Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

西暦紀元頃のグレコローマンの書簡文の特徴

原始キリスト教時代の書簡  W.G.Dotyの著作からのノート

 

ヘレニズム期にマケドニアの領土拡大に伴い、文通の重要性と到達距離が増していた。

当時の書簡はしばしば捏造され、届ける者に信頼性が依存していた。配達人はたいていの場合、託された手紙の返事が書かれるのを待ってそれを持ち帰る。火急の場合、蝶番のついた蝋を塗った板(ディプチュカ)が用いられた。返信は、そこに刻まれた文字を消して、新たに書かれた。

また、更に短文は太古からのオストラカが便利に用いられている。

 

当時の習慣では、黙読が極めて稀であり、書かれたものは声に出して読まれるものであって、宛てられた人だけがその内容を知るばかりではなかった。

 

書簡を書くための専門家の養成の学校がアテナイや帝国各地にあり、著名な人物の文体や論議で新たな文章を作る練習が行われていた。そのため、原著者作品と見紛うほどの書簡が数多く作られていたが、その見事なものは捏造というよりは、その延長にあるものとも見なされ評価された。【パウロ書簡に偽書があるとの根拠のひとつ、だが、パウロの文章は雅量の点からその対象となり得ないとの見解も】

 

書簡は手紙の働きを越えて、エセーや人物伝に形式を与えていた。

ルキリウスへのセネカの手紙その好例であり、「生き方」についての省察となっている。

ヒュポクラテースの24通の手紙はAD50頃にその学派によって書かれ、伝記小説となっている。

アリストテレースの手紙を編纂したアルテモンは手紙文への注釈を書き、その弟子のデメテリオスの様々な書簡文についての批評をしたものが残っている。

プラトーンやツゥキジテスは、手紙の書き出しを持った論文であり、大袈裟な言葉使いについてデメテリオスが書簡らしくないと批判している。

デメテリオスをはじめ、何人かの教師により手紙を書くための卓上案内のようなものが作られていた。パピルス写本の中に手紙文の練習であったものが残されているが、そうした案内に従う例はあまり見られないところからすると、それらの案内の影響は限定的であったらしい。

 

また、小説へと向かう形のものもあるが、それらの多くは偽名や雅号にような名が付されていた。これらは今日からは「偽書」とされる。

パウロの長文のものも、単なる手紙文という範囲を越えて貴重な神学的叙述が含まれており、それはキリストの言葉が伝記である福音書の形をとることに対照される】

 

ギリシアの手紙に於ける「最も親愛なる」「最も尊敬すべき」、また奴隷に用いる「私自身の」という表現は、相手とさし向かいの会談を反映しようとするものである。

しかし、ヘレニズム期の書簡文は極端に定式化されており、これは前三世紀から後三世紀までほとんど変わることがなかった。

<手紙文の形式は文明によるものだと思う、洋式はグレコローマンの影響を残しているのが分かる。商用文なら洋式を模倣するには利便性はあるが、季節を含める和式の味わいは独特で捨てがたい>

 

①まず、導入部で差出人、受取人、挨拶、健康祈願があり

②次いで独特の定型的導入句によって導かれる本文となり

③結びには受取人以外の人々への挨拶や祈願、最後の挨拶や祈りがあり、ときには日付が入る。

 

これが何千通もの公私にわたる書簡文に一致しており、例外は少ない。

この習慣に異を唱える当時の著名人もあり、プリニウスは「わたしは、月並みでも下劣でもなく、私的興味に限られない何かを含むものにしたい」また「なぜ、我々の手紙は常にこのような所帯染みた事柄にかかずらねばならないのか」と言っている。<平安時代の歌のやりとりを知ったらなんと言ったか>

 

ローマ人の間では手紙の作法が確立され、文通の頻度によって親しさを測るができたので、出来得る限り手紙を送ることが礼儀に適った。【後のエラスムスコレット

 

手紙は本来、差出人と受取人の既に存在する関係性を示すものであるが、私的て親密なものもあれば、そうでないものもあった。後者には、商業的、軍事的、教育的なものがある。また、契約や裁定を伝えるものがある。

 

パウロの書簡文

基本的様式は

①書き出し;差出人、受取人、挨拶

②祈り、祝福;執り成し、終末論的高揚

③本文;導入の定型句、しばしば終末論、将来の計画などを伴う

④勧告

⑤結び;定式的祝祷と挨拶、時折は手紙の由来など

彼は書き出しに於いてユダヤとヘレニズムの要素に双方を活用しており、挨拶はギリシア的であるが、ユダヤ教の余韻も残している。挨拶の点で、パウロギリシア語のchairein「ご機嫌如何」とcharis「恵み」は言葉の上で似ているが、パウロが言葉遊びを込めたかは論議されるところ。

挨拶に「恵み」を用いることはヘレニズムでもヘブライズムにも無いものである。だが、これをヘブライ語のシャロームとの関連で見る場合、それはヘブライの書簡での標準的要素である。そこでパウロは、自らのヘブライ的遺産との連続性を意識していたことはほとんど疑う余地がない。ユダヤの手紙文では、人名がギリシア式よりも修飾されることが多かった。

例「ネリヤの子バルクより、囚われの身となった兄弟(同朋)たちへ。憐れみと平安とがあるように。」(バルク黙示録78:2 シリア語)

パウロも自ら名乗る際に、それを修飾する仕方で使徒職への言及がされてもいる。

また、共同の差出人を併記するのは、それらの人々が共同体でも認められた権威者、また運び手であり、その信用性を保証していた。伝達されるべき情報の信憑性が使者の信用に委ねられているヘレニズムの場合、これは特に重要であった。

 

フリードリヒ・ケスターによると、パウロ文は起源的にユダヤ風で単にギリシア形式に当てはめたに過ぎない。

ダイスマンは、注意深くは整理されず、内容が随時移行しながら、時には飛躍しつつ、途切れ途切れに口述している。

W.G.Dotyは、パウロは自分の書きたい事柄を著すためのしっかりとした形式の意識を持っていた。

この点を理解しておくと、コリントスやフィリッポイへの文章の伝達経路で解体され整理し直された手紙文の全体を再構成するのに助けとなり、また真正な手紙とそうでないものを区別する手立てともなる。

 

 

 

所見;パウロ当時のグレコローマンの習慣としての書簡文が、通信文という用途を超えて来ていたところで、新約聖書のほとんどが書簡文で成り立っているには、非常なまでに用途に適っていたように思える。

なぜなら、パウロなりが自らの著書を書いていれば、それはまさしくパウロ教と人に見做されてしまう危険が高い。それでなくても、福音書のキリストが依然、トーラーの下に在って語っているのであるから、その犠牲が捧げられ『新しい契約』が発効した後のユダヤ教からの次元上昇とも言えるほどの大変革を示す教理を伝える器として、当時の必要に応えるかたちでの書簡文は、著者ひとりにその理解の源を示さず、聖霊の霊感が主役であったことを読む者に自然と印象付けることができる。書簡であれば、通信の必要を通して実生活との関わりの中で思想や釈義を述べても個人の恣意性の印象が薄らぎ、同時に著者を確定し易いという利点がある。これはユダヤ式の旧約著作とは根本的に異なり、偽作の恐れが非常に高いキリスト教の事情にも好都合であったろう。

当時のグレコローマンの習慣を用いることは神の思惑であった蓋然性が感じられる。

加えて、ユダヤヘブライは過ぎ去ろうとしていた律法体制の強力な引力が働いており、キリスト教の革新性を荷うには余りに重い足枷の下にあったというべきだろう。ユダヤ教式概念からの離脱という面で、ネイヴィームとの連続性は書簡という形で断たれたとも言える。

キリスト教ギリシア語に向かったことには、これらの要件を満たす合理性があったに違いない。もはやユダヤモーセを遥かに超えて行くキリストの新たな教えを負える器ではなかったと言える。実際草創期キリスト教を支えたのはユダヤ教ナザレ派ではなく、ディアスポラの民と古参のギリシア語話者であったのは否定しようがない。『諸国民への使徒』とは、この新たな教えを荷う重要な器であり、且つ離散の民と異邦人への橋渡しという原始キリスト教確立の立役者としての称号であったと言える。

それにしても、文体や使用単語よりも注目するべきは内容の価値である。

奥義の理解に於いては、その文面が何者によって書かれたのかを物語ってしまう。特に新約聖書に込められた高度な経綸理解は真に価値あるもの以外をその内容そのものが淘汰してしまう。

 

 

 

 新約聖書の書簡文の分類法提言