Quartodecimaniのノート

情報や資料のノートの蓄積

事象の順

 

・大いなるバビロンの滅びの時間位置

七つの鉢の終了には存命

当時、ハルマゲドンへの召集が行われる

「七つの頭を持つ野獣」の活動期間は42ヶ月
<これが延長されるのか、或いは特命期間を言うのか? または権威を失っても存続しているか>

『北の王』は「七つの頭を持つ野獣」と共に聖徒攻撃に成功
しかし、シオン攻撃の直前で消滅

『南の王』『子羊のような野獣』が「七つの頭を持つ野獣」の生ける像を製作
この段階で『北の王』は居ない

<黙示13章は野獣に関しての全体の流れをまとめているのか?>

 

大いなるバビロンを滅ぼすのは『十本の角』とされ「七つの頭を持つ野獣」は付随するように書かれる。
『十本の角』で表される『十人の王ら』は『彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える』(アオ)

『17:16 あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。
17:17 神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。』

聖徒征服の際にはその主体者は『獣』であるのが、上記17章での野獣は『十本の角』を備えてはいても攻撃の主体として描かれていないが、娼婦に対してはそうではなく、そこで『十本の角』についての初期的説明が加えられている。だが、それでも野獣が存在していないわけではない。
この曖昧さは、「七つの頭を持つ野獣」が既に偶像化しているからであるとすることは不合理でもない。

なぜなら、「七つの鉢」の段階は明らかに聖徒が去った後であり、「七つの頭を持つ野獣」の偶像化には『子羊のような野獣』が覇権を得ていなくては無理がある。

すると『十人の王ら』が娼婦を憎む理由というのは、「七つの頭を持つ野獣」が聖徒攻撃を行った時とは異なる情勢の変化を要請することにならないものか。それも十人こぞってそう思うからには、共通の利害が生じている。
それがおそらく野獣の像の崇拝ではないか。その崇拝には諸国家の利害が絡んでいるのであろう。
それは宗教紛争の解決ではないか。

 

ここで奇妙なことは

野獣崇拝に対する旧来の宗教の反応はどんなものか?拒絶するか迎合するか?野獣崇拝が大衆を惹き付けるのであれば、不承不承でも迎合するのであろう。

野獣崇拝は大戦終局まで存続すると言える。そこで『野獣の数字を受けた者には休みがない』とは、滅びへの警告と解して良いらしい。

だが、それで救いの門戸が閉じられたかは不明。その理由としては黙示6章の四騎士が挙げられる。大戦の終りはまだ世の終りではない。但し、背教体制は過ぎ去っていると見てよいらしい。世界はカオスに入っており、あらゆる公的管理は失われているがこの期間は短い。(一、二か月程度か)

シオン攻撃まで世情は今日と然程変わらないのかも知れない。しかし、大戦後は激変することになる。今日的情景は二度と見ないのだろう。今日的生活の維持は無理になる。

では、この直後の疫病を逃れた人々の管理はどうなるか?律法の授与に相当する秩序の要が与えられるか?王権の実施者は何者になるのか?

現在でもキリスト教コンサヴァーティヴにイスラエルかぶれは多い。

そこにメシアニックジューも被る。<実は異質だが>

ユダヤ教オーソドックスも見えるメシアさえ現れるなら神殿再建を認める。

イスラム岩のドームを守らないと終末に入れない。

これらの旧来の宗教そのものは、反キリスト崇拝に賛成できるのだが、その旧来の宗教団体を虐げる必要があるものか?

<あるとすれば、反キリスト自身の傲慢さか>

そこで『十人の王』の心に同じ想いを入れるというのは、政治問題に続く宗教的合一の利害ではないか。『平和だ、安全だ』

統一支配的ドグマは、当然そちらに傾くとは思われる・・が

その統一性に反するのは、旧来の宗教の区割りであり、シオンの存在であるように思われる。

 

ならば、聖徒攻撃の慫慂者である大娼婦が、次なる攻撃対象となる情勢の変化は、獣崇拝によるユーフラテスの水位の減少以上に、獣崇拝に伴う利害が大きいからという推測が成り立つ。

 

大いなるバビロンの滅びの時間的位置は、当然ながら聖徒攻撃の後であり、『北の王』の没落後で、且つ獣の崇拝が建てられた後で、諸国の利害がはっきりとしている中でのことになる。

更に、黙示録の『鉢』の記述からすれば、『ハルマゲドン』への諸軍の召集の後になる。

これは、シオン攻撃に参加することを表向きの名目としつつ、最初の矛先は内密の内に娼婦に向いてゆくことを指しているのであろう。

そこで娼婦に属する者らは、それを予期しておらず不意打ちになる。

その根拠としては娼婦の既得権益者らが嘆くところに表れている。

 

であれば、『神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされた』というのは、『十人の王』に対して陰謀を企てるよう神が彼らを動かすことを言う可能性があり、その突然の滅びは、イェフー王の騙し討ちの故事を彷彿とさせ、且つ、イゼベルが犬に食い尽くされた事例を指し示してもいる。

その場はナボテという無辜の者、聖徒らの象徴の土地で晒しものとされるのであろう。

 

だが、この理解は諸宗教界には信じられないことになるのだろう。

脱落聖徒らの世との妥協が、究極的正義に見えるとき、大いなるバビロンはそれを後押しさえしているのかも知れないが、それこそは終局を招く愚行となる。イゼベルが化粧をしようと無益ではないか。

 

結論として

大いなるバビロンの滅びは、ハルマゲドンの戦いの直前に位置し

諸王がそれを征服し殲滅するので、諸国の軍は意気を上げシオンも同様に平らげるものと思うのであろう。

 

バビロンが滅んで後、シオン攻撃までどれくらいの時間があるか。

一旦は休止が入るのか。

おそらくは既に『鉢』で警告が与えられているため、時間は然程残っていない。

むしろ、ハルマゲドン後の二つの災厄、特に最後の疫病について、モーセの蛇の効果が残されるのかも知れず、そちらに時間を取る理由の方が大きい。

だから『測ってはならない』と言える。

仮小屋の祝いに参加する時間は依然としてすべての人に残されているのであろう。但し、これは断定しない方が良い。

 

・聖徒についてと思われる黙示記述の中に『野獣の印を受けなかった者』の文言あり、それであれば、野獣崇拝は聖徒攻撃に先立つのか?それとも、聖徒攻撃後の『三日半』の間というのが幾らかの期間を言い表していて、羊のような野獣が野獣崇拝を興す期間を含んでいるのか?

そもそも黙示の開示はどこまでを許しているのか?知ってはならない、または公にしてはならない範囲はどこからか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異様な文言

 

関連⇒「エゼキエル40章以降」

    ⇒「エゼキエル書の構造」

 

前572年に与えられた第40章以降の最後の啓示に含まれる異様な文言

 

あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ 40:4

 

彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。
 今彼らに命じて姦淫と、その王たちの死体を、わたしから遠く取り除かせよ。そうしたら、わたしは永久に彼らの中に住む。

人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために*、彼らに宮と、その外形と、設計とを示せ  *新改訳

彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。
宮の規定はこれである。山の頂の四方の地域はみな最も聖である。見よ、これは宮の規定である。 43:8-12

"Son of man, describe the temple to the house of Israel, that they may be ashamed of their iniquities; and let them measure the pattern.43:10

 

אַרְבָּעָ֨ה שֻׁלְחָנֹ֜ות מִפֹּ֗ה וְאַרְבָּעָ֧ה שֻׁלְחָנֹ֛ות מִפֹּ֖ה לְכֶ֣תֶף הַשָּׁ֑עַר שְׁמֹונָ֥ה שֻׁלְחָנֹ֖ות אֲלֵיהֶ֥ם יִשְׁחָֽטוּ׃

40:41

 

人の子よ。神である主はこう仰せられる。祭壇の上で全焼のいけにえをささげ、血をそれに注ぎかけるために祭壇を立てる日には、次のことが祭壇に関する定めとなる 43:18 新改訳

 

44:1 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。
44:2 【主】は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、【主】がここから入られたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。
44:3 ただ、君主だけが、君主として【主】の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通って入り、またそこを通って出て行かなければならない。 新改訳

 

 

44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない
44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない
44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。 口語訳

 

 

45:9 神である主はこう仰せられる。イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行え。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。 新改訳

 

45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
45:21 正月の十四日に、あなたがたは過越の祭を祝え。七日の間、種を入れぬパンを食べよ。 口語訳

 

46:1 神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。
46:2 君主[הַ נָּשִׂ יא]は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。 新改訳

 

46:1 神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。
46:2 君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。

 

エルサレムから真西に向かうと海岸まで50kmほどしかなく、48章の区割りでは100kmが要り、どうしてもはみ出しが出る。

これを陸地内に調整すると、神殿の位置はヘブロン近郊の死海に近い地点になる。しかもエゼキエルはシオンやモリヤという言葉を一貫して述べないし、神殿の幻については『高い山の南』というだけである。>

 

<第三神殿そのものは巨大ではないが、1550mほどの正方形の外周の、特に幅を満たそうとすると、現状のモリヤには乗らない大きさになる。

あれほど精密にサイズを描くエゼキエルの幻が、神殿外周と部族の割り当てでこのようなはみ出しを指定しているのか?>

 

<それから440m毎に水深の深まる流れを作ることはまだ不可能ではないとしても(乾燥地なので循環させないと難しい)、死海を淡水にして漁業が営めるほどにするには、湖底の塩をさらう必要があるだろうが、これは相当な無理がある。南側1/3が干上がったところに上から加工して済ませば何とかなるにせよ、預言の成就というにはみっともない限りだが>

 

世にこの神殿は反キリストが座すためのものではないかという見解も少なくない。確かに、終末に動物の犠牲の必要もなく、却ってキリスト教への否定となってしまう。また、エゼキエルは『王』とは言わずに『君侯』(ハ ナシー)で一貫している。

神殿再建の許諾をなる偽メシアの登場はユダヤ教徒にとっての歓喜の理由になるに違いない。イスラムも口頭預言の成就としてとれるなら歓迎しかねない。しかもそれはイーサーであるところがキリスト教と協調できる。

この背教を推進するのが、ユダヤ教徒ユダヤかぶれのキリスト教徒であるのが既に見えている。イスラム岩のドームを保って場所を別に変えるなら反対しないだろうし、再臨のイーサーを見るとすれば、賛成することも充分有り得る。

エルサレムの街並みを整理して、谷を埋めオリーヴ山を削ればできなくはないのだが、指示通りに祭司、レヴィ族、YHWHシェマーの土地を取分けようとすると、現在の岩のドームの位置に造らないことが神意ということになる。

そのうえ、建設の最大の障碍はイスラムの聖地となっているところにある。加えて、指示では「王たちの死体から遠ざけよ」とあり、そうなると、エホヤキムのようにどこに埋まっているか分からない王も居て、ますますエルサレムには建てることができなくなる。

建物そのものは建設するのに難しいほどには見えない。分からないサイズは祭司の食堂くらいで、あとは面の表面の柄や、細かい意匠や装飾類であるけれども、エゼキエルに会った天使は建てるように言っている。現状でさえデザイン感覚に優れるユダヤ人は相当に美麗なものを建てることができるに違いない。或いは、アラベスクや十字架さえモチーフにするかも知れない。

ただ、ユダヤイスラムが三一を認めるか否かは難しい。再び発音されるYHWHアッラーをどう帰一させるだろうか。「聖霊さま」には悪魔がそのままスライドできる余地がある。

ゼルバベルがアリヤーの35年前に啓示されたこの設計に従おうとしなかった理由などは聖書には不明。もっともシオンやモリヤには作れないし、広大な地域の線引きが要るし、帰還事業は細々としたもので、当時には様々な無理があった。

以上を考えると、やはり神殿はヘブロンの東の高地で、エン・ゲディに近い荒野に作られる可能性が非常に高い。そこなら住居を退かすことなく、整地すれば1.5kmの正方形の土地を境内にするにおそらく問題なく、俄かの祭司団を作って1万キュビトの中に棲むことができ、そこは「新エルサレム」と呼ばれる誘惑は相当に強いだろう。(だがそれを黙示録は否定する天文学的数値を書いている)

しかし、大祭司を誰にするかという問題が起る、ザトクの嫡流を証明できる証拠が存在しなくなっているから。

そこで、反キリストであれば、自分を王なる祭司としてしゃしゃり出る危険性が高い。彼らは雲の内にあってはすてられているので、地で誉めそやされること以外にもはや活路がない。本気で信じていようといまいと、その道を突っ走る以外にない。

レヴィ人がアモリ人のような扱いを受けているが、そうなるといったい誰が祭司として働くのか?→マゴグではないのか、彼らにも奇跡の霊力が働くのであれば、ゴグが大祭司となる整合性がある。その以前に今日のユダヤ人は誰がレヴィかを系図で指摘できなくなっている。コーヘン姓がレヴィだと言うが、他の姓でも自分はレヴィ系だと言う人々は少なくない。だが、エゼキエルの言葉によれば、それはまったく誇りに価しないことになる。

実際にマゴグは縦25000、横10000キュビトの土地を占有することになるのかも知れない。もし、そうなればユダヤ人はその西側から住むのだろう。だが、エゼキエルの土地分割にパレスチナ人はどうするだろうか。

それから「ハ ナシー」がメシアより格下の扱いを受けており、尊大な偽メシアはその位を自分に適用しないだろう。だれか別の者を『長』に任じるのではないか。

この神殿が反キリストのためのものと多くの人々が言うのは、証拠が多くて、まず間違いない。だが、その意見は多くても拮抗する程度に抑えられなくてはいけない。そうでないなら誰も建てようとしないからである。それだから、この意見は激しく反対される必要もあることになる。その反対者の方が多いのであろう。

ユダヤ教のオーソドックスが神殿再建を認めるには、メシアの身許を確認できなくてはならない。そうなるとベツレヘム・エフラタ出身の件をどうするか。

それでも、やはり、これは実際に建てられ、終末に荒らす憎むべきものの座を提供しなければならない。背教の総仕上げ、サタン最後の栄光の時を迎える。

悪の勢力までをも動かすとは、なんという神の言葉の恐ろしさ。

新神殿の位置を『新しいエルサレム』やら『ベラカ』やらに命名しようとする誘惑があるだろう。『ベラカ』も『ツィツ』も位置は不明のままで、エン・ゲディからそう遠くないことは分かっている。但し、さすがに『新しいエルサレム』には無理を承知で名付けるほかない。

 

 

 ・三一を擁護し易い箇所Rm10:11-13

ここでShMのあるヨエルが引用されキリストを指しているように読める。

但し、その前の9節には『神はイエスを死者らの中から復活させたと信じるなら・・』とある。

 

 

 

 

 

 

マルコ9:49

 Mk9:49

 

原文は短い

[Πᾶς γὰρ πυρὶ ἁλισθήσεται.]

すべては そのため 火で 味つけされる

<この[γαρ]をどうするか?口語訳は義務として訳している>

これをNKJVは

[For everyone will be seasoned with fire, and every sacrifice will be seasoned with salt.]

と二重に訳している。

後半部分についてはレヴィ2:13との関連を意訳しているが、その見識は相当に高い。

但し、主な一半の理解は添えられていないし、訳文でそこまで表現するには無理がある。従って、この文章の理解は脚注とするか、読者が悟ることに期待する以外になくなる。放置しておくような訳文にすれば、それなりの文にしかならない。せめて訳注はあるべきように思える。

 

 

 この句には、人間の罪に関する認識を持って、且つ文脈からかなり踏み込んだ解釈を施さない限り、意義ある句として理解されない。

 

 イエスは聖なる者の表象としての穀物の捧げ物について触れ、その適用を語っている。

問題となるのは『火』をどう捉えるかになってくるが、理解は然程困難ではない。

 

 

 

 

バラムへの託宣の驚異的な言葉

 

欲に捕われたアラムの預言者ながら、その預言には侮りがたい象徴が見られる

 

【新共同訳】
民数
24:14 わたしは今、わたしの民のもとに帰ります。後の日にこの民があなたの民に対して何をするか、あなたに警告しておきます。」
24:15 そして彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。
24:16 神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち/全能者のお与えになる幻を見る者/倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。
24:17 わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェト(「セツ」読みでは「騒乱の子」)のすべての子らの頭の頂を砕く。<双方共に「イスラエルに抗する者」の意>
24:18 エドムはその継ぐべき地となり/敵対するセイルは継ぐべき地となり/イスラエルは力を示す。<後代エドムはイスラエルの略奪者となるので>
24:19 ヤコブから支配する者が出て/残ったものを町から絶やす。
24:20 彼はアマレクを見渡して、この託宣を述べた。アマレクは諸国の民の頭/しかし、その末はとこしえの滅びに至る。<弱ったイスラエルを攻める者の最後>
24:21 彼はカイン(ケニ)人を見渡して、この託宣を述べた。お前の住む所は確かであり/お前は巣(ケン)を岩の上に置く。
24:22 しかし、アッシュール(アッシリア)がお前をとりこにするとき/カインは必ず、焼き滅ぼされる。<この頃アッシリアはスバルトゥと称した>
24:23 彼はまたこの託宣を述べた。災いだ/北から軍団を組んで来る者よ<アッシュールを含意>
24:24 キティムから寄せ来る者よ。彼らはアッシュールを苦しめ、エベル(イヴリー)を苦しめるが/彼もまた、とこしえの滅びに至る。⇒Dan11:30<北王への対立勢力について>
24:25 バラムは立ち上がり、自分の所に帰って行った。バラクも自分の道を去って行った。

 

イスラエルのカナン定住以前のこの時代に、その後に起った数々の事象を含んで終末預言を行っており、その内容は超絶的という以外ない。

既に、モーセ以上にメシアを象徴的に語っており、その点は先取的で優れている。<脱落聖徒の予型か?>

終末でのアッシュールはケニ人をどう滅ぼすか、逆ではないか?「攻撃を意図する」ということであれば終末に成立するが

「キッティムから攻め寄せる者」はダニエル11にもあるが、これはエピファネスがローマの干渉を受けることとして一般的に解釈されている。

但し、既にDan11:30あたりからアッシリアを含意し始めているのなら、「カルカルの戦い」を示唆している可能性もある。アッシリアはそのために海岸地方への覇権を断念させられ、以後数年間フェニキア方面で軍事行動を起こせなくなっている。

あるいは、エピファネスとシャルマネセルⅢとを二重写しに語り出しているか?

前853年のカルカルの戦いが意味深なのは、アッシリアと戦う相手がオムリの家のアハブとベン・ハダド(ハダド・エゼル)の連合でもあったところにある。フェニキアの海軍も参戦しているところが「キッティムからの船」とも言える。フェニキアはキッティムと深い関係にあった。ともあれ、アッシリアの海岸地方への覇権はシリア・ダマスコとイスラエルフェニキアの連合軍に阻止されている。対型は「南の王」とその連合であるように思われる。

そうなると、終末の「北の王」は二度侵攻し、一度目は退けられ、二度目は圧倒するが、権力基盤の崩壊が起ろうとしている矢先となる。

古代では、翌年アハブは逝去しアハジアが王位を継承する。そしてイェフーが登場する。これが終末では、旧来の宗教の滅びの到来を告げるものとなるらしい。

Dan11:29が「定めの時に」としてエピファネスと終末の「北の王」を二重に象徴しているのなら、彼は「荒らす憎むべきものを据える」以前に、遠征に失敗するとも取れる。そこでエピファネスのように「契約を誹謗」し始めるということになる。

従って、終末の「北の王」も軍事遠征に連合した諸国軍(おそらく南王勢力)に一度退けられ、その結果、強大な軍事同盟を作り上げるとも解釈できる。そこで「契約」への反対行動が始まっている。エピファネスの場合には支配権を得損なったことへの反動であったが、アッシリアについては聖書中に指摘はない。

すでに「北の王」と思われる勢力は宗教弾圧を多方面に行っており、外的な伸張に失敗すると、内的な強権圧力を強めるであろうことは想像し易い現状にある。「北の王」の王は背教を促進し、「腕を興す」これが「七つの頭の野獣」と思われる。どちらも聖徒らに勝利するとある。つまり、軍事的盟約の成立を行い、「北の王」は誰も「戦い得ない」ほどの権力を得る。しかし、この盟約が存続する期間は42ヶ月に限定されている。

この野獣が活動する過程で聖徒らが死を迎えるらしい。ここで「第一の復活」が起り、「三日半の後」すべての聖徒が集められる。

「北の王」は最後の攻勢に出るが、これは相当程度の成功を収め、南の勢力を圧倒して駆逐する。その過程で「麗しの山」シオンも恫喝に遭うところまで進む。しかし、それは「北の王」のセナケリブのような終焉の前兆となる。

過ぎ去る軍事同盟の枠組みは後に偶像化されるが、その首長の立場を得るのは、もはや消え去った北の王の関わるところではなく、政祭一致の超絶的主権者である「アンチ・クリスト」であろう。その結果、世界は政治と宗教の反目から解かれる方向に向かう。そこで人々は安直に平和の到来を喜ぶらしい。

その間、聖徒は地上に無く、シオンが神の民として残されている。そしてGBもまだ残ってはいるが、契約を離れた脱落聖徒らは悪魔からの霊力を得て、聖徒らの奇跡を続行しているかのように見えるかもしれない。その力の為にその人物は単なる人間とは見做されず、諸宗教が待望するメシアであるとされ兼ねない。メシアであれば三一説から神でもあり、こうして北の果てを得る。

おそらく「イスラエルの地」、正確にエルサレムではないがほど近い場所に新たな実際の崇拝の場所(街のように見えるもの)が「第三神殿」の名目でエゼキエルの設計図を基に建てられる。

そこに偽メシアが権威の座を設け、諸国の王を名乗り、こうして悪魔の宿願である世界支配を大いなるニムロデを用いて達成し、パルーシアの真実のメシア、「神殿の復讐」に燃える大王キリストとの究極的対立を迎え、偽預言者たるゴグの故地は、遂に悪魔と覇権者と共に霊感による託宣として世界軍を召集する。ゴグの存在により、また聖徒らと騎兵隊の言葉によって旧来の宗教はほとんど干上がっており、シオン攻撃の名目で集まったはずの世界軍はいきなりにGBに襲い掛かる。この騙し討ちはイェフーの故事に予型が二つ在り、バアルの祭司らを誘いだして閉じ込めて殺戮し、イスラエルをバアル崇拝に汚した張本人たる女は急襲され、犬に食われてナボテへの偽証工作の報いを受け、聖徒らの受けた二倍の杯を受けることになる。偽証といえばキリストを邪悪な宗教家らが裁いたときに用意されたものであった。主に倣う聖徒らにも用いられても不自然ではない。

やはり、同じこの世に属する旧来の組織宗教に、やはりこの世の世俗権力が「これからおたくを滅ぼしに伺いますので、お逃げにならず、神妙にお待ちください」と言えば逆効果でしかない。彼ら宗教家らは聖徒攻撃では公権力の朋友だったからであり、その信頼もあり、欺くのは容易であろう。

騎兵隊に属する人々はGBへの攻撃を神の復讐として歓呼して迎えるが、同時に彼らにも最後の危機が迫っている。元々のゴグの目的は自分以外への崇拝の根絶であるなら当然である。

「北の王」の恫喝を逃れたシオンの彼らは、エホシャファトの故事に従い、その信仰によりこれに立ち向かわねばならない。知らされた神の御名が彼らの救いとなり、世界軍は「イスラエルの山々」という危急のシオンに擁立された王キリストと共に王権を得た聖徒らの間にあって打ち砕かれ、自壊を始める。

その後の世界はカオスに見舞われ、最後は選択的疫病によって裁かれる。

信仰により保護の「奥の間に隠された」人々は、出て行って「ベラカの谷」での祝福に与ることになる。

 

 

終末の全体像をまとめようとするほどに、現れる象徴の数が増えて膨大なほどになる。これは、様々な断片に終末の姿が分けられ、秘儀とされるためであったろう。

ここで一つの重要な問いは、それがすべての終末の人に隠されるためであったのか。それとも終末に明かされるために隠されているのか、ということになる。

もし、終末に至って誰にも知らされるべきでないとしたら、やはり、そのようにされているはずであり、誰かが禁を破って知り得るようなことではないはず。

Dan12:4には、「これらの言葉を秘し、この書を封印せよ。多くの者が右往左往し、知識が横溢する」というのは、封じられた言葉を様々に憶測しては「知識」を唱えるという人間の限界を述べているとすれば、非常に現実にマッチする。その点では、ここに書いていることさえ人間の推論であり、右往左往している一つの脆弱な「知識」であるのかも知れない。

ただ、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」のであれば、その知識が唱える意義に於いて何かの価値を訴えるものとはなることとは思える。

 

それにしても、聖書は終末についてそのままに語ろうとはしていないし、裁かれる身の上である人間であれば、そのようにされて当然でもあるとは思える。

しかし、探り出そうと求め続けると、それが正解だと言い張らない範囲で、ある程度の理解には達するものでもある。それだから、神の意志といえば、人にまるで知らせないことでも、すべてを知らせることでもないところにあるのだろう。どれほど調べようと終点に至らず、人は常に探求と修正とを繰り返す必要がある。そうでなければ人間ではない。

ひたすら求め続けるなら何かが与えられ、そうしないなら僅かな知識と誤謬にまみれた正義に凝り固まるか、まるで投げ出してしまうかという以外にない。

どれを選ぶかと言われれば、自分を正当化せずに、神の前に謙虚に学び続けるほかにないのであろう。これが「教理控制」の意義でもある。

 

ともあれ、イザヤの指摘によってエゼキエルが解ける。だが、もう少し論理を必要とする。 

エゼキエルの謎が、イザヤの指摘が互いの像を一致させ一人の人物を浮き上がらせるかのように見えてくるように思える。それは他の預言の言葉の多様な意味を関連付けさせるからであるが、まだその紐帯は細い。

 

 

 

 

 

 

時系列

Dan11:31-32

彼から軍勢が起って神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる」

”And forces shall be mustered by him, and they shall defile the sanctuary fortress; then they shall take away the daily sacrifices, and place there the abomination of desolation.”

以上の行為者は「北王から出る者」

 

彼は契約を破る者どもを、巧言をもってそそのかし、背かせるが、自分の神を知る民は、堅く立って事を行い」

”Those who do wickedly against the covenant he shall corrupt with flattery ; but the people who know their God shall be strong, and carry out great exploits.”

以上、「北の王」が主体

 

テサロニケ第二4:3-4

「まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。」

これは自らを神とする者が背教から生じる「不法の者」であるとしている。

詩篇82篇

82:1 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。82:6 わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。82:7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。

この詩篇は神々を裁く神が描かれるが、これは異教の「神々」ではない

 

黙示録13:4-7

「13:4また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。
13:5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。
13:6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。
13:7 そして彼は、聖徒に戦いを挑んでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

以上、七つ頭の野獣が主体、この段階で既に偶像と成るべき権威を悪魔から得ている

 

ダニエル11:36

11:36 この王は、その心のままに事をおこない、べての神を越えて、自分を高くし、自分を大いにし、神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄えるでしょう。これは定められた事が成就するからです。
11:37 彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好む者も、いかなる神をも顧みないでしょう。彼はすべてにまさって、自分を大いなる者とするからです。

この主体者は「北の王」で自分を神とするために神々を認めず冒涜する無宗教的に振る舞う。

 

ダニエル9:8-12

その角の一つから、一つの小さい角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しい地に向かって、はなはだしく大きくなり、
8:10 天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、
8:11 また自ら高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した
8:12 そしてその衆群は、罪(背き)によって、常供の燔祭と共に、これに渡された。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。」

8:12 Because of transgression, an army was given over to the horn to oppose the daily sacrifices; and he cast truth down to the ground. He did all this and prospered.

以上は、ギリシアに相当する四本の角から生える角が主体、但し「背き」については不明。南と東とはまずエピファネスの戦争地域か?これを終末に当てはめると、「北の王」の最終的軍事行動は単一の国家ではなく集団で行われるのかもしれない。

 

ダニエル7:20

「7:20 この獣の頭には、十の角があったが、そのほかに一つの角が出てきたので、この角のために、三つの角が抜け落ちた。この角には目があり、また大きな事を語る口があって、その形は、その同類のものよりも大きく見えた。
7:21 わたしが見ていると、この角は聖徒と戦って、彼らに勝ったが、
7:22 ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。」

この主体者は第四の獣の十本の角の後から生える角=七つの頭の野獣

 

黙示録17:3-6

「17:3 わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
17:4 この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、
17:5 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
17:6 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。」

ダニエル11:39

「11:39 異邦の神(a foreign god)の助けによって最も強固な城にむかって、事をなすでしょう。」異邦の神[עִם־אֱלֹ֣והַּ נֵכָ֔ר]eroha 単数⇒「一人の女」

ダニエル書の文脈で「北の王」は伝統宗教を否定しながら、上記39節では異邦の神の助けを得ている。これは彼の力をもってしても協力が必要であるかのように描かれるが、それは便宜的なものに過ぎないらしい。この「異邦の神」が何を表わすかはダニエル書には解答が無い。総合して観ると、自分は無宗教的でありながら、別の宗教的な要素の助けを借り、シオン攻撃を行うと解せる。おそらく一度目のシオン恫喝の事ではないか。その以前に聖徒攻撃を『腕』によって成功させているが、そのときに異邦の宗教を利用しているなら、それがGBの罪とも言える。女が一人というのは、聖徒に対抗するために合同するのかも知れない。

 

ダニエル12:1

「12:1 かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。
12:2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。」

ヨハネ5:28-29

「 5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」

ルカ22:29

「22:29 わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族を裁かせるであろう。」

黙示録7:2-3

「7:2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とを損なう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
7:3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならない。」

以上は第一の復活と裁きを指し、聖徒の先立つ復活の理由を示している。

 

まず、Dan12:1からの大いなる悩みの日の直前で「北の王」が絶えている。直後に天界に「第一の復活」が起り、「幕屋は煙で覆われる」段階に入る⇒「七つの鉢」

この以前に天界の祭司団は機能できる状態に入っているのであろうから、「額に証印」はすべて押され、十二部族の裁きも終了していると思われる。

この時点まではGBは存在しており、比較的に健在であるらしい。この時点は天の聖所の奉仕の準備が整う段階、つまり「七つの鉢」の段階に入るところに在る。

そうであれば、シオンの民のこの世の「三分の一」への攻撃によって「鉢」の警告の暴露が成されるか、少なくとも時期は重なる。

「三分の一」への攻撃によってGBの滅びが誘発されるという可能性もある。

しかし、それ以上に誘因となるのは「不法の者」「アンチ・クリスト」への崇拝であり、「騎兵隊」の攻撃はシオンへの人々の更なる流入を促すものであるかも知れない。⇒「あなたがた、わたしの民よ」

聖徒攻撃が終了した時点は、ひとつの時間的区画が終わるところであり、「奥義は終了する」

そこから先については、神の民というものが聖徒から信徒である「シオン」の民に移り、救いを見る、また隠されるなどの恩寵を得るとされるのは、地の民になる。(ヨハネ17:20-21)

 

GB攻撃の主体については「十本の角また野獣」とあり、この時点で「野獣」は健在らしい。

すると、聖徒攻撃からGBの滅びまでは非常に近いことになる。(騙し討ちか?)GBに関してはFが当てはまる。

 

順からすると、GBは野獣と角によって滅ぼされ、その後野獣は姿を消す。

<次いで野獣は偶像化し、既に据えられていたシックーツが第二の獣によってその座に就く。その偶像崇拝は強制化し、猶予は残されないほどになる。>ここに問題あり

しかし、行動を起こすのはゴグの故地の方であり、

そうなると「天から火を降らす」というのは、異論を認めないという意味かもしれない。

 

そうすると、シオン側からばかりの観点では全体は見えないことになり、一つ一つの観点から見直す必要があるらしい。

それぞれを丁寧に見直した上で総合しないと前後もはっきりしない。

 

 

◆整合箇所

黙示録

16:12 第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために枯れてしまった。
16:13 また見ると、の口から、の口から、預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
16:14 これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。⇒ここで『裸で歩いて』がある

◎召集とGBへの攻撃がセットされている

ヨエル

3:2 わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。彼らがわが民を諸国民のうちに散らして、わたしの地を分かち取ったからである。

◎既に神の民は散らされている。従って近いのはGB攻撃とシオン攻撃になる

 

△問題は、この以前に偶像化が起っているべきこと。しかし黙示16ははっきりとそう言わない。

GB攻撃の時の野獣というのは偶像なのか?<何故なら、その以前に北王は消えている。たしかに『十本の角と野獣』17:16とある>

[καὶ τὰ δέκα κέρατα ἃ εἶδες καὶ τὸ θηρίον οὗτοι μισήσουσιν τὴν πόρνην καὶ ἠρημωμένην ποιήσουσιν αὐτὴν καὶ γυμνὴν καὶ τὰς σάρκας αὐτῆς φάγονται καὶ αὐτὴν κατακαύσουσιν ἐν πυρί.]

そして十の角、見た、そしてその獣、それらは憎む・・「十本の角を持つ野獣」[τοῦ θηρίου τοῦ βαστάζοντος αὐτὴν τοῦ ἔχοντος τὰς ἑπτὰ κεφαλὰς καὶ τὰ δέκα κέρατα]とは言っていない。双方の違いはただの省略だけでもなさそうには見える。

動機からすると像の方が遥かに女への敵意を懐き得る。

では敵対者はPhか犬か

 

ケニ人はイスラエルカナン人ではなく、且つイスラエルに寄り添う特異な部族で明らかに遊牧民であり、あり続けようとしていた。モーセを通してレヴィに姻戚関係に入ったが、彼らはネティニムではなく、常にイスラエルの同伴者であり続けた。捕囚後にはエルサレムの南東の地域を任され城壁の一部(灰の門)を共に修理したらしい。

北王国に在ってはオムリの家の法を憂いていたであろう。その後アッシリアへの捕囚に遭った可能性はバラムの預言に見える。

しかし、エレミヤの活動中でその経験な生活に焦点が当てられており、散らばって住んでいたと思われる。そのほかでは一人エホナダブ(YHWHは偉大也)として現れ[ יֵה֛וּא ]と行動し検証者となる。

 

やはり騙し討ちかも知れない。全軍の召集されている時にGBはまだそこに居り、逃げも隠れもしない。聖徒攻撃の使嗾は信徒にも向けられているように見える。そして黙示録では招集者が居ないがエゼキエルはゴグであると言う。

しかし、ゴグはイスラエルへの攻撃について関与が書かれているが、聖徒攻撃についてははっきりしない。しかも、その行動は一度限りに読める。この点ではエゼキエルは最終行動に限定して述べているのかも知れない。それから「イスラエルの山地」というものが天界の聖徒らの王権と関わるであろうことは良く分かる。(もう一度読み直す)

あるいは、蝗害と騎兵隊の時期は重なるのだろうか?<そうしないと時間が足りない>

 

 ◆訂正

イスラエルの山地』についての解釈が間違っていた。

これは逆の意味であることを当の預言者が詳しく語っていた。

まったく、読みが足りないからこんな事になる。

 

 ⇒「マゴグの地のゴグ」の素性

 

ヨエル解析

第一章

毛虫⇒蝗⇒羽の無い蝗⇒ごきぶり

上って来た国民(強く、多い)ライオンの歯とあご骨

いちじくを切り株とする

泣き悲しめ、泣き叫べ

神殿から穀物と飲み物は絶える

地面は干上がり、食物はなくなった

あらゆる木は枯れる

祭司は粗布をまとい、聖会を開き神に助けを求めよ

家畜も野獣もあえぐ

 

第二章

シオンでショファールを吹け①

聖なる山で戦の勝鬨を上げよ

地のすべての者は動揺しろ 闇と陰鬱の日 明け方の光

かつて存在したことの無く二度と無い強く多い民が居る

前方のエデンの園も後方では荒れ果てる

民の姿は馬で隊列を組んでいる

諸国民は激痛を覚える

その民はあらゆるところに入り込み逃れる者はいない

太陽と月と星はその光を失う

YHWHはその軍勢の前で声を上げる

それはYHWHの日であり誰も堪えられない

断食をして神に帰れ

シオンでショーファールを吹け②

聖会を集めよ 皆そこに連れ出せ

諸国民が「彼らの神はどこに居るのか」と言ってよいでしょうか

わたしは新しい穀物と葡萄酒と油をあなたがたに送る

諸国民のそしりの的とはさせない

北方から来る者を荒れ果てたところに追い散らし、その顔を東の海に向かわせる。神は驚くべきことを行い、彼の悪臭は絶えない

地は恐れるな、獣も恐れるな、荒野は必ず緑を取り戻す

シオンの子らよ喜べ、初めの時のように春と秋の雨が降らされ産物で満ちる

そうしてあなたがたの神YHWHの名を賛美することになり、民は定めない時まで恥を被ることはない

その後、あらゆる者に霊が注がれ、あなたがたの息子娘は預言し、老人は夢を見、若いものは幻を見るが、下男や下女さえ神の霊が降る

天と地には、血と火と煙の柱が与えられ、太陽は闇に月は血になるがYHWHの名を呼び求める者は救われる

シオンの山とエルサレムに逃れた者らが居てYHWHを呼んでいる

 

第三章

その日、ユダとエルサレムの囚われ人らを連れ戻す時にわたしは諸国民をエホシャファトの谷に下らせる。わたしはイスラエルのために裁きを行う。

ティルス・シドンまたフィリスティアはユダの子らをギリシアやシェバに売り渡した。

諸国民は戦いを聖なるものとせよ。鋤を剣に打ち替え弱い者も勇者を名乗れ。

諸国民は奮い立ってエホシャファトの谷に来い。

鎌を突き入れ葡萄搾り場は彼らの悪で満ちた。

群がる民は決定の谷に居る。太陽と月は暗く星辰も輝きを無くす。

シオンからYHWHは声を放ち天地が激動する。

YHWHはその民の避難所となりイスラエルの子らの砦となる。

神殿から一つの流れが出てアカシアの木のワジを潤す。

イスラエルへの罪のためにエジプトとエドムは荒野となる。その罪のない血を流したからである。

ユダとエルサレムには代々人が住み、わたしは罪無しとは見なかった彼らを罪のないものと見做す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東方系初期人士

 

Ήγεσιππος (c. 110 – c. April 7, 180 )
エウセビオスによれば、彼はユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人であると
彼は旧約、ヘブライ福音書、口頭伝承、シリア語福音書を引用している。
アニケトゥスの時にローマに来訪しエレウテルスの時まで執筆したらしい。彼の生涯中にハドリアヌスの愛人アンティノウスがナイルで死亡し神格化されたことは分かっているという。
彼の著作は全く失われており、エウセビオスの八つの引用だけが知られている。それによれば五巻の"Ὑπομνήματα"「備忘録」があったという。
彼はアニケトゥスの時に東方からローマに至る過程でコリントスに立ち寄り、各地のキリスト教の均一性について証しすることができたという。HE6:22 Hegesippus
ということは、アニケトゥスからウィクトルまでの間に何か変化があったのかもしれない。あるいは、彼はエフェソスやミレトスには寄港しないでコリントスに向かったか?コリントスはポントスと共に反小アジア的であることが知られている。

 

 

 

 

 

ウルフィラス 311ca-383
非ゴートでカッパドキアギリシア人の出身、蛮族によって奴隷にされた、或いは奴隷に生まれたか、若年期に捕虜になったかもし知れない。ゴート族として成長し、彼は後でギリシアとラテンの言語に熟達した。
彼はニコメディアのエウセビオスにエピスコポスに任命されたが、彼の出身地のゴート族は彼を宣教者として迎える。
ゴート族の首長の迫害の348年に、コンスタンティヌス二世の許可の下にモエシアのイストルムのニコポリスに逃れる。
そこで彼はギリシア語からゴート語に聖書を翻訳する。その過程でゴートアルファベットを考案。その写本はウプサラ大学図書館で1648年以来保管されている。それが「銀の聖書」と呼ばれるオストロ・ゴート王テオドリックのために作られたもので、ウルフィラスからおよそ百年後にラヴェンナブレシアで製作されたものと考えられる。
彼は後にドロストルムのアウクセンティウスとなる男子を養子にとっている。
彼については主に五つの人物伝が伝えられているが、ふたつはアリウス派で三人がカトリックによる。

 

タイム・ポスト

 

[ユダヤ人の祭り]Joh

2:23(ペサハ)/AD30

5:1(?)/AD31

6:4(ペサハ)/AD32

7:2(スッコート)/AD32

10:1(ハヌカー)/AD32

11:55(ペサハ)/AD33

 

[過ぎ越しの祭り]Lk2:42

[無酵母パンの祭り、すなわち過ぎ越し]Lk22:1

[過ぎ越しと無酵母パンの祭り]Mrk14:1

 

Johとの共通ポスト

Mt14:22=Mr6:45=Jh6:15(bfPesacha32)

 

マタイは最も時系列が乱れ、ヨハネは枠は強固だが共通ポストが少ない

 

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References ad Pascha
①Jh2:13 Jh2:23
②Jh6:4
③Jh11:55 Jh12:1
④Jh13:1 18:28 18:39 19:14

 

 

誰が世のものでないか

『世のものでなく』『世から離れる』者についてはヨハネの著述に特徴的に存在している。ヨハネは黙示録の中でも七つのエクレシアに居る聖徒らについて、世と対峙する姿を求める内容を記している。

キリストの弟ヤコブは『世との交友は神との敵対』としており、これも『姦婦らよ』と呼びかけられている以上は、本来操をたてるべき相手である神に属する立場にある者について述べている。

聖霊を注がれた聖徒らは、もはやアダムの命に生きず、復活のキリストの命に在って生きている。ゆえに、彼らは『有罪宣告のない』誰も『罪にさだめない』倫理状態に『新しい契約』を介して入った。

したがって、『王として支配する』立場にある以上、『この世』とは対峙する『神の王国』の者であり、『契約』を守ってその立場を堅持しなければならない。

だが、聖霊が注がれず、『新しい契約』にないあらゆる人は、どれほど道徳的に振る舞い、聖徒の基準に従っても、依然として『世のもの』から出ることはない。

なぜなら、その人の内でアダムからの罪は何ら贖われてはおらず、そこは聖徒のような『契約』による義の仮承認もないからであり、信者になったから聖徒のようなキリストの完全な義の分け前に与ることも、その兄弟としてアブラハムへの約束に与ることもない。

むしろ、聖徒らの千年王国の贖罪を待つ身であることは、ほかのすべての人々となんら変わりはない。

 

エホバの証人を例にしてみると

以下のように、信者は『世のものでない』というキリストの言葉の適用内にあると見做していることが分かる。

 

神の諭しを守り行なうことは,この邪悪な世からわたしたちを取り分ける助けとなります。塔00 12/1 18p v15

 

わたしたちは神の諭しに留意することにより,神への奉仕のために神聖にされた状態,つまり取り分けられた状態にとどまります。この世から分けられているのは何と大切なのでしょう。v16


わたしたちはエホバの僕として,エホバへの奉仕のために受け入れられる状態を保ちたいと願っています。しかし,神の諭しを無視しようとすれば,この世の霊に打ち負かされてしまうでしょう。v17

 原因は『わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません』とのキリストの言葉が誰について語られているのかに誤解があるためと思われる。

このキリストの祈りはヨハネ17:16に記録されている。

だが、その後の20節で、『わたしは,これらの者だけでなく,彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします』とあり、これが使徒や直弟子をはじめとする聖霊を注がれる者らへの祈りの言葉であることが分かる。

たとえ、その後の22節で『彼らも一つになるためです』と述べられていても、聖徒と信徒の間が一つになることの意味も時期も将来のものとして語られている。

そこでヨハネ17章のキリストの言葉を以って、聖徒以外の誰もが『世のものでない』と言うには無理がある。

 

ヨハネ第一の手紙での『世から出た者』というのは、エクレシア内に浸透するグノーシス分子について警告する文脈で記されており、『世のものでない』はずの聖徒を偽りながら、実は『世から出たもの』であることを露呈するので、そこを見分けるようにと述べている。(4:4-6)

 

加えて、ものみの塔の言う「神への奉仕のために神聖にされた状態」とは、聖霊の印のない者には到底有り得ないことで、聖霊の降下無くして「神への奉仕」の実現はけっしてない。奉仕(ラトレイア)は聖徒が神殿として存在している間であれば有り得るとしても、ただの人間がどんなに祈り、どんなに品行方正に行動し、新約聖書の道徳規準を守ったからといって、そこに「神への奉仕」が存在するわけもなく、それは人間を超えたことであり、神の霊なくして不可能なことである。

つまり、紀元二世紀頃に聖霊の降下が途絶えて以来、今日に至るまで「神への奉仕」というものは存在したことがなく、次の聖霊の注ぎがあるまでは有り得ない。

そこで、エホバの証人の『世のものでない』という認識は、虚構のものであり、妄想という以外ない。いったい何時彼らが「YHWHの僕」なり得たか。あのペンテコステのような神からの印があったのか。

ここが「ものみの塔」の最大の間違いであろう。聖霊無い者を「有る」としてしまったことであり、最初は年代信仰であった一派が長じて、キリスト教界の御多分に漏れず、傲岸不遜な欧米人らしい宗教感情のままに、是認された自分たちが聖霊を注がれたと妄想していたのであり、それは他の大半のキリスト教会と変わらない。特に戒律的なところではメソジストにも似ている。いったい何時神が彼らを是認したろうか。

極東人的感覚からすると、どうしてあのように神の御前に頭を高くしていられるのか不思議であり、それに釣られる日本人もどうかと思えてならない。

自分たちが「取分けられた」と思うのであれば、それこそはパリサイ(取分けられた)という、最もキリストに逆らった分子の延長線上にある。

その精神は利己主義であり、自分の救いを確保して後に、他者に憐れみを垂れているのだが、これは傲慢な態度であり、他のあらゆる人々への蔑視を必ずや含むものである。

しかし、実際にあらゆる人が、エホバの証人であろうとなかろうと、キリストの犠牲を必要とする『罪人』であるところは少しも変わらない。

そこをものみの塔の「楽園での永遠の命」の宣伝に絆されて、勝手な清さの基準を持ち出し、自分を高一等の救われる立場に高めるために、他の周囲の人々を踏み台にしているのであり、それこそは新約聖書中で、パリサイ派が存分に行い、キリストに糾弾された通りのことである。

自分こそが神の是認の下にあると思うとすれば、それは『契約』にある聖徒以外に有り得ない。

そうでなければ、その人の贖罪されていない状態は、他の誰とも同じく『この世』を構成する『罪』の内に在るのであり、それゆえにこそ、謙虚にキリストとその王国を形成する聖徒らの現れを、世のほかの人々と共に待っているはずではないか。

つまるところ、エホバの証人キリスト教界の一部に過ぎないところは、その独善性と傲慢さに表れている。結局は「まず自分が救われたい」というのが、全ての「清さ」を誇示する行動の動機ではないのか。

だが聖書の神は、終末の全世界に証しを立てる点ではけっして偏狭ではないし、その経綸は人の清さに依拠してはいない。パリサイ派が「呪われた地の民」と呼んだ下層民により沿うキリストの姿にそれは見えている。

 

 

 

 

終末信仰の陥り易い誤謬

 

◆終末への対処

この世には、何かしら破綻するのではないかという予感がある

そこでキリスト以前のノアの洪水や、ソドムの滅びなどと同じ形を恐れる

恐れの結果として、行状によって救われると思う

 

◆予告者への依存

1914年の大変化を言い当てた指導者と組織が預言をしたと思う

終末への恐れから、自分たちの救いを唱える教えに安心を得る

そこでこの教えと指導者は正しく神に是認されていると思う

(W.ミラーの1844 年10 月22 日への大失望)

 

◆聖書に従う事が絶対的に正しい

聖書は神が人にどんな生活をするべきかを指示している

その中の神の基準に従う者が是認され救われる

聖書には救いに必要なことがすべて書かれている

 

◆聖書預言の絶対性

聖書中の預言は、それに気付く人々を是認し救うために書かれている

神は裁きの執行が何時になるかを知らせ、人が気付く事を望む

その時代の印に気付き、道徳規準を守る信者が救われる

 

◆集団として救われる

集団に参加することが神の是認を得る方法と思う

信者の一人であることが教理の主張となり、新たな人格を得る

運命共同体に居る安堵感

信者であることが正義となり、信者でないことは不義となる

 

◆伝道が神の裁きと同一視される

伝道に聴き従う人が救いを得るので、伝道は命を救う

伝道が人命を救う最高道徳となっている

命を救う業は今日最重要であるから、生活を犠牲にするべき

信者はこの業への貢献度によって評価される

(より重要な事はないか) 

 

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論じるべき内容

・永遠に生きたいから神を信仰するのか?

神は誰にでも永生を与える力を持っているに違いない

だが、そうしない理由は何だと思うか?

(命よりも大切なものがあるのではないか)

 

・創造者の約束だから

約束できるのであればなぜすべての人に永遠の命を与えないのか

選別がある以上、その理由が必ずあり、その理由に神の意志があるはず

 

・神は従順に従う人と永久に生きるのか?

アダムが試されたのは服従か愛か

服従とは言い付けを守ることか

そうなら個人の意志は何のために与えられたのか

 

・自由な行為者として人を創ったなら

自由な決定者だから神と人を愛せるのでは?

愛することは自発的なことではないのか

自発的な愛からの従順はあるとしても、従順に愛すということがあるか

愛とは自由な行為者だから抱けるものではないか

(たとえ仕方なく愛するようになったにせよ、愛は自発的では)

従って神は愛のために自由意志を与えたことにならないか

服従を求めたのならアダムに二本の木の選択を自由にさせなかったのでは

「自由意志からの服従を選ぶ」というのは相殺では

 

・あなたの教えに正しく従えば楽園に入れると思うか?

そう思うなら、その理由は何か

それが確かでないのなら、熱心な伝道を行うのは何のためか

また、永遠に生きたいから生かされるという根拠が成り立つのか

そうでないなら、生かされる根拠は何か

 

・神が道徳的規準への服従を求めたなら、パリサイ派が失敗したのはなぜか?

エスの弟子らが神の是認に入ったのは何のためか

キリストの犠牲は何のためか

『あらゆる罪を赦される』の句をどう理解するべきか

 

・彼らが神の是認に入ったことの証しは何か?

あなたや団体にその証しがあるか

あるなら終わりの日に聖霊によって語るのはあなたか

無いのなら終わりの日に聖霊によって語るのはどのような者か

 

 

 

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・人は宗教観念に行動を縛られるより、想うままに生きた方が良いのでは

人間の現実は実生活の経験則から導かれる方がほとんどの場合で優れている

人は生まれながらに経験則を持たないのでそこで焦る

宗教観念が必要なのは行動や思考を規制する事よりは自己価値の認識にある

世の悪行を処理するのは法と権力に任せ、それが大きく逸脱するのを抑えるのは宗教ではなく社会感覚の方が良い

使徒的生活が信仰者の誰にも可能で求められるものか

 

何故なら、宗教には「非現実的妄想」が必ず入り込むから

そうならない宗教があるとすれば、それは真相を突くものだろう

最低限の秩序をそれを与える原理が要るのであれば、パウロが言うように『律法も価値がある』とは言える

だが、その最低線で運用される社会というのは絶対的に個人が円熟しない

キリスト教アガペーを据えるなら、円熟を目指す宗教である

最低限の規範となると「天国と地獄」が似合っている

それは法と権力の支配の領域のものであり、脅しであって宗教的価値を高めることは難しい、いやできない

仏教にもキリスト教にも天国と地獄が入ってきたのは、その社会性の低い状態、荒れ果てた精神土壌の歴史的痕跡と言えるかもしれない

社会秩序を補助する宗教とは、俗権に利用される宗教であり主体性を失い俗化している

 

 ◆社会規範としての宗教

出エジプトを果たしたイスラエルの数百万に民族国家の規範が必要不可欠であった。

独立を失って以降、宗主国の国法と並立することになり、特にヘレニズム期以降の律法は国法としては形骸化し、宗教法の色彩を強めている。

ミシュナーと山上の垂訓の間には雲泥の差があり、日常生活規範と精神ほどに違う。キリストはすでに国家法としての律法から離れている。

イスラムタウヒードはアラブ民族の広範な規範としての役割も負ってきている。その点ではイスラエルのトーラーのアラブ版といえる。

マルクス共産主義が国境を不要にすると考えた。タウヒードはアラブ民族の国境を無くさなかった。双方に共通するものは何か?「主権」が原理となって世界に拡大したからか?新旧基督教の抗争から「主権」が原理化している。その目的には「内政不干渉」がある。しかし、必ずしも宗教が原因でもない。公権力は最大化することを嫌う性質があり、その原因には利己心が考えられる>

 

・社会はその不備を補うために宗教を活用することがある。

社会秩序の心理面での維持や補完

(公共的権威では心理面まで干渉できない)

死による故人への価値の保全、墓地の管理

(人間価値は抽象的で公的権威が規定できない)

戸籍の作成 <これは第二神殿にもあった>

(檀家制度はこの典型例であり、カトリックも行っていた)

思想の自由を担保しないと権力を維持し続けるのは難しい

(これはまず信教の自由を認めないと始まらない)

カトリックが西欧での公共権威を広く獲得していた背景には、ローマのように権力の整備のない、蛮族の諸国家の群雄割拠する場であったことがある。

ヴァチカンが西ローマ帝国の秩序を西欧に維持する媒介であったという見方は間違いないものに見える。ローマが凋落する直前にキリスト教を国教としたことは絶妙なタイミングであったとも言える。それゆえアウグスティヌスが国教化がローマ没落の原因ではないと主張しなければならなくなった。ただ、彼はその以前に西ローマ帝国神の国であるという考えを諦めている。そこはただの人として先を読めなかった。

しかし、西ローマ文化を西欧は間違いなく継承しており、その結果、世界は未だにローマ文明の延長線を生きている。

 

 

 

 

「再臨」と「携挙」のメモ

「再臨」への誤解

・再臨の時は父なる神のみが知る事項
Mt24:36に基づくなら、これはパルーシアではなく王権領受の時を主にさす


・人々が認知できる様態でキリストは再び来る
Act1:11に基づくなら、これは雲に入った状態の「様」を指す


使徒信条は「主はかしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん」と告白する
二度目の臨在で生者と死者を裁くとは聖徒に関してのこと


-GR教会共通の認識-
イエス・キリストが再臨し、世を裁き、神の国を確立するという信仰


「携挙」
・まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。
<「地上にあるすべての真のクリスチャンが」に問題あり、真のクリスチャンと言えども聖徒でない限りこれに与ることはない。というよりは「真のクリスチャン」という概念そのものにパリサイ人の優越感が否めない。人間の醜さの一つは自分可愛さだろうと思う。と言ってもまず理解はされない。>


・携挙の時期に異論多し
携挙の目的が「主と共になる」あるいは救われることに限定して、重要な意義が欠落しているので、時期の特定が難しくなっている。つまり、証人としての働きと迫害と死、主の王権領受と召集の関係。艱難前携挙は脱出目的で優越的、艱難中携挙は中間的、艱難後携挙は選択的。いずれも微妙に的を外しているように見える。

 

・前千年期説が主流

これが最も人気を博すのは、「携挙」によって「真のクリスチャン」(この語は差別的)の者らは「患難」から逃避できるという益に原因がある。

<これは『新しい契約』とキリストの道に倣うべき『聖徒』の理解がない>

 


・なぜ昇天とせずに携挙としたか?
用語「携挙」はPhilip Doddridge と John Gillによって用いられ始めた。元々はリチャード&インクリース・マザーとジョン・コットンらの前千年王国説から派生。

無千年主義のカトリック東方正教会カルヴァン派の多くは前千年王国説が無いために、この用語を用いることはない。アメリカ的教理。

Jonathan Edwards 1703-1758
超自然の体験を重んじ教義主義を批判

Benjamin Franklin 1703-1790
避雷針、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、ロッキングチェアー、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明した。
宗教的にはボストンでチャールズ・マザーの影響下にあり、社会変革の聖書的夢想を描いた。The evangelical minister George Whitefieldの神学に賛成はしなかったが、その貧窮者救済の姿勢に同意して、ホワイトフィールドの著作を公表し、結果的に大覚醒を推進することになった。

 

所見;
つまるところ、自己義認のひとつの形というばかりに見える。神に認められたい願望が募って「真のクリスチャン」なる抹香臭い言葉が出て来たようにしか見えない。人は皆がキリストの犠牲を要する『罪人』という意識はなく、他と異ならせる自分の価値を高めたいという他者犠牲の上に成り立つパリサイ的想念から聖句を捻じ曲げて作り出された妄想であろう。

リヴァイヴァルといえば聖霊による聖書を書かせた霊感との断絶を意味しよう。アニミズム的熱狂がパウロ的論理を無効にする。「約束の聖霊」の留守の間の悪霊によるキリスト教徒の乗っ取りというべきか。欧州キリスト教衰退を尻目にしたアメリカのキリスト教の勢いの一半はこの力が由来のようだ。

[滅びゆく魂の救いを願い]とは意味が分かってのことだろうか。
この人々は自説を説くのが不得手らしい。学ぼうとしても一向に理解が難しい。


それはこのようなことであったのか------
「セイラムには、前年から就任した牧師がいました。彼は真っ当な宗教なら政治と関わるべきではなく、マサチューセッツ湾植民地の教会は国教会と縁を切るべきであり、また、新大陸は先住民のものであって、イギリスはそれをマサチューセッツ湾植民地に所有させる権利など持ってはいないと説教していました。

 けれども、彼はジョン・コットンにそれを糾弾され、職を追われただけでなく、植民地自身から追放されてしまいます。四人の信者と共に、彼はナラガンセット湾の北部沿岸の土地をネイティヴ・アメリカンから購入して、集落をつくり、バプテスト開拓者のための宗教的自由の地と宣言し、「プロヴィデンス」と命名しました。そこは現在のロードアイランド州に含まれます。

 この人物こそロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)です。彼は、以後、コットンとの間で、政治と宗教をめぐる激しい論戦を繰り返していくのです。」

ロジャー・ウィリアムズ(1603-1683)は、政教分離を唱えて国教会に反対し北米に渡った。しかし、彼がインディアンに同情的であったため、ボストン近郊のキリスト教指導者らとすぐに対立するようになっている。

国教会派を逃れてヴァージニアよりも北を目指した清教徒集団も、次第に政治的にならざるを得ず、そこで様々な妥協と現地人との軋轢が生じていった。

彼は後にプロビデンスを設立し、それはロードアイランドに一つの政府を勅許によって確立するに至る。その政府は北米のどこよりも早く奴隷制を否定した。彼の許には清教徒的偏狭さを逃れた人々やユダヤ教徒までが集まった。

インディアンの教化は思うより難しく、あのウィスレーですらも逃げ帰っている。<メソジスト的生き方を最初から求めたのか?>

この世で規則通りに作られたキリストの教会は無いし、また教会の儀式を監督するように資格付けられた者もいない。新しい使徒が教会の偉大な首長によって派遣されるまでそれらは有り得ない。使徒の来迎を私は求めている。

代表的著作『良心への迫害血染め教義』1644

 

 

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キリスト教のほとんどがキリストに敬意を集中しても、その『兄弟ら』とされる聖なる者らについては無視している。

その弊害が、元来聖徒に与えられている数々の恩恵を信者である自分たちのものと勘違いさせるところにある。

それであるから、キリスト教理解の重要なカギは「聖徒理解」にあると言って過言でない。

聖徒と信徒の区別が付くことによって、聖書に流れる底流を把握でき、全体像をはじめて俯瞰することができるようになる。

これを隠されたキリスト教は、聖書理解の土台にさえ到達せず、単なる道徳律や精神論に終わる。それらは皆、なんら発展性も、画期性もない人間の推論に過ぎず、同じところをぐるぐると回り続けるもので終わる。

到底「神意」の卓越性を繁栄する高みには上らない。

聖霊が真理を告げるとき、それらに暗黒が臨み、聖徒への猛烈な敵意で満たされることは預言に言われることもないほど明らかで、非理性的な感情論とキリスト教の名を汚す闘争性を露わにすることであろう。

こうして「キリストの兄弟ら」もキリストの道に入ることになり、旧来のキリスト教界は、ユダヤ宗教家らの轍を踏むことになろう。

はっきり見えているのに、「クリスチャン」は熱心であったり、教師であったりすれば、これを避けられないだろう。その頑なさはもうすでに見えているのだから。

 

 

 

 

アモス書のメモ

 アモスは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルらのようなレヴィ族の血統になく、ユダ中部のテコアの牧人であり、いちじくの実に細工する季節労働者でもあった。

そのため、彼に啓示された内容は当初は周囲に受け入れ難かったと思われ、それはベテルの祭司アマジアの言葉にも表れている。

書かれたこの預言書の執筆者は彼自身ではない。

しかし、この預言書に中に記された地震は二年後に顕著な仕方で現実となり、それはイスラエルの全体に驚きを与えた。また、書として記述されたのが地震の後であることが分かる。「アモスより四世紀後に書かれたゼカリヤ14:5にも言及されており、地震パレスチナでは珍しいものではないが、アモスの預言の信憑性を証しするものとなったことは有り得る」#

その規模が小さくなかったことは、この預言が北イスラエルだけでなく、ユダにも語られているところ、また、ユダの王ウジヤの時代に起った地震の記載がゼカリヤ書にもあることから類推できる。

地震についてはハガイにも有るが、そちらの地震は人類社会への神からの衝撃的音信への反応として述べられている。しかし、アモスの預言は、イスラエル12部族への衝撃の音信であり、その結果はハガイと異なり望ましいものとはならない。同一の対型の両面を語っている可能性は小さくない>

いずれにせよ、この地震と、数年の内にイスラエルが捕囚にされることを知らせたことが実現することにより、アモスの預言は不動の位置を占めるに至っている。「YHWHの名によって語りその通りになるならば」

ウジヤは前785年に即位し、ユダ王国を繁栄させている。ヤラベアムⅡ世は前782年に即位し、やはりイスラエル王国の繁栄させダマスコスから死海までに版図を広げている。

前748年にヤラベアムⅡ世が崩御しており、その中でアモスの活動は前750頃と考えられている。ウジヤの後を継いでヨタムが即位したのは前777年であった。

アッシリアによるサマリア攻撃は前721年。諸王国の栄枯盛衰の速度は速い。

 

1:11-12 エドムへの託宣

これはアモスよりずっと後代を予告している。

「これは前586年のユダの陥落に完全に合致している」「この託宣は前八世紀には全く調和しない。前八世紀に至るまでエドムは、記録によれば(例えれば列王第一11:14-16)、エドムが加えた以上の残虐行為をイスラエルの手によって受けた」#Henry McKeating "The book of Amos & Hosea"1971

 

 3:9 アシュドドは、LXXがしているように、おそらくアッシリアと読むべきであろう。ヘブライ語に於いてこの二つの語が類似しており、容易に混同される。同時代の二つの覇権国家の到来はサマリアにとって如何に壊滅の期が熟しているかを証しするものである。#

 

度々現れる「ギルガル」はベテルに近い場所にあるものと考えられている。

サマリアに関しては夏の家、冬の家、大きな家、象牙の家や寝床などの豪奢な生活への批難が見られるが、牧夫と家との対立関係があるとも。

 

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ダマスコス(シリア)、ガザ(フィリスティア)、ティルスフェニキア)、エドム、アンモン、モアブ、ユダ、イスラエルに糾弾の言葉が続くが、イスラエルに対する言葉が長い。ヤラベアムⅡ世の死を予告し、民の流刑によりその繁栄が喪に服すことになる。

約束をしたのでないのに二人が一緒に歩くか

神は預言者に告げたのでない限り何も行われない

ゆえに、この言葉をエジプトとアシュドド#の塔の上から言い広めよ

真昼に太陽が沈み、晴れた日に闇が地を覆う。

YHWHの言葉を聴くことの飢饉を臨ませる。探しても見いだせない。

わたしは下げ振りをイスラエルの中に下げ、もはや許すことをしない

柱頭が打たれて全体が振え、イスラエルの家の全体が揺すられ災いが臨む。

イスラエルの家よ、わたしはあなたに向かって一つの国民を興す

しかし、ヤコブの家は滅ぼし尽くされず、ダヴィドの仮小屋を興し、エドムに奪われた土地を回復する。それには諸国民も関わりを持つ。⇒エルサレム会議

鋤かえす者が収穫する者に追いつくという約束の地での繁栄を享受することになる。有り得ないほどの驚異的収穫の予告<終末のスッコートと関わりがあるかも知れない>

 

異教崇拝と繁栄からの突然の喪失と流刑

それに対する回復と更なる繁栄の予告

 

 

所見;マクキーティングのいうように、アシュドドがアッシリアである必要はあまりない。むしろ問題は預言がされていたことの証言者になることにある。

アモスは「アッシリア」の言葉を明らかに避けている。そこはホセアとは対照的で、ニネヴェも出て来ないところはヨナやナホムとまるで異なっており、アッシリアを責める句も使役する句も直接には無い。

これらの預言では、十部族の王国への預言に含めて終末がオーヴァーラップする。異教に堕したキリスト教界への警告らしく、突然に襲う闇と神の言葉の飢饉とが臨むのは、聖徒らの宣教によるものと思われる。聖徒らの宣教が起れば、キリスト教界が聖典に根拠をまるで持てなくなることは今からでも想像に難くない。それまでの解釈が無意味になり、聖典を読む意味さえなくなる。

しかし、その破滅から回復があり、残った者らがダヴィドの仮小屋を復興する。仮小屋というのは、スッコートを関わりがあるかはまだよく分からない。むしろ、王権の予備段階を言うのかも知れない。レヴィはスッコートの間はどう過ごす?

地震についてはハガイよりはゼカリヤに関連が明確にある。その黙示を解く鍵でもあるが、しかし、ネイヴィームの全体を合わせるとより統一されるような気がする。黙示録との関連もはっきりしたところがある。

 

 

 

 

 

 

マタイ11:12 

NA28

ἀπὸ δὲ τῶν ἡμερῶν Ἰωάννου τοῦ βαπτιστοῦ ἕως ἄρτι ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν.

 

[βιάζεται] 動)直現能欠3単 

原形[βιάζωμαι] 激しく攻める

[ἁρπάζουσιν] 動)直現能3複 ヘブライ語由来でギリシア文字の最初の意 

原形[ἁρπάζω]

[βιασταὶ ] 名)主男複 激しく攻める者

 

【NKJV】

"And from the days of John the Baptist until now the kingdom of heaven suffers violence, and the violent take it by force.

 

【NET】

From the days of John the Baptist until now the kingdom of heaven has suffered violence, and forceful people lay hold of it.

 

【ED】

From and the days of John the dipper till now, the kingdom of the heavens has been invaded, and invaders seize on her.

 

【口語】

バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

 

【新共同】

彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

 

【新改訳3】

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

 

⇒ 同じく[βιάζεται]の出典あり

Lk16:16

Ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται μέχρι Ἰωάννου· ἀπὸ τότε ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ εὐαγγελίζεται καὶ πᾶς εἰς αὐτὴν βιάζεται. 

 

【NKJV】

"The law and the prophets were until John. Since that time the kingdom of God has been preached, and everyone is pressing into it.

 

【ED】

The law and the prophets till John; from then the kingdom of the God is preached, and every one into her presses.

 

 

【口語】

律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

 

【新共同】

律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

 

【新改訳3】

律法と預言者ヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。

 

NWT-OE】

”The Low and the prophets were until John. From then on the kingdom of God is being declared as good news, and every sort of person is pressing forward it.

 

そこからマタイ11:12を見直すと

つまり、「バプテストの活動は始められて以来、ユダヤの民衆はこぞって来るべき王国に殺到し、その王国を我も我もと自分のものにしている」。

(にも関わらず、ユダヤの体制派はそれを得ようとしなかった)

 

バプテストを讃える文脈で、彼の功績を述べ、イスラエルへの王国の紹介と、現に民衆が彼の紹介したメシアに信仰を見出し、その王国を自分のものとしつつある姿を言い表した。

それはルカに於いて「殺到している」と日本語訳されるべきところ、訳者自身はどれだけそれを意識したのだろうか?マタイに於いては「意味不明」ともされる。

 

今や、アブラハムの相続財産たる神の王国の聖なる者となる道がバプテストとメシアによって拓かれつつあり、民衆はメシア信仰によってその道に殺到しつつある。ヨハネはその道を拓いた功績があり、女から生まれた者で最も偉大である。(しかし、神の王国に属する最も小さな者でさえ、彼よりは偉大だ⇒Dan9:27「大いなる者と契約を」[בְּרִ֛ית לָרַבִּ֖ים]ここも翻訳難所!)

 

 

過去記事 ⇒ 「翻訳への抄

 

 

 

ヒュペークオー

 

[ὑπηκούω] 服従、従う 

[Καὶ ὁ λόγος τοῦ θεοῦ ηὔξανεν καὶ ἐπληθύνετο ὁ ἀριθμὸς τῶν μαθητῶν ἐν Ἰερουσαλὴμ σφόδρα, πολύς τε ὄχλος τῶν ἱερέων ὑπήκουον τῇ πίστει.]

 

【NKJV】
Act 6:7 Then the word of God spread, and the number of the disciples multiplied greatly in Jerusalem, and a great many of the priests were obedient to the faith.

 

Act 6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。  【口語訳】


Act 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。【新共同訳】 

 

レヴィのそれもサドカイ派が占める祭司団が信仰を同じくしてナザレ派の集団に入るというのは、当時の状況からするとほぼ有り得ない。神殿祭司らがナザレ派となった例が聖書中に見当たらず、ナザレ派はガリラヤ人とディアスポラが多く、イエスの一件からはじめ、例え使徒らへの信仰を懐いたにしても、一般市民でさえ好意を懐いても公に弟子としての行動が憚られたのであればAct5:12-13、イエスから継承した癒しの奇跡のゆえに個人的に好意を持つことはあったとされるが、この以前の記述からすると、ナザレ派は毎日神殿を訪れ、神殿祭祀を重んじている姿を見せているので、現場の祭司たちから好意的に見られたことを言うのであろう。そこでこの[πολύς τε ὄχλος τῶν ἱερέων ὑπήκουον τῇ πίστει.] は「多くの祭司の者たちがこの信仰に従った」との直訳は「その信仰に温順になった」とするところが相当と思われる。彼らの主敵はサンヘドリンの祭司長派とタナイームとそれに追随するパリシームあり、大祭司も含むが、日毎に中庭に立って犠牲を捧げたのは下位の祭司ら(サドカイ派)やネティニムであったことは間違いない。

そう訳しているのが【新世界旧訳】で"great crowd of priests began to be obedient to faith."としている。(beginに相当する原語はないが)「非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」【日本語旧版】

 

但し、本来の[ὑπηκούω] は奴隷の服従を指すRm6:16/Tit2:9。また、完全に支配下に置かれた者が示すべき態度Lk17:17-20 預言者にその霊が従うこと1Cor14:32 などがある

一方では、信徒が示すべき態度としてはほとんど実例がない。

「肉の思うところは神の律法に服従し得ない」というくらいRm8:7

 

やはり新約に於いて、またキリスト教に於いては「服従」は基本的精神とは言えない。それは『キリストの掟』に従うべき『聖なる者』についても、新約聖書はその根拠を提出しているとは言い難い。

 

「クリスチャン」に「服従好き」が多いのは、生き方に於いて、それが簡単であり、指導した者に行動の責を求められる安易さがウケるからではないだろうか。だが、それはユダヤ教に出戻る愚行というほかない。意図せずパリサイ派の轍を踏むだけであり、その規準が十戒を始め律法を簡単にしたものに置き換えているだけのことで、その不自由さの中では自己義認の誘惑が強く、アガペーが育成される環境とは言い難い。それは奴隷と自由人ほどの差がある。

 

 

 

千年期説への対抗

 

一般的千年期説

キリストは世界の終わる前に地上に現れ、反キリストを打ち負かし、義人を復活させ、義の報酬として地上に王国を設立する。そこでキリストと共に支配して善い生活を送り、その後に一般の人々の復活が起る。その後に裁きがあり、義人と罪人が分けられる。

 千年期説の特徴は、現世の悪への糾弾があり、道徳的な信者への酬いとしての神の新体制下での幸福な生活を求めるところがある。

ミレニアニストと言えば、欧米キリスト教一般では軽蔑の対象となりやすい。理由としては、体制批判的であり、ともすると自己義認に流れやすい。また、熱狂的に年代に信仰を懐く傾向も見られる。

アウグスティヌス以降、中世期に千年期説は衰退したが、近世以降新教派の中から再び現れ、19世紀から20世紀にかけて隆盛をみている。

この世、また為政者とのキリスト教界の関わりは、世界の歴史の進展に深く関わっており、ローマ帝国の延長を可能にしたのはキリスト教であると言えるようである。それもヴァチカンだけでなく、東ローマ帝国正教会も含んでのことになる。それらのキリスト教は性質上、千年期待望であることはできなかった。

 

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381年の会議

アポリナリオス(Anto)を異端として裁き、その教えの広がりを防ぐために『キリストの支配に終わりはない』Isaを援用した。つまり、キリストの統治が始まるとその支配に終わりはないのであるから、千年期に限定されないとした。<聖書の一つの語句に拘ると全体の理解は不可能>

 

アウグスティヌス

千年期とは教会のことであり、数には意味がない。

<エイレナイオスの著作を棄損しただけのことはある>

 

ルター

教会が繁栄しているところではサタンは縛られているので、千年期はペンテコステに始まりキリストの再臨に終わる期間のことである。イエスは地上が至福の場となることを何も語っていない。

<黙示録を誹謗しただけのことはあり、視野が狭すぎる>

 

<つまるところ、自説有きのところに句を援用しただけで、中立的観点が不十分ではないか?黙示録の千年王国だけでなくイザヤ書にもこの世では見られない光景の具体的描写がある>

<彼らのは「定常宇宙説」のようなところがあり、現状肯定型で、共通点に権力との結びつきがあり、摂理的にこの世を見るところがある。つまり「この世」の肯定から出発している>

国際的な秩序という点では、ローマ帝国の残った枠組みの中で欧州が育ったとも言える。その間、ヴァチカンや府主教座が国際的取決めの要として作用していたとも言える。

だが、大航海時代を迎え、ヴァチカンの裁定だけではまとめることが困難になっていた。(しかし、宣教師らは商人であることもできたため、海洋国家の植民地支配はヴァチカンの宣教と表裏一体を成して分かち難いものとなっていた。日本人が相当数奴隷として売られた背後には宣教師らの働きがある)

以下のグロティウスの件と併せると、国際法の発達とキリスト教には深い関連がある。それもあまり良い意味はない。

 

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国際法 -Wiki

国際法の一般原則とは、国際司法裁判所規程第38条第1項(c)にあるように「文明国が認めた法の一般原則」であり、主要法系に属する世界の国々の国内法に共通して認められる原則の中で、国際法秩序にも適用可能と判断できるものを指す。

19世紀には国際法法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した。

さらに現代では二国間の仲裁裁判条約や、多数国間条約に定められた裁判条項においても裁判基準として挙げられていることから、法の一般原則は国際司法裁判所の裁判基準であることを超えて「法の一般原則」も国際法秩序における独立した法源であるとする考えが、今日では広く認められている。

条約そのものの規律を対象とする国際法については1969年に国連国際法委員会によって法典化された条約法に関するウィーン条約がある。

 

伝統的な「国際社会」(仏: la société internationale)は、主権国家の並列状態のみが想定されており、したがって国際法の主体となりうるものは国家のみであった。この基本的な構造はそのため従来的な国際法とは、国家間の合意もしくは不文律のことのみを意味していた。会社などの法人や個人は国際法の主体となりえず、せいぜい国家が国際法に関する権利を行使する過程で影響を受ける存在でしかなかった。これはそもそもかつての国際法で紛争を抑制するために定められた国内管轄権に関する事項を規定しない内政不干渉の原則がウェストファリア体制で確立されたことに起因している。

しかし現代では、国際人権法、国際人道法に見られるように、個人も国際法上の権利、義務の主体として位置づけられるようになった。また、国際環境法における「人類の共通の関心事」(common concern of humankind)あるいは「人類の共通利益」(common interests of humankind)概念のように、「人類」(仏: l'humanité)概念も登場するに至った。このように、今日では、従来の「国際社会」とは異なる、諸国家の相互依存性から自然発生的に形成された「国際共同体」(英: the international community、仏: la communauté internationale)という概念が、学説においてもまた実定法においても、徐々に浸透してきている。

 

慣習国際法は、不文ではあるが、条約と同等の効力を有する法源である。もっとも、不文であるため、それぞれの慣習国際法がいつ成立したのかを一般的にいうことは難しいが、もはや慣習国際法として成立したとされれば、国際法として国家を拘束する。

19世紀には国際法法源は条約と慣習国際法であるとされてきたが、これらに加えて1921年常設国際司法裁判所規程は法の一般原則を裁判基準として認め、国際司法裁判所規程も上記国際司法裁判所規程38条1項(c)のようにこの立場を踏襲した

 

常設国際司法裁判所

1922年に設立された国際連盟における国際司法機関で、国際社会に初めて登場した本格的な常設の司法裁判所である。オランダのハーグにある平和宮に本部を置いていた。1922年から1940年までの期間に裁判を行ったが、処理した事件の件数については38の判決と27の勧告的意見とする説や、21の判決と26の勧告的意見とする説がある。1940年、ナチス・ドイツがオランダに侵攻したのを機に活動を停止し、1946年4月に国際連盟とともに消滅した。国際連合のもとに設立された国際司法裁判所がこれを継承した。

国際司法裁判所

オランダのハーグに本部を置く。国家間の法律的紛争について裁判をしたり(国連憲章第36条第3項、ICJ規程第36条)、国連総会や国連安保理などの要請に応じて勧告的意見を与える(国連憲章第96条、ICJ規程第4章)。判決や勧告的意見による国際司法裁判所の意見は、国際法の発展に多大な影響を与える。世界法廷(World Court)とも呼ばれる。

 

国際法の実現は、二国間の条約に於いて古来存在していた。(トルデシリャス条約など)

フーゴー・グロティウス(1583-1645)の論が大きい影響を与えている。この論理は1603年のオランダによるポルトガル船の拿捕事件に端を発して、オランダの東インド会社の権益を巡って海洋の領有権が争われた。彼の「自由海論」に英国は激しく反発し、海事法が初めて論じられるに至った。英国は海港の自由な入港も制限し、この確執はやがて第一次英蘭戦争1652-1654を招く。

(グロティウスは1620年代から神学について論じることが多くなったが、それはオランダが新教派としての国家論に関わってきたからであった<これが曲者>)

この時期、オランダはスペインとの間で休戦協定を結び、外圧を逃れることができた。

しかし、多国間法規の必要が高まる19世紀に国際法は、ほぼ形を成していたと言える。<従って、日本が国際法を学び、遵守しようとした幕末時代は、二国間条約を超える国際法が整いつつある時期であったと言える。この法に組みするということは、国家に品格が備わり対等的に振る舞って植民地化されない利点があったろう>