Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

QT

 

 

Dan7とDan8の小角は異なる

前者は世界覇権の流れを追う黙示であり分かり易すく、多くの説明が巷に溢れている。

しかし小角を同一のものとして追うとDan8と不整合が起る。前者ではローマの後継を追えばよいのだが、後者ではマケドニアの後継となっている。

そこでこの二つを「派生」についての用語と捉えると、前者の対極的な観点での小角と後者の分析的な小角の二つと捉えることができる。

この観方はDan11に於いて補強というより証拠立てられる。

Dan8とDan11とは同じものを語っており、Dan10から続く中でマケドニア南北朝に関わる中での「小角」であることが示され、これが黙示録に『七つの頭を持つ獣』として登場している。黙示録が明かすようにこれは覇権としても権力としても特殊な存在であり、その多頭がそれを象徴している。それは覇権の中から興るものであり、それ自身には然程の力はないのだが、それがその脆弱性ともなっている。

従ってDan7のものは、国家の現れと特徴と終わりを教えているが、Dan8と11とでは、その国家から派生する腕について述べている。これは派生の仕方ではなく、その残忍な王の特性をエピファネスに於いて例えるためであろう。

そこでエイレナイオスがしたように「小角」というひとつの象徴にまとめて呼ばない方がよい。これらは「後から現れる権力の象徴」であると見て間違いなさそうだ。ただ、それがアンチ・クリストを盟主とするかはまだ分からない。

Dan7ではローマの後継という中での十本の角は、近代的諸国と捉えると視野が広がるが、一つだけ『その獣が滅ぼされ』『ほかの獣はさらに一時の間存続が許された』のところにもうひとつの障碍がある。この障碍は理解を阻むために置かれたものであるかも知れない。言葉に拘ると此処で理解が進まなくなる。

しかし、この辺りは曖昧に書かれている感触がある。註解書を漁る必要があるようだ。

7:7 [חֵיוָ֣ה]  7:11   [חֵֽיוְתָא֙]  同じ

こうなると原語がどうということではなく、ダニエルをも越えて原発言者の意図を探ることになる。

 

◆『小角』とエピファネスの関連

『 8:23 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして/高慢で狡猾な一人の王が起こる。
8:24 自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。
8:25 才知にたけ/その手にかかればどんな悪だくみも成功し/驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君に敵対し/人の手によらずに滅ぼされる。』(新共同)

『 8:23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
8:24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
8:25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。』(新改訳3)

『8:23 彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでしょう。その顔は猛悪で、彼はなぞを解き、
8:24 その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。
8:25 彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。』(口語訳)

・これらの句では、「小角」と「北の王」とが混じっている。しかし、十一章では北の王から興される『腕』にその働きが語られる。

 

Dan11では北王の表象は幾つかの実体に散らされている。これらは総合されないよう工夫されている。<これは実体を見ないと理解できないだろう>

それが11ではグラデーション化されることで理解の糸口を与えている。

そこからナホムが導かれ、イザヤの前半も関わっている。ゼカリヤにも幾らか語られる。

これは終末の前半を形成するが、現状でも既にその実体が見えているところがある。

その実体の様相からするとヨナ書の意義に連なるものがある。

以上の内容だけでのレジュメを構成できる。

問題は、マケドニア南北朝に関わるDan11の中でどのようにグラデーションがかかっているかを明らかにすることになる。

それから、すべてを四頭の獣で語られないことに於いてDanの中での獣の入れ換えが起っていることもこのグラデーションの理解の鍵を与える。

 

Dan11に書かれていそうで書かれていないことは、神殿の再献納とハスモン家の支配の確立であり、エピファネスの横暴のところでマケドニア史が終わるかのようにされている。しかも終わりの方はマケドニアではなくアッシリアに入れ替わって別の事跡を述べようとしている。それが終末の独自性であるらしい。

そこでナホムとヨナが終末に意義を持ち始める。

 

 単に歴史をなぞる預言ではないし、言葉に拘ると分からなくなる仕掛けがある。途中から黙示化しているので、多くの読み手を混乱させる。

言質を取ろうとする者らは空し手で返される。こう書いてあるからこうなのだとは言えない。それが超絶的。しかも幾つかの預言書と連動している。

 

ということは、神は長い時に亘り預言や啓示を与えてきたものの、実体を見た者にはその手掛かりを与えるということになり、それは終末という一時にどれほど多くの霊感の知識が込められていたかを実感させる。

これもまた大層な事になっている