Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

マケドニアのディアドコイ時代

マケドニア履歴 - Quartodecimaniのノート

アケメネス朝と「ユダ帰還」 - Quartodecimaniのノート

ディアドコイ戦役前の情勢 - Quartodecimaniのノート

 

アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オワシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる(「古代エジプトの歴史」)

 

紀元前320年、アレクサンドロスの部下でエジプトに配置されていた将軍プトレマイオスがまず最初にシリア太守ラオメドンを下し、コイレ・シリアも含むシリア全域を占領した。紀元前315年にディアドコイの一人、隻眼のアンティゴノスが小アジアから東へ領土を拡大し台頭すると、プトレマイオスは反アンティゴノスの同盟に加わったが、コイレ・シリアからは撤退した。紀元前312年、エジプトに逃れていたディアドコイの一人セレウコスプトレマイオスの連合軍がシリアに侵攻してガザの戦いでアンティゴノスの息子デメトリオスを破ると、プトレマイオスが再度コイレ・シリアを手にした。しかしデメトリオスは部下の反乱を破って態勢を立て直し、またデメトリオスの敗北を受けてアンティゴノスが自らシリアに入ると、プトレマイオスはわずか数ヶ月後でコイレ・シリアから撤退する。しかしこの数カ月の間にセレウコスはバビロンに戻ることができ、セレウコスは命をつなぐことができた。

紀元前302年、ディアドコイの中で最有力となったアンティゴノスを包囲する同盟が形成されるとプトレマイオスも加わり、コイレ・シリアに軍を進めたが、アンティゴノスが戦闘に勝ったという虚報を聞いてまた撤退した。紀元前301年、小アジアのフリュギアでのイプソスの戦いでセレウコスおよびリュシマコスの連合軍がアンティゴノス軍を壊滅させアンティゴノスを戦死させると、プトレマイオスは再びコイレ・シリアを占領した。イプソスの戦いの勝者の間では、コイレ・シリアは勝利に貢献しなかったプトレマイオスではなくセレウコスに割り当てられることになっていたが、セレウコスはコイレ・シリア防衛の戦いを起こそうとはせずプトレマイオスによる占領を黙認した(プトレマイオスの助力でバビロンに逃げることができたことを忘れなかったからと推測されている)。

 

 

ヘレニズム期にはセレウコス朝などによりギリシア式の都市がコイレ・シリアに多数建設された。その中でも有名なものはデカポリスと呼ばれるダマスカスからヨルダン川東岸に至る都市群である。こうしたギリシャ式都市ではヘレニズム文化が栄えてギリシャ語が話されたが、この地方の住民の多数派はアラム語などを話すナバテア人、アラム人、ユダヤ人などセム系諸民族であった。

第1次シリア戦争 (紀元前274年 - 紀元前271年)
第2次シリア戦争 (紀元前260年 - 紀元前253年)
第3次シリア戦争 (紀元前246年 - 紀元前241年)
第4次シリア戦争 (紀元前219年 - 紀元前217年) - ラフィアの戦い
第5次シリア戦争 (紀元前202年 - 紀元前195年)
第6次シリア戦争 (紀元前170年 - 紀元前168年)

 

年表はこの頁の下部を参照

 

ディアドコイ時代

セレウコス朝王名

セレウコスⅠ世 ニカトール 位312-281

アンティオコスⅠ世 ソーテール 位281-261

アンティオコスⅡ世 テオス   位261-246

セレウコスⅡ世 カリニコス 位246-226

セレウコスⅢ世 ケウラノス 位226-223

アンティオコスⅢ世 メガス 位223-187

セレウコスⅣ世 フィルパトール 位187-175

アンティオコスⅣ世 エピファネス 位175-164

アンティオコスV世 エウパトール 位164-162

デメテリオスⅠ世 ソーテール 位162-150

アレクサンドロスⅠ世 バラス 位150-145

デメテリオスⅡ世 ニカトール 位145-138 パルティア捕囚

 アンティオコスⅥ世ディオニュソス 代理王145-140

アンティオコスⅦ世 シデテス 位138-129

デメテリオスⅡ世  ニカトール 複位129-126

  アレクサンドロスⅡ世 ザビナス 簒奪位128-122

クレオパトラ・テア  位125-121

 セレウコスV世 フィロメトール 位126-125

アンティオコスⅧ世 グリュッポス 位125-96

  アンティオコスⅨ世 キュジケノス 位113-95

 セレウコスⅥ世 エピファノスニカトール 位96-95

 ・・・

BC.63滅亡時は、フィリッポスⅡ世 フィロロマイオス

 

 

 

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ディアドコイ戦役年表 この以前は⇒「ディアドコイ戦役への情勢

 

321:ナイル渡河に失敗したペルディッカスをセレウコスが弑する。

この摂政の死を受けてアンティゴノスがトリパラディソスに諸将の会議を招集し、アンティゴノスは総司令官、セレウコスバビロニアの太守となる。 

ペルディッカスに組みしていたエウメネスとアンティゴノスの間で戦いが始まる。

この頃リュシマコスはアンティパトロスの娘ニケーアと結婚

319:マケドニア摂政アンティパトロスが高齢で死去、後任はポリュペルコンとするが、これに摂政の息子カッサンドロスは納得せず後任と対立。

318:リュシマコスはポリュペルコンの将軍クレイトスを破り討ち取る

317:パラエタケネの戦い

カッサンドロスはマケドニア摂政を宣言

316:ガビネエの戦い エウメネス戦死 

ピュドナ攻囲でオリュンピアスが敗れカッサンドロスに殺害される

315:第三次ディアドコイ戦争が始まる-311

アンティゴノスの領土分配に不満を持つメディア太守パエトンがアンティゴノスに攻め滅ぼされるのを見たセレウコスプトレマイオスのエジプトに逃れる。

カッサンドロス、リュシマコスプトレマイオスⅠ、セレウコスⅠが同盟してアンティゴノスⅠと戦う。

 

312:「ガザの戦い」プトレマイオスⅠがアンティゴノスの子デメトリオスを破りシリアを占領する。ユダヤはエジプトの支配下に入る-198

10月セレウコスはバビロンに再入城し、かつて施した善政のために市民から迎えられる。セレウコスⅠ即位(-280)バビロニアを支配、シリアをエジプトから奪還し、シリア王国を興してセレウコス朝を開始(-63)216年間

 

311:セレウコスⅠ世を除く諸将の間で講和が結ばれ五分割される

カッサンドロスはギリシアマケドニア

リュシマコストラキア小アジア

プトレマイオスはエジプト

アンティゴノスはオリエント西方

セレウコスはオリエント東方)

しかしセレウコスはアンティゴノスと戦ってバクトリアを制圧する

 

310:ロクサナとアレクサンドロスⅣ世がカッサンドロスに殺害される

309:大王の庶子ヘラクレスがカッサンドロスの賄賂を受けたポリュペルコンに殺害される

 

307頃、セレウコスはバビロンを放棄して、ティグリス河近郊に首都セレウケイアを創建

306:キュプロスのサラミュス沖の海戦でデメトリオスⅠ世がプトレマイオスⅠ世の軍を破る

デメトリオスⅠ世とアンティゴノスⅠ世モノフタルモスとが親子で王を称し、アレクサンドロスの王国が終わる

305:プトレマイオスⅠ世、王を称してプトレマイオス朝エジプトを興す -30 274年間

カッサンドロス、リュシマコスセレウコスも王を称する。六王乱立

304:第四次ディアドコイ戦争が始まる

301:アンティゴノスⅠ世モノフタルモス[隻眼者]はリュシマコスセレウコスの同盟軍にイプソスの戦いで敗れて戦死する、領土は別のディアドコイらによって分けられる 息子のデメトリオスⅠ世は逃れる

ユダヤ(コイレ・シリア)はプトレマイオスⅠ世によってエジプトに編入され、寛大な処遇を受ける

この頃、リュシマコスセレウコスⅠ世の拡大を恐れ、プトレマイオス朝の女王アルシノエⅡ世と結婚

300:デメトリオスの娘ストラトニケー(母はアンティパトロスの娘)がセレウコスⅠ世に嫁ぎ、盛大な結婚式が催される。

297:カッサンドロスは病死 その後カッサンドロスの後継者フィリッポスⅣ世は早世し、別の二人の息子が王位を争う中をデメトリオスⅠ世に付け込まれ双方共に断絶

 

288:デメトリオスⅠ世はリュシマコスプトレマイオスの支持を受けたエピロス王ピュロスの侵攻を受けギリシア王位から放逐される その後セレウコスに捕えられ獄死する283

285:リュシマコスマケドニアの共同統治者であったピュロスを追放し、マケドニアの単独王となる

 

281:セレウコスⅠ世、イプソスの戦いで勝利しリュシマコスを倒しディアドコイ中の最強勢力となる。アンティオコスⅠ世 ソーテールが父と共同統治王として即位

サルディスの西方コルペディオンの戦いでリュシマコス戦死、遺領アナトリアセレウコスが収める

280:セレウコスⅠ世、プトレマイオスⅠ世の子ケラウノスに殺害され、マケドニアトラキアはケラウノスに治められる。ケラウノスはリュシマコスの仇を討ったとしてその遺領の領有を主張。セレウコスⅠ世の息子で共同統治者であったアンティオコスⅠ世ソーテールが東方の領土からセレウコス朝領土を継承

以後、コイレ・シリアなど西方での戦役が頻発

 

261:アンティオコスⅠ世 ソーテールが死去、アンティオコスⅡ世 テオスが即位

アンティオコスⅡ世 テオスはラオディケーⅠ世と結婚していたがエジプトからベルニケーを迎えるために離婚

 

250頃:イラン系遊牧民パルニの族長アルケサスⅠ世が即位、後にシリア王国に属したイラン北東部ホラーサーンの地にパルティア王国を建国-228

バクトリアとソグディアナの管轄区がシリアから独立し、長官が王を名乗る

 

246:プトレマイオスⅢ世が即位-221

同年プトレマイオスⅡ世の死により、南北の平和協定が見直され、アンティオコスⅡ世 テオスの元妻ラオディケーはベルニケーを殺害したうえ元夫をも(おそらく)毒殺し、息子をセレウコスⅡ世 カリニコスとして即位させる-226

245:プトレマイオスⅢ世はユダヤと神殿を強化。

第三次シリア戦争-241 ベルニケーの弟であったプトレマイオスⅢ世は姉の仇を討つべくシリアに侵攻、セレウコスⅡ世から小アジア南岸とエフェソスを奪う

セレウコスⅡ世はベルニケーⅡ世と戦う、セレウコス朝は弱体化する。D11-6

 

240頃:ヨセフ・ベン=トビヤが活動-218

バクトリアが王を称えた将軍ディオドトスの下で建国

239:マケドニアでデメトリオスⅡ世が即位-229

238頃:小アジアセレウコスⅡ世の弟アンティオコス=ヘエラクスが反乱、「兄弟戦争」これをペルガモンのアッタロスⅠ世の援助を受けて鎮圧-236

235:エラトステネスがアレクサンドレイア図書館長に就任

 

229:マケドニアでフィリッポスV世が即位-179 アンティゴノスV世が摂政

225:セレウコスⅡ世の急死によりセレウコスⅢ世即位 

223 セレウコスⅢ世、アッタロスⅠ世が支配するアジア征服を目指したが失敗し陣中で毒殺される。アンティオコスⅢ世が即位、セレウコスⅡ世以来の臣下ヘルメイアスが支える。以後アンティオコスⅢ世は東方のバクトリアとパルティアに連戦連勝し、大王の旧領をほぼ手中にし、メガスを名乗る

222:メディアのサトラップのモロンとペルシスのサトラップmpのアレクサンドロスが謀反、アリストパテネ王のアルタバザネスも不服従の姿勢を見せる

プトレマイオスⅢ世は、ユダヤの行政語をギリシア語とする。

221:アンティオコスⅢ世が反乱鎮圧に向かい、アポロニアでモロンの軍を破る。アレクサンドロスの軍も破ったうえ、アリストパテネ王には臣従と朝貢を科す。

219:「第四次シリア戦争」アンティオコスⅢ世は、海沿いの失地回復を目指して、ナバテアと同盟を結び、フェニキアパレスチナを攻略

217:進軍するシリアと戦うためにプトレマイオスⅣ世が兵を集めてラフィアで決戦となり、エジプトが勝利する。完敗を喫したアンティオコスⅢ世はパレスチナの覇権を失う。

215:第一次マケドニア戦争

フィリッポスV世はカルタゴハンニバルを助けてローマと戦う

アンティオコスⅢ世 ポントス王国の支援で独立した総督アカエオスを攻撃

214:アンティオコスⅢ世 アカエオスを倒し、その妻ラオディケーの抵抗も排してマケドニアアナトリアの覇権を回復する。

212:アンティオコスⅢ世 東方遠征 アルメニア征服

209:アンティオコスⅢ世 パルティアとバクトリアを攻め両国を臣下国とする。エウデュモスによってバクトリアは隆盛を見る。

この頃から上エジプトが反乱を起こして185に及ぶ

206:アンティオコスⅢ世 バクトリアのエウデュモス王を攻め、その王子と自分の娘とを婚姻させ宗主権を確保、さらにカブール渓谷に至り当地をも征服、アレクサンドロス大王の旧領の東端に至りメガスの称号を名乗る

205:プトレマイオスV世が即位 アガトクレスが三年間摂政となるが専制

203:マケドニアのフィリッポスV世、アンティオコスⅢ世とエジプトの海外領分割を密約

202-201:アンティオコスⅢ世、シリア南部に侵攻、ガザまでを占領

201:第五次シリア戦争 アンティオコスⅢ世プトレマイオス朝とシリア・パレスチナを巡って戦争。-195

200:第二次マケドニア戦争 フィリッポスV世ローマと対戦 アビュドスを破壊

198;この頃アンティオコスⅢ世がヨルダン川水源近くのパニウムでエジプト軍を破りパレスチナの支配権を奪回、神殿祭司団を掌握。

セレウコス朝によるパレスチナ支配とギリシア化政策が始まる

197:アンティオコスⅢ世の小アジア侵攻の開始

196:プトレマイオスV世の戴冠第一回記念祭 ロゼッタストーン建立

195;この頃、アレクサンドレイアの図書館長にビザンチンアリストファネスが就任。

193/4:アンティオコスⅢ世は娘クレオパトラプトレマイオスV世に与えて、ゆくゆくはエジプトを支配することを目論んだ。(しかし、この娘はエジプトの側に立ち、夫にローマとの同盟を結ばせ、シリアに敵対する)

192:シリア戦争始まる-188

アンティオコスⅢ世はギリシア征服を目論み、アナトリア同盟の教唆からローマ・アカイア同盟軍と戦い敗北、小アジアのシリア領とペルガモンとロードスを失う。

190:アンティオコスⅢ世、ハンニバルと組んだエウリュメドン河口の海戦、またミュオネッソス岬の沖合でレッギルス提督率いるローマ海軍に二度敗北、地中海方面の支配権を失う。支配民への収奪に走る。

アンティオコスⅢ世、圧倒的優勢ながらマグネシアの戦いでスキピオ・アシアティクスに惨敗。

188:ローマとシリアの間でアパメア和約が結ばれ、アンティオコス三世は賠償金を払うことに同意し、また息子の一人ミトラダーテス(後のエピファネス)をローマに人質として差し出す。

187:アンティオコスⅢ世、ローマへの膨大な賠償金を課せられたので、スーサの神殿から略奪する際に現地人に殺害される。セレウコスⅣ世フィルパトール即位

181:プトレマイオスⅥ世即位 シリアと交戦

179:マケドニアペルセウスが即位 反ローマ政策をとる

175:アンティオコスⅣ世エピファネスが帰還して即位

 ユダヤの大祭司オニアスⅢ世を廃し、ヘレニストであるヤソンを任命。

171:アンティオコスⅣ世、ユダヤの大祭司ヤソンを廃し、更に過激なメネラオスを任命

170:プトレマイオスⅥ世 同Ⅷ世とクレオパトラⅡ世とを共同統治者とする-164

エルサレムがアンティオコスⅣ世に占領され、市民の多数が虐殺され神殿が破壊される。

169:第六次シリア戦争 アンティオコスⅣ世はプトレマイオスⅥ世を攻めてエジプトに侵攻-168

168:ローマとマケドニアによるピュドナの戦いでアンティゴノス朝ペルセウス王がローマのルキウス・アエミリウスに敗れ、以後マケドニアは分割されて衰退し、シリア、エジプトに先立ってローマの支配に降る。ヘレニズム世界は南北の二王国となる(第三次マケドニア戦争)

同年、シリアのアンティオコスⅣ世エピファネスによるエジプト侵攻はローマの代官ポビリウスの介入によって失敗。撤退途上でエルサレムを再征服し、追放されていたメネラオスを大祭司に復帰させる。神殿の上手にアクラ要塞を建設。

167:アンティオコスⅣ世 ユダヤユダヤ教禁止令を発布。神殿にゼウス・オリュンピオスの神々を合祀。マカベアの反乱を惹起。

166:ハスモン家のマッタティアに代ってイェフダが反乱の指揮をとり、ベト・ホロンでアポロニオスの軍を破る。

165:アンティオコスⅣ世 ペルシア遠征

164:キスレウの月に神殿の再献納

163;この頃アンティオコスⅣ世エピファネスはペルシア方面遠征中(ユダヤ帰投)に病没(?)、幼少のアンティオコスV世エウパトールが即位。

ハスモン家はリュシアスの軍にベト・ザハリアで敗れ、再び荒野に撤退

162:ローマに囚われていたデメトリオスⅠ世が脱出し帰国、アンティオコスV世を殺害して自らが即位-150

161:ハスモン家のイェフダ、エルサレム北方のアサダでリュシアス配下のニカノールの軍を破りエルサレム奪回、ローマと同盟し支配権を承認される。

160:デメトリオスⅠ世がエルサレム北方のエレアサでユダヤ軍を破りハスモン家のイェフダが戦死。弟のヨナタンが指揮を執り、王また祭司を称える。

157:ヨナタンエルサレムに進軍

153:ローマ行政暦年の開始

 この頃アレクサンドレイア図書館長に文献学者アリスタルコスが就任

152:アレクサンドロス=バラスによってヨナタンは大祭司に任命され、ハスモン家はセレウコス朝公認の大祭司家系となる。

150:セレウコス王朝の簒奪者アレクサンドロス=バラスはデメトリオスⅠ世を破り戦死させ自ら即位-145

この頃、パルティアはメディアを征服しインドまでの版図を得て最盛期

149:第四次マケドニア戦争 ペルシウスの子を称するアンドロニコスがローマ軍と戦いマケドニアはローマ属州となる。

145:プトレマイオスⅦ世とⅧ世が共同統治、アレクサンドレイアから知識人らが追放される

デメトリオスⅡ世が即位、ディオドトス=トリュフォンはアンティオコスⅥ世を擁立しシリアは内乱に入る。

142:大祭司を認められていたハスモン家のヨナタンは、シリアの将トリュフォンにアッコンで投獄された後処刑される。

シモンがヨナタンの地位を引き継ぎ、ローマとスパルタとの同盟を更新してシリア軍を領内から追い払い、実質的独立を達成 -135

トリュフォンはデメトリオスⅡ世を廃位させ自らが即位

141:シモンはヤッファ港を確保、ゲゼルとアクラの要塞を掌握。

 パルティアはバビロンを征服

140:シモンはエルサレムの大集会で大祭司、支配者、軍司令官に任命されハスモン朝が成立-63

 デメトリオスⅡ世、パルティアとの戦いで捕えられる。

139:デメトリオスⅡ世の不在のためアンティオコスⅦ世が即位、シリアの勢力回復に努める。

138:アンティオコスⅦ世、ディオドトス=トリュフォンの反乱を鎮圧。

 パルティアではフラーテスⅡ世が即位-128

135:二月、シモンは娘婿のプトレマイオスを訪れた際に二人の息子(マッタティア/イェフダ)と共に暗殺される。ハスモン朝と大祭司職は三男のヨハナーン・ヒュルカノスが継承 -104

 

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ディアドコイは7名が挙がる

 

クラテロス 360-321

 大王の学友であり、軍事での大王からの信任は厚くヒュダスペス河畔の戦いでは本軍を任され、大王の別動隊と呼応して敵軍を攪乱している。 

大王の死に際しては、先に古参の兵を率いて帰国していた。舅のアンティパトロスに味方してディアドコイ戦役を戦い戦死。

 

ペルディッカス 355-321

 王家に連なる貴族、大王の親友ヘファイスティオンと共にカブール渓谷の平定を成功させている。

病床の大王から認証指輪を授かり、摂政として事後の諸事に積極的に動く

マケドニア摂政アンティパトロスの娘と結婚しながら、いずれ離婚して大王の妹クレオパトラとの結婚を画策することにより王国への野心を見せたところで、アンティゴノスに通告されアンティパトロスとプトレマイオスを敵に回し、小アジアエウメネスと味方に引き込んだものの、自身はナイル渡河に失敗して将兵の怨みを買い、弑逆されエジプトで死亡

 

アンティゴノス 382-301

 年齢が高かったためか、グラニコスの勝利の後には小アジアの統治を委ねられていた。大王の死後はペルディッカスに対抗し、やがて東方に勢力を延ばす。その間に戦死し、息子デメトリオスⅠ世がその覇権を継ぐ。アンティゴノス朝マケドニアに勢力を残すことになる

 

エウメネス 362-316

 ギリシア人で、大王に重用される才の持ち主であったが、大王の親友エフェイスティオーンとは不仲であった。

大王の死後ペルディッカスの側についたために小アジアに追い込まれて戦死

 

リシュマコス 361-281

 大王の死後、小アジアを任されるが、トラキアマケドニア方面にも進出し、エピロス王ピュロスを指嗾してギリシアを手中にしていたデメテリオスⅠ世を攻めさせて追い出し、後にはピュロスを攻めて自らギリシア支配に乗り出すことで権勢の絶頂を迎える。しかし最後はセレウコスに敗れる。

やはり大王とは学友であった。

 

プトレマイオス 367-283

 大王から守りの堅いエジプトの太守を任されたために、最も安定した統治を実現し、プトレマイオス朝の祖として早めに息子に統治を譲り渡し、寿命を全うした。大王とは学友であり、遺体を引き取ってエジプトに運んでいる。大王の創建である首都アレクサンドレイアは、ローマと並ぶほどの繁栄を遂げ、ヘレニズム文化の中心となる。312年に安息日エルサレムを呆気なく占領しダニエル書の『南の王』としての支配を始める。

 

セレウコス 358-281

 東方でアンティゴノスの勢力が強力であったときには一時的にエジプトに逃れていたが、以前に任されたバビロンの統治が民衆に好まれ、その地で再起する。やがてアンティゴノスと息子のデメテリオスを圧倒し、シリアから東方に勢力を広げエジプトに勝る領土のセレウコス朝を興しニカトール(勝利者)と呼ばれる。305年チグリス河畔オピスの対岸にセレウケイアを建設、後にシリアには首都アンティオケイアが建設され首都は移転される。前二世紀にセレウケイアはアンティオケイアに匹敵する程に繁栄していた。281年プトレマイオスⅠ世の子ケラウノスの手に掛り死ぬ。ケラウノスは翌年プトレマイオスⅡ世として即位。

 

カッサンドロス 350-297

 マケドニア摂政を永らく勤めていたアンティパトロスの息子だが、父は子に摂政の座を譲らず、重装歩兵隊長ポリュペルコンを指名してしまったために、強い野心から不満を囲い、以後はギリシア方面を平定しつつ摂政と戦う。

大王の王族のフィリッポスⅢ世については妻エウリディケーと共にオリュンピアスが殺害していたが、彼はアレクサンドロスⅣ世を母ロクサナなどの近親者らと共に殺害させ、自身はフィリッポスⅡ世の娘の一人テサロニケー(最後の王族)と結婚。カルキディケー半島の地峡に王都にするつもりでカッサンドレイアを、本土には妻の名からテサロニケーを建設。だが繁栄したのは後者だった。

王権を確立したかに見えたが、リシュマコスに敗れマケドニアの地歩を失う。ディアドコイと言うよりはエピゴーネンであった。しかし子孫の王統は続かずアンティゴノスの血統がマケドニアを治めることになる。

 

デメトリオス 337-283

 隻眼のアンティゴノスの息子で美男、アンティパトロスの娘と結婚し、娘ストラニケーを得て、後の300年にその娘をセレウコスⅠ世に嫁がせている。彼自身はモテたようで五回結婚をしている。

だが、やがて288年にリュシマコスに指嗾されたエピロス王ピュロスに攻められてギリシアから放逐され、またパレスティナへの侵攻でセレウコスと対立し失敗して、ギリシア方面への海上覇権を得ようとするが、それにも敗れてキリキアでセレウコスに囚われ、後に獄中死する。

年代は最も若くエピゴーネンである。

 

◆総論

ディアドコイ戦役の結果としては王国が四つに分割されたということは的外れではないらしい。しかし、六王乱立ばかりか、将軍とその子らを巻き込み極めて多様な勢力が存在した時代で、そこにパルティア、バクトリアなど東方諸国も入り乱れ、歴史をまとめるに困難である。途中で消息不明になる女たちもいる。

それでも東方のセレウコス朝、南方のプトレマイオス朝、アンティゴノスの血統に残されたギリシアマケドニア、それから小アジアの諸王国であり、これはアッシリア崩壊後の四王国の趨勢とさして変わらず「落ち着くように落ち着いた」の観あり。

パレスティナは北にセレウコス、南にプトレマイオスの二強に挟まれ、その間に在って流動的に状況は常に変化した。この点がダニエル11章に示されている。<安息日にあっけなくプトレマイオス朝に占領されたことは、ユダヤ教がヘレニズム諸国から嘲笑されるきっかけを作った⇒「厳格化されたシャバット」>

そこにローマ共和国が進出してくるが、それまでに至る過程に於いてユダは最も激しく揉まれている。この状況についてダニエル書が徒ならぬ記述を行っているのは、単なる歴史を述べるに留まるものではなく、明らかに何か別のものを予告している。

 

 

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