Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

雑記24-4

 

 

・Luk18:8 λέγω ὑμῖν ὅτι ποιήσει τὴν ἐκδίκησιν αὐτῶν ἐν τάχει. πλὴν ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐλθὼν ἆρα εὑρήσει τὴν πίστιν ἐπὶ τῆς γῆς;

上の句 [λέγω ὑμῖν ὅτι ποιήσει τὴν ἐκδίκησιν αὐτῶν ἐν τάχει]

「聖徒の祈りに対して神は速やかに反応し彼らを擁護される」の意

聖徒の迫害と受難を前提としているとみられるが、聖徒の生き残りへの言葉であろう

[ἐκδίκησιν] 復讐する [τάχει] 素早く

下の句 [πλὴν ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐλθὼν ἆρα εὑρήσει τὴν πίστιν ἐπὶ τῆς γῆς]

[πλὴν]にも関わらず  [ἐλθὼν]来る [ἆρα]確かに  [εὑρήσει]見つける

文頭のプレーンは、「聖徒云々の以前に信仰そのものが見られるのか」という意味を強調している

 

 

・『わたしの名のゆえに』とは、『あなたの名によって多くの業を行った』に対応するのでは

 

・聖徒と信徒の区別がないと

聖徒の『偉大な者ら』の権能や立場を奇跡の聖霊を持たない一般人に与えてしまう。

人類の祝福となるべき『天の王国』が信者のための「天国」になってしまい、信仰による人類救済の利他性が、限定された会員制のような利己性に置き換わってしまう。

 

・他者への愛を培うべきなのは、それが信仰の基礎となるからである。

神への愛は、その経綸の意図を知る必要がある Ga5:6

しかし、知識による信仰では不十分であり、それは無垢であったアダムとエヴァの状態に過ぎない。宗派の徒になったからといえ信仰者としては未知数である。信仰とはそこまで奥深く、試金石たる存在の関与を要請する。そこに『蛇』の存続意義がある。

それがシオンの徒にどこまで求められるのか、現時点では分からない。それが裁きとなり得るからであろう。したがって、シオンに集まった人がそのまま救われるとは云い難い。この難しさを無視するなら、一種の罠にはまるのであろう。暢気に構えてはいられないはずなのだが・・

 

・教会のキリスト教の外部へのメッセージは「優越」である

聖徒への特権を信徒に与えてしまったところに原因がある。

その優越感が自分たちを高みに牽引し、向上させるともされている。

西欧人の植民地支配にはキリスト教の優越感が影を落としている。

 

・教会員の求めるものは、諸悪満ち、死を迎えるべき『この世』からの直接的、個人的安寧である。それを得られるのは教会に帰依した限定された信者だけであると教えられると、その格別さを却って喜び、その稀な機会を得たことに真実性まで感じているらしい。これは教団側からすれば人集めに都合がよく、それなりの聖句も存在しているので、深く真意を汲みさえされなければ教会組織は安泰と感じられることであろう。

だが、このようなモデルは宗教ばかりでなく、政治にも商業にも、ときに教育にも見られる。これは『この世』の型ではないだろうか。「騙される快」というものがあり、人は何であれ、安心したいものであり、この世のストレスは確かに耐えがたい。だが、モルヒネが苦痛を楽にしても、治療をしないのなら悪化する。

 

・”ユダヤ人の学者、アバ・ヒレル・シルバーは、当時の「一般に流布していた年代計算」によれば、「メシアは西暦1世紀の第2四半期ごろに現われるものと考えられていた」と書いています。”  WT98.8/15p14

この人物に関する由来は解説されていない

まず以って、「ヒレルが父」とは大胆な名前ではある

 

教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた。
佐々木毅 『主権・抵抗権・寛容 ジヤン・ボダンの国家哲学』岩波書店

⇒ すべてのものを彼の下に服させたのであれば、彼に服さないものを一つも残さなかったはずである。しかし、我々は依然としてすべてのものが彼に服している姿を見てはいないのだ。(ヘブライ2:8)

神は我々を闇の権威から救い出し、御子の王国へと移してくださった。(コロサイ1:13)

この句には長く論争があったと聞く

 

・国家権力という野獣

ダニエル書中で、国家は野獣に例えられ、それは黙示録でも同様である。

また、特に独裁者は旧約の中でも肉を引きちぎるライオンとされてもいる。Pr28:15

野獣が人間を襲うように、人間は国家を必要としていながら、その害も免れない。

それが圧政や失政や指導者の無能からの困窮であれ、戦争や騒擾の結果としての人の害であれ、民の受ける苦しみは少なくない。

西欧と米国が主導してきた民主主義の前に、独裁的国家は恣意的で腐敗が進んで行きやすいので前時代的野蛮が強調されることにはなる。今日の独裁国家が民主主義の看板を掲げるのは民衆を宥める口実にはなっても、形ばかりの選挙や圧倒的な支持率という非現実はもはや宗教の領域に入ったと言われても実態ある反論は不可能であろう。

これら圧政国家はネヴィイームの中ではアッシリアを典型として描かれており、貪り食うライオンでありながら、ナホム書でもダニエル書でも突然の崩壊が予告されている。

それが即ち、セレウコス朝シリアに象徴される宗教への介入まで行い、終末の聖徒の崇拝を破壊し、荒らす憎むべきものを建立する終末の予型とされている。

だがしかし、圧政的には見えない民主的な国家が野獣で象徴されないかと言えば、そのようなことはなく、人を害することに於いて野獣の本質は変わらない。むしろ、民主的外見に包まれているために、人は単に圧政との比較によって幾らかマシに占めるだけの野獣を正義に見立ててしまいがちである。

 

・『共同の相続人である』の句は相当に誤解されている。

一般的教会では相続物は「天国」であり、信者がキリストと顔を合わせて至福の生活に入ること、また、キリストと『共に苦しむなら』の条件を、人が受ける世での生活苦にしている。そこで『自分の十字架を背負って続く』が無く、『御霊の初穂』が無視される。Rev14:4にも有る

つまりは、ただの人である「クリスチャン」方が、世で苦労しているのがキリストの苦難を分け合うことだという。だが、世での苦労なら誰でも受けているのであり、信者か否かに関わりなく、異教徒も無神論者もキリストと苦難を共にしていることになる。

諸教会の言う『相続』にはアブラハムへの約束から来る『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』という概念が無いのだが、それはキリストの犠牲の目的を「信者の救い」に限定し、キリスト教界が古来、組織構築と人集めに奔走した結果からくる歪曲であり、そこで「天国と至極」の存在も要請されてきた。

その結果、キリスト教を、信者がこの世という修羅場と死の恐怖から逃れる宗教としてしまい、外部に対して閉鎖的にならざるを得なくなった。それが『地のあらゆる氏族』を度外視した内向きな幸福を願う利己的な人々を量産することになった。

 

・キリストの時代にイスラエルは律法不履行の罪からの救済を必要としており、キリストの犠牲は、まず、彼らの罪からの救出をもたらしている。(使徒5:31/13:38-39)

但し、メシア信仰が求められたのであり、ペテロが言った『救いを得るために呼び求めるべき名』とは明らかにナザレのイエスの名であった。(使徒4:12/10:43)

しかし、『呼び求めるべき名』がキリストだけを意味しないのは、同じくペテロがヨエルを引用したことで明らかに「YHWH」を指しているものも新約中でも多くそれは旧約の引用箇所ばかりでない。

それであるから、教会とものみの塔は両極端で不毛な論議を繰り返すばかりで、一向に真意に近づかないでいる。不毛というのは、論争が自己正当化の道具になっているだけで、共に解答を見出そうとはしないからである。つまるところ、自分が正しいとして人が集まればそれでよいのであれば、どうして心が神にもキリストにも向くだろうか。その心の在るところは、教団や宗派であり、動機はご利益ではないか。そこに彼らの『宝』が有る。だが、どちらも死と空しさから逃れたいことでは同じなのだが

特に問題となっているのは、契約の異なりと契約の対象者が誰であるかが置き去りにされていることである。

 

・Isa57:16『わたしはいつまでも果てしなく怒りはしない』

  では地獄というのは何か

 

・ネフェシュに関して、人は種を撒き、神はそれに体を与える (1Cor15:37-38)

 魂は肉にせよ霊にせよ体を受ける主体といえる。であるなら『我が魂をシェオルに捨て置かれず』とは象徴表現になり、体と霊とを受ける本人の根源と言える。

聖徒の場合には、キリストが自らを小麦の一粒に例えたように、自らの忠節な生涯を地に撒くことを『種』と象徴してパウロは語っているが、それがその魂で成したことであるとも言える。

 

パウロはコロサイで聖徒が受けた『手によらない割礼』を『肉体を脱ぎ捨てることキリストに属するための割礼』としている。象徴的「割礼」は耳に割礼がないだけではない。旧約の意味を超えるところがパウロにはある。

肉体からの離脱は聖徒の栄光でもあり、『この天幕が朽ちても、永遠の住まいが与えられる』(2Cor5:1-)

彼らにとっての死または離脱は、栄誉を受ける裁決の結果となることを期待するべき瞬間となり、そこで『生前に行ったことにより裁かれる』(Jh5:29)

その結果に『第一の復活がある』

聖人伝の多くに彼らの死について示唆的なところが散見されるが作り話ばかりとは言えないように思える。

キリストが『それは今だ』と言われたのは、まさに聖徒の生涯を送るべき時にユダヤが差し掛かっていたことを言うと捉えれば論旨は合う。

 

・「信仰」と聖書

信仰は個人の主観的で倫理的判断であり、個人がそれぞれの価値観によって評価するべき宗教上の決定である。

この点で、宗教の側が威圧的であると信仰は個人の判断を圧迫してしまい、権威や集団圧力に強要され兼ねない。特に「正しい宗教」を主張、標榜している宗教の場合には、個人の中で成長してゆくべき神との関係を、モデル化し規定してしまうことに成り易い。

この点で「聖書」は、日本語でのその名称からして誤解を招く要素を持っている。聖書にはじめて向かう人々は、その書に人生への導きが有り、それに触れる自分を益するものとの前提を懐いていることがほとんどであるので、聖書が『あなた』と呼びかけている箇所の多くで、読者である自分に語られていると思うのは無理もない。だが、聖書がその人にとって益となるか否かを保証することはない。ただ、聖書に触れようとするところで、『神』に近づこうとする自分の姿勢を示してはいる。

だが、神の意図を汲み取ることが神への接近の目的であるのか、それとも、神から自分の益を得ることを専らに目的として読むには大きな違いがある。

一般的な宗教への認識では、神に近づいた分だけ益があるので、祈りや告解や、善行や参拝や巡礼など、総じて個人の益に目的を持つ。しかし、聖書はそのようなものではないと言える。

聖書に内在する神の意志は『この世を救う』ことにあり、個人の益を達成することを神は目的とはしていない。人の救いは、常に人類を『罪』の横行する空しく害多い世界から救出するものであって、その大多数の救いの中に個人は包含される。

従って、この信仰を持つことは利己的である者には困難となり、そこで人の内面による選別が起こることになる。これが神の裁きの根本となるのであろう。

神が人に求める最も基礎的なものは、『神と人とを愛する』ことであり、この大前提はけっして揺らぐことなく、聖書に近づこうとする人々の内心をも試すものとなっている。キリストの当時の宗教家らが抱えた問題はここにあった。

 

 

・「字義通りの解釈」という方式に正しさを見出し、著者の意図に達するというのであれば、その意味は著者のところで終わってしまう。だが、霊感された預言された言葉の中には著者の意図をも超えているものが少なくない。しかも、それらが相互に暗示を与え合っているところではじめて意味を成すという人と人意思の疎通を超えた意図の伝達があり、それは「字義通りの解釈」では分け入ることができない領域に属しており、人の中の霊的ひらめきを要するところがあり、しかも各人によってその結論が異なってくるものであり、そこが聖書の超絶性であり、人の主観的判断を必要とするが、そこに「信仰」が含まれる。しかも、その人の内奥の動機によってその理解は変化する。

 

・あやされず話しかけられない嬰児は死亡するという、フリードリヒⅡ世の無慈悲な実験にしても、孤児院の嬰児に関する伝聞でも、言葉を介した接触を人は必須としている。人は言葉を介して思考するようになり、意思を伝達することにもなる。

この観点から『人はパンだけによらず・・』を捉えると、創造者と人間の関係の接点が見え、それは日々の命を支えるのが食事だけでないことを他者との関係性、第一に創造者との接触、意志の疎通がもたらす永生について暗示しているようである。

エスは『パンだけによらず』として人としての肉の必要は含めているので、悪魔の誘惑に対しては、そのとき奇跡を当面の肉の維持に用いることで、神との関わりによる永遠の命を無視してしまうことを拒絶したと見ることができるように思われる。そこに悪魔が誘惑した狙いがあり、それはイエスと神との離間を謀る策であったろう。ホクマーであった存在が人間としての本来的必要にバランスを取ったのは、人として適応の見事さを見せると同時に、すべての人間への教訓ともなっている。