・Luk18:8 λέγω ὑμῖν ὅτι ποιήσει τὴν ἐκδίκησιν αὐτῶν ἐν τάχει. πλὴν ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐλθὼν ἆρα εὑρήσει τὴν πίστιν ἐπὶ τῆς γῆς;
上の句 [λέγω ὑμῖν ὅτι ποιήσει τὴν ἐκδίκησιν αὐτῶν ἐν τάχει]
「聖徒の祈りに対して神は速やかに反応し彼らを擁護される」の意
聖徒の迫害と受難を前提としているとみられるが、聖徒の生き残りへの言葉であろう
[ἐκδίκησιν] 復讐する [τάχει] 素早く
下の句 [πλὴν ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐλθὼν ἆρα εὑρήσει τὴν πίστιν ἐπὶ τῆς γῆς]
[πλὴν]にも関わらず [ἐλθὼν]来る [ἆρα]確かに [εὑρήσει]見つける
文頭のプレーンは、「聖徒云々の以前に信仰そのものが見られるのか」という意味を強調している
・『わたしの名のゆえに』とは、『あなたの名によって多くの業を行った』に対応するのでは
・聖徒と信徒の区別がないと
聖徒の『偉大な者ら』の権能や立場を奇跡の聖霊を持たない一般人に与えてしまう。
人類の祝福となるべき『天の王国』が信者のための「天国」になってしまい、信仰による人類救済の利他性が、限定された会員制のような利己性に置き換わってしまう。
・他者への愛を培うべきなのは、それが信仰の基礎となるからである。
神への愛は、その経綸の意図を知る必要がある Ga5:6
しかし、知識による信仰では不十分であり、それは無垢であったアダムとエヴァの状態に過ぎない。宗派の徒になったからといえ信仰者としては未知数である。信仰とはそこまで奥深く、試金石たる存在の関与を要請する。そこに『蛇』の存続意義がある。
それがシオンの徒にどこまで求められるのか、現時点では分からない。それが裁きとなり得るからであろう。したがって、シオンに集まった人がそのまま救われるとは云い難い。この難しさを無視するなら、一種の罠にはまるのであろう。暢気に構えてはいられないはずなのだが・・
・教会のキリスト教の外部へのメッセージは「他者への優越」である
聖徒への特権を信徒に与えてしまったところに原因がある。
その優越感が自分たちを高みに牽引し、向上させるともされている。
西欧人の植民地支配にはキリスト教の優越感が影を落としている。
・教会員の求めるものは、諸悪満ち、死を迎えるべき『この世』からの直接的、個人的安寧である。それを得られるのは教会に帰依した限定された信者だけであると教えられると、その格別さを却って喜び、その稀な機会を得たことに真実性まで感じているらしい。これは教団側からすれば人集めに都合がよく、それなりの聖句も存在しているので、深く真意を汲みさえされなければ教会組織は安泰と感じられることであろう。
だが、このようなモデルは宗教ばかりでなく、政治にも商業にも、ときに教育にも見られる。これは『この世』の型ではないだろうか。「騙される快」というものがあり、人は何であれ、安心したいものであり、この世のストレスは確かに耐えがたい。だが、モルヒネが苦痛を楽にしても、治療をしないのなら悪化する。
・”ユダヤ人の学者、アバ・ヒレル・シルバーは、当時の「一般に流布していた年代計算」によれば、「メシアは西暦1世紀の第2四半期ごろに現われるものと考えられていた」と書いています。” WT98.8/15p14
この人物に関する由来は解説されていない
まず以って、「ヒレルが父」とは大胆な名前ではある
・教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた。
佐々木毅 『主権・抵抗権・寛容 ジヤン・ボダンの国家哲学』岩波書店
⇒ すべてのものを彼の下に服させたのであれば、彼に服さないものを一つも残さなかったはずである。しかし、我々は依然としてすべてのものが彼に服している姿を見てはいないのだ。(ヘブライ2:8)
神は我々を闇の権威から救い出し、御子の王国へと移してくださった。(コロサイ1:13)
この句には長く論争があったと聞く
・国家権力という野獣
ダニエル書中で、国家は野獣に例えられ、それは黙示録でも同様である。
また、特に独裁者は旧約の中でも肉を引きちぎるライオンとされてもいる。Pr28:15
野獣が人間を襲うように、人間は国家を必要としていながら、その害も免れない。
国家が暴力に立脚しているのは人間が不道徳だからであり、国家の性質は民の倫理性の悪さの裏返しとなっている。
それであるのに圧政や失政や指導者の無能からの困窮であれ、戦争や騒擾の結果としての人の害であれ、民の受ける苦しみは少なくない。人間による統治とは目的から破綻している。
西欧と米国が主導してきた民主主義の前に、独裁的国家は恣意的で腐敗が進んで行きやすいので前時代的野蛮が強調されることにはなる。今日の独裁国家が民主主義の看板を掲げるのは民衆を宥める口実にはなっても、形ばかりの選挙や圧倒的な支持率という非現実はもはや宗教の領域に入ったと言われても実態ある反論は不可能であろう。
これら圧政国家はネヴィイームの中ではアッシリアを典型として描かれており、貪り食うライオンでありながら、ナホム書でもダニエル書でも突然の崩壊が予告されている。
それが即ち、セレウコス朝シリアに象徴される宗教への介入まで行い、終末の聖徒の崇拝を破壊し、荒らす憎むべきものを建立する終末の予型とされている。
だがしかし、圧政的には見えない民主的な国家が野獣で象徴されないかと言えば、そのようなことはなく、人を害することに於いて野獣の本質は変わらない。むしろ、民主的外見に包まれているために、人は単に圧政との比較によって幾らかマシに見えるだけの野獣を正義に見立ててしまいがちである。
・『共同の相続人である』の句は相当に誤解されている。
一般的教会では相続物は「天国」であり、信者がキリストと顔を合わせて至福の生活に入ること、また、キリストと『共に苦しむなら』の条件を、人が受ける世での生活苦にしている。そこで『自分の十字架を背負って続く』が無く、『御霊の初穂』が無視される。Rev14:4にも有る
つまりは、ただの人である「クリスチャン」方が、世で苦労しているのがキリストの苦難を分け合うことだという。だが、世での苦労なら誰でも受けているのであり、信者か否かに関わりなく、異教徒も無神論者もキリストと苦難を共にしていることになる。
諸教会の言う『相続』にはアブラハムへの約束から来る『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』という概念が無いのだが、それはキリストの犠牲の目的を「信者の救い」に限定し、キリスト教界が古来、組織構築と人集めに奔走した結果からくる歪曲であり、そこで「天国と至極」の存在も要請されてきた。
その結果、キリスト教を、信者がこの世という修羅場と死の恐怖から逃れる宗教としてしまい、外部に対して閉鎖的にならざるを得なくなった。それが『地のあらゆる氏族』を度外視した内向きな幸福を願う利己的な人々を量産することになった。
諸教会のこの点での主張は、「信者にはこれほどの祝福がある」になっているが、それは、教団の勢力拡張のため、聖書中から耳障りの良い言葉を集めて信者になるメリットとしてきたからのように見える。だが、『新しい契約』に与るには、自己犠牲とキリストの受難に続く困難が求められていることはまず教えられていないようだ。
・キリストの時代にイスラエルは律法不履行の罪からの救済を必要としており、キリストの犠牲は、まず、彼らの罪からの救出をもたらしている。(使徒5:31/13:38-39)
但し、メシア信仰が求められたのであり、ペテロが言った『救いを得るために呼び求めるべき名』とは明らかにナザレのイエスの名であった。(使徒4:12/10:43)
しかし、『呼び求めるべき名』がキリストだけを意味しないのは、同じくペテロがヨエルを引用したことで明らかに「YHWH」を指しているものも新約中でも多くそれは旧約の引用箇所ばかりでない。
それであるから、教会とものみの塔は両極端で不毛な論議を繰り返すばかりで、一向に真意に近づかないでいる。不毛というのは、論争が自己正当化の道具になっているだけで、共に解答を見出そうとはしないからである。つまるところ、自分が正しいとして人が集まればそれでよいのであれば、どうして心が神にもキリストにも向くだろうか。その心の在るところは、教団や宗派であり、動機はご利益ではないか。そこに彼らの『宝』が有る。だが、どちらも死と空しさから逃れたいことでは同じなのだが
特に問題となっているのは、契約の異なりと契約の対象者が誰であるかが置き去りにされていることである。
・Isa57:16『わたしはいつまでも果てしなく怒りはしない』
では地獄というのは何か
・ネフェシュに関して、人は種を撒き、神はそれに体を与える (1Cor15:37-38)
魂は肉にせよ霊にせよ体を受ける主体といえる。であるなら『我が魂をシェオルに捨て置かれず』とは象徴表現になり、体と霊とを受ける本人の根源と言える。
聖徒の場合には、キリストが自らを小麦の一粒に例えたように、自らの忠節な生涯を地に撒くことを『種』と象徴してパウロは語っているが、それがその魂で成したことであるとも言える。
・パウロはコロサイで聖徒が受けた『手によらない割礼』を『肉体を脱ぎ捨てることキリストに属するための割礼』としている。象徴的「割礼」は耳に割礼がないだけではない。旧約の意味を超えるところがパウロにはある。
肉体からの離脱は聖徒の栄光でもあり、『この天幕が朽ちても、永遠の住まいが与えられる』(2Cor5:1-)
彼らにとっての死または離脱は、栄誉を受ける裁決の結果となることを期待するべき瞬間となり、そこで『生前に行ったことにより裁かれる』(Jh5:29)
その結果に『第一の復活がある』
聖人伝の多くに彼らの死について示唆的なところが散見されるが作り話ばかりとは言えないように思える。
キリストが『それは今だ』と言われたのは、まさに聖徒の生涯を送るべき時にユダヤが差し掛かっていたことを言うと捉えれば論旨は合う。
・「信仰」と聖書
信仰は個人の主観的な倫理的判断であり、個人がそれぞれの価値観によって評価するべき宗教上の決定である。
この点で、宗教の側が威圧的であると信仰は個人の判断を圧迫してしまい、権威や集団の同調圧力に強要され兼ねない。特に「正しい宗教」を主張、標榜している宗教の場合には、個人の中で成長してゆくべき神との関係を、モデル化し規定してしまうことに成り易く、それは信仰を阻害する。
この点で「聖書」は、日本語でのその名称からして誤解を招く要素を持っている。聖書にはじめて向かう人々は、その書に人生への導きが有り、それに触れる自分を益するものとの前提を懐いていることがほとんどであるので、聖書が『あなた』と呼びかけている箇所の多くで、読者である自分に語られていると思うのは無理もない。だが、聖書がその人にとって益となるか否かを保証することはない。ただ、聖書に触れようとするところで、『神』に近づこうとする自分の姿勢を示してはいる。
だが、神の意図を汲み取ることが神への接近の目的であるのか、それとも、神から自分の益を得ることを専らに目的として読むことには大きな違いがある。
一般的な宗教への認識では、神に近づいた分だけ益があるので、祈りや告解や、善行や参拝や巡礼や苦行など、総じて個人の益に目的を持つ。しかし、聖書はそのようなものではないと言える。
聖書に内在する神の意志は『この世を救う』ことにあり、個人の益を達成することを神は目的とはしていない。人の救いは、常に人類を『罪』の横行する空しく害多い世界から救出するものであって、その大多数の救いの中に個人は包含される。
従って、この信仰を持つことは利己的である者には困難となり、そこで人の内面による選別が起こることになる。これが神の裁きの根本となるのであろう。
神が人に求める最も基礎的なものは、『神と人とを愛する』ことであり、この大前提はけっして揺らぐことなく、聖書に近づこうとする人々の内心をも試すものとなっている。キリストの当時の宗教家らが抱えた問題はここにあった。
・「字義通りの解釈」という方式に「正しさ」を見出し、それで「著者の意図」に達するというのであれば、その意味は「著者」のところで終わってしまう。だが、霊感され預言された言葉の中には著者の意図をも超えているものが少なくない。しかも、遠く離れた句が相互に暗示を与え合っているところではじめて意味を成すという、人と人の意思の疎通を超えた意図の伝達があり、そのうえに言語の違いがもたらす多様な障碍もある。しかも、原語が古くなり過ぎて意味を正確に掴めないところも、意味が広くて著者の意図を限定できないところもある。それに加えて発音さえ断定できないものもあるのなら、それはもう「字義通り」ばかりを「正確だ」と言っていれば真意を掴み損ねる危険を敢えて冒すことにもなり兼ねない。聖書の真意、それは「字義通りの解釈」では分け入ることができない領域に属しており、言葉を超えて人の中の霊的ひらめきを要するところがある。なぜなら、聖書は論文でも法的証明書でもないからであり、確かに意味が伏せられたままの文言が非常に多く、ほとんどの宗派では平板な解説を付け加えるのがやっとの文章が無数にある。しかも時代時代の各人によってその結論が異なってくるものである。そこが聖書の超絶性であり、人の主観的判断を必要とするが、そこに「信仰」が含まれる。しかも、その人の内奥の動機によってその理解が変化する。それは恰もその人の心を写す鏡のようであり、誰にでも普遍的に真意を把握できるような書ではない。むしろ、その人の内心が解釈によって暴かれるのである。
これを怖ろしいと思わないのが大半のキリスト教徒、またユダヤ教徒というものであり、イスラムはまったく道から外れていながら、正義感では殺人をも厭わないまでに徹底している。いったい一神教とは正義を巡った分裂なのだろうか。いや、たいてい宗教も似たり寄ったりであり、互いの違いを乗り越えるものを持っていない。それであれば、宗教の正義感はどこから来るのか?アダムの罪からではないのか。そうであれば、宗教論争などまったく無益ということになる。むしろ悪を増長させているのだから。
・あやされず話しかけられない嬰児は死亡するという、フリードリヒⅡ世の無慈悲な実験にしても、孤児院の嬰児に関する伝聞でも、言葉を介した接触を人は必須としている。人は言葉を介して思考するようになり、意思を伝達することにもなる。
この観点から『人はパンだけによらず・・』を捉えると、創造者と人間の関係の接点が見え、それは日々の命を支えるのが食事だけでないことを他者との関係性、第一に創造者との接触、意志の疎通がもたらす永生について暗示しているようである。
イエスは『パンだけによらず』として人としての肉の必要は含めているので、悪魔の誘惑に対しては、そのとき奇跡を当面の肉の維持に用いることで、神との関わりによる永遠の命を無視してしまうことを拒絶したと見ることができるように思われる。そこに悪魔が誘惑した狙いがあり、それはイエスと神との離間を謀る策であったろう。ホクマーであった存在が人間としての本来的必要にバランスを取ったのは、人として適応の見事さを見せると同時に、すべての人間への教訓ともなっている。
・世に在って人は、自らの魂を生き永らえさせるための労力と時間とを奪われ過ぎている。そのために神の意志や経綸に想いを馳せることから遠ざけられている。それが悪魔の支配の思惑でもあると思われる。生きるために人は利己的に考え振る舞うことを強いられている。例え満ち足りたとしても、その充足をもたらしたのが利己的行動であると自覚すればもはや神に心を向けることは難しい。その「道」に生きることを当然とも思えば、その人はこの世によって人格を形成され、あるいは自らそれを選び取ることもある。それであるから、この世とは悪魔的な精神を培わされる場であり、悪魔に与えられた世界である。
そこで『安息日を覚え、これを神聖なものとせよ』とは人が世の道にはまり、悪魔の精神に埋没してしまうことから人を救う意図もあってのことであろう。七日に一日を静養するに留まらず、神に意識を集中させ、世の汚れを忘れてしばしの聖なる想いに浸ることがイスラエルに義務付けられたのであれば、律法の通りに七日に一日であるか否かは別にしても、定期的に聖なる事柄に注意を向けることは人を神の想いに近づけることになろうから、西欧キリスト教が休日をHolydayと呼んで教会に集う習慣を持ったことは適切であったといえる。肝心なのは、そこで神の言葉の真意に少しでも触れることにあり、教会で時間を過ごしたからといって、普段の悪行の免罪符を得たように思うべきでなかったのは言うまでもない。
問題は、そこで何が教えられているのかということになろう。
捕囚の身となった民に神はエゼキエルを通して再三『安息日を清めよ』と命じられたが、イスラエル民族が罰せられた原因がそこに集約されているであろう。彼らの父祖らは異教の神々、即ち繁華な都市の気ままさ、奔放さ、利己的振る舞いなどに犯されていたのであり、それはただ純粋にYHWHを崇拝するべきということを超えた問題であったといえよう。
後にユダヤ教徒は、律法の表面を守ることに集中し、このような都市と荒野との精神の違いに心を向かなかったのであり、むしろケニ人にアブラハムからの族長の精神が保たれており、エレミヤにそのことを神は告げさせている。
・「YHWHは生きている」誓いや確言の常套句
[חַי־יְהוָ֖ה אִם־יוּמָֽת׃] [אִם]「否定」[יוּמָֽת]「殺される・死ぬ」
英文では "As the Lord lives, he shall not be killed." と訳されることが多い 1Sam19:6
サウルはヨナタンに誓ってダヴィドの命を奪わないと保証している
[חַי־יְהוָ֖ה] とだけ発言されることもある Ps18:46 ”The Lord lives!”
ダヴィドがサウルから逃れた後の句で、神が彼を諸国民の頭とする、敵は堡塁からわなないて出て来るとの場面でもちいられている。
これは神に懸けての誓約、また確言に付随して用いるが、同時に神が不可触であることも明かしている。死ぬことのない神YHWHを称賛しつつも、それが顕現されていないゆえにこの言葉が成立する。
また、「死ぬことのない神」の概念は、三位一体説の反証でもある。
・原罪論は基礎であっても、土台であるからしっかり据えられていなければ、その上に立つ他の理論が揺らいでしまう。
その基本は、神の裁きは悪行を防止するために誰かを「悪人」を決めるところにはない。ただ、悔いない者を致し方なく消滅させるのであって、人間の見地から善悪で人を区別するところにはない。
これは古今、宗教というものの中でキリスト教に限らず俗論として広まってきたものであり、背後には人が「自分を善人とする欲」が関わっているのであろう。これは人類に普遍的であり、多くの人々が気づいていない。これがキリストに抗した精神であり、人の内心の根源的な自分を高める欲求が働いている。ここにこそあらゆる倫理問題の根が潜んでおり、その根からはこの世を覆い尽くすほどの雑草のように、自己正当化の葉が繁茂している状態にある。
この世は、悪行を規制し秩序を守ることを善としなければ立ち行かないので、人々は終始この類の教えの洗脳に晒されている。新約聖書はこれをパリサイ派や祭司長派の姿に明確にまたメシアとの対照に於いて究極の姿として描き出したといえる。その到達点がメシア殺害であった。「自分は正しい人間だ」と思うからこそ、メシア殺しができたのである。だが、本質的な善や義を人間は持たないし、誰も会得も体現もできない。
この精神の内に留まる限り、その人は「聖霊論」には到達しないうえ、聖徒を聖霊と結びつけて祭司として見ることに困難を覚えるであろう。なぜなら、聖徒とは律法によって一度裁かれるからである。これは相当な謙虚さを要するし、キリストと共に死ぬ自己犠牲を自己の目的と見做せなければ聖徒存在の余地はない。いわゆる「善人」にはこれができない道理がある。自分を高めることを内心の奥深いところでは望んでいるからであり、それはキリストとも聖徒とも正反対の精神にほかならない。
大半のキリスト教徒が陥っている最大の問題はこれであろう。その頑なな正義感は、自分を高めることを目的としており、自分が罪人であると思うなら、自ら他者の善悪を云々などとてもできたものではないからである。そのキリスト教徒という主張とは裏腹に、彼らの内心では密かに悔いを拒んでいるのであり、それがキリスト教の大半を形成しているではないか。
・人は本能的に自分を保護しようとするので、死や神の前の断罪を避けようとする。
しかし、神は人間を被造物として自らの象りに作り、あらゆる魂を永らえさせるためにキリストの犠牲を備えた。キリスト教信仰とは、本来この神の備えを受け入れて信じることである。キリストの犠牲の精神は被造物の示す究極の利他性であり、それはアダムの罪を打ち消すだけでなく、理知ある被造物の全体を包む倫理を打ち立てている。
人の前には二つの自己延命の対処法がある。
一つは自らの倫理不全を認めて悔い、キリストの犠牲を受け入れることであり
もう一つは、自分は神の前にまともな人間であることを示そうと、自分より罪の重そうな周囲の人々と比較して、自分は神の是認に値しているので安泰であると主張することである。
この二つの態度の心の奥底には何があるだろうか?
罪深い者との自認がある者の方が、神の救いの手立てに望みを掛け易いことはキリストの初臨でのユダヤの人々の反応の違いに明らかとなっている。
それでもなお、クリスチャンは自分のまともさや受洗したことを根拠に却ってキリストの救いを拒むとすれば、キリスト教とは恐ろしく逆説的である。しかも、聖徒理解のないところで、新約聖書は多くの箇所で諸教会の教えのように読めるのである。
彼らが、「正しい生活」「正しい聖書」「正しい宗派」に拘るのは、「正しい自分」であるとの主張から導かれるが、その以前に、自分を他者との比較によって善悪判断を自ら行っている。その目的は自己保存にあり、神の前の義について他者を切り捨てるところで利己性は免れない。自分にアダムの罪があるとしても、自分はまともで正しいのであるから、神は自分を救うと決めつけることが、彼らにとっての神の救いなのである。
・Ps116:15
[יָ֭קָר בְּעֵינֵ֣י יְהוָ֑ה הַ֝מָּ֗וְתָה לַחֲסִידָֽיו׃]
[חֲסִידָֽיו] 「忠節な者」(はシデュゥ)、広く訳されるような「聖なる者」ではない。