Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

台湾教史


16世紀後半、ポルトガル人がこの島を見つけ「イルハ・フォルモサ(美しい)」と呼ぶようになった。

1622年、オランダ人が澎湖島を占領し、商売の拠点としたが、これは中華本土から余りに近く、明朝がこれを警戒し、どこにも属していなかった台湾島の台南湾を占領することを手助けした。1624

オランダ東インド会社が宣教師を送った。1627
彼らの使命はオランダ人の牧会、通訳と税官吏、台湾人への宣教。
その宣教は、山地人に限られた。
ジョウジ・カンディウスとロベルト・ユニウスは熱心で有能であった。国姓爺が到来する前には南部と中部の六割の人々を教化したと伝わる。彼らはローマ字の使用を土着民に教え、それは19世紀前半まで台湾で使用されていた。

スペイン人もこれに負けじと北部を占拠する1626
このとき、ドミニコ会のバルトロメオマルチネスが北部に到達し、その後オランダ人に追い出されるまで基隆から淡水に伝道し、四千人以上に洗礼を施したとされる。
しかし、台湾人の改宗は軍事占領に伴って集団で行われていたという実態がある。宣教者らは帝国主義的占領と教化を同時に果たすことに何の矛盾も感じていなかった。(鄭児玉)
しかし、オランダ人はスペインをそこから駆逐するに至る1642

明朝最後の将軍であった国姓爺が王朝を回復しようと台湾に来てオランダ人を追い出し、台南に政庁を開いた。1662
翌年、死去した国姓爺に代り息子の鄭経に清朝は台湾を別の国として与えると再三の申し出たが、鄭経はこれを断り続け、中華帝国再興の野望を捨てなかった。
しかし、その野望が却って鄭族の滅亡を誘い、清に降伏することになる。1683
この間、土着民に教会指導者が居なかったために、キリスト教は急速に風化している。

その後二百年間、清朝の堕落した官吏の支配に台湾は置かれる。
やがて天津条約の締結1858により西欧列強はキリスト教の自由を唱えスペインはマニラのドミニコ会はFernando Sainz神父を台湾に送った。1859
カナダ長老派宣教会はジェームズ・マックスウェル博士に台南湾への宣教も委ねた。1865
彼は医療を通して慈悲心を台湾にもたらした。やがて、各地に病院が建設されるに至り、台湾人は西洋文化からの挑戦に面した。
しかし、聖像を持つカトリックの方が、台湾に限らず東洋信徒獲得には有利であった。
だが、漢民族に「罪」概念を教えることは非常な困難を伴った。
アヘン戦争以後の砲艦外交は、激しい拒絶反応を華人だけでなく台湾人にも抱かせることになった。キリスト教宣教の安全は軍事力によって担保されたのである。

1885年に終わった清仏戦争の結果、清朝はようやくに台湾の地理的重要さを悟った。そこで台北に首府を置き、福建省から独立した行政区画に格上げした。
この間、漢民族儒教小乗仏教道教を台湾にもたらしており、これらはやがて混融し、現在までの台湾の宗教的傾向を形作っている。

日清戦争の結果として、清は日本に台湾を割譲することになる。1895
このときに、台湾の民衆は独立を願って台湾民主共和国を興すが、直ちに日本軍に制圧されている。
日本の国粋主義による非西欧化は教会への反対運動を伴い、ミッションスクールの学生にすら神社への参拝を求めていたが、教会側はこれを拒否。1931
1945年までに、日本の圧力によって神学校のすべてが閉校を余儀なくされている。

その後、太平洋戦争の結果として、中華民国の軍隊が入り、やがて国共内戦の敗北から国民党がこの島を領土として支配することになる。1949
日本の影響が除かれると、教会側はただちに復興に取り掛かろうとするが、国民党支配が日本支配よりも苛酷なものとなることを痛感することになる。蒋介石の死去の年は聖書没収の年ともなった。


台湾の人口構成は、土着民88%(福老が大半で幾らかの客家とわずかな山地人)残りの12%」が渡来である。

キリスト教の宣教は概して敵意を以って迎えられて来た。それは列強の支配が強引であり、それが排外精紳を自ら煽ってきたのであった。そこに先祖崇拝を専らとする東洋思想との衝突も加わった。

台湾独特の宗教の捉え方に「食教的」というものがある。これは宗教で生計を立てるの意で、信徒は便宜的な信仰者であるとの軽蔑を伴う。




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