Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

終末信仰の陥り易い誤謬

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終末思想の影響は恐怖心であり、非常に利用され易いものとなっている。

特徴としては、来るべき災難であるかのように神の行動を捉え

安全を求める人間の自然な欲求を請け合い、あらぬ方向へと行動させ

自己判断を抑え、情報を制限させることで、一つの精神世界に人を捕える。

その多くは、信じた個人を集団に囲い込み、統治、搾取するという

権威主義に堕落する人間の暗部を曝す指導層の貪欲を満たすために利用されてきた。

そのため宗教の独裁性が強まり、個人は従順で教団に有用である場合にだけ

評価、尊重されるという歪んだ人間評価が行われるうえに、固有の正義観念から上下関係が構築される。

全体を俯瞰すると、その精神は恐怖が支配的であるのだが信者はほとんど気付かない。

むしろ、生き残る選ばれた一員であると誇り、将来を約束された思い込みに喜びを感じており、それを指導層が煽っている。

 

◆終末への対処

この世には、何かしら破綻するのではないかという予感がある

そこでキリスト以前のノアの洪水や、ソドムの滅びなどと同じ形を恐れる

恐れの結果として、行状によって救われると思う

第二世紀に表れたモンタニズムに象徴されるように、表層的道徳主義に陥り、人を心から愛し、自然な価値観で評価するなどができなくなり、パリサイ化が蔓延する

(独善的で社会性の低い小集団であることに却って価値を感じる)

 

◆予告者への依存

特定の年代に起った大きい変化を言い当てた指導者と組織が預言をしたと思う

人類危機への恐れから、仲間内の救いを唱える教えに安心を得る

そこでこの教えと指導者は正しく神に是認されていると思う

惹起されるのは人間崇拝であり、指導者が神と人の中間に位置する

 

ここに「救いのギャンブル要件」が生じる

⇒ W.ミラーの1844 年10 月22 日への信仰者の急増と大失望

指導者がこの日付を不明朗にすると、間断のない服従を要求できる

 

◆聖書に従う事で救われる

聖書に基くと主張されることが証拠とされる

聖書は神が人にどんな生活をするべきかを指示していると主張

その中の神の規準に従う者が是認されて救われる

聖書には救いに必要なことがすべて書かれている

 

自己保存本能から聖書権威を絶対視する

字面に固執し、文面の解釈の余地を認めない

(裁きの本質を忘れ、自分の義を確信する「聖書信仰」)

 

 

◆聖書預言の絶対性

聖書預言は、気付く人々を是認し救うために書かれていると妄想

神は裁きの執行が何時になるかを知らせ、人が気付く事を望むと主張

その時代の印に気付き、道徳規準を守る信者が救われる

預言の目的を意識せず、自分たちを救うことが神の意志と思い込む

 

(業によって少数者が救われると決め付ける)

⇒ モンタノス主義以来歴史上に繰り返し現れる

 

 

◆集団として救われる

集団に参加することが神の是認を得る方法と思う

信者の一人であることが教理の主張となり、新たな人格を得る

(「新たな人格」には相当の問題あり)

運命共同体に居る安堵感と外部への敵視

信者であることが正義となり、信者でないことは不義となる

アダムの子孫に不可能なはずの「人の義」を立ててしまう

 

(だが創唱者も指導者も責任は負わない)

 

 

◆伝道が神の裁きと同一視される

伝道に聴き従う人が救いを得るので、伝道は命を救う

伝道が人命を救う最高道徳となる

命を救う業は今日最重要であるから、今の生活は犠牲にするべき

信者はこの業への貢献度によって評価される

(指導者からの搾取を受け入れ組織拡大に邁進する) 

 

 

◆命の軽視

今の命と永遠の命を天秤にかけることになり

裁きが未然であるのに永遠の命のために今の命を軽んじる

そこで指導層は、信者の命に至るまで影響を与えることが可能となる

信仰の目的が永遠の命を得るためとされ、より重要な神と人との倫理問題が忘れられる

 

これは罪深く、信者を恰も戦争状態の兵士のように危険な状況に置く

 

 

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論じるべき内容

・永遠に生きたいから神を信仰するのか?

神は誰にでも永生を与える力を持っているに違いない

だが、そうしない理由は何だと思うか?

命よりも大切なものがあるのではないか

もし永遠の命が最重要なものであれば何故神はそれを与えないのか

やはり人にとって命に勝るものがあるのではないか

では、生きたいから信仰するとの動機は正しいものか

 

・創造者の約束だから

約束できるのであればなぜすべての人に永遠の命を与えないのか

選別がある以上、その理由が必ずあり、その理由に神の意志があるはず

その意志は何か

救われたい人を救うのが神の意志か

 

・神は従順に従う人と永久に生きるのか?

アダムが試されたのは服従か愛か

服従とは言い付けを守ることか

そうなら個人の自由意志は従順を試すために与えられたのか

従順であったアダムに蛇が罠を仕掛けることを神が許したのは何故か

 千年期後に悪魔を解き放つのはなぜか

 

・自由な行為者として人を創ったなら

自由な決定者だから神と人を愛せるのでは?

愛することは自発的なことではないのか

自発的な愛からの従順はあるとしても、従順に愛すということがあるか

愛とは自由な行為者だから抱けるものではないか

従順な行為者に愛があるとしてもそれは予め命じられたものでは

 

「たとえ仕方なく愛するようになったにせよ、愛は自発的では」

従って神は愛のために自由意志を与えたことにならないか

服従を求めたのならアダムに二本の木の選択を自由にさせなかったのでは

「自由意志からの服従を選ぶ」というのは意志の相殺では

 

・あなたの教えに正しく従えば楽園に入れると思うか?

そう思うなら、その理由は何か

それが確かでないのなら、熱心な伝道を行うのは何のためか

また、永遠に生きたいから生かされるという根拠が成り立つのか

そうでないなら、生かされる根拠は何か

楽園という利益追求のために教えに従うのか

宇宙論争にその片鱗が現れている)<☞後で掘り下げたい>

 

・神が道徳的規準への服従を求めたなら、パリサイ派が失敗したのはなぜか?

エスの弟子らが神の是認に入ったのは何のためか

キリストの犠牲は何のためか

『あらゆる罪を赦される』の句をどう理解するべきか

 

・古代の弟子らが神の是認に入ったことの証しは何か?

あなたや団体にその証しがあるか

あるなら終わりの日に聖霊によって語るのはあなたか

無いのなら終わりの日に聖霊によって語るのはどのような者か

 

⇒ 「

quartodecimani.hatenablog.com

 

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・人は宗教観念に行動を縛られるより、想うままに生きた方が良いのでは

人間の現実は実生活の経験則から導かれる方がほとんどの場合で優れている

だが、人は生まれながらに経験則を持たないのでそこで焦る

宗教観念が必要なのは行動や思考を規制する事よりは自己価値の認識にある

世の悪行を処理するのは法と権力に任せ、それが大きく逸脱するのを抑えるのは宗教ではなく社会感覚の方が良い(終末信仰者に非常識な信者が多い現実)

使徒的生活が信仰者の誰にも可能で求められるものか

 

何故なら、宗教には「非現実的妄想」が必ず入り込むから

そうならない宗教があるとすれば、それは真相を突くものだろう

最低限の秩序をそれを与える原理が要るのであれば、パウロが言うように『律法も価値がある』とは言える

だが、その最低線で運用される社会というのは絶対的に個人が円熟しない

キリスト教アガペーを据えるなら、社会性の円熟を与える宗教であろう

だが、最低限の規範となると「天国と地獄」が似合っている

それは法と権力の支配の領域のものであり、脅しであって宗教的価値を高めることは難しい、いやできない

仏教にもキリスト教にも天国と地獄が入ってきたのは、その社会性の低い状態、荒れ果てた精神土壌の歴史的痕跡と言えるかもしれない

社会秩序を補助する宗教とは、俗権に利用される宗教であり主体性を失い俗化している

 

 ◆社会規範としての宗教

出エジプトを果たしたイスラエルの数百万に民族国家の規範が必要不可欠であった。

独立を失って以降、宗主国の国法と並立することになり、特にヘレニズム期以降の律法は国法としては形骸化し、宗教法の色彩を強めている。

ミシュナーと山上の垂訓の間には雲泥の差があり、日常生活規範と精神ほどに違う。キリストはすでに国家法としての律法から離れている。

イスラムタウヒードはアラブ民族の広範な規範としての役割も負ってきている。その点ではイスラエルのトーラーのアラブ版といえる。

マルクス共産主義が国境を不要にすると考えた。タウヒードはアラブ民族の国境を無くさなかった。(アラブ連合の解消) 双方に共通するものは何か?「主権」が原理となって世界に拡大したからか?新旧基督教の抗争から「主権」が原理化している。その目的には「内政不干渉」がある。しかし、必ずしも宗教が原因でもない。公権力は最大化することを嫌う性質があり、その原因には利己心が考えられる>

 

・社会はその不備を補うために宗教を活用することがある。

社会秩序の心理面での維持や補完

(公共的権威では心理面まで干渉できない)

死による故人への価値の保全、墓地の管理

(人間価値は抽象的で公的権威が規定できない)

戸籍の作成 <これは第二神殿にもあった>

(檀家制度はこの典型例であり、カトリックも戸籍管理を行っていた)

思想の自由を担保しないと権力を維持し続けるのは難しい

(これはまず信教の自由を認めないと始まらない)

カトリックが西欧での公共権威を広く獲得していた背景には、ローマのように権力の整備のない、蛮族の諸国家の群雄割拠する場であったことがある。

ヴァチカンが西ローマ帝国の秩序を西欧に維持する媒介であったという見方は間違いないものに見える。ローマが凋落する直前にキリスト教を国教としたことは絶妙なタイミングであったとも言える。それゆえアウグスティヌスが国教化がローマ没落の原因ではないと主張しなければならなくなった。ただ、彼はその以前に西ローマ帝国神の国であるという考えを諦めている。そこはただの人として先を読めなかった。

しかし、西ローマ文化を西欧は間違いなく継承しており、その結果、世界は未だにローマ文明の延長線を生きている。