・Eph1:12 ” that we who first trusted in Christ should be to the praise of His glory*.”NKJV
『それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。』【口語】
『それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。』【新共同】
『私たち、強い希望を抱き続けている者が、キリストにおいて神の栄光を讃えるべき者となるようにと』【岩波委員】
同上註有;「今日では「希望する」の前綴りpro-[前に]を単なる強め(希望はすべて「前もって」のもの)とする解釈と、前綴りをキリスト「以前からの」メシア待望に関連づけ、「私たち」をユダヤ人(キリスト者)に限定する古代からの解釈が対立しているが、ここではユダヤ人と異邦人は相互に区別されていない。・・(ここは2:19の論争とも関連有り)
<確かにエフェソス書を宛てられた読者は異邦人であり、以前からのメシア待望について述べているとは思えない。しかし、ここはもう一つの視点もある>
[εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς εἰς ἔπαινον δόξης αὐτοῦ τοὺς προηλπικότας ἐν τῷ Χριστῷ.] NA28
[προηλπικότας]; AV - first trust 1; 1 1) to hope before 分)完了能対男1複 「前に希望する」([προελπίζω] 原)
<これはヤコブ1:18との関連を述べていると捉えるという道があり、その方が論理的なパウロの文言に適うように思う。そのうえパウロは自分たち聖徒が『初穂の霊を持つ』を持つとも書簡に述べているRm8:23&29。
この箇所でも前後を読むと異邦人から聖徒に召された者らへ向けられた言葉であることが分かり、元来の異邦人の大半は聖徒から益を受ける立場にあるのであるから、この場合のプロエルピゾーは、「早い(段階の)希望」つまり人類に先立つ希望と解釈できる。というのも、ここで異論が出るのも言葉の用法が普通でなく、パウロが普通でない概念を述べようとしていると捉えることが的外れではないだろうから>
『それは,キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが,その栄光の賛美に仕えるためでした。』【旧版・新世界訳】
「キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが」の部分
直訳に近付けると「最初にキリストに希望を置いたわれらが、」とはなるけれども、ここでは幾分か原語から離れるが、旧版の新世界訳が最も分かり易く真意を突いている。英語では"first trusted"の単語によりどちらとも捉えられるが、英文新世界訳旧版では”we who have been first to hope”とされ原語に近いが、日本語旧版新世界訳が意味を捉える上では、より明解な翻訳になっているように思える。つまり、何に対して「はじめ」なのかについて、「神の賛美のための民」の視点がパウロに有ったと解釈することになるが、それは続く14節でヘブライ書やイザヤの預言のニュアンスに触れているところに示されている。
関連;Act15:7『激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに('αρκαιος)、諸君の中からわたしをお選びになったのである。』
Eph1:14『この聖霊は、わたしたちが神の国を継ぐ事の保証であって、やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を誉め讃えるに至る為である。』
= Heb13:15 "Therefore by Him let us continually offer the sacrifice of praise to God, that is, the fruit of our lips, giving thanks to His name."NKJV <His name は誰の名か*?これはユダヤ教ナザレ派に向けて述べている>
『だから、わたしたちはイエスによって、賛美の生贄、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神に捧げようではないか。』【口語】
<この「彼の名」がキリストであるかのように誤解させているが、「イエスの名を証しする」ことは有っても、賛美は常に神に属する*。キリストやメシアを賛美するとしたら聖書からは逸脱する。そこで、この口語訳は英文だけで判断した文語訳の影響ではないのだろうか>
『 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。』【新共同】
=Isa43:21『この民は、わが誉を述べさせるために/わたしが自分のために造ったものである。』【口語】
1Pet1:7『こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』【口語】
[ ἵνα τὸ δοκίμιον ὑμῶν τῆς πίστεως πολυτιμότερον χρυσίου τοῦ ἀπολλυμένου, διὰ πυρὸς δὲ δοκιμαζομένου εὑρεθῇ εἰς ἔπαινον καὶ δόξαν καὶ τιμὴν ἐν ἀποκαλύψει Ἰησοῦ Χριστοῦ ] NA28
[ εὑρεθῇ ] (ヘユペテー)[εὑπίσκω 原] AV - find 174, misc 4; 178 1) to come upon, hit upon, to meet with 1a) after searching, to find a thing sought 1b) without previous search, to find (by chance), to fall in with 1c) those who come or return to a place 2) to find by enquiry, thought, examination, scrutiny, observation, to find out by practice and experience 2a) to see, learn, discover, understand 2b) to be found i.e. to be seen, be present 2c) to be discovered, recognised, detected, to show one's self out, of one's character or state as found out by others (men, God, or both) 2d) to get knowledge of, come to know, God 3) to find out for one's self, to acquire, get, obtain, procure
『あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。』【新共同】『称賛と光栄と誉れとをもたらす(or見出す)』
”hat the genuineness of your faith, being much more precious than gold that perishes, though it is tested by fire, may be found to praise, honor, and glory at the revelation of Jesus Christ,” NKJV <この" may be "は聖徒らへの試練の結果の不確定性によるものと思われる>
<試練を通過する者は「称賛と栄光と誉れとを見ることになる」の意では?>⇒Lk13:24 ect,
所見;やはり、翻訳者の理解がどのようであるかによって翻訳は大きく影響を受け、聖書の全体像に一貫した視点を持たない翻訳は、それぞれの箇所毎に思考が定まらず知らされていることも知らされないで終わってしまう危険がある。そこでパウロが他の箇所でどんな事に言及していたか、また、ヘブライ語の習慣や、旧約にどんな概念があったのかを渉猟し、それらの何かに触れようとしている原著者の意志を汲まなければ、一般的読者層に真意を伝えることは難しくなる。そこで原語のままに訳す方法と、示唆的に言葉を選ぶ方法とがあるが、原語と翻訳語にはそもそも違いがあるので、一単語に一単語を常に当てる方法が必ずしも正確かといえば、そうも云えない。それでも、どこでどの単語が用いられているのかを知ることでヒントを得ることもあるから、紙媒体の聖書というのは限界を迎えているようにも思う。マウス・オーヴァーで原単語なりセンテンスなりが表示されたり、異本の存在の通知、異訳の存在、また相互参照だけでなく、古典作品の引用や歴史的背景にリンクできるなら、ただ聖書を読む、また通読回数を誇るなどという愚行から読者を解放できるのではないか。