・知識で判断する人は、神に裁かれる
エマオに向かう途上に在った二人の心は燃えた
しかし、それが彼らの裁きを左右するわけではない
パウロでさえ「前にあるものに手を伸ばす」という。
神の経綸に触れた感動や興奮が意味を成すかは、その心の奥底に眠るもの次第
それは本人に分からず、周囲のある人にそれとない直感を与えることはある。
大抵の場合、言われても分からない。分かれば悔いている。
そこが神の裁きたるところ。
ヨハネが現れ「悔いよ」との一言にそれが凝縮されているのかも知れない。
キリストは『悔いて福音に信仰を持て』と言われた。ヨハネは『悔いよ』がその教えであったのは、印を伴う音信はメシアのものであったからであると思われる。両者共に悔いは律法を通して惹起される各人の悔いであったろう。ヨハネのものが悔いのバプテスマであれば、イエスの水のバプテスマは悔いの結果としてのメシア信仰へのバプテスマであったのであろう。そのメシア信仰は律法の悔いに裏付けられたものであり、ヨハネの悔いよりも先に進んだ価値を持っている。アレクサンドレイアから来た十人ほどのグループに聖霊が注がれていなかったのは、メシア信仰に到達していなかったことを明らかにしている。そこでメシアに関する知識を必要としたにせよ、その知識は悔いを伴い、頼るべき唯一の道としてのイエスを実感している必要があったろう。イエスは道であり、そこを通らずに神の御許に迎え入れられることはない。
・義神論
「神の善性および愛は完全であり、神は悪や苦しみに対する責任を持たない」また、「悪は人間の原罪によるものであり、悪のこの世への侵入は原罪および自由意志の人間の乱用による罪の持続的な存在に対する罰」という見方は平板で人間的な観点の所産ではあっても神の悪をも含めた善用の観点を持ってはいない。これがアウグスティヌスの限界であろう。
・「罪」について
「神の背を向けることだ」「神の掟を犯していることだ」
というありきたりの理解であってはそれこそ「的外れ」ではないか。
『罪』は人の不倫理性を指すのであって、他者との関係で利己的に振舞う原因となっている内面を言う。
加えて、やたらに原語の意味に拘われば聖書に書かれた真意に到達するということはない。使徒らがどれほどギリシア語に精通していたのか、また、その字義に拘ったかは分からないのであれば、それは決定的証拠とは言いがたい。
宗教関係者にはグレーな部分を尊重せずに、白黒をはっきりさせたがる傾向が強い。何かを断言すること、単純化することが「信仰」であると思うらしい。むしろ、蓋然性のある物事をより信じるのが人間の自然な傾向であり、奇跡という『父の業』をキリストが見せたのも、その傾向を用いてのことではなかったか。それは明確な信仰を惹起させ得るものでありつつ、拒むこともできる奇跡であった。即ち、グレーであったのだ。
但し、グレーにも明るいものと暗いものがある。そこで「信仰」に意味が出てくる。
それであれば、グレーはグレーとしてそのまま認められた上で「信仰」があり、決め付けるだけのことではないと言える。つまり、「自分にはどのように見えるか」なのであり、それが奇跡についても言えるのであれば、当然、原語の字義についても言えることになる。
・罪人の転向について、舌足らずなところがあった。
ペテロ、マタイ、パウロにせよ、キリストからの召しに際して転向している
したがって、ザアカイ、罪人として知られた女、ベツサダの池の病人、なども同様と云える
キリストとの邂逅は、人が転向するきっかけとなっており、後の聖霊の注ぎへの集め出しでもあったといえる。メシアが契約の使者であり、行う奇跡と感化を通してユダヤ人を救ったというのが当時の実際であったろう。
・教会では『第二の死』を「不信者」への処置としている。
もちろん、そのように単純なことではない。決定的な死は存在の抹消であり、創造の逆である。
・教会では「終末時代」に偽預言者らが現れると教え、聖徒の現れを教えないので、聖徒の発言を退ける危険が高い。つまるところ、何が偽であるのかを定めるのが社会の大衆であるとすれば、大衆化したキリスト教は龍・獣・偽預言者の煽動を受ける対象であり、適正な判断はむずかしい。
それはまた、教会が今後も聖徒を理解せず、世のものとして終わりを迎えることを予示させるものでもある。終末の裁きは、徹底して聖徒と聖霊の言葉を巡るものとなる。
・教会の信仰に関する説明は方法論に偏っていて、部分の解説に終始している。その原因の一つは、キリスト教の基本が宣教側からして理解されていないところにあり、またキリスト教が欧米宗教文化となっているために前提と目的から語られないところに原因があり、それが不信者への間口を狭めている。この入り口を広めるなら、教会員にも再考を促すことになると思われる。
・「アリウス派は、アウクセンティウスが全面的に支持していたキリストの神性を否定する異端の考えを支持していた」と言うが、「キリストの神性」の前に『あなた方は神だ』、また『あなたは神々の集いに在って裁く』ということの意味を捨て置いて良いか?いやむしろ、その『神々』たる者らを無視させるのが三一の主目的ではないのか?
・ヨハネ14:27を「わたしはあなたがたに平和を与える」と訳すと大きな誤解をまねく。平和ではなく平安であるから、他者との共存を意味しない。
・エズラがエルサレムに到着したのはアルタクセルクセス王の治世7年
ネヘミヤがアルタクセルクセス王の治世20年に到着したとされている
これがアルタクセルクセス1世(紀元前465-424年)の治世であれば、エズラは紀元前458年、ネヘミヤは紀元前445年に到着したことになる。ネヘミヤ記8-9章では、(おそらく編集上の誤りにより)二人が一緒に登場しており、このシナリオを裏付けている
エズラ記にはダレイオスⅠ世の治世中の記述にアルタクセルクセスの時代の記述が混じるところあり、編集にある種の混乱があり、エズラの時代からの観点で書かれている様子が見える。エズラとネヘミヤは元々一書を構成していたが、16世紀にラビらによって分離された。どちらもダニエル書のように公文書部分はアラム語のまま記される。
LXXではエズラ記・ネヘミヤ記とエズラ記上を「エズラ記B」と「エズラ記A」としている。
第三エズラ(エスドラスα)はヒエロニュモスが外典に位置づけた。ギリシア語であるためヤブネでも除外されている。内容では一部の付加があり、そこの内容は低劣ではある。
第四エズラ(エスドラスβ)については、本編が3-14章であり、後に1-2章と15-16章が追加されたものを見做されている。キリスト教徒による作とされるが不明。一次資料ラテン語のみ
(第一章の最後にマラキ書そのものへの言及があるが、時代が合わない)
本編はダニエル書のような幻視を扱うが内容は稚拙でダニエル書追加の程度に留まる。
しかし、第二章の預言は格別の高尚さを持っている。但し、新しい啓示はほぼ無い。
エズラが預言を受けたのであれば、ラビの扱いにも格別のものがあったのではないか?
この点でエスドラスβには謎がある。
・アウグスティヌスの「告白」の冒頭からすると、彼のキリスト教信仰の目的が幸福の追求と充足感の満たしであったことになる。倫理上の問いはなく、自分が既に神との深い絆に入っているものとしている。ここに大きな問題がある。
以後の欧米の教会の基本的観念も同様で、信じた自分たちは既に神の祝福に入っていると前提している。これは契約にある聖なる者についてのみ当てはまるのだが、契約についての見識が抜け落ちており、契約にある聖徒らをそもそも想定していないところから来る誤謬であろう。
欧米型キリスト教会は終末に至って聖徒への最大で最強の反対者となるのであろう。