Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ローマ書簡での「霊に生きる」意味

 

ローマ書簡の白眉を第三章と第八章に見出す

特に第八章の前半部分には「霊によって生きる」というキリストの契約に入った聖徒に与えられた超絶的な「命の状態」を説くところで、その以前の数章から論議は準備されつつこの章で一つの山場を形造っている。

これらの内容は、キリストによって語られていたその犠牲に与る者となることによる類稀な命の変化を言い表しており、もはや彼らが神の御前にはキリストを介して『同じ命を生きる』こてでは普通一般の人を超越していると見做されていることを明らかにしている。

当然ながら、これを理解することは聖霊の過ぎ去った後の時代の人々には困難を極めるに違いなく、それはただ奇跡を行う聖霊を注がれ『主の晩餐』の表象を飲み食いするという事柄を遥かに超えている。

この神秘性は、ニコデモスがイエスの説明を受けても面食らったように、今日でも相当の福音理解があってもかなりの困難があろう。その一つの理由には、今日聖霊注がれている者が一人として居ないということ、それに加えて日々肉に生きる我ら世に属する凡人にはこの偉大な秘儀が直接に関わるものとならないこともあろう。

だが、ある程度把握しておけるなら、終末に現れる彼らへの共感を得、彼らの必要が何かを察知することで、その業の助けを与えるところで有用であろうと思われる。

 

 

ローマ6:3-14

『あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
  わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
  キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
  このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである。
  だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
  また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ自分の肢体を義の武器として神に捧げるがよい』。

 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 

ローマ7:4-6

『 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたもキリストのからだを通して律法に対して死んだのである。それはあなたがたが他の人、すなわち死人の中からよみがえられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に実を結ぶに至るためなのである。
 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法により掻き立てられた罪の欲情が死の実を結ばせようとしてわたしたちの肢体の内に働いていた。
 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである』。

 

ローマ8:1-4

『 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
 なぜなら、キリスト・イエスにある命の霊の法則は罪と死との法則からあなたを解放したからである。
  律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のために遣わし、肉において罪を罰せられたのである。
  これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちに満たされるためである』。

 

ローマ8:9-11

『しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
  もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
  もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう』。

 

ローマ8:13-14

『なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
 すべて神の霊に導かれている者はすなわち神の子である』。

 

 

総じて、キリストと共なる者らとして『天に登録される初子の集団』を構成するとは、以前には肉の業を専らとする俗世の者であっても、天界の高みへと召し上げられるのであるから、その罪深さと栄光ある清さとの差は余りにも大きい。だが、そこが贖いであり、イエスの犠牲によって神に買い取られるのであれば、本来、その代価に不足はないはずである。その犠牲の値はそこまで大きいからである。

したがって、彼らには放縦に生きるままでは、その重みを意に介さない不遜を表すことになってしまい、天界の祭司としての基準に達することができない。

それは律法が道徳性を求めたものとは事情を異にする。

彼らに求められるのは犠牲に対する恩や、それを備えたキリストに対する忠節な愛の表明としてそれが求められる。

その原理は隣人愛でもあり、『もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』ことで、初めてキリストに続く『共同相続者』とされる。

それから、もう一つの重要な点は『霊によって生きる』とされる彼らの生き方であるが、これはどのようなものかを推論することが我々霊のない者らには最もむずかしい。

 

キリストは永遠の命について、ユダヤ人には『肉はまったく役に立たない』と言われ、肉を支えるパンの限界を明言されている。それはマナであっても変わらない。

したがって、無酵母パンで表されるイエスの体は肉ではなく霊であることになる。

同時に、その実際の肉体はアダムの体の代替となり捧げられて死に、消滅したと見るべきであろう。そうして人類全体への代価は支払われたと解せる。

しかし、その消失した肉体は、人類に始祖であるイエスという父親を人類にもたらしたことになる。

主の晩餐に於ける無酵母パンはこの限りではなく、キリストの霊体を指すであろう。聖徒らにはキリストの肉体以上のものが求められ、それが復活したキリストの霊体を共にすることであろう。

従って、ヨハネ第5~6章でイエスが語った相手が『契約の子ら』、ヨハネバプテスマを宣明されたユダヤ人であることは常に念頭に置かれる必要がある。

 

他方で血は、神との関係を取り持つために不可欠であり、そこに命の値(体ではなく)や権利が関わっているとみてよいであろう。

肉体と血の双方共が、『新しい契約』に与り『キリストと同じ様になる』者たちの買い取りに用いられたとみてよいように思われる。

キリストの体は、彼らが霊者となる以前に義なる父を与え、キリストの血は彼ら自身の実質的には罪ある状態に対応するための贖い代として捧げられたもので、共に人類に先立って彼らを義と仮承認する働きを為しているであろう。これを葡萄酒に表象し彼らは儀式としてそれを飲む。

そこでイエスは自らを永遠の命をもたらす『天からのパン』と称されたのであり、その体を食し、血を飲む者が永遠に生きるとは、律法に縛られ滅びるしかなかったイスラエルにとっては当時、唯一の救いであったことになる。なぜなら、律法には『祭司の王国、聖なる国民』を生み出す目的を持っており、さらに古くは『地のあらゆる部族が彼らによって祝福を得る』というアブラハム契約の目的とも一致し、それがヤコブ嫡流の十二部族の完成形だからである。

従って、キリストの到来と宣教の時期に、イスラエルはこの重大な転換点に立っていたのであり、それゆえバプテストによる『悔い改め』が急務であり、律法に対して自らを罪人と認め、『子の心を父に向かせる』ことにより、メシアの信仰による契約に備えさせる絶対的な必要が生じていたと見ることができる。さもなければ、火のバプテスマが臨むばかりであった。

 

だが、ユダヤ体制の救いについては不信仰のために成功しなかったが、おおよそどのような国民でも俗世に塗れれば変わりない結果になったであろう。人々の大半というよりほとんどは、利己的であり肉欲的であり、人同士だけでなく神との関係にも無頓着であるから宗教を信奉していても、いや、しているほどに神に対しても利己的なのである。それはユダヤの宗教家らが反面教師となって大いに警告してくれたことである。

 

それでも、小麦として蔵に納められた人々については急激に高められたその立場を認識するべき強い理由があったに違いない。それがこれらパウロ論議の難しさに表れている。

 

契約とは、常に不確定な物事について締結されるものである。そこで聖徒らの不確定さとは、新約聖書の字句の表面上は具体的な道徳的行状を守ることのようには見える。

だが、パウロはそれが『霊によって生きる』ことであるとするのである。

彼らの中に注がれた霊に従って生きるということが、感覚としてどのようなものかは分からないながら、パウロでさえ肉欲の影響から逃れられなかったことを告白しているので、聖徒らにも葛藤があることは分かる。

しかし、その肉の欲を制するのが霊であり、聖徒らは内面の霊と和して生きなければならない。いずれ、彼らは肉体という幕屋を去るのであり、それは契約の終わりを意味するであろうから、彼らにとってキリストの死の様に従って死ぬことは大いなる功績となるのであろう。つまり、その肉体を解くということそのものを喜ばしい事として見做しているのであり、自分の十字架を背負ってキリストに続くのは、単なる悲劇ではない。

これが霊の見方であって、おおよそ信徒には懐き難い目標であり喜びであろう。聖徒はこの世に値せず、その市民権は天にあるので、地上では肉体という幕屋の仮住まいをしている段階である。信徒と聖徒とは地上では同じ人間の外見であるのに、聖霊の注ぎが有るか無いかで内面ではまったく異なっている。聖徒はキリストに与えられた者らであり、契約を介して彼に関わっているが、信徒は神に関わる。

これは、律法契約下に満足し切って来たようなユダヤ教徒には、ますます理解し難い秘儀になるであろう。その秘儀に達したのは、知識に富んだ尊大な宗教家らではなく、彼らが蔑んだ一般人や下層民であった。律法学者らの見解は博学でありながら、まったく陳腐化し、上記のようなパウロの認識からすれば幼稚なたわごとのようにさえ見える。

 

総じて・・

聖徒にとっては、地上で生きている命もアダムからのものではない。もしアダムの命を生きているなら彼らは有罪のままである。従って、彼らにはキリストの犠牲が既に適用されており、それゆえ彼らを『罪に定めるものはいない』。この無罪性を証するのが聖霊の注ぎであり、それは客観的に判断できるものでなければ証の意味を成さない。これが『新しい契約』の意義である。

彼らは、聖霊の降下を以って祭司の任命を受けたのであり、アロンと子らが七日の猶予を与えられたように、地上での待機と試みを経る。(コラの離反は脱落聖徒の予型であろう)、そのため聖徒らには、清さに関する要求があり、その祭司への規定が『キリストの律法』と呼ばれるものであろう。

新約聖書中の道徳規準は、そのほとんどが聖徒への戒めで成り立っている。即ち、新約聖書の目的は、天界の祭司を集め出し、契約を順守させて召し出すことにあり、神の目的に在っては未だ道半ばにある。

黙示録とネヴィイームとは、それらの最終的な成就の様と、そこに至る道程を予告しており、創世記の発端の解決に帰結している。