Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

マカベア記第一 背景とダニエル書との関連

 

今日ではLXXに含まれるが、原典がヘブライ語であったことは文体からも明らかであることをヒエロニュモスがこの第一がヘブライ語で第二がギリシア語であることが分かると初版本の序文で述べている。(但し、ヒエロニュモスが接したものはアラム語訳であったかも知れない)

これは著者が時折ヘブライ韻文の詩を挿入している文体からも立証される。この書には『神』また『YHWH』が一度も現れない特徴がある。*文末(以下の訳文では補っている)

ヨセフスの引用はギリシア語版と幾らか異なるので、D.J.ミカエリスによってヘブライ語原典をソースにしていたのではないかとされる。<ヤムニア会議との整合性?>

書名も実際は何と呼ばれていたかは不明で、マカベア記ではなかったらしくオリゲーネスAlxは「崇拝の存続」(?)[ΣαρβηθΣαβαναι]としていたとエウセビオスは記す。ギリシア語訳は良いものらしく信頼性は低くないとユダヤ教側も認めている。主な写本には、シナイ、アレクサンドリア、ヴェネトがある。

著者は不明ながらハシディームのパレスチナ在住であったと想定され、地理的知識の正確さにもそれが現れている。同時に他国の情報に疎いことも判明している。ガイガーは著者はサドカイ派であると主張している

 

時代背景はエピファネスのユダヤ介入(175)からシモンの死(135)の40年間に至る。

 

 

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◆TANAKHとの関連性

『そして遂に彼ら(ディアドコイ)の中から悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。』1:10 ⇒ Dan 8:9 11:21

 

『この間、イスラエルには律法に背く者どもが現れ、「周囲の異邦人と手を結ぼう。彼らとの関係を断ってから万事につけ悪いことばかりだから」』1:11

『民の中のある者たちは進んで王のもとに出かけて行き、異邦人の習慣を採用する許可を受けた。こうして彼らは異邦人の流儀に従ってエルサレムに鍛錬場(ギムナシウム)を建て、割礼の痕を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪にその身を引き渡した。』1:12-15 ⇒ Dan 11:30・34

 

『アンティオコス軍はエジプトの地にある要塞都市を次々に攻め落とし、その地で略奪を欲しいままにした。』1:19 ⇒ Dan 29-30

 

『こうしてエジプトを打ち破った彼は、第百四十三年、矛先をイスラエルに転じて大軍と共にエルサレムを目指して上って来た。アンティオコスは不遜にも聖所に入り込み、金の祭壇、燭台とその付属品一切、供えのパンの机、葡萄酒の捧げ物用の壺と杯、金の香炉、垂れ幕、冠を奪い、神殿の正面を飾る金の装飾をすべてはぎ取った。更に金や銀や貴重な祭具類、隠されていた宝をも見つけ出して奪った。そしてすべてを略奪すると故国に帰った。彼は人々を殺戮し、高言を吐き続けていた。』1:20-24 ⇒ Dan 11:29-30 7:8 

 

『二年の後アンティオコス王は、徴税官をユダの町々に派遣した。王は大軍を率いてエルサレムまで来たが、言葉巧みに穏やかな調子で語ったので、住民は彼を信頼した。すると彼は突如としてこの都を襲い、破壊を欲しいままにし、多くのイスラエル人を殺した。そして略奪をしたうえで都に火を放ち、家々や都を囲む城壁を破壊した。女子供は捕えられ、家畜もまた奪われた。その後、彼らはダビデの町に幾つもの堅固な塔を備えた巨大で強固な城壁を巡らして、要塞を築いた。彼らはそこに罪深い異邦人と律法に背く者どもを配置し、要塞内での勢力を強めた。彼らはここに武器や食料を蓄え、エルサレムで奪った戦利品を集めて積み上げ、ユダヤ人にとっての大いなる罠となった。』1:29-35

(詩文)『要塞は、聖所に対する罠となり、イスラエルに対する邪悪な敵となった。彼らは聖所の周りに罪なき者の血を流し、聖所を汚した。・・』1:36-37 ⇒ Dan 8:11  11:31

 

『王は領内の全域に、すべての人々がひとつの民族となるために、各々自分の習慣を捨てるよう、勅令を発した。そこで異邦人たちは王の命令に従った。またイスラエルの多くの者たちが、進んで王の宗教を受入れ、偶像に犠牲を捧げ、安息日を汚した。

更に王は使者を立て、エルサレムならびに他のユダの町々に勅書を送った。それは異邦人の習慣に倣い、聖所での焼燔の犠牲、犠牲、葡萄酒の捧げ物を中止し、安息日や祝日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物を犠牲とし、息子たちは無割礼のままにし、あらゆる不浄で身を汚し、自ら忌むべきものとすること。

つまり、律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。この王の命令に従わない者は死刑に処せられることとなった。』1:41-50

 

 

『第百四十五年、キスレウの十五日に、王は祭壇の上に荒らす憎むべきものを建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、家々の戸口や大路で香を焚き、律法の巻物を見つけてはこれを引き裂き火にくべた。契約の書を隠し持っている者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては暴行を加えた。そして月の二十五日には主の祭壇上に設えた異教の祭壇で犠牲を捧げた。また、子供に割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首に吊るし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄なものを口にしなかった。彼らは食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは死を選んで死んでいった。こうしてイスラエルは神の激しい怒りの下に置かれたのである。』1:54-63 Dan 9:27・11:31・12:11

 

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ヨセフスとの整合性

170年頃、エピファネスは大軍を率いてエルサレムに至り、プトレマイオス派の人々を殺し、兵士らには略奪を許可し、自らは聖所を荒らした。その結果3年半常供の犠牲が絶えた。

その後もユダヤ人の習慣を止めさせるためにバッキデスなる残忍な守備隊長を遣わし、不敬虔な命令を行わせ、「不法という不法を行わせた」。彼は名を知られた人々を一人一人拷問にかけ、連日セレウコス朝に征服されたことを印象付けた。(戦史1)

 

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・要塞

エピファネスが築いたとされるアクラ要塞については、ネヘミヤが築いたものとの関連する可能性あるも不明。ハスモン朝期に「ストラトンの塔」が有ったことは知られている。同期、大祭司は要塞内に居住していたことをヨセフスが記録。

63年に要塞の塔の一つが破壊された。その後ヘロデ大王による改修した要塞は、当時大王の擁護者であったマルクスアントニウスに敬意を払い「アントニア要塞」と命名され、その後も改名されずに残る。

双方は位置としては共に神殿域の北西に当たり、同じ遺構の上に建てられた可能性有り、但し、現在は調査が禁じられて不明。

 

・トビヤ派

ヨセフスによればエルサレムの高位の者であったが、オニアスⅢ世が優勢になると、セレウコス朝に逃れ、エピファネスがエルサレムを攻撃するときには自分たちを道案内に使うよう要請していた。

もとより征服の意志のあったエピファネスは、実際にエルサレムを占領するとオニアスを大祭司職から退けトビヤに代替した。175(戦記1:1)

オニアス派はプトレマイオスの許に逃れると、ヘリオポリス州に土地を下賜されたので、彼らはそこにエルサレムに模した城市と小神殿を建立。

オニアス自身は171年に暗殺されている。

<これとエレファンティネ島のユダヤコロニーとの関連は?>

 

ハヌカーの奇跡についての記述はマカベア記では暗示されるにとどまり、タルムードを見る必要がある。この奇跡は中世期から疑問視されているとも。(ハヌカーの「ハ」音はヘットであり無声口蓋垂摩擦音 英文ではXで代用することも)

 

・175年 エピファネス帰国し即位  各地のヘレニズム化を推進 1Mac1:10

  オニアスを廃してその弟ヤソンを任命

・171年 ヤソンを廃してメネラオスを任命

・170年 エピファネスによるエジプト遠征 エルサレム占領 1Mac1:16-

・169年 エピファネスはエジプトを席巻 1Mac1:18

・168年 エジプト征服をローマに阻まれる Dan 11:30

   エルサレムを再征服して介入 常供の犠牲の停止 1Mac1:20

・167年 ユダヤ教と割礼禁止とゼウス祭壇と豚の犠牲を命令 Dan 11:31

   ハスモン家の反乱の開始 1Mac2:1-

・166年 ベト・ホロンでアポロニウス軍が破られる 1Mac3:13-

・165年 神殿の再献納(ハヌク) これがハヌカーの由来 キスリュウ25日 

                                                                                      1Mac4:36-

・163年 エピファネスがペルシアで陣没 1Mac6:1-

 

・142年 ユダヤセレウコス朝から自治を認められ、周辺支配も許され、イドマヤを強制改宗させる

・139年 ローマ元老院ユダヤ自治を承認

・134年 アンティオコスⅦ世シデテスがエルサレムを攻囲、ヨハナーン・ヒュルカノスは家臣となるが宗教的独立は保持

 <マカベア記と年表を合わせるのが幾らか難しい>

 

 

*-神名の不表示について-推論

 書かれ編纂された時代が後代であるのと、原典がヘブライ語であった可能性をヒエロニュモスが語っているところからすると、既に神名の作法が確立されていた時代であったためとも思える。

加えて、ギリシア語抄本だけが残されているためにLXXとの整合性をとったとも考えられるのではないか。

もし、そうであれば、原典には神名が有った可能性はゼロではない。

だが、神との相関性の無さゆえに著者がそれを避けていた可能性も考えられなくはない。これはもう少し外典を調べて見ないとなんともいえない。