約束の地の所有権について
『 もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行い、あなたがたの神、YHWHを愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。
あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。
だれもあなたがたに立ち向かうことのできる者はないであろう。あなたがたの神、主は、かつて言われたように、あなたがたの踏み入る地の人々が、あなたがたを恐れおののくようにされるであろう。
見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう』。(申命11:22-28)以降ゲリツィムとエバルの取り決め
『 あなたが追い払うかの国々の民は卜者、占いをする者に聞き従うからである。しかし、あなたには、あなたの神、YHWHはそうする事を許されない』。(申命18:14)
『 18:24 あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、
18:25 その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。
18:26 ゆえに、あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守り、これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行ってはならない。国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者もそうである。
18:27 あなたがたの先にいたこの地の人々は、これらのもろもろの憎むべき事を行ったので、その地も汚れたからである。
18:28 これは、あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないためである。
18:29 これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行う者があれば、これを行う人は、だれでもその民のうちから断たれるであろう。
18:30 それゆえに、あなたがたはわたしの言いつけを守り、先に行われたこれらの憎むべき風習の一つをも行ってはならない。またこれによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。』(レヴィ18:24-30)
『あなたがたはわたしの定めとおきてとをことごとく守って、これを行わなければならない。そうすれば、わたしがあなたがたを住まわせようと導いて行く地は、あなたがたを吐き出さぬであろう』。(レヴィ20:22)
アブラハム契約は後に約定となったが、イスラエルへの土地の贈与と言えば贈与と言えるが、そこに条件が付けられていた。その条件を満たさない場合にイスラエルと言えども『土地から吐き出される』とされていたところは無条件なものではなく、実際に彼らはバビロン捕囚を被っている。これからすればアブラハム契約も律法契約に同じく「片務契約」とは言えないことになる。
では、その契約は「使用貸借」であったかと言えばそうも言えず、「贈与」に条件が付けられた契約であり、イスラエルの定住によってアブラハム契約が終了しなかったことは、続く律法契約にアブラハム契約の内容がより詳細に示されたところに明らかで、しかも、律法契約はイスラエルが土地から『吐き出される』危険を語り、それはカナン人の掃討によってイスラエルが体感したところであった。
しかし、イスラエルへの契約そのものが解約されたとは言えず、律法体制は再興され、ユダを中心にした諸部族の帰還があり、それは『新しい契約』へと継承されてゆく。しかし、その契約の更改にはメシアを要しており、受け継ぐべき『約束の地』が「カナンの地」という概念を越え、アブラハム契約と律法契約とは異なる「地」の概念を要するものに換えられている。
新しい契約についての事項は非常に曖昧であって、明確な契約の実態が聖書中に書かれていないが、ただ、アブラハム契約と律法契約の中で示されたイスラエルという民族が、諸国民への神の目的に用いられるものとなるという部分について一貫し、より古い契約の内容を補足している。また、新しい契約も明らかに双務契約であり、『選ばれる者は多くも、召される者は少ない』、『入ろうと努めながらも入れない者は多い』などのキリストの言葉にそれが表れており、教会で言われるような「救いは永遠」というのは、神の契約の先予を誤解しているのである。神は契約を結ぶ者を始めから疑いはしないからである。
但し、カナンの地の贈与について『新しい契約』は述べず、むしろ全地を支配する支配権に置き換えられている。そこで『新しい契約』では具体的な「カナンの地」は意味を持たないが、別の意味でカナン入植が敷衍されている。(これを説明するにはたいへんな労力が要る)
こうしてみると、アブラハム契約から新しい契約へと移り変わりながらも、神の「アブラハムの子孫」に対する目的は変わらず、当初アブラハムに示された契約の言葉は、具体的な意味を超越しながら一貫していたということになる。
しかし、これらの契約を人間の契約の取引の見方で見るとすれば、あちこち契約内容に躓くに違いなく、神の視点に立った相当に霊的な見方を要する。
おそらく、この件も一定の人々を振り払うための罠となっているようである。
血統上のイスラエルは、その血筋を誇ってパレスチナの領有を神意であると思い込むとしても、メシアの仲介した『新しい契約』を認めず、無いものと見做す以上は不自然ではない。しかし、それはモーセ自身が『わたしのような預言者が現れるなら、それに従え』との言葉に反していることにもなり、『従わない魂には言い開きを求める』というその警告の危険性を無視していることになる。
バビロニアの攻囲によってエルサレムが陥落したことを知らされたエゼキエルに神は、ユダの数々の罪咎を挙げ、彼らがその土地を所有して良いだろうか?と言われる。
後にメシアが現れ、モーセの契約が不履行に終わったことがメシア拒絶によって明らかになったのであれば、バプテストの警告のように「火のバプテスマ」が律法体制にしがみついたユダヤ人に臨んだのも、律法契約についての神意が示されたと見る必要があり、いまさら『罪』を浄め得ない動物の犠牲を続ける必要のないことは明らかであるので、立法契約はメシアの犠牲の価値を示し、人に『罪』があることを明らかにする働きを終えている。
イスラエルは律法不履行の『罪』をもメシアの犠牲によって相殺される機会を得たが、それをも退け続けてきたのであるから、『約束の地』に入って以来『聖なる民』とされてきた時代は、キリストの犠牲と共に終わり、聖霊によって生み出された『神のイスラエル』にその立場は置き換えられている。
だが、その『新しい契約』の締結期間は現在まで『三年半』を残すばかりであるので、これまでの千八百年ほどの間に神との契約関係に在った者はだれも居らず、現在も絶えて居ないことになる。
契約に在ることを証しする奇跡の賜物を示す『聖霊』を持つことを示せる者が存在していないからである。
つまることろ、ユダヤ教徒は律法契約の継続を信じ込み、キリスト教徒は新しい契約が何であるかを知らず、そのため、神意というものを探ることではユダヤ教に引きずられ、イスラエル民族が「神の時間表である」、また、イエスがオリーヴ山に降臨されることでユダヤ人もキリスト教徒に改宗するというように、モーセの先の次元を切り開いたキリストの役割を理解していない。
再臨のキリストは肉眼で見えることにし、聖徒という代弁者について共観福音書が述べることにはほとんど配慮せず、『雲』という不可視と、『裁き』の不意さに注意しないところで、パレスチナや地上のどこかを「新しいエルサレム」などと呼んで固執するなら、再びユダヤと共に命運を共にすることを覚悟しなければならないのだろう。
いずれにしても、過去のカナン征服と、今日のパレスチナ入植とはまるで別物であり、両者を分けるのは神との契約である。