Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記録22-12

 

・先見者と預言者

ハナニ先見 [ הָרֹאֶ֔ה] ローエー
預言者 [ הַנָּבִ֔יא] パニーム
視幻者 [הַחֹזֶֽה] はゼー

 

1Chr29:29

 

 

エドムの咎 ⇒ 「エドムの咎」

Jeo3:19 ユダへの虐げのためにエジプトとエドムは荒野となる。しかし、ユダには永遠に人が住む」

Isa34:5 血に塗られた剣はエドムに下る・・ボズラで生贄をエドムで殺戮をYHWHは行われる」

Jer49:20-21 群れの小さなものらは引きずり回される・・見よ、誰が鷲のように上って遅いボズラの上に翼を広げるか」

Ezk25:12 エドムはユダの家に仇を為し、大いなる悪を以って敵したので・・

(ユダが捕囚となったことを喜んだのは他の諸国民も同じだが)

Ezk35:5 イスラエルの子らが災難に遭うその最後に、剣の権力に引き渡した

Ezk35:10 二つの山は我々のものとなった

オバデヤはエゼキエルのように事後的に語っていると見ることができ、アハブ王の大臣であるというミシュナーは信じ難いし、預言者オバデアがエドム人だったというのも根拠が薄い。預言の時期が神殿破壊後であれば、オバデヤという旧約中最短の預言を残した人物の出自までは混乱期に在って後のユダヤ人情報との隔絶があったのではないか?となれば、オバデヤ書そのものがどう伝承されたのか。

エドムの罪が確定したのはバビロン捕囚の始まりであったがエステル記のようにアマレクほどはっきりとはしていない。預言書の中では糾弾されているが、第二神殿の終わりまでエドムはユダヤ教徒として存続したので、ユダヤ側にエドムを根絶やしにするまでの動機なく、エドムを糾弾する預言の数々は他の民族への呪いと同列に置かれて曖昧にされていたように見える。従って、エドム糾弾の激しい言葉の数々は実体のエドム民族に対するものではないと見るべき理由がある。ボズラを血の酒船とするただ一人の人物は他に考えられない。

 

・キリストの終末預言の羊と山羊を分ける行いについて、双方ともにそれがキリストに対して行ったことであったとは分からないとされているが、これはキリストの兄弟を見分けて気付いていなかったというには無理がある。同じマタイ10章の最後で、聖徒らの苦難が予告され、覚悟するよう述べられた後に、『わたしの弟子であるということで、一杯の水を差し出す者は・・』とあり、聖徒の苦難と外部の人の助力が書かれており、「不正な家令の例え」も、聖徒への助力が『不義の富によって友を得る』とされている。だが、自分が助かるために聖徒に助力するなら、それは利己的であって、救いの要件に反するものとなろう。

したがって、マタイ25章での援助する者の動機は純粋に利他的な愛に基く信仰であるべきはずである。そこで助力した者らの動機を指して『わたしが何時、あなたさまをお助けしたでしょうか』と言わせていると捉えることができる。

同様に、助力しなかった者らは、自分では良いつもりでそうしなかったのであり、その動機は正しく、彼らとしては利他的であったと思う。そこで彼らも『わたしが何時、あなたさまをお助けしなかったでしょうか』と問い、むしろキリストに助力したと思い込んでいる様がその訴えの言葉に表れていると取れる。

双方共に、聖徒の存在を知っているからこそ終末の裁きとして成り立つのであって、ただ偶然に困っている者を助けるわけではない。

そうであるからこそ、援助を受ける者らは『獄にあり』そこを世話するために尋ねるのはローマ時代の牢獄の特徴をも言い表している。世話する近親者や仲間が居る場合、食事や衣類や寝具などを差し入れ、獄の中で世話もできたし、そうするべきであった。裁判を受ける場合の移動の費用も拘留されている本人の側の者の負担とされていた。パウロが皇帝に上訴したときに、彼の手元にはアジアやマケドニア、アカイア、からの多額の寄付金があり、ヤコブはそれを受け取った風情もなく、むしろ、パウロ自身の身の証しのために使うようにさせている。そのため、総督であったフェリクスはパウロが保釈金を自分に払うことを望み、何度も接見したとルカが書いている。

カイサレイアにはナザレ派の仲間が住んでおり、パウロを訪れ世話をし、また用事を代行したり、代りに買物をしていたことは当時に習慣からしてまず間違いない。

 

・「従順」は神の怒りから人を保護するか?

強い力による裁きを前にして、人は保身のために最初に思いつくのは力を持つ相手への恭順であり、ノアやロトのように神の機嫌を損ねぬよう敬虔に振舞う義人であろうとする。それは、強盗などの凶器を持った無法の者に対する対処と保身という目的からすると変わらないことになる。

もちろん、どのような教派や教団にしても、結果的にであれ、そのような保身の本質を認めないに違いなく、悪党の脅しに従う事と神への従順とは違うと云うであろう。それは保身ではなく、神の感化が人格を陶冶して敬虔な言動に結実したものだと云っては自ら納得するのは容易に想像がつく。

それにしては、キリスト教界での「天国と地獄」の教えは普遍的であり、そうでなくても「永遠の命と滅び」も本質では同文に等しい。飴と鞭とがそこにあるのではないか。

確かにシナイ契約に於ける神は、律法を与えながらイスラエルを震え上がらせ、従うときには祝福を、従わないときには災いを下すことを彼らの心に銘記させている。

律法はイスラエルを一国家として秩序立てるための国法でもあり、それは守っても守らなくても良いようなものにはできない。そこには違犯に対する刑罰も定められ、神の赦しを乞う儀式も規定されていた。

律法のもう一つの働きは、それを尽く守った者に『祭司の王国、聖なる国民』となるという目的を明示し、神の『義』の規準が示されたところにあった。

後の預言者らが語ったように、イスラエルは律法を守り切ることができず、国民として神の義に到達することはなかった。

後代、キリストの使徒パウロが明かすように、律法によれば誰も義とされないのだが、実は唯一人律法の業によって神の義に達したユダヤ人が存在したのである。即ち『律法を成就するために来た』と云われたメシアであり、イスラエルの逸脱による『祭司の王国、聖なる国民』への希望は、その一人の人を通して確保されたのである。その意味に於いてキリストは『従順を学んだ』と言えるであろう。

メシアが死に至るまでも神への従順であったことは、単なる服従を成し遂げたということにはならない。なぜならば、メシアの目的は神への変わらぬ愛の表明にあり、自己保身のために従順を尽くしたとは言えないからである。

 

・出埃23:18にある『あなたはわたしへの犠牲の血を、パン種の入った物と共に捧げてはならない』の対型を理解できるのはキリスト教徒である。

だが、旧来の「クリスチャン」には無理である。聖徒理解が無いため、何がその対型であるのかが意識の外にある。聖書の言葉を専ら自分に向けた言葉であると思い込むので、却って彼らは重要な聖書の意義を掴むことがない。その根底には「信者の救い」を望む利己心が聖書に表明される神の意向と衝突している原因がある。然りとて、ほとんどの「クリスチャン」は神の意向に想いを合わせるよりは、ご利益信仰に留まることを望むのであろう。彼らが愛するのは自分であって、神や人にはなかなか向かない。しかし、無理からぬところもある。中世以来何世代もそのように教えられてきたのであり、その趨勢はもはや終末が到来しようとも変わらないであろう。

「クリスチャン」にとってキリスト教とは、自分たちの安逸を確保するための宗教であれば、神の意向を探り、キリストの道を共にしようとは思えないであろう。しかし、その精神にこそ「パン種」があるのなら、悔いることは可能であろう。

 

・人はこの世に生まれ出て、その場が必ずしも生き易いところではないことに次第に気付いてゆく、特に自分がどう生きてゆくかについては、周囲の社会の中で定められた家族関係、親族関係、その他の外の世界との関係である程度は定められてゆくものの、実はそれらは大枠であっても、それぞれの人が生活上で何をどうしてゆくかの決定をすべて左右するものでもないし、個人的な好みが関わる決定では他の誰かに代わって決めてもらいたいとは普通思わない。例えれば、誰を配偶者に迎えるか、またどのような職業を進んで選ぶか、何を趣味とするかなどは個人の決定を侵してほしくないと思えるものである。しかし、その決定から生じるかも知れない悪い結果も個人が負わなくてはならないので、後悔するという危険も避けられないところがある。

そこで人は自分の人生で後悔するような事を刈り取りたいと思うわけもなく、「間違いのない人生」を送ることを願って、自分を超える導き手を求めることにもなってくる。

つまり、それだけ個人には自分自身に対する責任への重さを痛感し、良い選択を行って幸福を手にしたいと思う一方で、その悪影響を避けるためにも個人の決定は重要な岐路となるから、その決定を間違える事に恐れを感じてもいる。

そこで人は自分を超える導きを求めて、人の助言、占い、宗教の戒律などに寄りかかることになる。

近代以降の社会では、そこに宗教の自由も加わり、無神論を含めた宗教の選択が個人の決定に委ねられたことは、同時にこの世というものが、個人を尊重しながら特に良い導きを与えることなく、放置しているところもあることを表している。

その基礎的なものは、自分という存在について何の説明を受けることなく、身近な人々に頼り、やがて社会に頼りしてゆく中で「この世」というものを見聞と経験を頼りに探る以外に方法が無いことも明らかにしている。

その上「この世」は時に過酷に人を扱うことがあるので、芥川龍之介はこのように描写している。”侏儒の言葉

宗教というものに近づいてくる人々の中に、この世に在って自らのあるべき姿、取るべき選択や行動の指針を求めてくる割合は少なくないであろう。

その宗教では、生き方が教えられ、人生の選択肢をも狭め、あるいは本人に代わって決定してくれるかもしれないし、生きる指針を求める人々にとっての戒律などは、自らに与えられた自由な選択の責任を取ることを回避させ、自ら熟考して自己責任を取る重荷からの解放と感じさせる。

つまり、人はこの世に在って自分についての納得できる説明を受けることがない状況で、自らのゆえに生きることに重荷を感じているのである。そこで自らを何かの教え手の前に投げ出してしまうことに躊躇しなくなり、果てはカルトやブラック企業の存立を助けることになっている。

カルト的宗教には、生き方の単純化や幼稚化が見られる。それは個人を成長させず、自己責任を負うことを止めさせ、往々にして規則に従うことでの倫理的決定を妨げるものが多い。そこで個人の判断を奪おうと、情報を狭めまた偏らせ、意見や感想の自由な発言さえ抑制される特長が広く見られる。

これらカルトの存在の原因は、主体となる指導者側ばかりの問題ではなく、最初の原因となっているのは、むしろ従おうと待ち構えている信者になる人々の内面に発しているといえる。それがこの世を無難に生きようとするときに安直な逃げ道に誘おうとしているからだが、その結果は個人の埋没、人権の蹂躙である。

それにやがて気付いた人はカルト側を責めることであろうが、そもそもの原因についてあまり反省しているようには見えず、ただ被害の大きさを訴える。では、被害が無かったなら、あるいは損害が軽ければそれで良いか?

では、「この世」はどうしてそのように個人を生まれながらに放り出すようなところがあるのだろうか?

 

 

・七又の龍にはヘブライ文化以外にも前例があり、相互に影響しているらしい。

それがヘレニズム式でエジプトのテュホン(発音不明のため)、またハム系のセトであり、セム系のヤムに相当する。この観点からイザヤ書を見ると展望が拓ける。

ホルスとの関連は聖書秘儀の転写のようになっている。

それから、リュコス渓谷の龍と大天使の伝承もあり、広範な事例が存在している。

アーリア系では蛇を踏む神としての描写が多い

 

・訂正を要する事柄 受難日

復活祭だけが太陽暦に固定されないのは、冬至太陽暦で固定されても、陰暦ではどうしても太陽暦とのずれが生じるところに起因する。

したがって、復活祭だけが特別に移動日付となったわけでなない。

キリストの受難日は当時のユリウス歴では4月3日であった。グレゴリオ暦で4月1日に当たり、エイプリルフールや万愚節に当たってしまう。これではますます固定日付を推進できないこともある。

 

・「信仰」の脆弱性

『誰がわれわれの聞いたことを信じ得たか。YHWHの腕は誰に現されたか。』

Isa53:1

使徒ヨハネはこの句を引用して、イエスがその奇跡の業にメシア信仰を懐かなかったイスラエルを糾弾した言葉を重ねている。

『このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。』Joh12:37-38

しかし、ヨハネはサンヘドリン議員の多くが『信仰を持った』と明言している。しかし、そのほとんどについて聖霊注がれ『新しい契約』に与ったとの記録は新約聖書には特になく、その『信仰』という言葉は、聖徒らのメシア信仰と同列に置けるものではないおそれがある。ヨハネは加えて、『彼らは神からの栄光ではなく、人からの栄光を愛し』信仰を告白しなかったと記している。これをヤコブが「死んだ信仰」と呼んでいるのではないか?

エリートらの懐いた信仰は彼らを救わず、その大半が籾殻となって火のバプテスマに至ったと言っても過言ではないようである。

従って、メシア信仰を懐くことだけがその人を救わないことになる。信仰の表明とは反対や誘惑を排して表明されるべきであり、行動も発言もない「信仰」にはその人に何の意味も成すまい。