Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ディアドコイ戦役への情勢

ディアドコイ戦役への情勢 前編⇒「マケドニア履歴」⇒ 「アケメネス朝期のユダ帰還

 

前323のマケドニア暦でダイシオスの月の28日に大王が崩御した。ユリウス暦では6月10日、場所はバビロンのネブカドネッツァルの王宮であった。

死の十日前から発熱があり、五日目には重篤で、三日前には声も出ず、部下を見分けられなかった。

王位に就いて13年、享年三十二と十一ヶ月

死去したときにロクサナは妊娠七カ月で、大王は世嗣ぎについて何の遺言も残していなかった。

歩兵たちは、大王の異母弟アリダイオスを推した(御しやすいとみたか)が、側近や将軍らはロクサナが産む大王の嫡出子を推戴して、意見は二分された。これが後にエウリュディケー(アデア)が兵の支持を得る伏線となってゆく。

そこで妥協がなされ、アリダイオスがフィリッポスIII世として即位し、もし、ロクサナが男子を生めばアレクサンドロスIV世として共に王位に就くとされた。

ペルディッカスが摂政になり、朋友たちの領地と地位とが定められた。

ペルディッカスは上部マケドニアの出身で王統とも血縁があったうえ、325年以来、側近護衛官七名の一人に抜擢されていた。彼は死の床にあった大王から指輪を託されていたが、一説ではこれが後継者認証であったとも言われる。

 

マケドニアから呼び出され解任の危機に在ったアンティパトロスは、大王の崩御を受け、引き続きマケドニア周辺の統治を担当することにされ安堵して小アジアから本国に戻った。だが、息子カッサンドロスの資質を見抜かず後継人事で誤り、それはマケドニア本土を疲弊させることになる。

 

大王の側近は父が小アジアから招いた教師アリストテレスの下で共に学んだ学友が多く、それが資質や立場の均等性を持たせたところで、多くの王の林立の原因ともなっている。

 

大王の妻たちは

ペルシア王ダレイオスの娘スタテイラとオチュスの娘パリュサティスはスーサに留まっていた。妻はバクトリア出身のロクサナを含めた三人だが、ほかに愛人のバルシネがおり、327年に息子ヘラクレスを生んで、大王崩御の後にはペルガモンに移っていたが、ヘラクレスは常に庶子として扱われた。

大王の母親のオリュンピアスは夫との不和になって以来、実家のあるエペイロスを治めており、大王の同母妹のクレオパトラはその時点でマケドニア本国にいた。

オリュンピアスは大王がアンティパトロスに暗殺されたものと思い、その噂を流した。しかも、献酌官イオラオスはアンティパトロスの息子であった。

毒殺説も自然死説も同じ程主張されており、それに加えて、インダス川を南下しているときに受けた矢傷に原因を唱える説もある。

長大な遠征が進むに従い、大王の文化的、軍事的施策に反対する傾向が軍に強まっていた事実もある。

歳のいった兵士らを本国に返す意図を示したところで、兵たちは誤解してそれに従おうとしなかった。

<大王自身がなぜあれほどの征服欲を懐いていたのか、世界制覇を狙っていたのかについては発言も書かれた資料もなく不明>

 

オリュンピアスは傍に大王の異母妹で早くに母親を亡くしていたテサロニケーを置いていたと思われる。

大王のもう一人の異母妹のキュンナは娘のアデアと共にマケドニアにいた。

 

ロクサナは大王の妻であるスタテイラと妹のドリュペティスを偽の手紙で呼び出して殺害し井戸に投げ込み埋めた。ドリュペティスは大王の親友ヘファイスティオンの妻となっていた。この姉妹の殺害にはペルディッカスが手を貸している。他の将軍らに利用されることを恐れたのであろう。

ロクサナは男子を生みアレクサンドロスIV世となり、ペルディッカスが母子を保護下に置いた。

 

大王の妹クレオパトラは三十二歳であり、まだ子を生めたので、大王亡き窮地で再婚を望み、大王の側近護衛官の一人で上部マケドニア出身で王統と血縁があり、大王と共に教育を受けていたレオンナトスに狙いを定めた。彼は武勇に優れた反面虚栄心が強かった。 彼にはヘレスポントスとフリュギアの太守が割り当てられたが、それに不満をかこっていたので、クレオパトラから婚姻の申し出があると野心を起こしてすぐに了承した。

しかし、このころにアテナイなどのギリシア諸都市が反乱を起こし、それを鎮圧に向かったアンティパトロスは打ち破られてしまい、その救援に向かったレオンナトスも戦死してしまった。

 

大王の父フィリッポスII世が即位間もない頃にイリュリクムを攻めて、当地の王の娘アウダタを妻にしていたが、そこに娘キュンナが生まれた。彼女は338年頃、大王の従兄に当たるアミュンタスと結婚してアデアという娘を得たが、その直後フィリッポスII世の死去の後の勢力争いで夫を粛清されていた。(謀殺者はオリュンピアス?)

 

キュンナは大王の死後、十五歳になったアデアを連れてバビロンに向かう。アンティパトロスはこれを阻止しようと軍を送るがキュンナはこれを突破してアジアに入域する。

ペルディッカスも彼女を阻止しようとアルケタスに軍を委ねるが、キュンナは兵士らに血統を訴える演説を行って心服させてしまった。夫アミュンタスが生きていれば、大王の死後の王位は間違いなく夫のものであったはずなのである。そこでアルケタスはキュンナを刺し殺すのだが、兵士らが暴動を起こすほどになったため、ペルディッカスもアデアとアリダイオスの結婚を認めないわけにゆかなくなった。

そこで国王フィリッポスIII世(アリダイオス)と王妃エウリュディケー(アデア)が成立した。322の夏 亡きアミュンタスの未亡人キュンナの宿願は命と引き換えに果たされた。

 

同322年の夏、王族を巡る女たちの争いが激しくなりクレオパトラとアンティパトロスの娘ニカイアが相次いでサルディスに来た。共にペルディッカスと結婚するためであった。そこでペルディッカスはクレオパトラとニカイアの二人から求婚されて迷うことになった。

老年のアンティパトロスは既に娘二人を有力な将軍二人に嫁がせていた。そのうえ摂政ペルディッカスまでも婿にできるなら権勢を圧倒的に強くできる。

ペルディッカスはとりあえず老獪なアンティパトロスとの関係をとりニカイアとの結婚を承諾するが、すぐに離婚してクレオパトラと結婚する意志を密かに彼女にだけは知らせた。その策略に王位への野心が見える。

しかし、ペルディッカスの元で彼と対立し始めた隻眼のアンティゴノスがこの秘密をアンティパトロスに知らせた。

ペルディッカスの野心を知ったアンティパトロスはエジプトの太守となっていたプトレマイオスと組んでペルディッカスをはさみ打ちをする。

ペルディッカスは配下のギリシアエウメネス小アジア方面を任せ、自らはエジプトを目指したが、ナイルデルタで渡河に失敗し、戦う前に二千を失ってクロコダイルの餌とし、将軍としての権威は地に落ちた。兵士らの間には不満を越えて怨嗟の声が広がり、ペルディッカスは騎兵たちの手に掛って死を遂げた。

ペルディッカスに期待していたクレオパトラの願望はまたも消えた。

 

一方で、ペルディッカスに母を殺されながら王妃の位について夫フィリッポスⅢ世に同行していたエウリュディケーはエジプトからシリアのトリパラデイソスまで軍が撤収したところで、軍への命令権を主張し始めた。摂政ペルディッカスが亡くなったところで知恵遅れの夫に代わって軍を動かす権限は自分にあるというところである。だが、まだ16歳の少女に軍が従うには兵らの自尊心が傷付いていた。

そこへアンティパトロスが軍を率いて合流してきたが、エウリュディケーは彼を摂政ペルディッカスを死に至らしめた王国の敵として弾劾した。丁度そのときアンティパトロスは兵士らへの給料の支払いが滞り、軍に不満が募っていたので兵士らの暴動が起り、アンティパトロスはアンティゴノスとセレウコスの必死の説得と保護が無ければ殺されていたほどであった。

 

前321年の末、アンティパトロスはフィリッポスIII世と妻エウリディケー、それからアレクサンドロスⅣ世とその母ロクサナの四人の王族を連れてヨーロッパに入った。亡きペルディッカスがひそかに結婚しようとしていた大王の妹クレオパトラはそのままサルディスに居た。(パリュサティスの所在?)

この頃アンティパトロスは八十歳代になっており、マケドニア本国の摂政の後継を指名すべき時期に達していた。そこで六十歳代の野心の薄く気立ての良い重装歩兵隊長のポリュペルコンを指名した。しかし、この人物は太守を務めたこともなく、政治的力量ではプトレマイオスやアンティゴノスに到底及ばなかった。

ポリュペルコンは、オリュンピアスにエペイロスからマケドニアに戻り、新王アレクサンドロスⅣ世の保護者となるように求めた。しかし、オリュンピアスはこれを静観していた。それにはエウメネスの助言もあってのことであった。(エウメネスは前361年生まれで、カルディアというギリシアの都市の出身であった。フィリッポスⅡ世に見出され、大王の許では遠征軍の書記官であった。大王亡き後は小アジア北東部の二つの地域を任されていた)

他方、アンティパトロスの息子のカッサンドロスは父のポリュペルコンへの後継指名には大いに不満を懐いた。そのうえポリュペルコンがオリュンピアスをマケドニアに呼び寄せようとしたことは、彼の怒りに油を注ぐことであった。

なぜなら、大王に死についてのオリュンピアスが行った父アンティパトロスへの誹謗中傷について大王に申し立てするためにバビロンに赴いた際に、オリエント人が王に跪拝礼をするのを見て嘲笑したため、大王自身に髪の毛を掴まれ、壁に頭を打ち付けられたことがあり、父の弁明でも大王に話の腰をいちいち折られ、反駁されてしまっていた。それはずっと後までカッサンドロスの亡き大王への恐怖を懐かせることとなっていた。

そこでカッサンドロスにとってオリュンピアスは敵であり、それはアンティパトロスとオリュンピアスの対立関係の継続でもあった。しかも父の遺訓は「女にはけっして王国の支配を任せてはならぬ」であった。確かに、大王亡きあとの王国は女たちの暗躍により、摂政や将軍らが権力争いを激しくしていた。カッサンドロスの強い敵愾心と野心を見抜かなかったことでは、アンティパトロスは摂政後継の人選を明らかに誤ったと言われる。そのためにマケドニア内部に分裂の危機をもたらしてしまっていたからである。

 

前318年、ポリュペルコンは反旗を翻したギリシア諸都市の制圧に乗り出した。ほとんどの都市は恭順を示したが、ペロポネソスメガロポリスだけは服従しなかったので、これを攻囲したが失敗し、同じ年の夏にはアンティゴノスの艦隊に海軍を打ち砕かれてしまったので、ギリシアの諸都市はポリュペルコンを見限り、カッサンドロスの側に着いてしまった。カッサンドロスはアンティゴノスから船35隻と兵四千を借り受けてアテナイに上陸し、ギリシアでの勢力獲得に努めた。

他方でポリュペルコンは、ギリシア遠征にロクサナと幼いアレクサンドロスⅣ世を伴ったが、フィリッポスⅢ世とエウリディケーをマケドニアに残してきた。この王権の所在の分離が争いを呼ぶことになった。

エウリディケーはポリュペルコンの権威の失墜を好機と捉え、マケドニア内のカッサンドロス派に接近し、摂政の座をポリュペルコンから奪い、ギリシアに出征中のカッサンドロスに与えると宣言した。こうしてエウリディケーはマケドニア国内に於ける実質的単独支配者となった。

ここに於いてオリュンピアスがエペイロスを出てマケドニアに戻る決意を固める。自らの孫アレクサンドロスⅣ世の王権を確かなものとするためであった。

それを知ったエウリディケーはペロポネソスに居たカッサンドロスに出来る限り早くマケドニアに戻るよう要請したが、それを待たずに自ら軍を率いてポリュペルコンとオリュンピアスの軍勢に対するためにエペイロスとの国境付近に向かった。

両軍がエウイアという場所で向かい合ったのは前317年9月であった。

しかし、ディオニュソスの巫女の扮装で現れたオリュンピアスを一目見た遠征帰りの兵士らは、大王から受けた恵みを思い起こし、皆がオリュンピアスに降ってしまったので、戦闘も行われることがなかった。

エウリディケーとフィリッポスⅢ世は捕えられ、獄につながれる身となり、オリュンピアスは処刑までの間、僅かな水と減らしたパンだけを与えた。

オリュンピアスはフィリッポスⅢ世を騎兵に槍で突かせて殺害し、ついでエウリディケーには更に陰湿で、圧力と時間をかけて自殺に追い込んだ。(この以前にはフィリッポスⅡ世の死の直後に、夫の最後の妻クレオパトラとその嬰児とを残虐な仕方で殺しており、それは息子の大王に咎められるほどであった)

こうしてマケドニア王統は半分の継承者を失うが、オリュンピアスのこうした残虐性は、遠からず酬いとなって返されることになる。その結果は、王族の全滅となるのであった。

 

マケドニアはこうして王族の女たちによって分裂を深め、以後も争いが絶えず、ヘレニズムは広範な文化の混濁する文明となっていった。

 

 

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後代のシリア語テクスト(脚色)

「神よ、諸王と諸士師の主よ、我は知る、御身が我を他のすべての王の頂点に立たせ、我が頭に二本の角を生やしたもうたことを。それをもって万国をつき抑えるように。どうか天空よりお力をお授けくださるように。世界中の国々に勝る力を得て、それらを罰することができるよう、我は御身の名を永遠に賛美し、御身の記憶は不屈のものとなるであろう。我が国の憲章に神の名を記せば御身にとって永久の記録となるであろう」

「見よ、我は汝にあらゆる国々に勝る力を与え、鉄の角を2本、汝の頭に生やした。汝がこの世の国々をつき抑えるように。(中略)だが見よ、大勢の
王とその軍が汝を討つためにやってくる。我が名を呼ぶがよい。汝の助けに参ろうぞ」。

これらに依拠してネルデケはこの論文において「『コーラン』の二本角の一節は、シリア語のアレクサンドロスに関するキリスト教伝承によっている」と推断。

1890年に発表されたテオドール・ネルデケというドイツの東洋学者の「アレクサンドロス物語の歴史に関する論考」(Theodor Nöldeke