Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヘブライ人への手紙 ノート

 

アレクサンドリア写本には、終わりに「ローマから書かれた」との付記がある。そこでヴィンディッシュはローマあるいはイタリア以外の、多分東方のある地点の人々に宛てられたと考える。

ユダヤ教を基礎にした内容からして、ユダヤ人に宛てられたとする説(シュトラートマン、リーゲンバッハ)と、ユダヤ教の完成を目指したのであるから異邦人に書いたとする説(ユーリヘル/ハルナック/ミハエリス)がある。

ヘブライ人」ではなく「ベレア人」であろうというA.クロスタマンもバルナバを著者としてキュプロスの人々に書いたとするリーゲンバッハの説も根拠は薄い。ミヘルの言うように宛先は「神秘的暗黒」にある。-前田-

クレメンスAlxはこの名のままに書簡を紹介するパンタエノスの言葉に中に「ヘブライ人」とあり(HE6:14)、またテルトゥリアヌスもそのまま用いている。そこで古くから一般的に通った名であったと考えて問題はない。

旧約の引用はLXXに拠っている。

 

写本集の並べ方からしパウロのものとされてきたが、本書簡を高く評価したクレメンスAlxはパウロのものをルカが翻訳したと述べ、オリゲネスもルカの編集になると言う。

しかし、テルトゥリアヌスはバルナバを著者とした。

16世紀には、エラスムスからこのパウロ説が揺らぎはじめ、アポロを適当と見做した。カルヴァンはクレメンスRmと見る。

古来のバルナバ説も依然有力ではあるが、現代の通説では「偉大な未知の人」(ユーリヘル)、「父なく、母なく、家系なく」はこの著者そのものだという(オーヴァベック)、著者の詮索は「無益は顧慮」(リーツマン)、「学者の趣味による」(カンペンハウゼン)などと言われている。

「主の言葉を聞いた人たちから救いのことを示された」2:3とあるから、著者はイエスの直弟子ではない。内容がユダヤ教の思想や儀式に通じていて、文体が優れたギリシア語であるから、知的水準の高い初代信徒の一人である。再度の悔い改めが不可能なこと、迫害の脱落者が出た様子があるので、パウロの晩年か、その弟子くらいの年代の人が書いたのであろうから、テモテとの関連も整合する。また、宛名の人物のところに帰りたいと述べているので、宛先は旧知の間柄にあったであろう。

 

伝統的には、ローマのエクレシアに属するユダヤ系イエス派に宛てられたもので、ユダヤ教に戻ろうとする彼らの傾向を戒めているものとされ、この認識は19世紀まで広まっていた。

Vgl.D.Schultz "Der Brief an die  Hebräer"1818/A,Riehm"Der Lehrbegriff des Hebräerbriefes"1867)

これが1936年に、M.E,Röthによって覆され始めた。彼はこの書はユダヤ系信者がユダヤ教に戻ってしまうことではなく、信仰から脱落してしまうこと、また、ヘレニズムに戻る異邦人を訓戒しているという新説を唱えた。

その後、1951年にW.Mansonが第三の見解を発表している。彼によれば「ステファノスの事業に端を発するキリスト教の世界伝道の歴史を検討することによってのみ、この書の鍵が見出される」とした。

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E.F. Scottによれば、ヘブライ書は多くの点に於いて新約聖書中の謎である。その成立については何も知られていない。

「これが書かれたのはAD70と85年の間、それも多分85年に近い頃」とも

この著者についてパウロバルナバ、アポロ、ルカ、クレメンス、アキュラとプリスカが挙げられてきたが、その名を求めることは徒労に終わるだろう。

 

ケーゼマン(E,käsemann)は、「ヘブライ人への」を象徴と解釈して、「住むべき家もなく、地上をさまよい、天なる故郷を求めつつある信仰ある人々を指すとするのは当を外していないのではなかろうか」と言う。

これにユーリッハー、スコット、モファットとこの見解を同じくしている。

対して、O.Michel(独)はこの書簡の文学性を論じ、「これは説教であり手紙ではない」とする。著者はイタリアの仲間から離れていたので、あとがきを付して送ったのだろう。それは著者の不在の埋め合わせに会衆に対して朗読されたのであろう。これによって、議論の絶えなかった主要部分とあとがきの不調和を解決できる。」1949

また、この書は、原始キリスト教の宣教とヘレニズム的シュナゴーグの講義の修辞学的訓練との邂逅から生じたものである。これはフィローンや第四マカベアの講義と密接に関係している。ここに見られるのは、ヘレニズム形態を取ったユダヤ思想である。・・この意味でこの書はヘレニズム的シュナゴーグの存在を前提としている。とも

彼は、著者をアレクサンドレイアのユダヤ系の人物を想定している。

 

著者の背景の想定

・アレクサンドレイアの背景を持つキリスト教

;E.F.スコット、J.モファット

グノーシスの背景を持つキリスト教

;E.ケーゼマン

・アレクサンドレイアの背景を持つユダヤキリスト教

;C.スピック

ユダヤ的、ヘレニズム的背景を持つユダヤキリスト教

:O.ミヘル

 

著者の想定

アポロ;C.スピック

アポロに型に属するユダヤ人;E.F.スコット

無名のアレクサンドレイアのユダヤキリスト教徒;O.ミヘル

フィロンの影響と受けた無名人;J.モファット

 

受取人の想定

双方の民からなるキリスト教徒;スコット、モファット、ケーゼマン

イタリアのキリスト教徒の群れ;O.ミヘル

ローマのキリスト教徒の群れ;W.マンソン

ステファノスの弟子によって改宗し、カイサレイアかアンティオケイアに避難したユダヤ人祭司の群れ;スピック

 

 

<E.ケーゼマン;ゲッチンゲンの新約学教授「さまよう神の民」1938・ヘブライ書をグノーシス派の背景から捉え、ユダヤ神秘主義の所産と断定>

彼は、グノーシスが原始キリスト教礼拝の発展に於いて大きな役割を及ぼしたと見る。「それが事実であったことはアポクリファの短歌(オーヅ)によって示され、Phi2:5- 1Tim3:16-が本書のキリスト論と密接に関係・・」中川秀添

グッドイナフとE.エックルス;この著者はキリスト教を神秘宗教として表していると結論

 

引用箇所

Gen;4 EX;3 Nub;1 Deu;3 1Sam1 Isa;1 Jer;1 Hab;1 Hag;1 Ps;12 Pr;1 

引用箇所の明示は一か所も行われていない

LXXからの逐語的引用が大半を占める

引用文話者は、神;22 御子;3 聖霊;1 人;3 明白な引用;1 不形式;1 対象無し;1

 

旧約の引用の特徴は、最終目的を目指す神の民の歴史を開示する

旧約聖書は、神の民を最終目的に向けて教育し訓練して行く記録である

レヴィ的律法の下に最終成就をキリストの契約を目指して訓練した

旧約の歴史的記録を「永遠の相の下に」見ている

しかし、フィロンのように歴史の出来事をアレゴリカルに解釈していない

ヘブライ書の釈義はティポトロジー(予型と対型)である

「出来事がもう一つの別の出来事の予示、或いは成就として顕示される」E.アウエルバッハ

 

・9:16の問題

διαθηκηはフィロンに於いては歴史の内に啓示された神の恩寵の意志を表す語である。彼は一般的「契約」についてはσυνθηκηの方を用いていた。

διαθηκηはヨセフスでは「意志「遺言」「遺言による処分」を意味する。

E.D.W.バートンによれば、彼が神とその民の契約に語ろうとはしなかったこらであるとされる。

パウロの使用例ではGa3:15-17など、どちらともとれるがRm11:27でははっきりと神の契約を指している。

ヘブライ書でのδιαθηκηは法律用語としての「遺言」に固定されることを強いるものではない。・・その源はJer31:31から来ている(中川)

 

以下(Harry Y Gamble)

契約という言葉が権威あるユダヤ教聖典及びキリスト教聖典との厳密な関係に持ち込まれるのはまずアレクサンドレイアのクレメンス(180-200)と共に始まっている。彼の後継者であるオリゲーネスは「所謂、古い契約と、所謂、新しい契約の聖なる経典」についてより明確に書いている。ここでのオリゲーネスの言葉の用法は、この言葉がまだ目新しく、多分彼もあまり相応しいとは思っていないことを示唆している。だが、文書そのものが契約でないことは明らかである。

聖典を神とその民との契約の証言として考えようとするラテン的キリスト教の努力は、様々な翻訳と究極的には意味の歪曲を伴った。カルタゴのテルトゥリアヌスはそのような特別の擁護を用いたラテン系の最初のキリスト教著述家であったが、時折 διαθηκη を Testamentum に訳している。しかし、彼自身は明らかに instrumentum に訳す方を好んだ。

だが、いずれにしてもラテン圏で定着したのは Novum Testamentum であった。辞書的にはこの訳語は正しい。なぜなら Testamentum は διαθηκη に対応する同義語だからである。即ち、普通の用法では「(最後の)遺言」を意味したからである。しかし、概念的には誤りであった。聖書上のギリシア語ではδιαθηκη はその意味で用いられてはいなかったからである。用いられた意味はCovenant または Compact でありヘブライ語ではベリートであり、標準的ギリシア語であればδιαθηκη よりは συνθηκη であったろう。

その結果として、ラテン語の Testamentum は聖書の契約という考えの基本的神学的意味をまったく間違って用いているのであり、聖典文書と契約との関係を誤解している。

聖典文書は契約に属するというのが支配的見方であるが、そのような考えはなくなってしまい、むしろ聖典が神の遺言(人間の遺言を真似た聖なる意志の最後の権威ある宣言)を構成するのだという考えが支配的になる。この意味の変化は聖典を啓示の完全な貯蔵庫、神の意志の最後的表現として見る、固定的、法律的考えを生み出す不幸な結果を生み出した。

実際には、新約という提題は「新しい契約に属する本」を意味すると理解されるべきで、文書そのものが契約なのではなく、それらは契約についての証言なのである。

・ダイスマンが「ヘブライ書は最初のキリスト教文学である」というほど、この手紙の用語、文体は芸術的な香りがあり、ヘレニズム時代の文献としても秀でたものである。書き出しから対句の如き構文を示し、漸層法(6:9)を用いた形跡もあり、言外に多くを残して筆を先に進める(9:5.11.22)など、修辞学的に見ても堂々たるものである。母音重複を避ける傾向があるのも、有名な「信仰によって」から続く11章に於ける論証の運び方も著者の並々ならぬことを示している。

そのことから、訓話集であったものに手紙らしい末尾を付けたと判断する学者(ヴェントラント・ディベリウス)も少なくない。しかし、論文的手紙と見て差し支えない。 

『イタリアの人々からよろしく』とあり、ローマで成立したとするのが自然である。

クレメンスのコリント第一が引用している以上、成立は96年以前と言える。

書簡中の迫害がどの時代であろうとも、70-80年ころの成立と見る。そうすると『主の言葉を伝え聞いた人』、『一度信仰に入ってから離れる人』がいたことテモテが健在であることなどの時期が合っている。

 

 

1985 The New Testament Canon 

 

・αρκηγός 「信仰の創始者」12:2

prince 2, captain 1, author 1; 4 1) the chief leader, prince 1a) of Christ 2) one that takes the lead in any thing and thus affords an example, a predecessor in a matter, pioneer 3) the author

 

所見;ローマのユダヤ人グループに宛てて書かれたというのは、どうかと思う。なぜなら、西欧はこの書を第四世紀も末になるまで聖典性に疑問をもって扱っている。その理由は、文書の内容に原因があり、厳格な道徳性がモンタニズムに魅力を感じさせたからである。

聖典性の点で最も遅れたのはシリアであるらしい。(H.Y.Gamble"The New Testament Canon Its Making and Meaning" 1958 Chap2)

東方では、カエサレイアのエウセビオス聖典性を認めており、西方もカルタゴ会議418にヒエロニュモスの承認もあってパウロ書簡として認められている。

それから、第二世紀初頭のシリアのイグナティオスが旧約にそう通じていなかったことを考えると、メルキゼデクの件をその講話だけで納得できるのは、よほどにユダヤ教を知っている背景を要するものと思う。そこで、やはりこの書名のようにヘブライ人を対象としていなかったというのは非常に不自然だろう。

ギリシア語が抜きんでて素晴らしいというのは、パウロ亡きあとに翻訳を任された人物の技量によるのではないか。その人は、ギリシア語に直すに当たり、相当な裁量を託されたのであろう。

これは、幾分かマタイ福音書ギリシア語が整ったコイネーであることにも通じるのであろう。

それから、パウロエルサレムに上るに際し、テモテも随行していた。(ベロイピュッロスの子ーパトロス、テサロニーのアスタルコス、セノドス、デルーのガオス、テュテオス、アシアからはテュキスとトフィモス)七人が挙げられているが、他にルカが居る。特にフェソスのテュキスは同地のディアスポラの者にエルサレムで見られてそれが騒動を起こす元になっていた。

テュルスに入港してからエルサレムに入るまでに、プトレマイスの仲間の処に一泊、カエサレイアでは福音宣明者フィリッポスの家に何日も留まり、そこにアガボが来ている、カエサレイアの仲間も加わってエルサレムに上り、キュプロス出のナムソンの家で歓待を受けている。その翌日にヤコブに会い、その次の日から浄めの儀式を行い始め、七日目で騒動が起っている。翌日はサンへドリンでの弁明があり『次の夜』には主に励まされ、その日に陰謀が伝えられ、その夜の内に移送されて翌日の昼にはカエサレイアの総督府に居た。

軟禁状態で二年を過ごしたがフェリクスは『仲間が世話をすることを妨げないように』と命じている。

以上のことから、エルサレムをはじめ沿岸の幾つかのエクレシアの人々、また、世話に訪れた人々はパウロと共にテモテにも面識があったことはまず間違いない。

後述するように、年代が西暦63年か64年であれば、ヤコブの死に応じて書かれたと見るべき理由が生じる。ヤコブエルサレムユダヤのエクレシアイの代表、礎石として揺るぎない存在であればあるほどに、わざわざパウロが何かを言うべき動機を持ったであろうし、2~3年後に第一次ユダヤ騒乱が迫っており、ユダヤ自体で愛国心が高揚し、ナザレ派には圧力が増していたことは充分に考えられ、それはカハルからの追放となって現れてもいたであろう。(Heb10:25)

 

 それから旧約の引用箇所を言明していないのは、宛先の読者らが旧約を知っているからであり、「異邦人だから旧約を参照できなかったから必要が無い」とは言い難い。そうであれば旧約の故事についての基礎的情報を語ったり、丁寧に説明したであろうが、メルキゼデクのティポトロジーをあのように簡潔に述べはしなかったろう。またアブラハムのイヴリートとしての生き方と『神を建設者とする都市を待ち望んだ』というのは、基礎知識なしにはまず理解できない。『天幕に住んだ』がどれほどの含蓄のある言葉かを理解できるのは、『律法』を熟知した読み手でなくてはならず、異邦人で一般的ギリシア・ローマの都市生活者には分からないのではないか。

この点で「住むべき家もなく、地上をさまよい、天なる故郷を求めつつある信仰ある人々」というのはイヴリーと聖徒の相似性を言うのであり、『真の土台を持つ城市を待ち望んだ。その建築者は神』という言葉の中に、世に在って居留民である聖徒の立場が対照されているのであり、決して故国を追われたユダヤ人を云々しているなどと単純に読むべき理由はない。(Heb11:16=1Pet1:1)

加えて、西暦70年が近付くに従い、ユダヤ教徒との対立が先鋭化し、場合によってはカハルを追われる人々も現れたので『集まり合うことを止めずに』という状況はユダヤ教ナザレ派にぴったり当てはまる。彼らは、愛国的になってゆくユダヤ教と完全に袂を分かつ必要に迫られており、カハルから追われたとしても、イエス派同士の集まりを持つべきであったろう。

それは最終的にユダヤの象徴としてのエルサレム神殿をさえ、イエスの言葉に従って見切りをつけて直ちに『山に退く』ことをしなければ、ユダヤに臨む『火のバプテスマ』をユダヤ教徒と共に受けなければならなくなった。つまり、『その日が近付くので、ますますそうする』理由は命に関わることになってゆく。

また、彼らは既に『命に至るほどの迫害』に面しており、それはイエスの弟「義人ヤコブ」という保護の壁を失って後のことであったのではないか。そうすると、パウロが態々、自分の憎まれている顔を出す理由も充分にある。だから、頭書に挨拶もない。彼らはいつまでもユダヤ教のぬるま湯に浸かっている場合ではなかった。そこで『時間の長さでは教える者であるはずなのに』『基礎からもう一度習う必要がある』ほどに脆弱であることが指摘されている。彼らはユダヤ教的であることに満足していたところで、パウロを軽視し過ぎていたのだが、今やユダヤ教の完成を目指すよりもキリスト教に進むことが急務となっていたのだが、著者はその点を指摘するのに『もう一度習う必要がある』という比較的穏やかな言葉で諭している。

つまり、ユダヤ教のイエス派は『先の者が後になる』という言葉の通りに、キリスト教の優越性に無頓着であり、ヤコブ亡き後、それを語る最適任者といえば、まずパウロでありペテロであったろう。ペテロもこの時期に異邦人宛ての書簡を書いており、同様の緊迫感を明らかに伝えている。両者の書簡共にヤコブの手紙の語り口とは異なり、迫害が起こって時が迫っていることが二人の文面に見える。それはユダヤ教体制の終焉であると同時に、当時の聖徒らの裁きともなっていたに違いない。特にヘブライ人もユダヤガリラヤの聖徒らには、ユダヤ教側からの猛烈な圧力に面していたろうが、それは西暦七十年という結末に至ることになる。

この書簡が書かれたのは、ローマでのパウロの釈放後であり、テモテの解放を待っている。つまり、エルサレム攻囲の前であり、パウロの二度目の逮捕の前でもある。そしてヤコブの死の後であるとすると、西暦63-4年頃にヘブライ語で書かれたのであろう。しかも最後の活動の開始前か初期である。従ってヤコブ殉教の翌年である可能性はある。(二度目の逮捕は64年以降)。つまり、エルサレムの滅びまであと7年弱というパウロがローマで処刑された67年の後、ルカなりの素養あるディアスポラのだれかによってギリシア語に翻訳されたのであろう。

あるいは、パウロ書簡収集家の誰かによってギリシア語への翻訳依頼がなされ、LXXからの引用によってギリシア語書簡として成立したのではないか。この書簡がパレスチナユダヤ人に書かれたのであれば、旧約の引用箇所の言及がないこと、またティポトロジーの多用にも異邦人のような無理がなく理解できたであろう。

これを理解したいと異邦人聖徒が願うとしても自然なことであり、これについてはクレメンスAlxやオリゲネスのルカ編集との証言もあるし、ヒエロニュモスもパウロが著者であるとしている。

使徒言行録との文章傾向に異なりがあるとしても、ルカはへフライ語文からの訳出に際し、相当程度の自由裁量があったか、または、パウロヘブライ語での唯一の書簡を著すに際して、彼の持つヘブライ語の雅量が十分に発揮されており、ルカもそのヘブライ文に見られる質の高さに準拠すべく努め、その結果が今日コイネで伝えられている本文に結実したと見ることができ、その蓋然性も低くないと思える。