Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アウグスティヌスの神の国(支配)

神の国への見方
現実のキリスト教会とローマ帝国の二つの社会の中に『神の国』は現れて始めている。(天国は思想に無い)
例え国家というものが正義を欠いたものであってさえ、神の摂理によって社会の平和と秩序の維持が託されている。
教会も毒麦の混じった混合体であり、地上では『寄留者』に過ぎない。キリストの現れを以って教会の中に『神の国』は開始されている。
であるから、神の国家[civitas](支配)は、歴史の終りの終末になって、はじめて完成された姿を現す。
それはあらゆる存在や社会や国家が和合と調和に向けて秩序付けられる「万物の平和は、秩序の静謐である」神の国19:13「神の姿を永遠に観照するように導く、言語に絶した諧調#を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」手紙138 #グラデーションの語源を用いたらしい


・「神の国」第五巻(カール大帝が好んだ章句「君主の鏡」)
「わたしたちは彼らが正しく統治するならば、彼らを幸福であると呼ぼう。また、高ぶることなく、・・自分が人間に過ぎないことを覚えているならば、また神の崇拝を最大限に広めるために自己の才能を用い、神の尊厳に仕える僕とするならば、また、神を畏れ愛し崇拝するならば、・・・また、しばしば厳罰を下さざるを得ないときでも、それを寛大な憐れみと惜しみない善意とによって償うならば、また欲すれば勝手に放蕩にふけることができても、かえって一層厳しく抑制するならば、さらに如何なる民族よりも邪悪な欲望を支配しようと望み、このすべての空しい誉れの熱望のためではなく、永遠の幸福への愛のために行うならば、さらにまた、自己の罪のゆえに真の神に謙遜、懺悔、祈りという犠牲を怠りなく捧げるならば、わたしたちは彼らを幸福な者(福者?)と呼ぼう。このようなキリスト者の皇帝たちは、現在希望によって幸福であるが、わたしたちの待望するものが到来するとき、現実に幸福になる、とわたしたちは断言する」5:24
カール大帝ローマ皇帝の称号を受けたことは、彼の希望することではなかったが、教皇レオⅢの俗権の抱き込みはあったにせよ、ローマの民のローマ復活の憧憬あってのことであると。その後のローマはキリスト教帝国として甦り、神聖ローマ帝国は「神の国」の理念に基づいて形成されることになった)

アウグスティヌスプラトーンより以前にキケロ、特にホルテンシウスに大きな影響を受けている。「神の国」の中でキケロの記したスキピオの国家の定義を引用している。<同書4:4には国家形成の段階が仮定されている。この辺りは、キリスト教的というより、ほとんどラテン行政の文言が並んでおり、それにアウグスティヌスキリスト教の色合いを幾らか混ぜたくらいのものになっている>


・二つの愛
神への愛と自己への愛、この二つの愛があり、この対立によって「神の国」と「地の国」との対立が起っている。「それゆえ、二つの愛が二つの国を造ったのである。即ち、神を軽蔑する自己愛が地的な国を造り、自己を軽蔑する神への愛が天的な国を造ったのである」14:28この対立は「支配欲」と「相互愛」との違いとしても語られている。そこで国の性格は、その国民の愛によって決定される。『カインが初めて国を造った』と云われる場合、現実の国家は兄弟殺しの罪の産物で、同じことが(ロルムス・レムス)にも当てはまる。そこでそこに集う人々によってその国は二つの国に分けられる。
だから支配欲によって出来る国には本質的に正義が欠けている。犯罪に対する反動として、地上の国家さえも相対的正当性を持っているのだが、地上の平和が目指される限り、二つの国の間にはある調和が認められ、キリスト教国家の可能性は排除されていない。
プルデンティウスは、キリスト教を国教にしたテオドシウスを評価し、ローマが神の特別な恩寵を受けているという帝国神学を提唱した。
そして、アウグスティヌスも初期にはこの立場をとっていた。しかし、410年の出来事以来、歴史について熟考しはじめ、ついにはこの立場を批判するようになり、ローマ帝国神の摂理の道具ではなく、また悪魔的なものでもない、という中立的な立場をとるに至る。
以上のことから分かるように、アウグスティヌスは国家を神の国と地の国のどちらかに振り分けるのではなく、両者の混合とみなしている。
したがってアウグスティヌスにとっては、地上の教会もローマ帝国も、どちらも「神の国」と「地の国」の混合である。どちらも罪に向かう傾向性を持っており、同時にどちらも聖性の可能性を持っている。


ドナトゥス派への暴力鎮圧への使嗾「放浪修道者団」は反乱を煽動したので、アウグスティヌスは俗権の介入を要請した
バガイの司教ムクシミアヌスは、常軌を逸した過激な迫害を受けた。これに対してこのムクシミアヌスが帝国に介入を要請したが、アウグスティヌスも同意していた。
412年の「ドナトゥス派鎮圧法」を以って、教会の秩序は回復されたが、俗権介入を巡って教会批判が高まった。なぜなら、教会への俗権の介入を要請したことにより、その後は、俗権からの強制介入も許されたからであった。
アウグスティヌスとしては、『無理にでも連れて行け』というルカ14:23を根拠に、分離派を「愛の説得」で戻すことが不可能な場合には、「父が子に愛の鞭を加えるように、愛の心で強制措置がとられねばならない」と説いた。そこに「愛しなさい、そしてあなたの欲するところを行いなさい」の名言の姿勢があるとも
(だが、俗権の介入は既にコンスタンティヌス大帝によって始まっていた)
こうして、君主は教会の治安をも維持することが重要な課題とされてきたが、アウグスティヌスはそれを追認してしまい、以後の政権の介入が正当とされる根拠を与えてしまった。


■六時代説
神の人類救出計画の実現である救済史は、人祖アダムの子らに生じた神の国と地の国との対立から現実に展開し始め、創造の六日に当たる六時代を経て、神の七日目の安息に等しい歴史の終末に到達している。
1.アダムから大洪水
2.大洪水からアブラハム
3.アブラハムからダヴィ
4.ダヴィデからバビロン捕囚
5.捕囚からキリスト
6.現在進行中で世代数では測れない
(なぜなら「み父がご自分の権威によって定めた時期はあなたがたの知るところではない」による)


神の創造の業と歴史の経過とは、「永遠不変な神の計画」の内に初めから予定されていた。神の国12:15-18
六時代も「時間の秩序」として神の知恵の中に原初から存在していた。(ここで円環を巡るギリシア思想からの突破がみられると)



著書「神の国」"De Civitate Dei contra Paganos" 「その支配 異教徒に論駁して」
私見
つまるところ、ローマ帝国キリスト教を受け入れたことの正当性をくどくどと論証する目的で書かれた。
その由来からして、キリストが宣教の主題とした『神の王国』に焦点を合わせ、主に論じたのではなく、ローマがキリスト教を受け入れた時期に衰退を共にしていたことへの、異教徒への論駁を趣旨としているのであり、その中で『神の国(支配)』を包含しなければならなくなったの観が強い。
結果として、キリストの説いた『神の国』を俗権のものと融和させることが平和の静謐とされ、キリスト教を「この世のもの」とし、本来の聖書にある「この世」と対峙し、取って替わるべき意義と大変革に伴う聖徒らの犠牲を認識から削除し、こうして聖書理解を蒙昧に誤導する以後の土台を作っている。
キリスト教ローマ帝国の関係を論じるが、西ローマは以後一世紀を経ずに滅んでしまう。しかしなお、キリスト教は西欧に一式の秩序をもたらし得るほとんど唯一のものとなっていた。多神教は習合はできても、強力な統一性に欠けていた。そこでローマ司教座が西ローマ帝国玉座を継承することにより、アウグスティヌス的「神の支配」は引き続き西欧に具体化してしまった。この影響力はたいへんに大きいと言えよう。即ち、世俗権力と『淫行を犯した』キリスト教の『娼婦』としての醜態であり、その後は宗教改革を経ても、ほとんどの宗派がこのスタイルから出ていない。アウグスティヌスの以前からそうであったが、キリスト教界が地域のコミュニティの宗教を目指したところで、俗権との癒着は避けられなかった。一度、個人の宗教に解体することなど、とても不可能となっていたのであろう。
著書の中で、キリスト教が如何にローマの資質を向上させたかを強調しており、キリスト教が世俗支配のための道具となるべきことを肯定しており、その過程で聖書の『神の王国』理解が捻じ曲げられてしまった。『上位の権威』がこの世の秩序のための公僕とはなっても、それはやはり世のものであり、現世的には「神の国」とは対立するという概念をアウグスティヌスは持っておらず、関係し合う「キリスト教国家」を何とか正当化しようとする無理が冗長な論議をもたらしたように読める。彼は以前からの前千年期信奉を『神の国』の中では訂正している。それは必ずやコミュニティの宗教を目指す以外なく、ローマ帝国キリスト教化を推進しようとしたところで、キリスト教そのものを破壊せざるを得ない。彼はこの問題を終末に先送りして説明の曖昧さの中に回避している。明らかにこれがその後のヨーロッパ・キリスト教のスタイルとなった。国民皆信徒制はユダヤ教のものである。
彼の理念に、「メシアの王国」や、世俗の支配に取って代わるダニエルの啓示に見られるような神の国の像が出てこないのはそのためであろう。
曖昧にされた千年の『神の国』像は、以後容易に「心の中に存在する」ものとされる原因となっている。彼がエイレナイオスの異端反駁の第五巻の抄本の一部を意図的に破棄させたというのは、千年に関わる使徒伝承への挑戦ではないか。
それに加えて「言語に絶した諧調を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」などと修辞を尽くして将来のキリスト教国家の盛隆に希望託したようだが、現実は「詩的」などではなく汚濁と凄惨さの混じる歴史が刻まれ、以後の欧州史は「諧調」どころか凸凹に泥濘の悪路だった。この世とはそのようなものであり、キリスト教の感化など通用するものではない。アダムの子孫は神との対立関係にあるばかりではないか。この取澄まして無意味な美的感情はどこからきたのか。結局はラテン詩人とヘレニズム宗教の折衷人物ではないか。根底にはエジプトとカッパドキアからの「逸脱キリスト教」の流れがあるのだろう。



⇒ 西ローマ帝国末期の千年理解
quartodecimani.hatenablog.com




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