Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

捕囚期年表(再掲)

-LF-

 

まず時代感覚としては ヒゼキヤ 前740-687

に対して キュロス 前600-529 イザヤの預言から180年ほど

-------------

 

<627>アッシュール・バニパル没

<625>ナボポラッサルがバビロン王を宣言

<616>バビロニアはメディアと同盟しアッシリアに対抗する

<612>ニネヴェ陥落

<610>ハラン陥落

<609>アッシリアの滅亡、ヨシヤの戦死、エホアハズ23歳で即位(在位3ヶ月)

<608>エジプトのネホによるユダヤ占領 エホヤキム即位

<605>ネホとネブカドネッツァルによるカルケミシュの戦い

ナボポラッサル没、ネブカドネッツァルの即位年
エホヤキムの第三年バビロニアエルサレム侵攻(Dan1/Jer25&46は第四年)

シリア方面はバビロニア勢力下 ダニエルらの(第一次)捕囚

<604>エホヤキムの第四年、ネブカドネッツァルの第一年Jer25:1
「ヨシヤの13年から23年間」経過、この年エレミヤに七十年が示されるjer25エレミヤの預言はバルクによって文書に筆記される

<603>ネブカドネッツァルの第二年、巨大像の夢Dan2
エホヤキムの第五年冬、エレミヤの書が焼かれるJer36:9-

<598>ネブカドネッツァル第七年の西方攻略再開

<597>エホヤキム治世11年で薨去、エホヤキン18歳で即位へ2king23-24 
バビロニアエルサレム侵攻3023人捕囚Jer52:28 エホヤキン・エゼキエル(第二次)捕囚 Ezc40によると流刑の始まり、

<597/6>ネブカドネッツァルはゼデキヤを21歳で即位させる(第一年?)

<595>プサムティコスⅡ世即位

<593>ゼデキヤの第四年、エレミヤは捕囚民に書簡を送る 第五の月に偽預言者ハナニヤの預言にエレミヤは対抗する jer28:1-

セラヤにバビロン失墜の預言の書き付けを託すJer51:59
エホヤキンの流刑の五年目エゼキエルに預言が臨み始める

<592>エジプトのヌビア遠征にユダは軍を助勢、エゼキエルはエルサレムの堕落を幻視

<591>エゼキエルは年長者に答えるEzc20

<589>ゼデキヤのバビロン訪問、エジプトでアプリエス即位

<588>パレスチナ諸国のバビロンへの反乱
ゼデキヤの第九年第十月十日、エルサレム攻囲開始Jer39・51&52 Ezc24

<587>ラキシュ陥落、エゼキエルはエジプトに預言
エルサレム攻囲下「ゼデキヤの第十年、ネブカドネッツァル第18年」エレミヤの拘束jer32

 

<586>ゼデキヤの第11年第四月九日一年半の攻囲の後エルサレム城市陥落jer52:6、ネブカドネッツァル第19年Jer39・52/2kng25 (ウィリアムF.オルブライトはゼデキヤの治世の始まりを紀元前598年とし、ERティーレは紀元前597年とする*;本表はティーレ説に基く)

5月7日ネブザラタンの到着で神殿とエルサレム破壊2King25:8-9/Jer52:12
823人の捕囚Jer52:29 エゼキエル「流刑の第12年」Ezc33 (エドムは利得を貪るPS137)

<585>アステュアゲスⅡ即位、皆既日食によるハリュス川からの撤退と和議

<582>ミツパの反抗

<581>ネブカドネッツァル第23年745人捕囚Jer52:30

<576>アマシスがアプリエスからファラオ位を簒奪

<573>テュロス13年の攻囲の後に島嶼都市も陥落 (Ezk27-28)

<572>Ezc40「都が倒されて14年目、流刑の25年目」第三神殿の幻

<562>ネブカドネッツァル崩御

<561>エビル・メロダク即位12月バビロニアの凋落

<560>エホヤキンの流刑37年で優遇を受けるjer52:31

<559>ネリグリッサル即位、-556迄

<556>ラバシ・マルドク即位するも三か月後に暗殺

<555>ナボニドスとベルシャッツァル即位、ウルのジッグラトの再建

<554>ベルシャッツァルの第一年、ダニエル「四頭の獣」の夢

<553>ナボニドスはシリア方面遠征に着手

<552>ベルシャッツァルの第三年、「雄山羊と雄羊」の幻

<550>キュロスのメディア統合

<547>アマシスはリュディア、バビロニア、スパルタと同盟
プテリアの戦いの後、キュロスはリュディアを征服

<539>キュロスによるバビロン征服(ダレイオス第一年)神殿破壊から47年目

ダニエルは七十年を知り、悔悟と請願を祈り 70週の啓示を受ける

<537>キュロスの第一年、神殿再建勅書と帰還事業、

帰国民団はヨム・テルアにはパレスチナ到着、スッコートの祭り

祭壇での常供の祭祀の一部再開 

<536>イッヤール、第二神殿定礎  神殿破壊から50年目

<535>キュロス第三年、ダニエル最後の啓示を受ける
第一次捕囚(エホヤキム4年)開始から七十年 ダニエルは80歳代半ば以上

<529/530>北方戦線でのキュロス大王の戦死、カンビュセスⅡが単独王

  以後神殿再建は周辺諸民族の反対により停滞

<522>ガウマタを倒してダレイオスⅠ世が即位

<520>ダレイオスの第二年 ハガイとゼカリヤの預言の開始[Hag1:1]
第二神殿の造営の再開[Hag1:12](586から66年目)

<518>ダレイオスの第四年「第五と第七の月の断食を行って70年」実際は68年Zec(エレミヤの七十年を含意)

<516/5>ダレイオスの第六年アダル3#、第二神殿の完成 Ezr6:15
定礎から20年、第一神殿破壊から70年 #このアダル3をグレゴリオ暦で換算すると515年2月3日水曜

<515>ダレイオスの第七年ニサン、第二神殿の奉献、祭司組任命、ペサハ#、ハグ ハマツォートの再開、神殿祭祀による律法体制の復興 #G暦BC515年3月15日月曜

 


Edwin R. ThieleはBC586をゼデキヤの支配と神殿の終りと見做すが

エレミヤと一致。ネブカドネッツアルの第19年 BC586(列王第二25;8/エレミヤ52;12)


William F. AlbrightはBC587と見做す 違いはゼデキヤの第一年の認識にあると*

ヨセフスのネブカドネッツアルの第18年 BC587(アピオーンへの反論)と一致

 

総督ネブザラダンの到着はエルサレム陥落の翌月
但し、神殿祭祀がいつまで行われていたかは不明
加えて、神殿再建の月がアダルであったために、祭祀復興までにグレゴリオ暦では同じ年でも陰暦では一年跨いでいることも注意する必要がある。

 

アリヤーの完了、総督ゼルバベルの帰朝 スーサへ
⇒「アリヤー・ツィオンの残りのもの

⇒ 「アケメネス朝期のユダ帰還事業
------------------------------

「諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えることになる」
「七十年が満ちたとき、バビロンの王と民に責を問う」Jer25:11-12
「七十年が満ちるときそなたらを思い起こす」jer29:10
  この句は、七十年の終了時を指していないことになる
エルサレムの荒廃の終るまでの年数・・そこに七十年とあり」Dan9:2
  ダニエルはユダの荒廃とは解さなかった
  また、悔悟と請願では聖なる山に昔日の栄光を求める
「七十年このかたなれは責められた」Zec1:12
「断食を以って七十年に及んだが」Zec7:5
  68年目で言われているのでjer29:10と関連する
「ペルシアの王が治めたるまでその僕たり」
「其はエレミヤによるヤハウェの言葉を成し安息を満たさんが為」
「安息の内に荒廃せし間は七十年となり」2Chr36
  異国の僕であった事と安息とは必ずしも同義と言えない

「彼らはその下僕となるのである。それは彼らがわたしに仕える事と地の諸国の王に仕える事との違いを知るためである」2Chr12:8

 レホベアムの代になってシシャクの占領を経験することについて


エゼキエルの捕囚の開始からキュロスの勅令まで60年(597-537)
しかし、これはゼカリヤに描かれる当時のユダヤ人の認識と一致しない。しかしエズラは「70年を満了した」という。


エズラは、キュロスの勅令を引き合いに出し、神殿の再建と荒廃の終りを結び付けている
メシア・キュロスの勅命の目的は帰還ではなく神殿祭祀の復興にあった。
ゼカリヤは、破壊から七十年ほど再建の進まない状況で断食をどうするかについての民の判断保留を記している
双方を総合すると、単に住民が戻ることが七十年の終りを意味しない
また、どれほどの期間にわたり別の王朝に仕えたかも意味は薄い
しかし、神殿の再建と祭祀の復興については別格の扱いをしている

以上をまとめると ↓

blog.livedoor.jp

 

キュロスの征服からメディアのダレイオスの寿命と再建反対による遅延で七十年が満了している
神殿祭祀再開の意義 ⇒ レヴィ・ザドク
エルサレム(シオン)の荒廃との関係 ⇒ イザヤ
ダニエルはキュロスの第三年に最後の啓示を受けるが、前年に神殿の定礎が為されているにも関わらず「70年」の満了について何も語っていない 

キュロスの勅令は神殿の再建と祭祀の復興にあったが、それは依然途上であった
帰還はアリヤーであって単なる再定住ではなかったのでは?もし人が住んだか否かの観点だけ歴史を探ると年代も合わず、価値の上で得るものがほとんど無い


では、城壁の再建の意義は

エズラの終わり方は、エレミヤより後にまで引っ張っている。これは著者の年代を明らかにするかのような
エレミヤ自身、70年の成就を見なかったので、だれかがそれを証しする必要があったか
70年の場合はエズラ、69週についてはルカがいる(最後の1週には謎有)

やはり『咎を終らせ、罪に終りを告げ、不義を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言者を確証し、ハコデーシュハコダーシム#に油を注ぐ』ことはイエス後も終わっているとは思えない。それは新しい契約の終了を言い表しているのでは?つまりメシアの到達するべき目的で、終末まで持ち越される。#(原語では至聖の建物とも人ともとれるRev11:1)(ダニエル最後の一週の謎 ↓)

ダニエルの七十週への補足 最後の一週の分割 - Notae ad Quartodecimani

至聖所が機能するのは贖罪の日ではないか


そうなると70年と70週は相関関係にあり、少なくともゼカリヤはそれを示唆する それまで至聖所が存在しなかったのであるから、スッコートは行えたとしても祭司も民も贖罪が無かったことになる この期間の祭祀はどうなっていたか?
そこで王冠を戴くエシュアの役割が大きく、ゼルバベルと共に二本のオリーヴとなるか キュロスの目的を果たすために不可欠な二人は消えかけた灯火のようになっていた事業に油を供する
残されたのは1週ではないのかも知れない それなら合点がゆく
それなら締結される(保つ)契約とは明らかに律法契約ではないし、その民は血統上のイスラエルではないことになる(その方が理に適う)
メシアは未だ至聖所での贖罪を行っていないことになり、新しい契約は70週の終りにまさしく終わるということか?・・・・・・・・

(出埃とアリヤーとは対を成すように語られている では契約は?)


では、『神の子』は何を以って罪を許されたか? 至聖所が存在して初めて祭司の完全な贖いが行われるか? 実際それまでは祭司の聖別はできなかったエシュア・ゼルバベルの状況に整合する。それでエホハナンは神殿を測る幻を見たか?
第一神殿の破壊によって第一の契約による祭祀は停止したと観る場合、70年の停止期間を経て71年目に再興を見た これは律法契約に属する。(だが、この回復には相当な含蓄がある)


しかし、それが仮のものであれば*、真実な祭祀の復興は70週の後になり、そこで真の至聖所が存在することになり、その秋の祭りも贖罪の日を伴うものとなる これは新しい契約に属し、なお将来にヨムキプルとスッコートの対型的成就があることになる。しかも、それを祝うのは血統上のイスラエルではなくなる(Zec14:16-19)*アーロンハヴリートとウリムヴェトンミムは戻っていないが、黙示では奥義の終了後に前者を見ている


聖徒が神殿を構成するのであれば、これは70週を完全に終わらせる必要がある。(天への聖徒の召しがそのまま祭司らの贖罪ではないらしい。それで黙示には雲に遮られる場面があるのか?)

要約 ↓

blog.livedoor.jp

 

すると1260日は70週の中に組み込まれ、1290日は1335日と共に1260日の延長上でなく別ものなのか?これは誰の「幸い」を言うのか?天への召しが確定であれば、この「幸い」は地上の者ということにならないか?
最後の晩餐の席で、既にキリストの栄光は決しており、十二使徒らへの聖徒の吟味の権威が確定していたのであれば、70週からいくらか延長されても不思議はない。無酵母パンのアツェレトからシャブオートまで50日在った。イエスの帰天から10日有り、1260日から75日、1290日から45日有ってもそう違わない。30日後と更に45日後に何かあるということらしい。(なぜ「七週の祭り」なのか?)

そこでダニエルにまず『七週』というのがシャブオートに関係することが暗示されていることは分かるのだが、まだ実体が見えない。

1260日に40日を加算すると1300日にはなるが、ダニエルの70週の預言からするとメシアが絶たれた後の日数を数えていない。これはダニエルもヨハネも考慮外にある。

 

しかし、年代信仰も科学信仰の一部に見える、文字や文法への拘りも似ている 理性で捉えようとして却って外れる。字句と数値の厳密な照合に拘るのが聖書読者に求められていることだろうか。聖書そのものが記述を絶対視する者を拒絶しているのは明らかである。また、そもそも聖書読者とは何者を想定しているのか?


重要な点は、第二神殿の定礎から再建と祭祀の完全な復興までの20年間のエシュアと祭司団の聖別されるべき立場はどのようなものであったのか・・ということになる。そこでヨム・キプルが行われたという記述が見当たらない。むしろ帰国民は無頓着であったようだ(ハガイ)


その状況では、エシュアも祭司団もその血統に属するという以外に立場の根拠を持たなかったということになる。おそらくヨム・キプルの贖罪を行ってはいなかったろうし(「身を清める」とは異なる)、契約の箱はもちろん至聖所さえ存在していなかった以上、聖別は不可能であったことは間違いない。
それでも、金冠は象徴としてエシュアの頭上に置かれた。

 

quartodecimani.hatenablog.com

.