Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ペテロ第二3:10「露わにされる」マタイ13:54「古いものと新しいものを取り出す」

 

 

2Pet3:10
しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。【口語訳】


しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。【新改訳】


主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。【新共同訳】


2Pe 3:10 But the day of the Lord will come as a thief in the night, in which the heavens will pass away with a great noise, and the elements will melt with fervent heat; both the earth and the works that are in it will be burned up.【NKJV】

 

 

Ἥξει δὲ ἡμέρα κυρίου ὡς κλέπτης ἐν ᾗ οἱ οὐρανοὶ ῥοιζηδὸν παρελεύσονται, στοιχεῖα δὲ καυσούμενα λυθήσεται, καὶ γῆ καὶ τὰ ἐν αὐτῇ ἔργα εὑρεθήσεται. 【NA27】

 

[ἔργα] 労働、業、(働きの結果)

 

所見;天地が対照されていて、明らかにこの文の前の5節と7節の成り行きを説いている。

『古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成った』『しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれている』【口語訳】

この5節にも謎があるが、6節でノアの洪水が記されているので、地というものが水の中に存在していることを言う可能性がある。そうであれば、ペテロが知ってか知らずか、地表の7割が海であること、地殻を平坦にした場合、地球という「水の惑星」のすべてが水深2000m以上に沈むことを含んでいるのかも知れない。(それでも地表の水はレモンに着いた水の一滴ほどの量であると例えられる)

当時の世が水に沈んだ事と対照させて

『現在の天と地とは、火で滅ぼされる』と述べている。【新共同訳】

つまり、本来地が水で覆われた状態にあるように、終末では火が地だけでなく、天までも損なうことに注意を促している。それは『留め置かれている』[τηρούμενοι]のであり、「留置されている」、つまり今のところ平静を保っているに過ぎない危うさが強調されている。

天地が裁かれるとき、『天』という上層も損なわれるが、これは水が下に集まり、火が上昇するように、ノアのときには損なわれなかった天的部分、即ち霊界にも裁きが及ぶ事を指していると思われる。その時には、悪魔とその使いらにも害が及ぶからであり、地上の人間の世界では、人間の『業』その仕業がどのようなものかが暴かれると捉えるなら、アダムの罪が顕在することで、裁かれるべき罪状が明らかにされるという意味で著者は言うのであろう。人間が無法状態に置かれたときにどれほど凶悪で危険な生物となるかは想像に難くない。それがアダムの罪の果て『地の業』であろう。

[καὶ γῆ καὶ τὰ ἐν αὐτῇ ἔργα εὑρεθήσεται]

の意は、地[γῆ]とその中の業[ἐν αὐτῇ ἔργα]とは明らかになる[εὑρεθήσεται](暴かれる)。

 

adveniet autem dies Domini ut fur in qua caeli magno impetu transient elementa vero calore solventur 【Vul】

業をエレメンタと訳したので、それはソルヴェントゥル(破壊)と続く

これが西欧的解釈の根底に据えられたらしい。

 

この句の理解は、終末論の視界を要する。同時にこの手先の読者らにはその認識があったことになる。

 

 

-----------------------

MT13:54

「だから、天の王国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。

これはマタイにだけ存在する。

学んだ「学者」は[γραμματεῖς](pl)の語、つまり共観福音書で広くタナイームを指す語が用いられている。従って、パウロのように律法学者ラバン・ガマリエルⅠ世に師事して学んだ学生をも含むと考えられる。福音書ではヨハネだけがこの語を避けているし、パウロは一度だけ1cor1:20でだけ用いたがタナイームを特に指していない。

従って、明らかに「家の主人」とは旧約聖書とキリストの教えとを自在に用いる者となることを言っている。これに最も当てはまるのがパウロであることは明々白々。そしてヨハネ黙示録はその点で著しい旧約のリファレンスとなっている。ヨハネはタンナーとの直接の関わりはないとしても、母がサロメであれば祭司長派と血縁であり(それはイエスもそうだが)ギリシア人に「エフォドスを付けた祭司イオアンネーンス」と呼ばれていたからには、ユダヤ教中枢に近い。それはガリラヤの漁師シモンを大祭司の邸宅に案内できたところにも表れている。(イエスヨハネの違いを分けたのはヘロデとアルケラオスを怖れてヨセフがナザレに退いていたところに原因があるように思われる)

従って、旧新の聖なるミクラーが補完し合っていることを示すメシアの一言と言える。

キリストは新たに話す王国に関する事柄は、旧約に教えられてきたことでもあり、双方の情報が千年王国という『女の裔』による支配と贖罪の崇拝機構を教えるものとなり、キリストの語った、また聖霊の教えによりそれがより具体的にされてゆく。

ただし、この語られた時点で使徒らでも王国の概要も把握できていなかった。マタイが『天の王国』と繰り返したのも、後に知った事柄が既存のメシア王国の概念を覆すほどのものであったからであろう。まして、それが千年王国であることなどは黙示録だけの述べるところであった。

この例えの前の文章は、値高い真珠、引き網の例えが有ってそれらに続いており、イエスは弟子らにこれらの事を理解したか?と尋ねて、彼らは「はい」と答えている。しかしこれらの部分に旧約からの引用が見られず、なぜその事が旧新の事柄に通じる事を指すのかはこの部分からははっきりしない。(この語から姦淫の女の挿話ヨハネ文書の例外であることも分かる異例にもグランマテイスを用いており、しかも古い写本によってこの部分はルカ福音の一部として収められている)

 

ヨハネについては本人が祭司長派に近いせいか、イエスに反対する勢力を「ユダヤ人」「パリサイ人」「祭司長」「祭司長と下僕ら」と呼び、「律法学者」という呼び方はしない。おそらくタナイームは「パリサイ人」に含まれている。加えて、祭司長派はサドカイ派に近かったとは思われ、「祭司長ら」と「パリサイ人」とは異質であるという意識がヨハネに強かったのではないか。従って「律法学者とパリサイ人」という言い方がヨハネにとってはトートロジーのように聞こえたのではないか。彼がイエスに反対する主役を「祭司長」に求め、カイヤファのイエス殺害の発案の発言を記したのも、本来は身内である彼らへの糾弾の意味が込められていたと解釈すると実態に合う。

 

それから英訳がこの語をよく”scribes”「書士」と訳すが、これは良い習慣とは思えないしルター訳も”Schriftgelehrten”としているがこれであると「ソフェリーム」を指すことになるがそれでよいか?

どうやら原因はVulgataで"scribae"としているところにあるらしい。

ギリシア語での[μαθητης][φοιτητης][παιδευμα]ではなく[γραμματευς]が用いられたのは、確かに文章に関わる学者としての意味があるが、それをソフェリームに適用するのはいくらか違いを感じる。当時にユダヤで律法を解釈し、ミシュナーを作り出しつつあったのはソフェリームではなく、ヒレルやシャンマイに属するタナイーム、またはその先駆であったズーゴートであったのは明らかと思える。そこで解せないのは、あのヒエロニュモスが"scribae"としたところである。おそらくはグランモスを文章家という意味で訳したのであろう。

王国について教えられた「ソフェリーム」もあるいは旧約に最も通じているので、旧新の事柄をいろいろと論じられたとは言えるだろうけれども、マタイが伝えたかった単語とは幾らか差がでる。しかし、それもマタイ自身が福音書を訳したとの伝承によればということになる。

 

マタイ13章は例えの宝庫のようだが、これが話された日には少なくとも二か所で話がされており、二か所目は船の上から群衆に話されている。

この日の部分は前の12章の初めに遡ることができ、更にイエス十二使徒を自らの代理として諸都市に遣わし、またバプテストが弟子らをイエスの許に遣わした同じ季節であったことが分かる。Mt11:1

 

--------------------------

別件で、[παλουσια]の用例は福音書ではマタイのみ4回すべて24章に在る

他にはパウロ書簡、1Co×2 2Co×3 Phi×2  1Th×4 2Th×3 

他に、Jam×2 2Pet×3 1Joh×1

つまり、マタイ・ペテロ・ヨハネ・パウロヤコブが使用していることになる。

この点マルコとルカが用いていないところが目に付く、しかも共に終末預言を記している。意外なのはヤコブだが、これはヘブライ語から訳されたとすれば理解もできる。

それから黙示録に無いのも幾らか意外

マタイの用例についてはマタイ自身がギリシア語に訳したのか、誰かの助けを得たのか

彼が収税人であったのであれば、しかも港湾税関、ギリシア語に通じていてローマ側との意志疎通に問題がなかったとは言える可能性が高いが・・マルコとルカは明らかにディアスポラであり、パウロもそうである。ルカはテモテのように割礼も受けていなかったらしい。使徒ではフィリッポスがギリシア名であり、アンデレと行動を共にする様が記され、二人は十二人で異邦人への窓口であったようだ。パウロを含めて使徒の中からギリシア語が通じた者は居たが、その後のユダヤでの信者が増えたにしても、ユダヤ主義は強力に作用しており、そこでヤコブユダヤ側から異邦人に配慮している。

だが、それも十分な効果には至らなかった。その原因はパウロの著作も無い時期に、キリスト教の把握ができていなかったところにある。聖霊が働いたとはいえ、やはり『奥義の家令』なくして教えの開示はなく、それも進行中の過程にあった。パウロ書簡の蒐集もヨハネ文書の完成も待って初めてキリスト教というものの全容が探求可能となったが、そのころには異教と哲学の作る夕闇が迫っていた。

注目すべきはペテロ第二書簡で、第一をマルコが訳したとすると整合性があり、第二はペテロ自身がおぼつかないギリシア語ながら書いたとすると、パウロへの言及があることから、使徒の間でこの書簡の内容は共通認識のようなものであったことが窺える。

しかし、それならマルコ福音書とペテロ第一にパルーシアが有っても良いはず・・

このギリシア語に何かあるのか?例えれば読者層への配慮など

マルコとルカの共通点は使徒ではなく、共にディアスポラであること、但しマルコはルカよりもユダヤについて知っており、母の家がエルサレムにある。福音書アラム語の単語も多く記載する。但し、イエスの地上の姿は見ていなかったと伝承されている。おそらくイエス後までキプロスに居たのではないか。

問題の解答は還訳聖書にヒントがあるのかもしれない。

だが、この解釈問題全体は然程の重要性を持ってはいない。すでに共観福音書でキリストの再臨が不可視であり、イエス自身により地上再臨は否定されている。