Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ヘブライ第12章の意義

 

12章は直接的には11章に現れた旧約の先人たちの信仰に倣うことの意義をまとめており、それ以前からのこの書簡全体の送られた目的を成し遂げる点で重い要点を成している。

その主要な目的は、これまで強い迫害を経験していなかった者ら(12:4)に、旧約の苦しみに耐えた先人たちを思い起こさせ、聖徒である者らが『弱り果て、意気阻喪することのないため』(12:3)、また、主のように『前に置かれた喜び、恥を厭わず磔刑に耐え』その結果『神の右に座した』ように、『誰も神の恵み[χαριστος]から除かれることのないように』注意することを勧告している。

この『恵み』というものは、単なる神の善意ではなく、『新しい契約』による『義』の獲得であることは、その結果が『主を見ること』(12:14)であることが証ししている。これは1Joh3:2で主の再臨の時には『御子に似た者』となり『そのとき御子をありのままに見る』の句、また、パウロも言うように『この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになる』(1Cor15:52)も例証する、聖徒の霊化を指している。それは『新しい契約』を地上で全うすることを条件としているところで、聖徒らの通過しなければならない試練となっていた。

そこでヘブライ書の著者はPrv3:11-12を引用して、ユダヤの家庭での子に対する父親の訓練Nub12:14を例えて、父親からの懲らしめを受けない子は『私生児である』とも言っている。そこで、ユダヤの家庭での懲らしめの習慣が例えられており、その読者らがユダヤの習慣を知っていることを示している。(12:10)

聖徒である彼らが受ける訓練の結果は『平和の実である義』とされているが、これはこの書簡のはじめの方で言及された、キリストについての『多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった』(2:10)に倣うものであることを、更に『人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない』(2:11)と続けているので、聖徒らが主イエスに続いて『全う』され、義認を受け『キリストの兄弟』とされることを(cf;Mt25:40)記している点では疑いようがない。

 

上記の理解を踏まえると、Heb12:14の翻訳で的を射ているものを見ることはまず無い。

[Εἰρήνην διώκετε μετὰ πάντων καὶ τὸν ἁγιασμόν, οὗ χωρὶς οὐδεὶς ὄψεται τὸν κύριον,15ἐπισκοποῦντες μή τις ὑστερῶν ἀπὸ τῆς χάριτος τοῦ θεοῦ,]

「平和を追え、また、すべてに、そして聖であることを。それなくして見ることはない、キリストを」15「見張れ、誰も欠けた者が出ない 神のカリスから、・・」

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」【口語】

「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」【新共同】

しかし、以下の訳では、その辺りの意味を察知させる余地が残されている。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」【新改訳3】

「すべての人々との平和を、また聖別[された生活]を追い求めなさい。これがなくては誰も[将来]主を見ることがないであろう。」【岩波委員】

 としており、経綸の観点に立つと、単に『聖なる生活』を送る以上の訓練の成果としての『聖別』や『清め』の解釈に道を残している。これは相当に奥深く、それが真意と思える。これはパウロが別の書簡でユダヤ人にも異邦人にも再三語った論議である。Rm15:16

<やはり原著者は「秘儀の家令」であろう>

 

加えて、『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないように』(12:16)は、聖徒の聖別との対照として語られるが、これはユダ・イスカリオテのような脱落を指すとも言える。

 

その後の記述に於いて著者は秘儀認識の高みに上っている。

即ち、ホレブ山に対するシオン山の優越、『神の都市である天のエルサレム』の幻視、『天に登録された長子たちの集会』『全うされた義人の霊』など、これは『聖徒』と『神の王国』の秘儀を知らずにはその重さを悟ることができない。

最後に荒野またホレブ山麓で語られた言葉を聞かなかった者らが処罰されたように、当時の聖霊の言葉を聴かない者らも逃れられないことに注意を向けた後、シナイの山体の激動とハガイ書の激動とを明確に関連させている。

ハガイ書の『「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」』Hag2:6)が指摘され、『震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。』(12:27)として聖徒らは、この世と交代に『神の王国』の支配権において残されることを教えている。

 

所見:この原著者は、聖徒と王国の秘儀を知り尽くしており、これをグノーシス神秘主義の蒙昧に帰すことには無理がある。そのように主張する識者は秘儀の重さを理解しないで、当時の文書の比較の上から本書の記述を判断した結果を述べているのであろう。

また、この章だけでも読者に想定される認識がユダヤ教聖典に詳しく、また著者が『わたしたち』と呼びかけている相手がユダヤの家庭環境に育っており、箴言の作者が『子らよ』と呼びかけるユダヤ同朋であることも示している。

また、宛先の人々は急な迫害に面しており、それはペテロの第一の手紙が書かれた時期との関連を示唆しているとも言える。そうであれば、ペテロが67年頃までの生存であったとする場合、ペテロがアナトリア方面の諸国民に書簡を送っているほぼ同じ時期に、本書の著者はユダヤ教ナザレ派にこの書簡を送ったということであろう。

この12章以外にも、原書簡が作成された時期を示唆するものは多い。