Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

新世界訳日本語版に見られる原文からの乖離

 

マタイとマルコに於ける日本語重訳の際の付け加えと省略(おそらく新版でも)

 

念のため

(概して新世界訳聖書は大方のキリスト教会が主張するほどの問題ある翻訳とは言えず、自分の見るところ、全般的には日本語の主要な翻訳に比べて原語への忠実性では読者への配慮に優れたところが多く、その点ではむしろ優良と言える。但し、翻訳母体となった「ものみの塔」の教理に影響され、訳が意図的に調整されているところも散見される。それでも、それらを除いたところでは、ある程度の日本語の不自然さもそのままに原語に従う姿勢から、他の翻訳に勝って配慮が為されている。いずれにしても、どのような翻訳も完全無欠なものを作ることは不可能であり、訳者の解釈が避けられるものはない。従って、聖書を探求しようと思うなら、翻訳の比較と原語の照合は必須であり、研究者はその過程を通して各翻訳を評価できるものであり、聖書理解を深めることができる。この頁も、そのような照合によって得た知識であり、いずれかの翻訳聖書を称揚また誹謗する意図をもたない。まして、ヘブライ語本文には母音がないために同定されていない単語、古過ぎて意味不明の単語もあり、ギリシア語本文では多くの異本が存在する以上、「逐語霊感説」のような聖書の捉え方は「偶像化」の危険を冒すばかりであろう)

 

 

◆以下は非常に大きな問題になるけれども、誰も気にも止めないのだろう

 

Mt24:5-9(口語訳)

24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

 

アンチ・クリストの現れと戦争の噂を並置し『まだ終わり<テロス>ではない』

6節から9節は以下の通り

[6μελλήσετε δὲ ἀκούειν πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων· ὁρᾶτε μὴ θροεῖσθε· δεῖ γὰρ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω ἐστὶν τὸ τέλος.

 7ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπὶ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν καὶ ἔσονται λιμοὶ καὶ σεισμοὶ κατὰ τόπους·

 8πάντα δὲ ταῦτα ἀρχὴ ὠδίνων.]NA28

6節は一文が終わっており、7節には前節を関連付ける単語は存在していない。

 

次いでMk13:6-10(口語訳)

『13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。』

[6πολλοὶ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες ὅτι ἐγώ εἰμι, καὶ πολλοὺς πλανήσουσιν.

7ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων, μὴ θροεῖσθε· δεῖ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω τὸ τέλος.

 8ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν, ἔσονται σεισμοὶ κατὰ τόπους, ἔσονται λιμοί· ἀρχὴ ὠδίνων ταῦτα.

  9Βλέπετε δὲ ὑμεῖς ἑαυτούς· παραδώσουσιν ὑμᾶς εἰς συνέδρια καὶ εἰς συναγωγὰς δαρήσεσθε καὶ ἐπὶ ἡγεμόνων καὶ βασιλέων σταθήσεσθε ἕνεκεν ἐμοῦ εἰς μαρτύριον αὐτοῖς.

 10καὶ εἰς πάντα τὰ ἔθνη πρῶτον δεῖ κηρυχθῆναι τὸ εὐαγγέλιον.]

 

やはり7節で一文が終わっており、8節には前の節を解説するようには語られていない。

 

Lkの相当部分21:8-13(口語訳)

『 21:8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。
21:9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。
21:11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。
21:12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。
21:13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。』

[8ὁ δὲ εἶπεν· βλέπετε μὴ πλανηθῆτε· πολλοὶ γὰρ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες· ἐγώ εἰμι, καί· ὁ καιρὸς ἤγγικεν. μὴ πορευθῆτε ὀπίσω αὐτῶν.

 9ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκαταστασίας, μὴ πτοηθῆτε· δεῖ γὰρ ταῦτα γενέσθαι πρῶτον, ἀλλ’ οὐκ εὐθέως τὸ τέλος.

  10Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς· ἐγερθήσεται ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν,

 11σεισμοί τε μεγάλοι καὶ κατὰ τόπους λιμοὶ καὶ λοιμοὶ ἔσονται, φόβητρά τε καὶ ἀπ’ οὐρανοῦ σημεῖα μεγάλα ἔσται.

  12Πρὸ δὲ τούτων πάντων ἐπιβαλοῦσιν ἐφ’ ὑμᾶς τὰς χεῖρας αὐτῶν καὶ διώξουσιν, παραδιδόντες εἰς τὰς συναγωγὰς καὶ φυλακάς, ἀπαγομένους ἐπὶ βασιλεῖς καὶ ἡγεμόνας ἕνεκεν τοῦ ὀνόματός μου·

 13ἀποβήσεται ὑμῖν εἰς μαρτύριον.]

 

10節は[Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς]「それから彼は言った」or「その折に彼は言った」とあり、前の節とは分かたれており、ますます、前の内容を説明してはいない。

そこで『戦争や戦争の噂を聞く』事と、『民は民に、王国は王国に決起し』という相互戦争とが同じものであると確言はできない。

ものみの塔」の新世界訳英語版でマタイの7節の前半は

”For nation will rise against nation,and kingdom against kingdom,”

NKJVでも

”For nation will rise against nation, and kingdom against kingdom.”

違いは節がコンマで終わるかピリオドで終わるかだけである。その前の節の中にも"because"などの句は存在していない。

同節の新世界訳ドイツ語版では

"Den Nation wird Nation sich gegen Nation erheben und Königreich gegen Königreich,"であり、英文のままに踏襲し前の節と関連付ける単語は存在していない。これは中国語版でも守られている。(中国語版には別の箇所に問題を発見:Mr13:10「但是」これを"kαι"の訳語としている日本語訳には新共同があるが共に前節との関連を断っているがこれはNWTの本意とは言えない)

しかし、新世界訳日本語版では

『そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。』

 

Mkでも『7 また,戦争のことや戦争の知らせを聞いても,恐れおののいてはなりません。[これらの事は]必ず起きますが,終わりはまだなのです。 8 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,』

この『というのは』と原語にも翻訳原文にもない一語をマタイとマルコに付け加え、『戦争の噂』と相互戦争とを関連付けているのは、新世界訳でも日本語のスタンドプレーになってしまっている。これが重訳される際には意図的な付け加えであったことは言い逃れできないに違いない。どうしてこのようなことが起ったか。

 

以上の付け加えによって、日本語版での『戦争や戦争の噂』は後の節の相互戦争と同じものであると解釈することが不可避にされたが、ルカ当該部分では

『9 さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには[来]ないのです」。

10 それから[イエス]はさらにこう言われた。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。』としており、『それから』”furthermore”という語が前後の節を区切っており、他のふたつの共観福音書との意味の上での整合性を『というのは』の付け加えによって失っている。

日本のエホバの証人にとって、これは気にもならない付け加えなのであろうが、ダニエル書と照合してゆくと、この理解でゆけば、終末期で非常に重要な違いに直面することが分かる。⇒「二度救われるシオンという女」

これはけっして些細な違いとは言えない。

(それでも「というのが」の句が適切に訳されている箇所もあるExp;Joh6:40 文頭の[τοῦτο γάρ ἐστιν]で、これには確かに 「これは即ち」の意であり、このような場でこそ用いるべきものであろう)

 

なぜ問題かを態々悦明すれば・・

『戦争の噂を聞く』のは『まだ終わりは来ない』段階のことである

それに対して『国民は国民に敵対』する事態は別である可能性が原文には存在している

この二つは同じものでないと言えるのは

一方が噂を聞くことで怖れ慄かないよう訓戒しているが

もう一方をルカと比較すると聖都の存亡に関わる戦争について『国民は国民に敵対』としている。それは『噂を聞く』ので『怖れ慄かないようにする』では済まず、『山に逃れる』べき事態の到来を指す。それはユダヤ体制の『終わり』(テロス)を意味しており、ローマの侵攻であって『まだ終わりは来ない』段階のものではない。

第一世紀でも最後のローマ侵攻までに騒擾は何度も起っていたが、終末にはそれに相当する象徴的な南北対立が予告されている。それは諸国の権力の集合が同士討ちをする結果には終わらない以上、それは最終戦争にはならず『まだ終わりは来ない』段階の戦争である。

この『戦争の噂』の語句はヨセフスが戦記で使っており、その場合も実際の戦闘は皇帝カリギュラ崩御によりすんでのところで回避されている。

この違いが分からないなら、これらの事態が発生する終末にも双方の戦争が何かも分からないことになる。これら二つの戦争は範囲も性質も異なっていることを聖書全体は暗示していると言える理由がある。

殊に、ダニエル書の第11章の中に描かれる南北の覇権国家の対立が、ヨエルやゼカリヤなど旧約の預言に予告される同士討ちであるかと言えば、それらを共に『国民は国民に立ち上がり』という当該次節の言葉と同じものを指すかといえば、ほかならぬキリスト自身の『終わりはまだ』との発言がこれを否定している。

 

(思うに「ものみの塔」の解釈では、なんでもかんでもハルマゲドンにテロスを集約し、大患難を単純化し過ぎて、世界が滅ぼされても自分たちは救われることばかり妄想しているので、この辺りがどうでも良くなっているのであろう)

だが、これはどうでも良いことにはならない。ふたつの戦争の間に重要な事態が生じることを聖書が暗示している。なぜなら、聖徒は終末期の三年半が終わると地上の終末の舞台を後にするからであり、テロスを地上で見るのは信徒であるから、キリストの終末預言は聖霊注がれる聖徒の事だけでない事柄が織り交ぜられている。

『北の王』による『南の王』の領域への侵入は、聖徒攻撃を惹き起こすとしても、やはり、聖徒らは脅迫に屈するべきでないことに於いて『恐れてはならない』し、信徒の場合にも、聖徒の滅ぼしに成功したからといって『北の王』の脅迫に恐れるべきではない。そのすぐ後に『北の王』は最後を迎え、信徒らは救われるからであり、ハルマゲドンの戦いに至ってはなおのこと安全に守られる。その点は迫害に消える聖徒とは異なるが、共に脅迫に屈してはならない。

 

 

つまるところ・・「クリスチャン」と称する人々は

おしなべて自分が救われるなら、あとはどうでもよいらしい

そのために教師らには神を信じてやっているのであり寄付もしている

神の意志や計画や想いを探り、その偉大さを畏れるというわけでもないらしい

『人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか』

 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆ 終末預言に関しては、もう一か所に英文と整合するとは言えない重要箇所あり

Rev6:4

すると,別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。

問題箇所は「人々がむざんな殺し合いをする」との訳文中に「互いに」の語が省略されている点で英文では

”And another came forth, a fiery-colored horse; and to the one seated upon it there was granted to take peace away from the earth so that they should slaughter one another; and a great sword was given him.”

となっており、これはNKJVの

”Another horse, fiery red, went out. And it was granted to the one who sat on it to take peace from the earth, and that people should kill one another; and there was given to him a great sword.”

とも異なり新世界訳日本語版だけ「互いに」に相当する単語が存在していない。

 

また、新世界訳ドイツ語版

Und ein anderes,ein feuerfarbenes  Pferd kam hervor  und dem,der darauf saß, wurde gewährt, den Frieden von der Erde wegyunehmen, so daß sie einander hin schlachten  würden, und ein großes Schwert wurde ihm gegeben.  

ドイツ語訳では英語に近いこともあってか、この点で寄り添っている。

 

以下、中国語版

有另一匹马出来,是火红色的。骑马的可以夺取大地的和平,叫人互相残死。他还得了一把大剑。

中国語版も英文に忠実であり原語にも適うのだが、日本語版の異なりが目立つ

これは他の日本語翻訳と比較しても言えることで

 

すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。【口語訳】

 

すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。【新改訳】

 

ただ、新共同訳だけが

すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。

として同じく「相互の闘い」であることをぼかしている。

 

この問題点は、ハルマゲドンに集められた軍勢について、「エホシャファトの谷」などの描写を通してネヴィイームの唱える同士討ちによる破滅の概念をこの黙示録の句の理解から遠ざけている点にある。

だが、上記に見るように英語版新世界訳でもそのようにはしていない。

この項で扱った例からすると、日本語版新世界訳の翻訳委員には、ものみの塔の終末解釈を英文新世界訳以上に誇張し、原語にも英文にも無い句を挿入し、また存在している句を省いている。

その翻訳の精神といえば、英文翻訳への忠実性でも、原語本文への配慮でも、少なくともこれらの点で十分とは言い難く、読者にはものみの塔の教理だけを植え付ける強権を感じさせる。

もちろん、どのような翻訳であっても訳者の解釈の影響を受けないものはないのだが、日本語版新世界訳には、英語版への忠実さも欠けたところがないとは言えず、必ずしも良識的かといえば、肯定するには無理がある。

 

日本語版新世界訳では、「というのは」との句が少なくない。

それがJh1:16、3:16など正当な箇所もある、同じMt5:46も有って然るべき箇所ではある。Mt16:26などは、他の翻訳聖書が明らかにそこに有る[γαρ]を省略しているケースが多い中で、はっきりと「というのは」を訳しており、それは原語本文に寄り添う点では新世界英文だけでなく、NKJVなどにも準拠している。

それなので、殊更Mt24:7の怪が深まる。

 

Mt5:46

Mt14:3

Mt16:26

Mt20:1

Mt24:7

Mr6:17

Mr7:3

Mr9:49

Mr13:8

Lk8:29

Lk9:7

Lk22:27

Lk23:31

Jh1:6

Jh3:16

Jh5:21

Jh6:40

ほとんどが節の頭に「というのは」を置いている

「それというのも」は全巻でエステル記一か所のみ

「というのは」が翻訳上の口癖になったらしい

 

・上記の他に、英文NWTそのものに明らかなミスがあったのに

各国語への翻訳者が意義を唱えなかったか、黙殺された句

⇒ 

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