Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ミラー派の系譜

ミラーの以前にCotton Mather (1663-1728) increaseの息子

が年代を三回予告して外しているとのこと

また Jonathan Edwards(1703-1758)も、1866年をキリストの再臨の年としていた。

 

John Aquila Brown 1781-1842 英

聖職に就いていない人物

1823年に一年を360日としてダニエルの『七つの時』を2520年間とする論”EvenTide”(夕暮れ)を公表。1917年をその終わりとし、世界の終りともした。

 

 

William Miller (1782-1849)

独立戦争にも携わった時期のある農業経営者

バプテスト派の出身で、一時は理神論に傾くが、後にバプテストに復帰

その頃から聖書と索引を用いて綿密な研究を始める

その釈義の方法には「聖書はそれ自体が解説者である」という前提がある

やがて1822年頃から、ダニエル書の2300の夕と朝からキリストの再臨の時期を算出し1843-44年にそれが到来すると確信した

その根拠は、1260日が終わったのが1790年のフランス軍によるローマ教皇庁支配の終焉であるとのこと。そこから2300の夕と朝を数える

ダニエル8:14の聖所とは、神の裁きに焼け落ちる地球であるとした

しかし、彼はそれをしばらく公けにはしなかった。

ミラー派は1844年10月22日を予告したため、相当数の米英の信者がこのミラーの運動に加わってきた。それに対して多くの教会は歓迎したが、それは活力ある信者を集める目的がそれぞれにあった

 

この運動の指導者のひとりである Charles Fitch  は「大いなるバビロンを出よ」との言葉を、1843年7月にミラー派に従わない宗派教会から去ることであると解釈するに至る

ミラー自身はこの解釈に賛同しなかったが、教会から追われ始めたミラー派信者はこの解釈に自分たちの立場を見出し、五万を越える人々が教会を去った

 

 

Nelson H. Barbour (1824-1905)

ニューヨーク生まれで出身はメソジスト。1842年の冬にニューヨークでミラー派と接触し、ミラーに予告された1843年の11月22日を迎えるために同州スプリングウォーターに集まる。しかし、何も起らなかったために「大失望」を共に受けることになった。

その後、金の採掘に携わるためにオーストラリアに向かい、その仕事に関わる船旅の最中に聖職者と話し合う内に預言への関心を再燃させ、ロンドンに向かい大英図書館で先達の預言研究資料を渉猟し、自らは1873年の再臨を確信するに至る。

1869年にニューヨークに戻った後も研究を続け、1874年が大ヨベルの周期ともなると主張。1873年に翌年に注意を促す”Midnight Cry”(真夜中の叫び)*と題する冊子を出した。翌1974の1月からはHerald of the Morninng(朝の先触れ)という定期刊行物の出版を開始する。*(同名の書がミラーの追随者のサミュエル・S・スノーからも出されていた)

しかし、1874年にも何事もなく過ぎ去り、彼とその仲間を失望が襲った。

それでも仲間のBenjamin Wallace Keith(1835-1916)を中心とする集団が主張する、再臨に二段階あるという見解に活路を見出し、キリストは確かに1874年に見えない仕方で臨在したので、やがて見えるようになると主張。

1875年12月にHerald of the Morninngを手にした富裕な青年があり、その名はチャールズ・テイズ・ラッセルといった。

ラッセルは翌年から「ヘラルドオブモーニング」に資金援助を与えるようになり、両者の協力関係は1879に贖いの教理を巡って分かれるまで三年にわたり継続した。

1883年になると、バーバーは「再臨の不可視」の概念を捨て、メソジストに戻っていった。その後も「ヘラルドオブモーニング」は不定期に刊行され、その中でラッセルの主張に時折異を唱えていた。

彼はその後も、目に見えるキリストの臨在の時期の予想を続け、その最後のものは1907年であったが、それ以前の1905年に西部への旅の途上で世を去った。

 

Ellen Gould White (1827-1916)

メイン州の生まれで両親はメソジストに属していた。

13歳の時、ポートランドでのミラーの再臨運動の集会に出席し、翌年バプテスマを受けた。そのため、それまで属していたメソジスト教会から親と共に除名された

18歳のときに牧師であったジェームズ・ホワイトと結婚し、四児をもうけた

多作家で100冊以上の書籍が出版されているが、年代については特定の年を予言しない

土曜安息を守るべき件を唱えたのは、天に挙げられて十戒の石板を見たときに、第四戒が光っていたという「経験」から来ている

健康と採食を人の守るべきものとしたので、今日でもSDAはモルモン教徒のように刺激物を避けている

その教理は本人が超自然の体験を経ることから構成された。三位一体について教えに含んでいない時期が長かったが、晩年には肯定している

その教えからセヴンスデー・アドヴェンティスト派SDAが形成されたが、同派は今日までに複数の派に分かれる

セヴンスデー・アドヴェンティストは教祖扱いにせず、預言者ともしていないが、その曖昧さに関わらず指導的立場に置いている

 

 

Charles Taze Russell (1852-1916)

教会が非常に多く林立するペンシルベニア州でも、工業都市ピッツバーグ近郊アレゲーニー出身で父親と共に事業を営む傍ら、聖書研究により「ものみの塔聖書冊子協会」の開祖となる

組合派からアドヴェンティスト系に近づき、ネルソンHバーバーへの協力を始めたが三年で意見を異にするところあり、支援を中止して、自らの仲間を数名で新たなグループを発足させ、機関紙「シオンのものみの塔とキリストの現れの予兆」の発行を始める

後にペンシルべニアのアレゲーニーから、ニューヨークのマンハッタンの対岸にあるコロンビアハイツに事務所を移す。これが世界的展開の必要を満たす印刷工場と事務所を兼ね今世紀初めまで世界本部として運用されていた。

彼自身は若い時にバーバーからアドヴェンティストの影響を受け、年代による神の経綸を探求する道に入り、生涯その教理を堅持し続けたが、提唱した1914年秋に自分を含め誰も天に召されるという期待した奇跡は起こらず、二年に64歳で死去。

バーバーとの確執を経て1879年に独立し”Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence ”と題する定期出版物を創刊

『七つの時』が2520年であるという解釈を引き継ぎ、バビロニアによるエルサレムの荒廃を前606年とした

その根拠はキュロス大王によるユダ国民の捕囚の終了によって、エレミヤの70年の預言が成就したのであるから、その七十年前を引き算した結果である

ダヴィド王朝の終りから2520年後が1914年であると思い込み、実は紀元0年が存在しないことを忘れていた。だが、後に考古学がバビロンの滅びを前539年として訂正したため、差し引き一年となり、1914年という予告年は動かさずに済んだ。これをものみの塔神の摂理のように捉えている。その年に『異邦人の時』が終わり、キリストの王権を伴った再臨が起こり、自分たちが天に召されると予告するが、その予告は外れる

ラッセル自身は落胆したものの、二年後の死のときまで活動を続けていた。没年はヘレン・ホワイトに同じとなった。双方の派はその後も信者を集めて伸張し、セヴンスデー・アドヴェンティストとエホバの証人とが目立って多く、年代だけでなく幾つかの基礎的な教理が共通している。異なるものは三位一体の是非が大きい。

それでもラッセル派が年代に固執し続けている以上は、ミラー派を継承するアドヴェンティスト派の流れに属し続けており、今日の「エホバの証人」に至るまでその姿勢を変えていない。だが、この信仰形態は古来年代を予告する度に一度も失望を刈り取らずには来なかった。

現在のものみの塔の信仰の型を整えるのは、ラッセル派の主導権を握って延命させ、アドヴェンティスト派のように、時の予告は人間には見えない天で起こったとの主張によって、新たな信仰を注ぎ込んだラザフォードによる。この第二代会長によっても1925年など予告されたが結果は同じく空しく終わっている。

 

所見;

ネブカドネッツァル自身の布告の言葉『それらの日々の後で』つまり家畜のような生活の期間についてアラム語では「日々」と訳される語を用いている。但し、第二章の中ではヘブライ語の部分ながら、『三年の間』の終りについて『日々』と記している。しかし、宮廷でのアラム語の期間に関する用法がどうであったのかを比較する資料が手元にない。

それで『七つの時』が年単位である可能性は残るが、考古学からは四年程度の事跡の薄い時期があるとも類推されるらしい。(考古学の件は未確認)

一連の年代予測には、信仰者らの益が関わっており、それが年代信仰の原動力となった共通性がある。それゆえにも待望感が広まったのであり、純然たる「ご利益信仰」という以外にない。

キリストであっても『その時を知らない』というのであれば、その不明性はいつ、どのように解除されたのか?この点で、ミラーの「聖書はそれ自体が解説者である」という前提が問われる必要があり、根底にあるのは神の前に於ける「自分の義」である。これはプロテスタント系の諸派に共通する問題点でもある。聖書は罪人である人間にすべてを解説するのか、また、それを知った少数者は是認を受けるべきかの問いに、それらの宗派は考察を加えていない。即ち、倫理的問題を避けている。

これらの宗派は、年代予告を外す度に「近づいていることは確かだ」また「その日、その時は分からなくても時代は知らされた」あるいは「我々には見えない天では変化が起こっている」などと唱えられてきたのだが、そもそも人に求められる信仰とはそのようなものだったろうか?

キリストの初臨を迎えたユダヤ人は、キリストの『父の業』である聖霊の証の奇跡によってナザレのイエスに信仰を働かせたのであれば、「年代信仰」はその価値に於いて到底及ばず、人間の教えに従うだけのことで、その証拠が徹底した失望の連続であり、明らかに神もそれに何らの裏付けも与えていない。

神が人を裁き、キリストが聖徒らを裁くのであれば、聖書はどうして年代や時期を教えるものであるのだろうか?ミラーの聖書に対する前提に初めから無理があったのに、多くの人々が無批判であった理由は、つまるところ「自分に益が近づいている」という射幸心にあったのではないだろうか。それはあまりに人間の身勝手であろう。一歩でも下がって真に神を畏敬するなら避けられた誤謬ではないのか?

「年代信仰」に陥っている「ご利益信仰」の諸氏には、より価値ある信仰に到達するべきではないのだろうか。その心は利己心に煽られており、本来のキリスト教とは異なる精神を懐いてしまっている。

本来、アブラハムに示された『地のあらゆる氏族がその裔によって自らを祝福する』という世界人類への救いの精神と、少数者が年代に待望する想いとは異質のものではないか?

 

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