Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アブラハム遺産の相続

 

詩編2:7-9

主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く

 

詩編47:3-5

主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
 47:4 諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
 47:5 我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ

 

詩編78:62.71

神の相続物たるヤコブの民

 

イザヤ19:25

わたしの民であるエジプト、わたしの手の業であるアッシリア、わたしの相続物であるイスラエル

エレミヤ12:14

悪い隣人、わたしがイスラエルに与えた相続物に触れている者ら

エレミヤ52:19

相続物の杖(部族) この言いまわしはイザヤにもある

ミカ7:18

自らの相続物である残りの者の咎を赦し、違反を見過ごされる

 

使徒20:32

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねる。その言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを相続させることができる

使徒26:16

それは、彼らの目を開いて闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって罪の赦しを得、聖なる者とされた人々の間に有る恵みの分け前を相続させるようになるためである。

 

ローマ4:13-14

なぜなら、世界を相続させるとの約束がアブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく信仰の義によるからである

もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば信仰は無用となり、約束もまた無効になってしまう。

 

ローマ8:16-17

霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証して下さる。
 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であってキリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである

 

コリント第一15:50

肉と血は王国を受け継ぐことはない

 

ガラテア3:18

もし相続が律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。

ガラテア3:26-29

 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって神の子なのである。
 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは皆キリストを着たのである。
 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

ガラテア4:6-7

このように、あなたがたは子であるのだから神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく子である。子である以上、また神による相続人である。

ガラテア4:30-31

「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。
 だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。
 ガラテア5:21

非道な事を行っている者が王国を受け継ぐことはない。

 

エフェソス1:11-14

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました

それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
 あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
 この聖霊は、わたしたちが神の国を相続することの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

エフェソス1:15-23

こういうわけで、わたしも主イエスに対するあなたがたの信仰とすべての聖徒に対する愛とを耳にし、 わたしの祈る毎にあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。
 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちが相続すべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかをあなたがたが知るに至るようにと祈っている。
 神はその力をキリストのうちに働かせて彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられるあらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上に頭として招会に与えられた。
 この招会はキリストの体であってすべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ち満ちているものにほかならない。
 

エフェソス3:6

それは、異邦人が福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の王国の相続者となり、共に一つの体となり共に約束に与る者となることである。

エフェソス5:6

すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国を相続することはない

 

コロサイ1:9-12

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

コロサイ3:24

 あなたがた[奴隷]は、王国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 

テトス3:6-7

この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストを通して、わたしたちの上に豊かに注がれた。
 これは、わたしたちがキリストの恵みによって義とされ、永遠の命を望むことによって、王国を相続する者となるためである。

 

ヘブライ6:12

「信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ者」に倣うため

 

ペテロ第一3:7

妻と共に過分の恵みとして命を受け継ぐ者となるため

 

 

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旧約での「相続物」はイスラエルそのもの、つまり、神が相続物として与えるものを指すことが多い。敷衍して言えば、イスラエルそのものが相続物であるとも言える。『神の王国』とイスラエルは不可分であり、旧約聖書中でのダヴィドの王国が相続物と目されるのは、捕囚後に明瞭になり、メシアへと方向づけられてゆく。

対して新約では、『神の王国』が相続物であることがはっきりしている。異例なのは福音書に相続に関しては例えの中に『永遠の命』や『土地』が出るほどで、ほぼ言及されていないことである。福音書を越えたところで『新しい契約』が始まるためと思われる。

 

相続物は、『イスラエル』『永遠の命』『神の王国』『[アブラハムへの]約束』

従って、契約には『聖なる国民、王なる祭司』だけでなく、以上の相続物が関わっていると捉えることができる。

 

もし、聖徒と信徒の区別がないとすれば、それでも信徒が聖徒の役割を担うことになり、救いはやはり信者以外の人類に及ぶ以外になくなる。ならば、初めから両者の相違を認めた方がよほど良い。そうでなければ、キリスト教は信者だけの利己的な宗教となってしまう。それを押し通せば、キリスト教徒の主張は「優越感」に集約され、居丈高な人格を作り出すことになる。だが、西洋キリスト教の歴史を見ると、その植民地支配などで人種的優越性の裏付けとしてキリスト教が作用してきたように見えなくもない。白人至上主義の後ろ盾にキリスト教があったとすれば、キリストがユダヤ人として現れたことに矛盾している。また、欧州人の傲慢を打ち崩す大きな助けになったのは、近代日本の存在であったろう。カトリックは新大陸の地元民を人間か否かを議論しており、ラス・カサスが証言しているように、人間扱いをしたとは云い難い。それで『地のあらゆる民族の祝福』になれるものか。そのキリスト教は大いに問題だ。

諸教会がなぜ聖徒と信徒の違いを認めないかと言えば、その動機が自分の救いに、つまり死後に天国でキリストに迎えられ安楽に過ごすことに向けられているためであり、そこで聖徒にのみ与えられることが告げられている様々な褒章を、その利己心ゆえに横取りしようとするからである。

しかし、聖徒と認めるなら、アブラハムへの人類祝福の器としての神の選民の価値を見出し、キリストの救いを信者に限定すことなく、『聖霊』に対する信仰に基づいて、その赦しと救いは信仰を持って来なかった人々に押し広げられてゆくことになる。

この利他性に反対するのは、そのキリスト教が指導者と信者らの欲と欲とで捻じ曲げられてきたからであり、国家や人種の宗教となったローマ国教化以来、この世の宗教となったことによる当然の結末であった。

キリスト教界に広く暢気な幼稚さが見られるのは、信仰を持ったなら永遠の救いに入ったと教えるからであろう。そこに利己心への安住があり、それは終末の裁きを度外視する危険を冒すことである。