Notae ad Quartodecimani

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ダニエル書第10-11章 ハンマーの解釈

 

 この頁では Raymond Hammer の解説をノートする   LF

               cf⇒ フランシスコ会

  <しかし、すべての内容に同意できるわけではない>

 

ダニエル書がネイヴィームに含まれなかった理由は、この書が前200年頃まで知られていなかったのではないかとされる。外典のベン・シラの知恵(BC180ca)には旧約のほとんどに人物が挙げられているのに、ダニエルが無い。しかし、シビュラの託宣では前2世紀中葉に位置付けられる中にダニエルの名を見る。

ダニエル書の後半をハンマーは、「我々の見るところでは」前六世紀のユダヤ捕囚民に著者を想定することは不可能と言っている。理由には、王たちの記述に不正確さがある。<おそらくメディア王ダレイオスのことか?>

それから歴史的出来事が正確であるので、後の時代に書かれたと判断している。アンティオコス・エピファネスに至るまでギリシアの歴史的著作とおどろくほど一致しており、神殿の奪還と再奉献、それにアンティオコスの無益な東方遠征が書かれていないので、前165年までに完成した書であろうと。

 

言語については、2:4からアラム語で書かれ7章の終りまで続く、しかし、その後は最後までヘブライ語で一貫している。これは死海の洞窟1と4から出た写本とも一致する。これに反論する識者は、元々全体がアラム語であったものを、ユダヤ人に受入れさせるために態々幻の最初である第七章までをアラム語に残し、後をヘブライ語にして双方の部分の一体性を装ったと見る。

 

外典の「三人の歌」はダニエル第三章への挿入文であり、あとの「スザンナ」と「ダニエルと龍」はダニエル書の承認をへて追加されたものと。

歴史的には、ナボニドスがネブカドネッツァルの未亡人を娶っていることから、その子ベルシャッツァルをネブカドネッツァルの「子」とすることにはある程度の理由もある5:10-11、だが血縁はない。

 

ここでダニエルに与えられた啓示は、ペルシア時代からアンティオコスⅣ世(175-164)に至るまでのユダヤ人に影響を与えた歴史の概観である。しかし、記述の多くは実際の出来事に当てはめてゆくには外部の資料にしばしば依存する必要があるほど謎に包まれている。

ダニエル書後半の著者は焦点を人間の行動に限定せず、神の活動と人間との関係をより深く考えようとしている。

 

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なお三人の王が起る

これはスメルディスを除くカンビュセス、ダレイオスⅠ、クセルクセスのようである。「第四の者」はキュロスから数えており、480-479年の遠征でギリシアに大規模な軍事行動を起こしたクセルクセス(485-465)に一致する。

しかし、旧来的にはキュロス、ダレイオス、クセルクセス、アルタクセルクセスと結び付けられるのを常としてきた。ダレイオスⅠ世はメディアの同名王と混同を避け削除されているというのは、ネヘミヤ12:22によって支持されるが、この王には本書に語られるような功績はほとんどない。

 

南の王

大王の将軍の一人プトレマイオスによって治められ、前30年に至るまで王権を得た。

将軍のひとり

321年に将軍たちの間で認められた帝国の分割に於いて、バビロニアを受け取ったセレウコスに対するものである。316年彼はフリュギアの総督として出発し、その後アンティオコスが地中海から中央アジアへと支配を広げていた頃からプトレマイオスの下に逃れ、312までエジプトで仕えていたが、アンティゴノスの子を打ち破った後、彼の旧領を回復した。

その後301年にイプススの戦いで勝利しアンティゴノスを死に追いやった。その後、小アジアからインドの北西の端までに版図をひろげた。そこでその勢力はプトレマイオスを越えるに至った。

 

和睦

248年頃、プトレマイオスⅡ世は、アンティオコスⅡ世(セレウコスの孫)が妻のラオディケーを離縁し、彼女との間のふたりの息子の王位継承権を奪うという条件の下に、娘のベルニケーを与えた。

この結末は、ラオディケーによるベルニケーとその子の殺害を惹き起こす。

 

この女の根からひとつの芽

プトレマイオスⅢ世(247-222)は、妹ベルニケーの報復をしようとセレウコス領を攻める。

 

彼らの神々、鋳像

AD4世紀のヒエロニュモスは、プトレマイオスがカンビュセスによって運び去られたエジプトの神々の像をエジプトに取り戻し、エウエルゲーテスの称号を得たと書いている。

240年にはセレウコス・カリニコスはエジプトに侵攻したが逆に敗北し退却を余儀なくされている。

 

その子らはまた急いで

セレウコス・セラウヌス(226-223)とアンティオコスⅢ世大王メガス(223-187)に対するもので、「城」というのは、南方に対する最強の砦であったガザのことであろう。この時点からパレスチナはエジプトの支配下に入る。

 

南の王は激高して出て行き

エジプトがパレスチナを再併合するために、アンティオコスⅢ世に大敗北を与えた217年のラフィアの戦いを指す。

 

プトレマイオス・フィロパトールが203年に死去したときに、アンティオコスⅢ世はエジプト攻撃の機会を得た。彼はその目的からマケドニアのフィリッポスV世と同盟を結んだ。このとき、一部のユダヤ人らが預言者の支持を求めながらアンティオコスⅢ世に味方するという事態が発生している。(幻を成就させようと)

 

堅固な街

アンティオコスⅢ世が攻め取ったシドンであり、プトレマイオスの総督であったスパコスが199年にそこで捕虜となった。

 

彼は麗しい地に立ち

アンティオコスⅢ世によるパレスチナの完全征服に言及したもの。

 

その娘を与えて

アンティオコスⅢ世は194か3年に娘のクレオパトラをエジプトの支配を得ようとしてプトレマイオスV世に与えた。しかし、クレオパトラは夫にローマとの同盟の強化を勧めたために、アンティオコスⅢ世の野望は挫かれた。

 

197年にアンティオコス・メガスは、小アジアに侵攻し、次いでトラキアへと渡海した。192年、ギリシアに進もうと努めたが、191年にテレモピュライでローマ軍に敗れ、更に翌年にはマグネシアでより深刻は敗北を喫した。

 

彼はつまずき

アンティオコス・メガスは、ローマに莫大な上納金を科され、それを支払うために東方に赴きエリマイスのベル神殿を略奪しようとしたが、187年に住民の抵抗に遭い、配下の者らと共に殺害された。

その後継者はアンティオコスⅣ世(187-175)となったが、エルサレム神殿から略奪しようとして、却って自らが差し向けたヘリオドロスによって導かれた陰謀により殺害される。即ち「怒りにも戦いにもよらず」死んだ。

このアンティオコスⅣ世エピファネスは「卑しむべき者」と呼ばれ、王座には不適格であったことが強調されている。

 

契約の君

これは大祭司オニアスⅢ世であり、彼は175年に職を追われ、171年に殺害された。

 アンティオコスⅣ世の気前よさはマカベア第一3:30に例証される。

 

彼はまた策略を巡らして堅固な城塞を攻める

リア王はペルシウムと国境の町々に居を構えながらエジプトを支配しようと試みた。(マカベア第一1:19)

 

偽りを語る

アンティオコスⅣ世がプトレマイオス・フィロメトールを破ったとき、アレクサンドレイアの人々はプトレマイオスフィスコンの称号で王座に彼の兄弟を就けた。その後 フィロメトールがアンティオコスの公正無私を信じているかのように振る舞ったのに対し、アンティオコスもフィロメトールのために行動しているかのように装った。

 

アンティオコスは初めてのエジプト遠征をエルサレムユダヤ教(「聖なる契約」)への攻撃を以って終えた。

 

西からの船

ヘブライ語では「キッテムの船」となっている。これはローマの介入への言及である。マカベア第一1:1ではギリシア人を表す名称としてキッテムを用いるのであるが、ハバククについてのクムラン註解でも、この語でローマ人を述べることについてはダニエル書に従っている。LXXは現に「ローマ人」としている。(NEB註解)

 

その後のユダヤ主義者への反対運動は、彼はローマの使者からの要求によってアンティオコスがエジプトを去る原因となったので火を噴いた。ローマからの要求を拒めず、その鬱憤がユダヤに向かった。

 

彼は帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行う。聖なる契約を捨てる者を顧みる。

ここにユダヤ人の二つの派への明確な言及がある。ダニエル書とマカベア第一は、はっきりと割り切った見方で分けているが、すべてのヘレニストがユダヤ教を捨てたわけではない。

砦というのは、おそらくは神殿そのもののことで、常供の燔祭は廃止され(cf;9:27)「荒らす憎むべきもの」とされるおそらくはゼウス像が建てられる。

 

民の内の賢い者たち

おそらく、後のパリサイ人の父祖で妥協することを拒否した初期ハシディームへの言及であろう。当初、彼らは消極的な抵抗運動を行っていた(マカベア第一2:29-38)が、もし攻撃されたなら安息日の規定を変更して戦うとしたマカベアから自分たちを区別した。

 

少しの助け

マカベア蜂起のことで、ダニエル書の著者は死に至るまで証しを続けた者たちの忠実さ、共同体のための身代わりの贖罪に参画する者たちによって強く印象付けられている。

 

しかし、終わりは定まった時にある

アンティオコスの死を暗示しているようである。<多分違う>

 

自分を高め、大いなるものとし

敬虔なユダヤ人はエピファネスという名のように、王が自らを神と公言する試みに何ら脅かされなかった。これは最後の冒涜行為となった。(マカベア第一1:24)

 

婦人の好む神

これはタンムズである(cf;Ezk8:14)アンティオコスはローマで人質を経験している。

そして砦(丘陵)の神(ユピテル・カピトリヌス)に頼り、アンティオケイアに壮大な神殿を建立した。彼は地方的な神々をユピテルに併呑させようと目論んだので、アポロンアドニス(タンムズ)のような神々は軽んじられた。その目的には王国の統一があった。非ユダヤ人らは王が神の生ける経路であるとの考えに慣らされていた。また、アンティオコスは自国民が自らを神として見ることに満足を覚えていた。

 

異国の神の民をもって最も強固な城塞に守備隊を置く

ユダヤ人はエルサレムに駐屯する異国民の守備隊の存在を憎んでいた。(Dan11:31/1Macb1:33.14:36)

やがて関心は神の支配の確立に向かう。しかし、エジプトへの推定上の攻撃については歴史の支持はない。リビアエチオピアへの言及はアンティオコスの支配領域は達することについて言うのであろう。

 

北と東からの知らせが彼を驚かせ

これはセンナケリブエルサレムからの撤退を思い起こさせる。

<この辺りでヘレニズム史からまったく遊離している> 

 

海と麗しい聖なる山との間に

これは他の預言に影響されたものであろう。(Ezk37/1Kin19)

実際はペルシアのタバエに於いて、原因不明の病で死んでいる。

 <的外れ>

 

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<12章の註解は荒唐無稽でノートする価値をほとんど感じない>

 印象;「幻を実現させようと」「終わりは定まった時に」「セナケリブを思い起こさせる」「キッテムの船」

 

<エゼキエルと同様に、ダニエルにも「シオン」の語は一度も出て来ない。エゼキエル37章以降と同様にダニエル10章以降には「エルサレム」が出て来ない。黙示録には三度「エルサレム」が出るが、地上のエルサレムを指す意味のエルサレムは無い。また「シオン」は子羊と仲間の立つ天界の場として一度現れるだけである。やはり、多くのキリスト教徒が信じるようにはならず、現エルサレムは終末の舞台とならず、幾らか(数十km)移動するようだ。あの人々はそれを「新しいエルサレム」などと称揚するのだろう。何と愚かな・・これは神の罠だろう。>