復活したキリストの命を共に生きるとは
肉に在って死に、霊に於いて生きる「キリストに与えられた者ら」とは
- ヨハネ5章 -
キリストが復活させる者らとは
Joh5:21-22
『すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた心に適う人々に命を与えるであろう。
父は誰をも裁かない。裁くことはすべて子に委ねられたからである』。
<子の裁きは、「父から与えられた者ら」に関するものを指す>
『父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである』。同26
<この場面でイエスは繰り返し信仰を持つよう説くが、反応は悪い>
以下は、契約の子らとしてのイスラエルに当てはまる結果を述べている
『墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行なった人々は裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来る』同28-29
<これはキリストによる第一の復活について語っている>
<これは「後の復活」についてパウロが異邦人総督に語ったAct24:15とは対照的に異なっている>
「クラウディウス・ルシアスからフェリクス閣下へ」
- ヨハネ6章 -(AD32年の過ぎ越しの頃)
神のパンは天から降って世に命を与えつつあるもの
信仰を懐いてキリストの許に来るもの信じる者に永遠の命がある
わたしがその命のパンである
わたしの許に来るものは飢えることなく、信じる者は乾くことがない
父がわたしに与える者は皆がわたしのところに来る
わたしに与えてくださった者が皆一人も失うことなく、終わりの日に復活させること
これがわたしを遣わした方のご意志である
信じる者は永遠の命を持っている。
わたしは天から降ったパンであり、このパンを食する者は永遠に生きる
わたしの肉を食し血を飲んだ人はわたしの内に留まり、わたしもその人の内に留まる
わたしが父のゆえに生きているように、その人もわたしのゆえに生きる
霊こそが人を生かすものであり、肉は何の役にも立たない
<この「肉」は人としての肉を指す。転じて肉を支える小麦のパン>
わたしが語ってきた言葉は霊また命である、しかし信じない人々がいる
だから、父から与えられた者でなければわたしの許に来られないと言った
◆イエスの言葉に象徴的に人を生かす「霊」が備わり、それが命をもたらす
「父から与えられた者」とはメシア信仰に至るイスラエル人を指す、延いては聖徒であり、聖霊注がれる結果を含意している。バプテストは律法契約からキリストのこの契約への橋渡しの役割を負っていたが、ユダヤの趨勢が定まりキリスト否認に向かう中でその働きを終えた。
「飢え渇きがない」ことを通して、キリストの体と血に与る者らの状態を地的な比喩で説いている。
「マナは天からのパンではない」と発言し、「真の天からのパン」であるご自身について語る。即ち、食しても死ぬべき状態から逃れられなかったマナのようにではなく、永遠に生きる命を得る食物としてのご自身の体と血であり、その表象が無酵母パンと葡萄酒となった。(しかし、『主の晩餐』は未だ行われておらず、聴衆にはほとんど益がなかったので、これは福音書読者への言葉と解せる)
総じて、この場面では実際のパンを求める群衆はその空しさを悟らず、キリストが永遠の命へと生かすペサハでの無酵母パンを教え、またセデル祝杯の葡萄酒としての血に言及されている。
即ち、イスラエルの救いはメシア信仰に到達し聖徒となって真のイスラエルに含まれる以外にないのだが、五千人への給食に目の眩んだこの群衆に、それは余りに次元が高い話であった。
地的食料を得ることを目的にメシアに近づこうとする者らは自らの空虚さを悟らなかった。原因は、なおも印を求める不信仰にある。しかし、イエスが尚話されたのは、彼らが血統上のアブラハムの子孫『契約の子ら』であり、彼らに述べ伝える務めがメシアに残されていたからであり、その子孫らが肉を支えるパンを求めても霊がもたらす不朽の命については眼中にない現実の中で、双方の意識は一致しなかった。分かれ目は信仰であり、彼らは五千人への給食を見て味わいながら、なおイエスに印を求めている。これではもうどうしようもない。
しかし、そのペンテコステ以降の使徒時代となると、聖霊の教えによって使徒たちはこの件を悟るようになる。
それは、キリストと共に死に、共に復活の命を生きるという概念であった。
Joh14:19
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである
Joh6:58
このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう
(キリストの体は代替のために消滅し(Heb13:11)、魂は霊への復活のために保存された。つまり、贖いの子羊の肉はまったく焼き尽くされ『残っていてはいけない』、また『その魂は墓に捨て置かれなかった』、当然、キリストは肉で再来することはない。EX29:14/Rev16:27)
1Pet1:3-4
神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
Rom6:3-11
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
1Cor15:42-44
死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ、栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ、力のうちによみがえらされます。 物質の体でまかれ、霊的な体でよみがえらされます。
Phi3:10-12
すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与かって、その死の様と等しくなり、なんとかして死人のうちからの復活☆に達したいのである。☆[ἐξανάστασιν]
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
Eph2:1-7
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中でこの世の習わしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩いていたのである。
また、わたしたちも皆かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく生れながらの怒りの子であった。
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。(Col1:13)
それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2Cor4:7-14
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが顕れるためである。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスの命がこの身に顕れるためである。
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に顕れるためである。こうして、死はわたしたちの内に働き、命はあなたがたの内に働くのである。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみ前に立たせて下さることを知っているからである。
1Cor15:22
キリストに在ってすべての人が生かされる
Jh6:40
これは即ち」と始まるので、ここでの発言はすべて「キリストに与えられる者」について「子を見て信仰を持つ者の皆に永遠の命を与えることがわたしを遣わした方の意志」との意味である。決定的なのは、イエスが復活させると言われることにある。
わたしはその者を終わりの日に復活させる
τοῦτο γάρ ἐστιν τὸ θέλημα τοῦ πατρός μου, ἵνα πᾶς ὁ θεωρῶν τὸν υἱὸν καὶ πιστεύων εἰς αὐτὸν ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον, καὶ ἀναστήσω αὐτὸν ἐγὼ [ἐν] τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.
従って、新約聖書中では「キリストに与えられる者」に関する内容が大半を占めており、それ以外の人々についての記述は限られる。これは新約聖書に於ける『新しい契約』の重大さを物語っている。
これらの深い理解についてはローマ8章前半での濃密なパウロの論議に連なってゆく