Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

新世界訳聖書のローマ書3:5どうしてこうなったか

The translators of the various languages must have been aware of the errors in the English text of the New World Translation of the Bible.

 

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新世界訳日本語版(1984年)

ローマ人への手紙 三章五節

 

3:5 しかしながら,わたしたちの不義が神の義を際立たせるのであれば,わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。神が憤りを発しても不当であるわけではないでしょう。(わたしは人間がするような言い方をしているのです。)

 

問題は”神が憤りを発しても不当であるわけではないでしょう” の部分

前後の脈絡からまるで逸脱してしまって、意味不明の文にされている。

パウロは、イスラエルの信仰の無さによって、神の側の正しさが浮き彫りにされることについて語っており、この日本語版もその前の部分で訳した通り

『その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか』という意味を強調するための誇張として、それならイスラエルの不信仰も神を結果的に讃えているのだから、神がそれを罰したら不当なことを神はなさることになると言いたいのである。

英語版では

NWT

3:5 However,if our unrighteousness brings God's righteousness to the fore, what shall we say? God is not unjust when he vents his wrath, is he? (I am speaking as a man does.) 

以上のように、重訳に関わった人々は「忠実に」英文に従って奇妙な言葉に異を唱えなかったか、あるいはその旨伝えても押し切られたのかも知れない。

 

伝統的翻訳では

【NKJV】
3:5 But if our unrighteousness demonstrates the righteousness of God, what shall we say? Is God unjust who inflicts wrath? (I speak as a man.)

 

やはり問題の所在は、NKJVが  ”Is God unjust who inflicts wrath?” としているところを

NWTでは "God is not unjust when he vents his wrath, is he?" として ”not unjust”  という二重否定を用いたところから来ている。これであれば、パウロは随分違った事を語っていることになる。

 

原語本文を見ると

[εἰ δὲ ἡ ἀδικία ἡμῶν θεοῦ δικαιοσύνην συνίστησιν, τί ἐροῦμεν; μὴ ἄδικος ὁ θεὸς ὁ ἐπιφέρων τὴν ὀργήν; κατὰ ἄνθρωπον λέγω.] NA28

問題の部分は” μὴ ἄδικος ὁ θεὸς ὁ ἐπιφέρων τὴν ὀργήν”

直接には「これは不義である、怒りを下す神は」となる。

NWTは「不義」に"not"をつけて二重否定にしたのはなぜだろうか?

 

NKJV以外の翻訳例として

NIV "That God is unjust in bringing his wrath on us? (I am using a human argument.)"

ESV   "That God is unrighteous to inflict wrath on us? (I speak in a human way.)"

DBY  "Is God unrighteous who inflicts wrath? I speak according to man."

 

それであるから一般的日本語訳も以下のようになる

【口語】

3:5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。

【新改訳】

3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

【新共同】

 3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

【岩波委員】
3:5 「しかし、もしも私たちの不義が神の義を明らかに示すのだとしたら、私たちは何と言う[べき]か。怒りを下す神は不義ではないだろうか」。私は人間的に[理屈を]語っている。

 

新世界訳が伝えようとした本来の意味は

『神が憤りを発したなら、不当になるのです』として、そこはヒレル派のパリサイであるパウロらしく『わたしは人間の言い方をしているのです』と言い添える必要を感じたに違いなく、それはローマ書によってその地にユダヤ教徒が多く、弟子たちが異邦人との協調を促す目的を持って書かれているところにも、この但し書きのような表現が求められたといえる。

これは何も難しいことではなく、頭を悩ます内容でもないのに、余計な二重否定を入れてまったく読者を煙に巻いている。

しかし、近年に出された「スタディー版」なる彼らの聖書では

『神が憤りを表すのは不当なことなのでしょうか。(私は一般的な意見を述べています。)』

と、以前の二重否定は消されている。

 

これはつまり、ケアレスミスのような類のものであったらしい。

しかし、日本語訳を作成する時点で、日本語への訳者から米国への問い合わせはなかったのだろうか?

新世界訳の日本語訳にフライングも見られるところから、この辺りに重訳の難しさ、意思の疎通の必要さ、訳者にフィードバックを十分に得させる権限を与えるべきことが見える。

NWTのように数多くの重訳によって世界に広められたのであれば、各地の翻訳者から異論があってすぐに正されたはずであったに違いないが、このようなところに専制的宗教組織の弱点を見るようである。異常に気付いてもお上に盾突くわけに行かなかったのであろう。

無論、完全な翻訳なぞ存在しない。その点ではセプチュアギンタが良い例であり、多様な訳があり、付け加えられた文言も少なくないのだが、それらを使徒と直弟子らは拘りなく用い、却ってヘブライ語本文にない理解を付け加えてさえいる。

原語本文そのものにも書き換えは言うに及ばず、ソフェリームの明らかな書き間違いもそのままにマソラなどの旧約聖書に伝承されている。新約聖書でもルカとマルコは事実関係を誤認している箇所がそれぞれ一か所はあり、聖書を聖霊そのものの奇跡にまで見做す聖書逐語霊感説は、偶像化のようにバランスを欠いたご利益確定主義の産物なのであろう。人は間違いをするものであり、それも真理ではないか。

それであっても聖書には、人知を超えた言葉が存在しており、それは間違えもする人間の筆者に依拠しないことが明らかなところで、やはり神の言葉であり、キリストの例え話のように、理解させようとの意図がすべての部分にあるわけではなく、総量からすれば、未だに理解されていない部分の方が多いであろうし、それは『その言葉が人を終わりの日に裁く』との言葉に理由が込められているのであろう。

だが、間違いは間違いとされなければ本当に誤解が生じるし、上記のローマ3:5の場合には、致命的ではないものの、パウロ論議を努めて理解しようとした信者には、その点での諦観を与えて、探求心を励ましはしなかったであろう、

しかし、多くの読者が、用いる言語の壁に多少なりとも縛られているのであるから、聖書に関しては訳者ばかりでなく、読み手も一つの訳本に捕われない姿勢が必要と言える。

そうでなければ、教え手自身の信仰を植え付けられるか、言いなりに行動する危険も出てこよう。

その点、現代では家庭に居ながらにして、多様な翻訳を即座に比較できるばかりか原語本文も照会できるようになったのであるから、それらを活用してまったく異なる言語の違いを少しでも越えて、聖書の本旨に辿り着くよう一人一人が努めるべき時代に入ったといえる。

今後も、ますます個人の理解の程度を上げて行くなら、聖書を探求する者らの多くが、自ら中世的蒙昧や、カルト的専制を排して信仰の自由に至ることであろう。