Notae ad Quartodecimani

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バラムへの託宣の驚異的な言葉

 

欲に捕われたアラムの預言者ながら、その預言には侮りがたい象徴が見られる

 

【新共同訳】
民数
24:14 わたしは今、わたしの民のもとに帰ります。後の日にこの民があなたの民に対して何をするか、あなたに警告しておきます。」


24:15 そして彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。
24:16 神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち/全能者のお与えになる幻を見る者/倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。


24:17 わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェト(「セツ」読みでは「騒乱の子」)のすべての子らの頭の頂を砕く。<双方共に「イスラエルに抗する者」の意>


24:18 エドムはその継ぐべき地となり/敵対するセイルは継ぐべき地となり/イスラエルは力を示す。<後代エドムはイスラエルの略奪者となるので⇒オバデア>


24:19 ヤコブから支配する者が出て/残ったものを町から絶やす。

 <イザヤ63「買い戻される年が到来したので」謎有り:順序が合わない>


24:20 彼はアマレクを見渡して、この託宣を述べた。アマレクは諸国の民の頭/しかし、その末はとこしえの滅びに至る。<弱ったイスラエルを攻める者の最後>

<アマレクが「諸国民の最初」というのは、その出自がエサウの長子であり、ヤコブに勝る血統序列にあることを言うのでは?イスラエル12部族に対して長子の立場では勝っており、カナン入植を果たすのは自分たちであるとの自負を持てる立場にあった>


24:21 彼はカイン(ケニ)人を見渡して、この託宣を述べた。お前の住む所は確かであり/お前は巣(ケン)を岩の上に置く。<ケニは千年至福に入る同盟者の象徴>


24:22 しかし、アッシュール(アッシリア)がお前をとりこにするとき/カインは必ず、焼き滅ぼされる。

<この頃アッシリアはスバルトゥと称したがアッシュール市は存在し都市国家として存在していた。しかしアシェル族と訳すには文字が異なりアッシリアとするほかない。民数記の編纂が後代であるからでは><途中でカインに語呂合わせしているが、ケニがカインの末裔かといえば、確かに血統がノアの嫁らを通して流れていることはあっても、男子系統は大洪水で絶えている>


24:23 彼はまたこの託宣を述べた。災いだ/北から軍団を組んで来る者よ<この後半部分は>

<アッシュールを含意、謎有り、LXXには「オグを見て彼は託宣を唱えて言った」とも「ゴグを見て」との写本も有り>


24:24 キティムから寄せ来る者よ。彼らはアッシュールを苦しめ、エベル(イヴリー)を苦しめるが/彼もまた、とこしえの滅びに至る。⇒Dan11:30<北王への対立勢力について>


24:25 バラムは立ち上がり、自分の所に帰って行った。バラクも自分の道を去って行った。

 

イスラエルのカナン定住以前のこの時代に、その後に起った数々の事象を含んで終末預言を行っており、その内容は超絶的という以外ない。

既に、モーセ以上にメシアを象徴的に語っており、その点は先取的で優れている。<脱落聖徒の予型か?>

終末でのアッシュールはケニ人をどう滅ぼすか、逆ではないか?「攻撃を意図する」ということであれば終末に成立するが

「キッティムから攻め寄せる者」はダニエル11にもあるが、これはエピファネスがローマの干渉を受けることとして一般的に解釈されている。

但し、既にDan11:30あたりからアッシリアを含意し始めているのなら、「カルカルの戦い」を示唆している可能性もある。アッシリアはそのために海岸地方への覇権を断念させられ、以後数年間フェニキア方面で軍事行動を起こせなくなっている。

あるいは、エピファネスとシャルマネセルⅢとを二重写しに語り出しているか?

前853年のカルカルの戦いが意味深なのは、アッシリアと戦う相手がオムリの家のアハブとベン・ハダド(ハダド・エゼル)の連合でもあったところにある。フェニキアの海軍も参戦しているところが「キッティムからの船」とも言える。フェニキアはキッティムと深い関係にあった。ともあれ、アッシリアの海岸地方への覇権はシリア・ダマスコとイスラエルフェニキアの連合軍に阻止されている。対型は「南の王」とその連合であるように思われる。

そうなると、終末の「北の王」は二度侵攻し、一度目は退けられ、二度目は圧倒するが、権力基盤の崩壊が起ろうとしている矢先となる。

但し、終末のキッティムが何を表すのかまだ分からない。

古代では、翌年アハブは逝去しアハジアが王位を継承する。そしてイェフーが登場する。これが終末では、旧来の宗教の滅びの到来を告げるものとなるらしい。

Dan11:29が「定めの時に」としてエピファネスと終末の「北の王」を二重に象徴しているのなら、彼は「荒らす憎むべきものを据える」以前に、遠征に失敗するとも取れる。そこでエピファネスのように「契約を誹謗」し始めるということになる。

従って、終末の「北の王」も軍事遠征に連合した諸国軍(おそらく南王勢力)に一度退けられ、その結果、強大な軍事同盟を作り上げるとも解釈できる。そこで「契約」への反対行動が始まっている。エピファネスの場合には支配権を得損なったことへの反動であったが、アッシリアについては聖書中に指摘はない。

すでに「北の王」と思われる勢力は宗教弾圧を多方面に行っており、外的な伸張に失敗すると、内的な強権圧力を強めるであろうことは想像し易い現状にある。「北の王」の王は背教を促進し、「腕を興す」これが「七つの頭の野獣」と思われる。どちらも聖徒らに勝利するとある。つまり、軍事的盟約の成立を行い、「北の王」は誰も「戦い得ない」ほどの権力を得る。しかし、この盟約が存続する期間は42ヶ月に限定されている。

この野獣が活動する過程で聖徒らが死を迎えるらしい。ここで「第一の復活」が起り、「三日半の後」すべての聖徒が集められる。

「北の王」は最後の攻勢に出るが、これは相当程度の成功を収め、南の勢力を圧倒して駆逐する。その過程で「麗しの山」シオンも恫喝に遭うところまで進む。しかし、それは「北の王」のセナケリブのような終焉の前兆となる。

過ぎ去る軍事同盟の枠組みは後に偶像化されるが、その首長の立場を得るのは、もはや消え去った北の王の関わるところではなく、政祭一致の超絶的主権者である「アンチ・クリスト」であろう。その結果、世界は政治と宗教の反目から解かれる方向に向かう。そこで人々は安直に平和の到来を喜ぶらしい。

その間、聖徒は地上に無く、シオンが神の民として残されている。そしてGBもまだ残ってはいるが、契約を離れた脱落聖徒らは悪魔からの霊力を得て、聖徒らの奇跡を続行しているかのように見えるかもしれない。その力の為にその人物は単なる人間とは見做されず、諸宗教が待望するメシアであるとされ兼ねない。メシアであれば三一説から神でもあり、こうして北の果てを得る。

おそらく「イスラエルの地」、正確にエルサレムではないがほど近い場所に新たな実際の崇拝の場所(街のように見えるもの)が「第三神殿」の名目でエゼキエルの設計図を基に建てられる。

そこに偽メシアが権威の座を設け、諸国の王を名乗り、こうして悪魔の宿願である世界支配を大いなるニムロデを用いて達成し、パルーシアの真実のメシア、「神殿の復讐」に燃える大王キリストとの究極的対立を迎え、偽預言者たるゴグの故地は、遂に悪魔と覇権者と共に霊感による託宣として世界軍を召集する。ゴグの存在により、また聖徒らと騎兵隊の言葉によって旧来の宗教はほとんど干上がっており、シオン攻撃の名目で集まったはずの世界軍はいきなりにGBに襲い掛かる。この騙し討ちはイェフーの故事に予型が二つ在り、バアルの祭司らを誘いだして閉じ込めて殺戮し、イスラエルをバアル崇拝に汚した張本人たる女は急襲され、犬に食われてナボテへの偽証工作の報いを受け、聖徒らの受けた二倍の杯を受けることになる。偽証といえばキリストを邪悪な宗教家らが裁いたときに用意されたものであった。主に倣う聖徒らにも用いられても不自然ではない。

やはり、同じこの世に属する旧来の組織宗教に、やはりこの世の世俗権力が「これからおたくを滅ぼしに伺いますので、お逃げにならず、神妙にお待ちください」と言えば逆効果でしかない。彼ら宗教家らは聖徒攻撃では公権力の朋友だったからであり、その信頼もあり、欺くのは容易であろう。

騎兵隊に属する人々はGBへの攻撃を神の復讐として歓呼して迎えるが、同時に彼らにも最後の危機が迫っている。元々のゴグの目的は自分以外への崇拝の根絶であるなら当然である。

「北の王」の恫喝を逃れたシオンの彼らは、エホシャファトの故事に従い、その信仰によりこれに立ち向かわねばならない。知らされた神の御名が彼らの救いとなり、世界軍は「イスラエルの山々」という危急のシオンに擁立された王キリストと共に王権を得た聖徒らの間にあって打ち砕かれ、自壊を始める。

その後の世界はカオスに見舞われ、最後は選択的疫病によって裁かれる。

信仰により保護の「奥の間に隠された」人々は、出て行って「ベラカの谷」での祝福に与ることになる。

 

 

終末の全体像をまとめようとするほどに、現れる象徴の数が増えて膨大なほどになる。これは、様々な断片に終末の姿が分けられ、秘儀とされるためであったろう。

ここで一つの重要な問いは、それがすべての終末の人に隠されるためであったのか。それとも終末に明かされるために隠されているのか、ということになる。

もし、終末に至って誰にも知らされるべきでないとしたら、やはり、そのようにされているはずであり、誰かが禁を破って知り得るようなことではないはず。

Dan12:4には、「これらの言葉を秘し、この書を封印せよ。多くの者が右往左往し、知識が横溢する」というのは、封じられた言葉を様々に憶測しては「知識」を唱えるという人間の限界を述べているとすれば、非常に現実にマッチする。その点では、ここに書いていることさえ人間の推論であり、右往左往している一つの脆弱な「知識」であるのかも知れない。

ただ、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」のであれば、その知識が唱える意義に於いて何かの価値を訴えるものとはなることとは思える。

 

それにしても、聖書は終末についてそのままに語ろうとはしていないし、裁かれる身の上である人間であれば、そのようにされて当然でもあるとは思える。

しかし、探り出そうと求め続けると、それが正解だと言い張らない範囲で、ある程度の理解には達するものでもある。それだから、神の意志といえば、人にまるで知らせないことでも、すべてを知らせることでもないところにあるのだろう。どれほど調べようと終点に至らず、人は常に探求と修正とを繰り返す必要がある。そうでなければ人間ではない。

ひたすら求め続けるなら何かが与えられ、そうしないなら僅かな知識と誤謬にまみれた正義に凝り固まるか、まるで投げ出してしまうかという以外にない。

どれを選ぶかと言われれば、自分を正当化せずに、神の前に謙虚に学び続けるほかにないのであろう。これが「教理控制」の意義でもある。

 

ともあれ、イザヤの指摘によってエゼキエルが解ける。だが、もう少し論理を必要とする。 

エゼキエルの謎が、イザヤの指摘が互いの像を一致させ一人の人物を浮き上がらせるかのように見えてくるように思える。それは他の預言の言葉の多様な意味を関連付けさせるからであるが、まだその紐帯は細い。

 

⇒「コリント第二4:14