Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記録22-7

 

・『わたしの言葉を聞いてそれに従わない人をわたしは裁かない*・・だが終わりの日には(わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には)わたしの話した言葉がその人を裁く』(Jh12:48)*これは終わりの日との対照で語られているので、初臨の時を指すとみることができる

『語っている方を拒むことのないように』(Heb12:25)

『聞いても従わない』とは、個々の言葉ではなく、メシア信仰に達しなかった者の全体を言うのでは?そうであればイエスは自らの処刑を許したことに於いて、徹底的に裁いていないといえる。それは『誰をも裁かない』との言葉とも合致する。(Jh8:15)

敷衍して、メシアは自ら犠牲となる神意に従う場合に、周囲を裁くことは有り得ない。だが、終末では事情は異なり、復讐の大王と化し、自らと兄弟らの遺恨を晴らすことになる。その裁きは雲と共に到来するように、メシアの実態を見ることがないからこそ、その内面が裁かれることになる。

カイヤファが『天の雲に乗って人の子が来るのを見る』と言われたのは、彼は初臨で裁かれなかったものの、その決定的な判決がカイヤファ自身の内心によって自ら下されること、また一度下されたことをいうのであろう。たとえそうでなくても第二の復活に彼も与るのであれば、二度その裁きを経験することになると思われる。そして、これは終末に聖徒を為政者に渡して処刑させるであろう宗教家らに対する断罪の言葉ともいえる。共にメシアをそこに見なかったので、雲に覆われているが、それでも裁かれる事を通してメシアが来るのを見る。見えない領域からの裁きを不意に受けることを言うのであろう。

 

・自分より邪悪な七つの霊を・・その状態は以前よりも悪くなる

一度浄められたにも関わらず悪霊が戻ってくるとは、聖なる者とされてもそれで悪霊が全く去るとは限らず、様子を見に来ると、その聖徒は契約から逸脱しているなら、恰も住みやすい『飾り付けられた空き家』のようになっている。それでより多くの悪霊の住処となってしまう。これは聖徒への警告と言える。

⇒『世の汚れから逃れても、再びその汚れに巻き込まれるなら、その人の終わりは初めより悪い』2Pet3:20-22 この文脈は脱落聖徒について旧約の例を引いている。

『臨在はどうなっているのか』(ここでペテロはマタイのようにパルーシアを用いる)とは、必ずしもキリストの臨在が無いことを言う言葉とは限らない。嘲る者らが聖徒に言うのか信徒に言うのかでも意味が変わってくる。

 

ユダヤギリシアもなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなくキリストと結ばれて一人のようになっているならあなたがたはまさにアブラハムの裔である(ガラテア3:29)

 

・『わたしが彼らの罪を取り去るとき・・これがわたしの彼らへの契約である』(ローマ11:27)ここでパウロはエレミヤ31:33と34を要約しているが、『新しい契約』が聖徒に為す働きを端的に言い表す貴重な句となっている。

 

・ダニエルには『荒廃をもたらす違背』との記述が存在する。(ダニエル8:13)したがって、『荒らす憎むべきもの』とは、契約からの脱落が関係していることの蓋然性を示している。

 

・最初のペサハはカナン征服前に行われていたので、ギベオン救出の前でもあった。

その前に契約の箱はエリコの周囲を行軍している。祭司職はその以前から約束の土地で機能していた。征服の業に関わってもいる。(この辺りにはまだ何かあるらしい)

 

・御名を呼び求めることがそのまま善とはならなかった。(サムエル第二22:42)

異邦人は衰え、その堡塁から震えつつ出て来る。(サムエル第二22:46)

 

・『2300の夕と朝』は違背に関する期間である。そこから聖徒の1260日を引くと1040日つまり2年と10か月20日になる。また、1260日の終わりから数えるべきものかも知れない。但し、夕と朝という言い回しに別の意味があるともとれる。なぜなら、これほどの重大な事柄を公開してしまって良いのかも考えに入れる必要があるように思える。

また、この観点から見ると1290日、1335日が1260日の延長であると見做せる。

 

・あなたがたのただ中にあなたがたの知らない人が立っている。(Jh1:16⇒Lk17:21)

 

・キリストが『新芽』であるのは、ダヴィド王朝の芽吹きとすれば、ダニエルの切り株から出る一枝を含意する可能性あり、一粒の麦が死んで多く麦粒となる。

 

・ユダのレハベオムの第五年にシシャクに攻められたのは、彼らがYHWHを捨てたからであり、シェマヤの預言に悔いたことで朝貢国になることで済んだ。これは『わたしに仕えることと異邦人に仕えることの違いを知るためであった』(歴代二12:8)

⇒捕囚について語られていたはず

 

・Isa1:9- 『もし万軍の主が、われわれに少しの生存者を残されなかったなら、われわれはソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう。』『あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。』⇒ 少しの生存者=残りの者or十人以上の義人

Rev11:『ソドムまたエジプト』聖徒を荒らし無意味な崇拝を続けるソドム、イスラエルの抜け出てしまったエジプト

 

・Rev8-9によると、聖徒が人々に苦痛を与える前に『三分の一』が害を受けている。これは一連のラッパに含まれ、聖徒の祈りが捧げられた後ということになってはいる。

彼らが評議所に引かれて為政者に話す前に、宗教界は相当なダメージを受けているらしい。そこがピラトゥスに訴えた祭司長派に整合する。人々がサソリの苦痛を受けるのはその後であるとすれば、評議所に引かれた聖徒らに聖霊の言葉が下賜されるという順序にも適合するところがある。

では、聖徒らが聖霊を注がれた状態に入るのは、聖霊の言葉を語る時なのか、それともその以前に宗教界(おそらくキリスト教界か一神教界)が打撃を受けるのは何の働きによるものか?そのときまでにシオンは一定の勢力に達しているのか?ただ、シオンの民だけで『三分の一』が打撃を受けるとは考え難い。やはり、聖徒の祈りの後に火が興されている。その場合、聖徒らには評議所に引かれる以前に、宗教界は聖徒から相当程度の打撃を受けている。

 

・人は『祝福』の以前に裁きを受けるか、神との契約を結ぶかしなければならない。人がどちらもなく祝福を受けるのは現在では不可能と考えられる。その以前に崇拝を興すことさえ人類の誰にも委ねられていない。しかし、『近付こうとする者』については祝福まではゆかないものの、その意志は喜ばれ、崇拝の前の段階に導かれると言える理由はある。だが『祝福』はその後であって、アダムの罪人である身分は変わらない。

それであるから、教会のクリスチャンというのはどうして自分たちが神から是認されたり祝福されたりすると思えるのか?結局は契約に属する聖徒への聖書に書かれた言葉を自分に語られたと思い込むところではどうしようもなく傲慢不遜であり、その関心は神ではなくただ自分に向いている。神意を探るよりも自分の幸福を第一にしてキリスト教という本来は利他的な教えに利己的に近づいてはいないものか。驚くべきは、その頑迷さなのだが、それも自分可愛さから出た強情ではないのか。神への関心であるなら、心はニュートラルであるのではないか。

 

・『あなたがたは天候は見定めることができるのに、どうしてこの時を見定める方法を知らないのか』これはマラキのメシアの害に通じるものがあり、また、見捨てられたエルサレムとも共通する。しかもイエスはこれを群衆に語っており、癒しに釣られて集まった人々も、そのままメシア信仰に入ったとは言えないらしい。続けてイエスは『あなたがたはどうして自分で判断しないのか』と問い、役人に訴えられ牢獄につながれる前に何とか逃れるようにせよと言われた。これはメシアを退けることの大罪から逃れるべきことを示唆している。『何が正しいことかを自分で判断しない』とは、自分の知覚力、判断力でもってメシアを見分けるべきであることを言っている。だが、群衆の多くはそうしていなかった。ましてパリサイ人であれば頑固に清さを誇る仲間からの圧力とタナイームの教えが強く働いていて、自分個人での判断の前に、それらの圧力に邪魔されていたと言える。

また、籾殻のように火のバプテスマに焼かれるユダヤ体制は宗教家らだけで構成されていたわけでない。実に国民の大半がメシアを自分で判断せず、空模様を言い当てるようにメシア到来の時代の危機を見分けなかった。イエスのこの糾弾の言葉が終末にも相当することになることは目に見えている。それでもタナイームのような学者らが民の判断を狂わせていたことは明らかであり、専門家に弱い群衆心理のような同調圧力もあったに違いない。だが、信仰というものは宗教家が導くものであると確言できるものか?それは有り得ない!

 

・ミステリー好きと二時間ほど会話して感じたことは

彼らの関心は「他者の知らない事を知る」というところにあるらしい。

そのような自分を智者とする喜びが感じられる。そのため隠された奥深い事柄、しかも科学的検証を地道に行うのではなく、「不思議な事柄」また公けにされていない政治的な事柄、人知を超える霊力などに著しい嗜好を持っている。そこで自分たちの関心を引くことであれば多様な宗教のどれでも関連付けてゆくシンクレティズムが見られる。何かの難題を解こうとする手法として、異なる宗教でも思想でも都合に合わせて組み合させてゆく。そうでもしなければ解答らしきものさえ見つからないからであろう。「それはゲマラを使わないと解けない」などと宣う。問題に対する意識が軽薄なのである。

つまり、「不思議そうなものは何であれこの人々の宗教」なのであり、むしろ、その方がこの種の傾向の人々の間では拍が付くらしい。その結果は諸宗教の混交したヘレニズムや新プラトン主義のようなことになっている。従って、その結論も結末も同様になるであろう。キリスト教世界がかつて巡った道程はこうだったのかと、その同質性に驚かされる。

彼らはかなりの自信家で、自分を智者としたい欲求は相当に強いらしい。時間経過すると何かの教祖になって自分を高め、弟子を持つようになる勢いも感じさせる。

その語るところには複数の証拠なく誰かの論説の鵜呑みをしているところが単純な論理になっているところに表れている。思い込みと決め付けが強めだが、結論がぼやけていて、その論の行方はどうでもよいらしく、畢竟何を目的にするでもないので、自分の知識に酔っているように見える。つまり、「実は世の中はこうなっていて、これからこうなる」という以上の目的意識はない。せめてが「こうなる方が良いので、そのように行動する」ということになる。

こちらの話の論旨を即座に単純化して分かったつもりになるのだが、その短絡さの原因は本人の中での多様な伝聞がフラッシュするからのようである。人間には面白い事を常に探しているような本能的欲求はある。だが、神意を探る事と、ただ興味をそそられる事を渉猟するにはかなりの違いがある。そういえば「感動」のような価値感はかなり薄いと見え「彼らにとっての神」とは謎掛けの質問者程度のようだ。

そこでサマリアのシモンの扱い難さにも共通するように感じられる。心に閂が下ろされていて神の意志はどうかというよりも「自分はそれを知っている」ということが先に立ってしまい、あれでは神はおろか、人の話の真意さえ汲み取る機会を自ら放棄している。単なる「知ったかぶり」だけでなく、知った事に距離を置いて再考や検証を続けることを嫌うようなところがある。つまり「決め付けたい」という願望が働いている。

オカルト愛好者はみなこうなのか?聖書預言の受け止め方も、カバラを持ち出すなど正攻法を嫌う傾向がある。正面から聖書の言葉に向き合うことを初めから止めているのだが、あれでは悪霊的に聖書にフィルターを掛けるに等しい。聖書や歴史資料の全体をよくよく精査すれば見えるものさえ見ようとしないのだから理性的とは言えず、直感的で魔術的でもある。何か「宗教」への先入観も関係しているのかも知れない。

しかし、伝統的な聖書教の各宗派と雖も、似たようなところはそれぞれに感じられる。

アプローチが異なるだけで、敬虔な生活の型を見出す、規則戒律を設ける、聖書より伝統を重んじる、聖書の句に固執する、ご利益を吹聴する、安息日は土曜だと言い張る、ゴスペルを歌うのが楽しい、異言や不思議を体験する、自己義認に邁進する、果ては律法は守るべきだとも、あとはおおよそ自派が正当だと言い張り信者を囲い込むなど

諸宗教では教祖への恭順と判断の依存が見られるように、オカルトでは悪霊に判断を委ねているというのが実情ではないかとも思える。「聖霊信仰」が聖書教の完成形であるなら、反対勢力はそこを突いて来ることは充分有り得る、いや、まずそうするだろう。だから、単純に「聖霊の絶対性」を強調し過ぎることは罠となる。聖霊か悪霊かの判別こそ必要な見識になるに違いない。(これは偽キリストへの発展性が内包されている恐れが強い)

『シオン』にとってこのような霊的混濁は非常に厄介なことになるだろう。しかも、関心ある人が集まれば、そこに必ず一定数居る!これは間違いないようだ。シオンを狙うのはこのような要素からでは?キュロスも、エシュアもその誕生の時期をマゴイに狙われているのであるから、その蓋然性は極めて高い。問題は、「三度目のマゴイはどのように現れ、またどう攻撃を仕掛けて来るのか」という事になるだろう。その攻撃目標は最初は信徒、それから聖徒であり、おそらくシモン・マグスのようにシオンに紛れ込んで来るのだろう。その時『心がまっすぐでない』と譴責できるだけのペテロのような権威者が居るだろうか?初期のシオンにそれが期待できるだろうか?

 

・愛を基礎とする信仰

『キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである』Ga5:6

ἐν γὰρ Χριστῷ Ἰησοῦ οὔτε περιτομή τι ἰσχύει οὔτε ἀκροβυστία ἀλλὰ πίστις δι’ ἀγάπης ἐνεργουμένη.

 

・キリストの死が律法違反の罪からユダヤの弟子らを贖い『新しい契約』に参与させ、相続人とした

『キリストは新しい契約の仲介者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過を贖うために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を相続するためにほかならない』Heb9:15 (この訳文は語順を入れ替えた方が良い)

Καὶ διὰ τοῦτο διαθήκης καινῆς μεσίτης ἐστίν, ὅπως θανάτου γενομένου εἰς ἀπολύτρωσιν τῶν ἐπὶ τῇ πρώτῃ διαθήκῃ παραβάσεων τὴν ἐπαγγελίαν λάβωσιν οἱ κεκλημένοι τῆς αἰωνίου κληρονομίας.

 

・「人にとって最重要なものは永遠の命か愛か?」

従順と忠節

従順を強調するのはローマ書12回

奴隷に従順であれという、子は親に従順であれとも

契約に在る者に『主に従順である』こと

忠節を強調するのは詩篇であるが、これは長いのでローマ書ほど頻繁ではないが60回ほどで、他を圧倒する

「永遠の命」か「従順」かとなると、いくらか奇異な印象がある。

アダムの事例からすれば、命を失ったのは不忠節になり従順を止めたところにある

しかし、その従順というのは禁令に対する表面的な態度また行動を指していて、内的なものではない

内面の不忠節が不従順という行動を招いている

しかし、愛の掟の方面から見ると、従順は常に従属関係にある場合に言われるが、忠節は対等の立場について言える

アダムの場合は、不忠節の結果として従順であるべき神との従属関係から逸脱し、外に出たとも言える⇒これを『神のようになる』と言ったのか?

創世記を追うと、倫理判断を下す存在としての開始を言うことが見えている

 

・あるいは、ペサハでは悪魔の長子が聖徒の犠牲の代替として死を招くのではないか?

⇒ 一日の内に罪科はバビロンに移される

キリスト教であるべきイスラエルのバアル崇拝と関わりがあるのでは?

では最後のペサハはどういうことになるのか?

(ヒゼキヤとヨシヤのペサハ)

民はイスラエルに出てゆくことを望み、彼らは出立したように、聖徒の死を喜び、礼物を交わすのでは?

ペサハの四日前に何があるか?ハグハ・マツォートの七日とその七倍の意味は?

七週と六十二週で六十九週、それがメシアまでの期間で、最後の一週がメシアの活動期間であった。

ペサハの三日目、ハグハ・マツォートの二日目からつまりキリストの復活から49日を数え七週が終わる。その翌日がシャヴォートであり、天上の祭司団が現れている。

ということは、ハグハ・マツォートとはダニエルの七十週の最初の一週に相当することになる。だが、それは過ぎ越しという犠牲の死の日の翌日から始まっている。

そうなると、聖徒の死の翌日からハグハ・マツォートに相当するものが始まり七日続くことになる。だが黙示録は三日半後に生ける聖徒の招集があるとする。つまり、これはハグハ・マツォートの真ん中なのか、あるいは終わりを意味するとみて良いようだ。

つまり、第七十週が終了すると契約が終わり、生ける聖徒も招集を受ける。おそらく三日半とはこのことだろう。

あるいはハグハ・マツォートの終わりによって聖徒の全員が天に召されるとみて良いか?

ならば、最初の七週とは対型的ハグハ・マツォートということなのか?

その間に六十九週が進行し始め、第七十の週、つまりシャヴォートに至り聖徒が油注がれるという意味になる。つまり、第七十の週とは祭司団の登場の週であり、最初の三日半は大祭司の聖別に用いられる。六十九週は待つべき期間の象徴であり、ダニエル書では第七十週の残り半分の三日半の到来が何時になるのかが隠されており、それは『あなたがたはその日を知らない』というキリストの予告の言葉に合致する。

それならキリストの復活が三日目であったことに類似する意味での『三日半』ではなく、第七十の週の残りが満了したことを指している可能性が出て来ることになる。つまり、契約の完了ということになり、それを以って天界の神殿が油注ぎを受ける準備が整ったということで、神の怒りの七つの鉢はその後に生じる地上の事象を指している。

七十週の終わりには『聖の聖なるところに油注がれ』天界の祭祀の準備が整う。

コハトの浄めの後、七日の空白があり、その間聖所に居ることが命じられた。また大祭司を継いだ者は七日の間職服を着て過ごすことが命じられている。EX29:29

その間、アロンの後継者は聖なる境内で過ごし、任職の肉とパンを食した。(当然、葡萄酒は無い) また、祭壇を用いることができるまでに七日を待つよう命じられた。

天界の祭司団が待つ間に、七つの怒りの鉢が注がれ地上の王国に凶兆が起こる。シャヴォートの日には神殿が油注がれたわけではないにせよ、神殿とも称される人々に史上初めて任命の油注ぎが起こっている。

したがって、シャロッシュレガリームが教えるもの、特にハグハ・マツォートとシャヴォートとの関係性にダニエルの七十週があると見てよいらしい。

キリスト後に於けるハグハ・マツォートの終わりの意味は分からないが、ひょっとするとキリストの監臨の期間を指しているのかもしれない。

それが終わった後、六十ニ週に相当する42日つまり6週間を待ちシャヴォートに至る。そうするとキリストの復活から合計で七週となる。それが待つ期間の全体となる。(だが、数字がしっくりとしない)

エルサレム再建というのは、神殿の建立とは何か違うことを指していることはわかるが、新しいエルサレムの降下を言うのか?そこに神殿はなくエゼキエルは相殺される。

これには直接関係ないが、時と法とを変えようとする試みとは、天界の神殿の準備の妨害であり、聖徒らが天に去ることよりも地上の王国により、七十週が間延びすることを謀ることではないか?つまり、その王の目論見は脱落聖徒らによる地上の神の王国の設立にあるということになる。その中心に座すのがアンチクリストであろう。

終末の北の王が時と悟りを変えようとするというのは、アンチクリストを擁立することを指すのかも知れない。