Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

マタイ24章の臨在の印としての戦争

 

マタイ24章・マルコ13章の再臨の印としての戦争と噂

『民は民に、王国は王国に敵対して』が世界大戦を指していないとする根拠の一つ『民』も『王国』も単数で語られている。

 また、それは世界の終末戦争も意味しないであろう件

 

使徒らの問いに答えて

マタイ24章

『「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。世の終りには、あなたがまたおいでになる時に、どんな前兆がありますか」』24:3

[Καθημένου δὲ αὐτοῦ ἐπὶ τοῦ ὄρους τῶν ἐλαιῶν προσῆλθον αὐτῷ οἱ μαθηταὶ κατ’ ἰδίαν λέγοντες· εἰπὲ ἡμῖν, πότε ταῦτα ἔσται καὶ τί τὸ σημεῖον τῆς σῆς παρουσίας καὶ συντελείας τοῦ αἰῶνος;]

[τί τὸ σημεῖον τῆς σῆς παρουσίας] 『そのパルーシアの前兆(τὸ σημεῖον)』

マルコ13章

『「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことが尽く成就するような場合には、どんな前兆がありますか」』13:4

[εἰπὸν ἡμῖν, πότε ταῦτα ἔσται καὶ τί τὸ σημεῖον ὅταν μέλλῃ ταῦτα συντελεῖσθαι πάντα;]

[τί τὸ σημεῖον ὅταν μέλλῃ ταῦτα συντελεῖσθαι πάντα]『それらが尽く成就するどんな前兆が』

使徒らの質問は前兆「セーメイオン」と単数で尋ねたが、イエスの答えは多岐に渡る

 

ユダヤとローマとの対立が背景にある

ここで問われたのは、一つには神殿破壊の時と、一つにはキリストの臨在する時についてであったので、まず神殿破壊では西暦七十年のローマ軍による征服が込められていることを想定する必要があり、それはイエスの『世代』、また『安息日』の避難や『生木』の発言にも表れている。この破壊と戦争また噂が関係する。

(しかし、イエスの語りでは、偽キリストについて複数回述べられ、弟子たちの混乱と選別も語られ、そちらが主要な内容を構成している)

終末予告の成就では、以下にみるように、西暦七十年、前二世紀、終末それぞれに関して、幾らかの相違があるなかで、イエスの終末預言は、ダニエル書、黙示録の各時代の共通する素材を用いながらそれぞれの事態の発生を描いており、これは字句に厳密さを求めるなら自ら全容の理解を放棄することになると思われる。キリストの言葉のほとんどは抽象の霞が掛けられており、それは例え話に顕著であるばかりか、この預言でも暗示が多い。

第一にイエスの予告は西暦七十年の成就を背景としており、第二にダニエル書はセレウコス朝ユダヤへの暴挙を、第三の黙示録はダニエルの『南北の王』の終末に投影される二大覇権国家の姿をそれぞれ描き出している。この点は、イエスの『荒らす憎むべきもの』の発言にダニエルへのリンクがあり、黙示録も聖なる民への『1260日』の迫害と壊滅がダニエルの『三時半』の後の聖なる民の滅びにリンクしている。また聖典外ながらマカベア書中にも紛うことのない証言がある。これらの相互関係を無視するとしたら、その理解は断片に過ぎないものになる。

 

■記された『民』と『王国』が単数であること

Mt24 (偽キリストの惑わしがあると述べてから)

『そして戦争(複)と戦争(複)のうわさ(復)を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こること定まっているが、まだ世の終わりではない。
 民は民に、王国は王国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである』24:6-8

[μελλήσετε δὲ ἀκούειν πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων· ὁρᾶτε μὴ θροεῖσθε· δεῖ γὰρ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω ἐστὶν τὸ τέλος.  ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπὶ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν καὶ ἔσονται λιμοὶ καὶ σεισμοὶ κατὰ τόπους·  πάντα δὲ ταῦτα ἀρχὴ ὠδίνων.]

 

Mk13

『また(その後)、戦争(複)と戦争(複)のうわさ(復)とを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
民(単)は民(単)に、王国(単)は王国(単)に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである』13:7-8

[ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων, μὴ θροεῖσθε· δεῖ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω τὸ τέλος. 8ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν, ἔσονται σεισμοὶ κατὰ τόπους, ἔσονται λιμοί· ἀρχὴ ὠδίνων ταῦτα.]

 

直訳「民(単)は民(単)に向かって(上に)、王国(単)は王国(単)に向かって」共通

[ἔθνος(主格中単) ἐπ’ ἔθνος(対格中単) καὶ βασιλεία(主格女単) ἐπὶ βασιλείαν(対格女単),]

上記はいずれも単数で記されており、諸国相互の乱戦は示唆されていない。むしろ二国家、二民族の対立と捉える方が言葉に沿っており、以下の論を加えると、確定的に思われる。弟子らが『聞く』『戦争と戦争の噂』は複数ながら、それらが二国間のものである可能性は残る。但し、この前の文章は一度終わっていると扱われるのが普通で、後に文章にある内容を二国間の対立の緊張の高まりと捉えると、ローマのユダヤ戦役の始まる前の情勢不安によく当てはまる。

第一次ユダヤ戦役でユダヤは神殿を失うが、その後六十年して二度目の決定的なローマとの戦いが残されていた。この二度目の戦役の規模は一度目を上回り、ユダエア州は廃止されパレスチナと呼ばれるに至る。しかし、イエスは神殿の破壊される一度目の戦争について二国間の戦争を述べている。『戦争と戦争の噂』はシカリオイの暗躍の時代だけでなく、その以前のカリギュラ帝期末に著しい仕方でユダヤに噂が怯えた史実も加えてよいように思える。

 

 

・複数での例

Mt4:8

『次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて』

[Πάλιν παραλαμβάνει αὐτὸν ὁ διάβολος εἰς ὄρος ὑψηλὸν λίαν καὶ δείκνυσιν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τοῦ κόσμου καὶ τὴν δόξαν αὐτῶν]

LK4:5

『悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて』

[Καὶ ἀναγαγὼν αὐτὸν ἔδειξεν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τῆς οἰκουμένης ἐν στιγμῇ χρόνου ]

 

[πάσας τὰς βασιλείας(対女複)] 共通

 

『すべての国民[πάντα τὰ ἔθνη(主中複)]が集められ』Mt25:33

 

■二国家の対立と見るべき理由

従って『民と民、国と国』の敵対関係は、ヨセフスの記述に明解なように、特徴的なユダヤとローマの対立関係と云える。しかし、当時のユダヤは王国ではないが、それを以ってわざわざ『王国と国が』とするには細かすぎる。また、イエスヘブライ語で「王国」[מַלְכוּת]と「国」[מדינה]と差をつけて語ったとしても、対立関係の表現が弱められてしまう。また、「複数の王国」[ממלכות] と語っていたなら、ギリシア語翻訳もそれに連れて複数にされた可能性がある。

そこで、キリストの回答には、ユダヤとローマの鋭い対立が示唆されていることをまず前提に考えなくてはならない。

だからと言ってキリストの臨在の前兆としても訊かれているのであるから、二国の対立が終末に起るとは、この段階では分からない。

しかし、イエスの終末預言の初めの部分での『民と王国』が単数扱いである事から考慮すべき点がまだある。

それがダニエル書11章の南北の覇権国家の対立、プトレマイオス朝セレウコス朝によるマケドニアの二大勢力に託された終末の姿であり、特に『北の王』であるシリアが前2世紀にユダヤ宗教体制に何を行ったか、その結果として契約に『違背』が起り、ユダヤ内部でも分裂が生じた歴史上の事態が終末にも投影されていることについて、『新しい契約』の内部でも起こる『不法』との関連が見出せる。(テサロニケ第二2:3)

即ち、終末に起こる『背教』とは、キリスト教の異端を言うのではなく、聖霊の再降下があって後の『新しい契約』からの『違背』を指すことになる。これは終末の『北の王』、極めて反宗教的な覇権国家が介在することを天使がダニエルに告げてもいる。

 

しかも、イエスは『戦争とその噂を聞くだろう』と語っているうえに、『それはまだ終わりではない』と言われ『恐れてはならない』とも言われる。

この戦争の噂についてユダヤはカリグラ帝末期に現実に経験することになり、既にローマ軍はパレスチナに上陸していたが、奇跡のように直前で実際の戦闘を免れている。同様に、ダニエル書は『北の王』による『南の王』の領域への大侵攻に成功し、『要害』であるシオンに迫るも、突然の権力崩壊により、シオンが救われることを『終わりの日』の出来事として告げている。

従って、マタイでイエスが偽キリストに次いで語った『戦争と戦争の噂』とは、終末での二大覇権国家の対立と実際の戦闘があっても、それはハルマゲドンではなく、『北の王』が突然の退場を余儀なくされ、それに伴い『聖なる民』(聖徒に非ず)が迫害の危機を脱することを述べており、これにはセナケリブの前例がある。このためイエスが『恐れてはならない』と言われた蓋然性がある。⇒ 「突如瓦解する北の王

⇒ 「終末の北の王による三度の軍事行動と自壊

即ち、その二つの覇権国家の対立による緊張の高まりと、実際の戦争とは終末の「神と人との戦い」の相互乱戦には至っていないことを示唆しているし、世界を巻き込む「大戦」とも言えない理由がある。

ダニエル書によれば、『北の王』の下で契約への『違背』が起こされるとあるように、この宗教に敵対する覇権国家が『聖なる契約』に仕掛ける迫害と甘言の罠が有って後に、『契約を離れる者』が出ることを記している。(ダニエル11:29-35)

ここに「終末の背教」の萌芽があり、この件はパウロが度々に警告を発している。またセカリヤ、ハバクク、哀歌、詩篇にこの背教の興りへの描写が散在しており、その悪の結末を、イザヤ63、オバデヤ、などが終末のエドムを介して描き出してもいる。

この『違背』を惹き起こすのに『北の王』が関わるのであれば、『戦争の噂』が聞かれ、ついに戦端が開かれるとしても、そこで優勢となる『北の王』の命運が尽きる様をダニエル書が言うのであれば、『恐れてはならない』というのは『聖徒』に向けての言葉ではなく『信徒』への言葉であることになり、その時点では地上に『聖徒』は居ないと言える。しかし、脱落聖徒らは地に残っており、『違背』は『背教』へと進んでゆく。

 

従って、マタイとマルコ双方の福音書が述べる『民は民に、王国は王国に敵対する』事態が引き起こすのは、世界的な相互戦争ではなく、マケドニア由来の王朝同士の対立に示されたような、二大国家の対立である。たとえ、終末にそれぞれの陣営の同盟国が参戦しても、それはロ七十年のエルサレム攻囲に参加したのがローマ軍だけでなく、アグリッパスⅡ世の軍やアラビア兵の参戦にも見られることではある。

そのためイエスは弟子らが迫害に見舞われること、また、『北の王』に擁立され後に『偽キリスト』と成る者、また『荒らす憎むべきもの』、即ち、「生ける偶像」(テサロニケ第二2:4)を警告する言葉が、二つの福音書に臨在の結果として、使徒時代以来、再び『新しい契約』に入った者らが、著しい困難の中で内部からの脱落者に強権を振われ始める。そこでキリストは臨在していても、その統治を一時的に止めて起こる違背に介入しない。

これは『あなたがたは互いに躓く』とのイエスの言葉にも、『圧政的な狼』の危険を語ったパウロも、『群れをないがしろにする牧夫』の現れを語るエゼキエルやゼカリヤによっても『肥えた牧者』と指摘されている。また、その混乱により『四人が五人に対立』する事態、『実際の敵は家の者』と言われる事態の発生はミカにもイエスの言葉にも見られるものとなっている。

そのためにキリストの終末預言も『聖なる者』の全体が動揺することを警告していると捉えるなら、これら二つの福音書の終末預言の最初の部分の戦争と噂を、ほかの部分の全体、また旧約預言の数々やダニエルに語られた啓示の数々とも総合し位置づけることができる。

だが、この混乱も官憲の捕縛の最中に、忠節を保った『聖なる者ら』の天界への不可視の召しの発生により、『天の東の果てから西の果てまで』集められるに及び、聖徒の苦しみはそれ以上進むことはない。この天への招集がキリスト教界で「携挙」と勘違いされている。ここで問題を作るのが、『一人は残される』という者らのその後の地上での行動となる。即ち『不法』の増大であり、地上に偽の王国を樹立する危険である。

 

■『疫病』がこの印に存在しない理由

従って、この部分で語られている、戦争のほかの『飢饉』と『地震』とが、黙示録の四騎士とは異なるものである蓋然性がある。二つの福音書のこの部分に『疫病』が書かれていないのは、その災いが『大患難』の最終的な審判をもたらす災いであるからであり、それは選択的災害となることが推測される。即ち、「汝の傍らに万人が倒れるとも、その害は汝を襲わず」との句がこの解釈を支える。

確かに、ルカの記したイエスの終末預言には『疫病』が含まれるが、これが大患難のものからの混入した記述でなければ、大患難の最終的『疫病』と異なる段階のものである可能性を含んでいるかも知れない。なぜなら、マルコやマタイが偽キリストについて語った直後にこの戦争に続く印を挙げているのに対し、ルカ福音はその12節で『これらの(戦争や飢饉)の前に』、弟子らへの迫害と聖霊による語りがあることを述べている点では先の二つの福音書と順番が異なっている。そこで、ルカの言う『疫病』が大艱難に属するものを指している可能性は消えていない。しかも、ルカの挙げる『疫病』の順位が黙示録と異なってもいる。『飢餓』の前に『疫病』が来るのはローマ軍のエルサレム攻囲で現れた実態と異なるようにヨセフスは読める。

それに加えて、黙示録では「疫病」を指すであろう青ざめた馬の騎手が「死」(タナトス)と呼ばれ、その後を『墓』(ハデス)が追うのであれば、この順はこの解釈の全体像をまとめ上げることになる。

ここに於いて、『シオン』に群がる民は保護の『奥の間』に保護されると見るべき聖句の重なりもある。

 

◆共観福音書での相違点と相似点

マタイだけが使徒らが質問の中でパルーシアに言及している

マルコ・ルカはイエスの神殿倒壊の時期についてのみ尋ねている

ルカは 「天からの印」を含め

マルコは、患難の後に天が暗くなるという

マタイでは、患難の後に人の子の印が天に現れる

 また、マルコと共に大艱難は荒憎者が神殿に建てられた後であるという

マタイとマルコは、『これらの事が起こったなら、彼が戸口に居る』という

これをルカは『神の王国が近いことを知れ』と言っている

 

三書共に、患難の前兆を尋ねている

また、神の神殿の崩壊について質問を始めている

つまり、崇拝の中心地が如何に機能しなくなってゆくか

その全体像を、旧約の崇拝方式の終わりと新約崇拝の行く末とを重ねている。

キリストの終末預言は、西暦七十年の律法体制の終焉と、セレウコス朝のアンティオコスⅣ世エピファネスによるユダヤ教禁止令と偶像の設置によるユダヤ崇拝の中断を重ね合わせて述べており、その要旨はどの時代のものも、明らかに神への崇拝の行く末を述べている。従って荒憎者を七十年に無理に当てはめる必要はないといえる。

その理由として考えられるのは、メシアの王権の樹立が天のものであり、人が関われるものでない一方、崇拝は人間の行うところであるから、キリストの後に残される弟子、特に聖霊注がれる聖徒らにとって最も重要な情報と訓戒が込められている。

総合すると、マルコとマタイの『印』は『患難』の前の前兆を述べており、その中には『戦争とその噂』を含み、『飢餓』と『地震の頻発』も加える。その時期には『迫害』と『躓き』また『分裂』『裏切り』また『荒憎者』の顕現も含まれる。

『患難』はその後のことであり、それを黙示録六章の四騎士が描く。

『森羅万象振るい動く』というマタイ、『諸国民は到来することに気を失う』とするルカは共に『患難』の結果として現れる事態を指す。

キリストの言葉は、ある程度は進行順を追っているが、そうでない箇所もあり、象徴的に全体を語る場面が多いが、共観福音書のそれぞれの始まりからしばらくは事象の順が整合している。しかし、ルカには注意が要る。

 

 

ものみの塔の主張については

総じて、この句を根拠に自派の教理の土台としたのは、近代プロテスタント系の一部であり、特に「ものみの塔」は21世紀の今日までも1914年臨在開始説を捨てていない。

だが、上記の解釈でゆくと、臨在は弟子たちへの聖霊の注ぎが深く関わっているので、『新しい契約』の残り『三時半』『42カ月』『1260日』が、ずっと迫害との戦いとなるというダニエル書と黙示録の共通の観点からも、それは聖霊注がれた『聖なる者』に含まれる者としてイエス使徒らに『あなたがた』と語ったとの理解を更に展開できることになり、旧約と新約を通した理解の整合性を得ることになる。

他方で、「ものみの塔」では地上に「油注がれた」と称する者らが、依然として地上で『主の晩餐』に与っている現状にあり、王権を得ていないことになる。(ローマ4:8)

これは1914年のキリストの王権拝受説と矛盾を来しており、さらには「油注がれた者」への間断のないという強烈な迫害と甘言に関するダニエルの記述と黙示録の暗示に一致していないことにもなる。その以前に、聖霊は注がれていない。

(ダニエル7:25/黙示録11:2-3)

 

ものみの塔」がこれら二つの福音書にあるイエスの臨在の預言の印を強調するのは、神やキリストの意志を探ることよりも、自分たちの「救い」に主眼があり、その願望が膨らんだミラー派の教理への接近の結果、その根本的な姿勢にも感染してしまったために、「救い」に固執して他の見解に耳を傾けないようにとの指導に信者を従わせるためのものであろう。だが、それは終末に神やキリストの意志とは関係なく、自らの欲に従って行動する危険を冒すことにならないものだろうか。その頑なさが正義になっているのであれば、誰であれ人間の欲望の力とは恐ろしいものに思える。それが『アダムの罪』を増幅させるとしたら、純心な人をさえ意固地にならせる宗教の力とは恐るべきものというほかない。

 

いや、「純心」というのは、単に経験不足である場合も多いのではないか。

カルトの教えの盲信から覚めた後、その人自身の内面がいよいよ露わになり『浄められ、飾り付けられている』状態になると、また別の危険が迫り、最終的にはより悪くなる、ということもあろう。

単なる命惜しさや、良い生活目当てであったなら、ものみの塔の信仰の空白はその人にとって埋め難く大きくなり、単なる俗な人であったとなれば、その落差も大きかろう。その後、その人の内にキリストの精神が育ち得るものかは、再び出発点に着くことになる時に試され、もとよりただ俗な人であったなら、学んだ事柄も水泡に帰する。ものみの塔信仰の本質が、人の欲を引き出すばかりで、「倫理」という神に関わる問題の本質からずれていたことがこれらの原因となる。