Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

「律法」 国法としてのトーラーの見方

◆「法」というもの

創造論的に、元々が自由な思考者である人間に対しては、法を定める権威付けも必要になり、古代には支配者だけでなく、神の権威が用いられることもあった。それは社会法だけでなく度量衡律についても言える。

人が人を律することは、人以上の介在を想定することにより、その規準への従属は被支配民以上の権威に従属の同意をもたらした。特に律法の場合、神に勝る権威者はない。しかし、律法では「預言者」という媒介者が居て、主に王権が立てられて後に、支配と支配者に関して、民の律法履行状況に関して申し立てを行う役割を担っていた。この預言者らは、王権の衰退と消滅に伴い、律法による支配以上のもの、『新しい契約』による「千年支配」について語り始めている。

 

◆法は権力を伴う

「神名義の支配」は、神にある役割を負わせる意識を人の側に誘発もすることになる。それが勧善懲悪の裁き手としての神であり、特に一神教で典型的に見られる。

しかし、これは人間に根付く不倫理性についての理解を奪い易い欠点がある。

最も誤解されやすいのがモーセの律法である。

この律法には、単に社会秩序を与える役割だけでない深い意味があるが、パウロに至るまで、悟られて来なかった。

神はこの律法に、人間の不倫理性の告発をも行っていたのであり、是認される善人をアダムの子孫から選び出すという目的はまったく持っていない。

 

ホッブスが「背後に剣の無い契約は意味がない」と言うように

人と人とを規制する「法」と「権力」は、『罪』ある人間社会にとって必要不可欠である。そこでシナイ山の激動と百雷が果たした役割は、支配者としての権力の表明であり、理に適っている。これが『罪』ある人間への対処法であり、それは神も人も支配する以上は変わりない。

「律法」も『罪』ある人間に対して、その必要を満たす目的から来ており、創造のままの無垢の人間には無用なものである。

 

ユダヤ教のトーラーの見方

この点で、ユダヤ教はそもそも「原罪」の概念を持たない。なぜならトーラーがアダムの子孫である『罪』ある人に『義』をもたらすと信じるからである。

その概念そのものは間違っていないが、トーラーによって『義』を得るのは、唯一メシアだけである点が欠落している。メシアがアダムの子孫として生まれていれば律法はいつまでも成就されないからである。(その原因は贖罪されるべき『聖なる者』カドーシュの意味が新約聖書に拠らなければ理解できないところにある)

従って、律法はイスラエルという血統に属した国民に秩序を与え、その神YHWHへの崇拝方式を規定し、生活上に福利をもたらしていたが、そこに人間に巣食う『罪』を指摘し、同時に『罪』のないメシアを指し示していた。

使徒パウロが『キリストは律法の終り』と述べたのには、エシュアというメシアが、その生涯を通して『律法を成就』し、全人類の『罪』を贖い得る「無罪者」つまり『義人』であることを示したことに於いて、トーラーは見事にその役割を果たした事を教えるものである。

 

◆メシア以後のイスラエル

しかし、エシュアをメシアと見做さなかったユダヤ教は、トーラーそのものの意義を見失った。

特に神殿祭祀の意義についてはまったく新約聖書の理解領域に達することが出来なくなり、今日21世紀に至るまでもエルサレム神殿の再建を夢見ている。

だが、人間に巣食う『罪』を贖う価値を持つ『罪のない』メシアの犠牲が捧げられた後に、動物の犠牲を捧げ続けることは頑迷な退行にしかならない。

トーラーには依然、将来的意義が込められているところが残されてはいるが、それは神の意志に従った人間のあるべき姿を形作るものではなく、古代の農耕牧畜を主とするかつてのイスラエル民族の社会に適用されるべきものではあったが、既にヘレニズム時代には、諸国民との密接な交渉が行われる交易の中で時代遅れになっていた。そのため、イスラエル民族は自らの社会を外に対して閉ざす傾向を免れなかったが、それはメシアの到来を準備する社会を作り上げる点では価値があった。

だが、その閉鎖性は、同時に自己義認という慢心を与える隙もあり、実際にその自己中心的な高慢さは、現れたエシュアとの衝突を惹起した。それがパリサイ主義である。

 

◆メシアニックジュー

ユダヤ教は今日までもパリサイ主義であり、基本的な姿勢は変わっていない。それはメシアニックジューにしても同様であり、ユダヤ教パリサイ派のままでエシュアがメシアであったと認めるものの、依然としてトーラーを守り『義』を得ようとする根本は変わらない。それゆえメシアニックジューはキリスト教と称することは出来ず、恰も第一世紀のエシュア直後の「ユダヤ教ナザレ派」の再現のようになっている。

メシアニックジューの彼らは、エシュアをマシアハと認めはしても、人間に『罪』があり、それはどんなにしても人間自身には払拭できないもので、それをエシュアの犠牲による『赦し』によってのみ得られるという「キリスト教」の神髄には達していない。そこで依然としてトーラーに従う生活を続けることを奨励することになり、また、エシュアはトーラーを守るように教えたのだから、キリスト教徒さえトーラーに従うべきだと主張している。

 

◆律法制度の終焉

ユダヤ教徒にせよ、メシアニックジューにせよ、トーラーが与えられたときに神はそれが『永遠の定め』と言われたからいつまでも守るべきものだと主張されるところがある。しかし、エデンでアダムに与えられず、族長時代にも無く、アブラハムの裔であるイスラエル民族が自治を始めるところで与えられたという経緯、また、ヘブライ語での『永遠』には『定めない時まで』の意味が含まれることにも注意されるべきであろう。

 

また、メシアの観点は更に重要である。

律法が指し示したメシアによって律法そのものが成就され、人類のための『完全な犠牲を一度限り捧げた』後に於いては、地上の神殿祭祀がその動物の犠牲と共に不要となったことは明らかであり、使徒パウロが言うように、『古いものは消えて行く』べき理由があったと言える。

 

それが神意であったことは、メシアを認めず退け、エシュアを処刑させたユダヤ体制が、エルサレム神殿もろともにエシュアから37年後という『この世代』の内に、即ち、エシュアを殺害したユダヤの世代の内に律法体制全体が滅ぼされ、以後は律法の完全な施行が不可能となったことに表れている。これは他ならぬエシュア自身が予告されたことであり、その原因はメシアの到来によって彼らが査察され、不信仰を顕著に表したことであることも指摘された。

 

◆律法の今日的意義

それでも、かつて存在した祭祀には、メシア=キリストによる贖罪の意義が投影されており、模型的にそれを俯瞰することには依然として意味を持っている。

また、安息日には『聖』であるということが何かを、世俗との対照によって教えられており、『この世のありさま』が神意から逸脱した『アダムの子ら』の『罪』からのものであることも示している。

また、律法に於けるキリスト教との対照のひとつとして『割礼』があるが、これはアブラハムの子孫繁栄によるイスラエル民族の確保という目的を指している。

モーセは『心に割礼を施される』ことを語っており、それは捕囚に悔いた民が再び集められることを指している。この点でエレミヤは『割礼を受けているのに、なお割礼を受けていない者らに言い開きを求める』との神の言葉を語っている。即ち、新バビロニアに倒されることになるユダ王国の民の実態をそう語っているのである。

後代にはナザレ派となったディアスポラステファノスが、自分を責め立てるユダヤの宗教体制派に対して『頑固で心と耳に割礼のない人らよ、あなたがたはいつも聖霊に逆らっている』と糾弾している。

パウロは、異邦人が割礼を受けるのなら『その人は律法を守る義務がある』と語り、『割礼にも無割礼にも意味は無く、愛を通して働く信仰にこそ意味がある』とも言う。

生まれながらに割礼を受け、トーラーの中で生活してきた人々からすれば、律法そのものが宗教的良心の発露となることは自然なことであろうが、その神意を汲み取ることでは、律法体制だけでなく、アダム以降エシュアに至るまでのの視界をもって全体像を俯瞰するべきと言える。

 

◆今後の展開予想

キリスト教界でも、聖書の全体から見ることが等閑に付され、特に一般信者の中では旧約聖書への理解度が低く、そこにキリスト教自体への理解も不足してきており、キリスト教界のキリスト教の意義の把握は脆弱な状態にある。

そこにユダヤ教とその文化が影響し易い趨勢にある。特に旧約の預言についての浅い理解は容易にイスラエル国粋主義に流れ易く、シオニズムが預言の成就に貢献したと解されがちである。

宗教教条への頑固さはユダヤ教に限ったことではないけれども、どれも神意よりは自己の理解や思想に義を立てようとする。その結果アブラハムに由来する一神教の三つは分立したまま対峙しているのだが、唯一、メシアに於いて共通項がある。

これは『偽メシア』に対して脆弱な状況であり、三つの一神教はそれを喜んで迎えてしまい、ユダヤ教側は神殿の再建に乗り出すであろうことは既に見えている。神殿が存在すれば、律法のすべての履行が再び可能となるのだが、それにキリスト教徒が同調すれば、自らキリストの犠牲を否定することになる。

しかし、「それはキリストの偉大な犠牲の記念だ」などと理由を付けて、律法祭祀を是認し、自らもシャロッシュ・レガリームなどでそれに関わらないとも限らない。イエスもそれに参加したなどと理由を付けることも可能であろう。『新しい契約』が何であるか、『神のイスラエル』がどんな民を指すかを理解しないからである。

もし、律法に退行するなら、その律法とその体制が予示した偉大な意義を、過去の模型に押し込めてしまい、人類を『罪』から救い、倫理の完全さに至らせ『神の子』である創造のままの人間回復という神の壮大な目的を忘れ、その救いを逸することになり兼ねない。

結局、大衆とは「雰囲気」に弱いものである。

第三神殿でも落成し、不思議を行う霊力を見せる偽キリストがそこに座すなら、三つの一神教の信者は平和が来たと確信するに違いない。作られた箱の上が少しでも光れば、大衆など簡単に「信仰」してしまうだろう。究極の「偶像礼拝」ではあるがそこに贖罪はない。666なのであるから。

 

 

◆ハバクーク2:4 ([חֲבַקּ֖וּק]「抱擁」)

「義なる者はその信仰によって生きる」パウロが二回引用

 [ בֹּ֑ו וְצַדִּ֖יק בֶּאֱמוּנָתֹ֥ו יִחְיֶֽה ]

信仰 [אֱמוּנָה](ヘムナー);「信頼性」や「忠節」とも言えるが、明らかにパウロはその意味で引用していない。Rm1:17

 もし、信頼性などと訳すなら、「律法遵守がその義人を守る」とハバククは言っていたことになってしまう。

しかし、当時の状況では律法がほぼ無視された時代であることからすると、この判断は難しい

 

パウロは1:5も引用しており、こちらも意味が深い