨハネバプテスマは信徒へのものとも言えることになる。その受浸者らからキリストの受浸者が現れて、その者らに聖霊が注がれている。そうなると、ヨハネバプテスマは祭司の水の浄めではなかったことになるが、それは何に相当するものか?

また、キリスト自身はヨハネバプテスマを受けて聖霊を授かることに於いては例外であった。これはアロンの何かを表すものだろうか?

それでもエチオピアの宦官はイエスの名による浸礼を受けながら聖霊は降っていなかった。これはコルネリウス以前であったためだろうか?これはエチオピア教会のユダヤ的特殊性と幾らか関係があるのかも知れない。それでも伝承によれば、使徒マタイはエチオピアで殉教しているので、これが正しければコルネリウス以後、この地にも聖霊を及ばせる働きであったのかも知れない。

 

 

・夜 Lk17:22 一日でも見たいと思いながら・・見よここに

光を必要とせず夜もないIsa60

⇒ 

⇒ 待たれるべき

⇒ 昼と夜

 

・pιστος には能動的に「本人が信仰を働かせている」意味と、受動的に「忠実な者」として第三者から評価されているふたつの意味があり、文脈によって判断される必要がある。(岩波委員脚注から)

<これなども翻訳者を試みる要因のひとつとなっている>

 

 

・神殿の緞帳

神殿の宮は、長さ90フィート(27メートル43センチ)、幅30フィート(9メートル14センチ)、高さ90フィート(27メートル43センチ)と告げられている・・・その宮は二つに分けられ、最初の60フィート(18メートル28センチ)は、聖なる聖地で・・・大いなるカーテンが、その聖なる建物のもう一方の三分の一の部分を隔てている(Dr. John R. Rice, The King of the Jews: A Commentary on Matthew, Sword of the Lord, 1955, p. 479)。

“その地震は、物理的素地を提供したかもしれないが、神殿の幕の引き裂きは疑いもなく、神の御手でもってなされた”(Alfred Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah, Eerdmans, 1945, volume II, p. 611)。 エダーシェイムは、その幕の厚さは、ひとの手の甲(2.5インチ=6.3センチ)の厚さであった、と指摘しました。 “もしその幕がタルムードの中で書かれているようにつくられているならば、単なる地震によって二つに引き裂かれることはない”(同著)。

幕が引き裂さかれたのはちょうど、“晩の犠牲を捧げる時、すなわち、その執行祭司が、焼香を焚くか、あるいは、他の儀式を行うために聖所に入った、その時に”(同著)、やってきました。 幕が引き裂かれたそのことは、これらのユダヤの祭司たちに、非常な衝撃を与えました。 チャールズ・ライリー博士は、“この超自然的に幕が引き裂された、ある結果は、使徒の働き第6章7節の中に記録されており、そこでは、‘そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った’と書かれている”(参照、Ryrie Study Bible, note on Matthew 27:51)と言いました。

キリストが亡くなられた時、その幕は二つに引き裂かれました。 そうして、キリストは仲介者ですので、あなた方は神に来ることができます。 あなた方と神との間を隔てる幕はもうありません。 イエスがあなた方と神との間にいるのです。 イエスに来なさい、そうすれば、彼はあなた方を、神のもとへ直接連れていくでしょう。

引用;https://www.rlhymersjr.com/Online_Sermons_Japanese/2014/041314PM_TheDayJesusDied.html