『子らよ、わたしはまだ暫くあなたがたと共に居る。あなたがたはわたしを捜すだろうが、既にユダヤ人らに言ったとおり、今あなたがたにも言う、「あなたがたはわたしの行く所に来ることができない」』。ヨハネ13:33
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。ヨハネ14:19
わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。ヨハネ第一3:2
わたしたちはみな、顔覆いなしに、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。コリント第二3:18
平和と神聖さを追い求めよ、それなくして主を見ることはない。ヘブライ12:14
わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。ヨハネ20:29
◆所見
再臨のイエスは『雲』と共に来るのであって、『世はもはやわたしを見ない』、見える者が現れるなら、『見よ!ここを、とか、そこを、と言う者』であり『ついて行ってはならない』、肉で現れるキリストは偽者であり、アダムの贖いを行っていないことになり、そのうえ地上の『神の神殿』に座するなら『不法の人』以外にない。いまさらユダヤ教徒と共に動物の犠牲を捧げるなら、それはキリストの贖いの否定である。
再臨のイエスを見てユダヤ教徒が改宗するなら、律法祭儀の必要はなく第三神殿の意味も無いはずだが、霊的蒙昧の中にいる大半の「クリスチャン」は歓呼してこのアンチクリストを迎え入れる以外ないことになる。即ち、ユダヤ教徒は正しくキリスト教を受け入れるわけではなく、第三神殿建立の目出度さに押されるような仕方でキリスト教側もそれを祝ってしまうであろう。そこで、宗教合同の大儀が強調され、イスラムも妥協を求められ、危うい宗教的和平と宗教の大合同が提唱される。その主賓はアンチクリストであり、「究極の偶像」となる。新約聖書、わけても黙示録にまで偶像崇拝の危険が喚起される道理がここにある。
一般大衆はこの雰囲気に飲まれ、平和を称揚して聖徒が主張していた原理と対立し、最終的にシオンとの対決に至るのが既に見えている。
この点で、人々は暢気に過ぎる。たとえこれらの先見についての知識を得てすら、大半は「そうなったら行動しよう」として、単なる傍観者となるであろう。それは『心の無感覚さの表れであり、悟って癒されるということのないためである』。当然シオンに加わるには中立的に過ぎる。『信仰』というものを「知識の把握である」と勘違いしているからであり、これは神の裁きである以上、どうにもならない。
たしかに『信仰』を働かせる間口は広げられてはいるが、だからと言って緩いわけではない。そこを誤解して振るい落とされるのが先に知識を得た者への罠であろう。
しかし、あまり明解にこれを語らない方が良いのかも知れない。裁かれる者は裁かれなくてはならず、警告しても無駄に終わる。それを考えると聖徒ばかりでなく、人類の裁きにも峻厳たるものがある。
・終末のキリスト教界の動向;地上に現れる肉のメシアを受け入れ、ユダヤ教、イスラムと共に結束してペシャに加担するが、何らかの事でアポスタシアとは逸れてゆき、内部でも分裂が起こる。以降、衰退が急激に進み、他宗教と共に公権力によって突然に解体される。
不明な点は、アポスタシアとどのように分裂するか。