Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

脱落聖徒の予型と象徴

 

 

アベルを殺害したカイン

・堕天使である悪霊

・長子でありながら相続物を軽視したエサウ

・コラによるモーセへの挑戦

イスラエルの最後部を襲うアマレク

・欲得で預言し堕落を画策したバラム

・独自の崇拝を始め隠棲したダン部族

預言者を騙す預言者

ダヴィドを追うシャウル王

・祭司団を殺害させたドエグ

ダヴィドの子アブシャロムの反逆

・ヤラベアムの悪行

・諸王の時代に腐敗した預言者と祭司団

・ネヘラムの子シェマヤ;祭司らを扇動しエレミヤに反対させようとする

・アズルの子ハナニヤ;エレミヤの作った頸木を砕いて反対預言を行う

・額に印なく滅ぼされるエルサレム市民

・捕囚時のエドムの悪行

・サンバラトの腐敗と反抗

・北の王の誘惑に屈する者ら

・マラキの時代の祭司

・歴史と通じた大半のイスラエル民族

 

 

・焼かれる籾殻

・霊力で不法を働く弟子

・広い道を行く弟子ら

・魂を守ろうとして失う弟子

・ひとりは残される

・小麦畑の独麦

・1ミナ、1タラントの奴隷

・引き網から捨てられる魚

・躓きの経路となる者

・ユダ・イスカリオト(滅びの子)

・不安定な魂を悪行に誘う者

・バラムの道に入る者ら

・エクレシアを渡り歩く偽預言者

・黙示録の偽預言者

 

 

 

 

 

 

聖徒の予型と象徴

 

・天幕住まいの族長

・『地のすべての氏族の祝福となる』アブラハムの裔

ヤコブの家

・災いを下すモーセとアロン

出エジプトで子羊の贖いにより買い取られたレヴィ族

・アロンとその子孫

・律法契約が目指した『祭司の王国、聖なる国民』

・律法の祭司制度

・シャブオートで捧げられる小麦の初穂と二つのホメッツ

・贖罪の日で大祭司に贖われる祭司団

・アマレクの追撃を受けるイスラエル

・バラムに預言されるイスラエル

・モアブの罠に嵌るイスラエル

・約束の地に入植するイスラエル

・ラハブに匿われる斥候

・ギデオン人を救うイスラエル

・諸国民の光となるべきイスラエル

・二十四組に組織された祭司団

・一人の牧者の許に集められる十二部族

・バアルの祭司団を裁くエリヤ

・隠棲するエリヤ

旱魃を制御するエリヤ

・アハブ王とイゼベルに追われるエリヤ

・天空に去るエリヤ

・エリヤに残された七千人

詩編で語られる『神々』

・『シオンの娘』

・シオンに集められる子ら

・エレミヤ哀歌に描かれるシオンの子ら

エドムに裏切られるユダ

・神の御名の賛美のために創造される民

・戻ってくる『残りの者』

・敷かれた街道を通って帰還する残りの者

・泣きながら約束の地に戻るイスラエル

・復讐される神殿

・「新しい契約」に与るイスラエル

・黒鉄の柱とされる預言者エレミヤ

・同胞の迫害から救い出されるエレミヤ

・額に印を付けられるエルサレムの者ら

・燭台に油を給する二本のオリーヴの樹

・バビロンを発った帰還民団

・神殿を再建するユダヤ

・ヨエルの蝗害

・再び人が住むようになった山々

・再生される谷を埋め尽くす無数の人骨

・ネブカドネッツァルのように低められる

・メシアとの契約に与る『大いなる者ら』

・『北の王』から三時半迫害される聖徒の民

ハバククの静かに待つ者

・屠殺に定められた羊の群れ

・終末で諸国民に裾を捉えられるユダヤ

イスラエルの同胞、兄弟関係

・メシアの到来によって精錬されるレヴィの子ら

 

 

・メシアの裁きで倉に納められる小麦

・霊と水から改めて生み出される民

・キリストと共同の相続人

・キリストの花嫁

・キリストの兄弟

・キリストと同じ様となる者

・肉によらず霊によって生きる者ら

・創造物の初穂なる者ら

・神殿を構成する石

・キリストに与えられた者ら

・生前の善悪でキリストに裁かれる者ら

・群衆に対する十二使徒

・ミナやタラントを託される奴隷

・キリストと共に王として支配する者ら

アブラハムの子ら

・十人の処女

・小麦と独麦

・囲いから導き出される羊

・百匹の羊、十枚揃った硬貨

・再創造される民

・キリストの『父の業』を受け継ぐ者ら

・神の業を託された七十人

・為政者に対し聖霊の言葉を託される弟子たち

・迫害を受け十字架を担って主の後に続く

・接木され数が満たされるイスラエルの救い

・「神のイスラエル

・黙示録の七つのエクレシア

・二十四人の長老

・祭壇の下に居る魂

・去りゆく蝗害

・二人の証人

・野獣に倒される聖なる者ら

・十四万四千人に選考される者ら

・釜で収穫される小麦

・新しい歌を歌う天界の祭司団

・多くの王冠を被る王に従う軍勢

 

 

 

 

 

聖徒が受ける栄誉

聖徒が受ける栄誉

 

 

アブラハム遺産の相続

 アブラハムの子孫により『地のすべての民族が自らを祝福する』との約束を受け継ぐ

 ヤコブのように血統に拠らない子孫であり、異邦人には養子縁組の霊が下賜される

 

・神の選民イスラエルとなる

 神の名を賛美するための民、『諸国民の光』となるべき真実のイスラエルの民に、血統によらず信仰によって含まれる

 

・『祭司の王国、聖なる国民』

 律法契約の目標であったこの選民の目的が『新しい契約』によって具体的な人々に内定されるところとなった

 

・地上でのアダムの罪からの仮釈放

 キリストの犠牲の贖いを地上に肉体で居る間から適用されるので、『アダムの罪』は仮赦免されている

 

・キリストと共に天から支配する

 ダヴィド朝の後継者にして永遠の王であるキリストと共に王として地を治める

 

・千年期に人類の贖罪を行う

 大祭司キリストの下で従属の祭司となり、生き残る人類と神の執り成しを行う

 

・『新しい契約』に入る

 律法契約が生み出した唯一の履行者キリストの贖いをこの契約を通して受け、召天までの履行を条件に、『祭司の王国、聖なる民』の一員となる

 

聖霊の油注ぎにより奇跡の賜物を受ける

 『聖霊』という象徴的香油の注ぎによって任命され、その注がれた聖霊は、その人に奇跡の賜物を与え、その身の印とされる

 

・『主の晩餐』で表彰物に与る

 『主の晩餐』に於いて無酵母パンと赤葡萄酒に与る事を通し、キリストの体と血を共にすることを表す

 

・地に於いては水と霊から生み出され、それは再臨での第七のラッパの吹奏の時に再創造され、まったく新たな霊者として創りかえられ、イエスの姿をそのままに見る

 

・天界での身分が約定される

 『聖霊』は彼らの天界での身分の保証を与える『約束手形』となる

 この身分をキリストと共同で相続する

 

・キリストを隅石に天の神殿を構成する

 キリストと共に祭司団を形成する彼らは、天界の神殿を構成する一つ一つの象徴の石となる

 

・キリストの苦しみを共にする義の栄光に浴する

 自分の十字架を担ってキリストの後に続く

 

聖霊を通してキリストの言葉を授かる

 『この世』を糾弾する言葉を語り、世界を震撼させる

 

・人類からの初穂

 人類から『罪』を清める立場のゆえに、キリストの贖いを最初に受けた者となり、人類に先立って神に買い取られた『創造物の初穂』とされる

 

・キリストの兄弟

 人類の救済はキリストは一人ではなく、キリストの完全な義を根拠に生み出されるイスラエルという民族全体によって行われるため、彼らはキリストの兄弟とされる

 

・キリストの肢体を構成する

 キリストの肉と血を自らも共にすることにより、聖なる者らの全体がキリストの霊の体を構成する

 

・キリストの命を霊によって生きる

 彼らは復活したキリストの不滅の命を、肉に在る間から共に生きるので、肉の想いを克服し聖なる民となることが求められる。

 

・肉体という幕屋から解かれる

 彼らは地上に居る間から、キリストと共に霊の命によって生き始めているので、天界に召され、キリストと共に霊体となることが定められ、また願っている。

 

・天への召し

 定められた時を迎えると、まず死んだ聖なる者らが天界に復活し、次いで地上に生き残る聖徒らが不可視の昇天を受けて、キリストの許に集められる

 

・この世の征服

 この世の国々は、キリストと共に聖徒の支配する『王国』に道を譲らねばならず、神のご意志を地上で妨げるあらゆる人間の支配をキリストと共に終わらせる

 

・悪魔を足の下に踏みつける

 

・偉大さ

 天使に勝る立場を得る、聖なる者のどのような者も人よりも偉大であり、旧約では『大いなる者ら』また『神々』とも呼ばれ天使にも勝る

 

・キリストと共に『神殿への復讐』を果たす

 この世は、キリストを初めとして『新しい契約』に与る聖なる者らに反対し、血の罪をも負ってきたので、聖なる者らは終末に於いて、すべての聖なる者らへの復讐を果たし大患難を以って世に大勝利する

 

・新しいエルサレムによって新しい天を構成し、地上を安息によって千年治める

 

 

 

 

王権確立と支配開始の時

黙示録5:9-10

『あなたは屠られ、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から御自分の血で神のために人々を買い取り、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します』。

 

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第五のラッパによる地に対する第一の災い

底知れぬ古代からの蝗の復活による世人に苦痛を与える蝗害

(第一の災い)

 

第六のラッパによる第二の災い

四人の使いが定められた時にユーフラテスを離れた後

騎兵隊による世の三分の一に対する致死性のある攻撃

(第二の災い)

 

黙示録11章

聖徒らの殉教の後、召天される場面が有り

次いで第七のラッパが吹かれキリストの支配の始まりが宣言され

神が支配を始めたことが賛美される

同時に、諸国民と神の憤りが到来する(地への第三の災い)

死んだ者らが裁かれ、聖なる者と御名を恐れる者らに報いを与える時が到来

 

 

黙示録12章 (時期遡及)

女がアブラハムの裔を生み出し終え、子は直ちに神の許へ

東方のマゴイの攻撃は失敗する

聖徒登場による地に対するキリスト支配の権威の確立

しかし、聖徒は地に居る時期に遡っている

女シオンには聖徒活動中の三年半の保護期間が有る

 

黙示録13章

聖徒攻撃の器としての古代から呼び出される野獣と三年半の活動

聖徒の捕縛、殉教、活動の停止

女シオンへの保護期間の終わり

脱落聖徒らによる背教が偶像化される

 

黙示録14章

十四万四千人がキリストの許に揃う

この者たちの忠節は過去形で語られる

以下の三つの天使の告知は聖徒後の地に対するもの

・第一の天使「神の裁きの時が到来した、神を崇拝せよ」

・第二の天使「大いなるバビロンは倒れた」

・第三の天使「野獣とその像を崇拝する者は永遠の火に渡される」

この時点で聖徒の裁きは完了し、地の裁きの到来が知らされるが

記述は12節以降で聖徒の苦難に遡り、聖なる者らの忍耐が語られ

次いで『今から後、主と結ばれて死ぬ者は幸い』とされる

15節以降は、小麦と葡萄の収穫が聖徒と信徒の集め出しとして描かれる

 

 

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テモテ第二2:11-12

『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。
 もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう』。

ペテロ第一3:6

『あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えばサラの子となる』。

コリント第一4:8

『あなたがたは我々を別にして既に王として支配を始めたのか?』

ヘブライ2:8

『「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を我らは見ていない』。

ペテロ第一1:8

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じている』

ヨハネ第一3:2

『彼が現れる時、わたしたちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである』

 

黙示録 2:26

『勝利を得る者、わたしの業を最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける』。

 

 

 

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◆王としての支配の開始は、聖徒らが裁かれてキリストの許に集められて以降

 第七のラッパの吹かれた時からであって (11:15)

 地上で『主の晩餐』を行っている間ではない

むしろ『敵中から支配する』擁立場所はシオン

 

◆大娼婦が倒れた後、子羊の婚姻が行われるに際しキリストは支配を開始

 大患難の勃発がバビロンの一日の滅びであり聖徒への復讐の始まり

 

◆王国としての権威を受けるのは、シオンがすべての子らを生み出して以降

 『主の晩餐』を聖徒が行っている状態で王国の権威は存在する (12:10)

 聖徒らの全体が登場した結果、悪魔は天界での立場を失う

 悪魔はシオンを諦め、聖徒攻撃に向かう

 (これはキリストの再臨を要する)

 

◆『今から主と結ばれて死ぬ死人は幸い』の今とは、終末の聖徒の殉教を指す

 祭壇下の魂の願いからすれば復活までに幾らかの期間はある

 (但し、信徒を含む可能性が残るかも知れない)

 

 

 

 

 

アブラハム遺産の相続

 

詩編2:7-9

主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く

 

詩編47:3-5

主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
 47:4 諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
 47:5 我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ

 

詩編78:62.71

神の相続物たるヤコブの民

 

イザヤ19:25

わたしの民であるエジプト、わたしの手の業であるアッシリア、わたしの相続物であるイスラエル

エレミヤ12:14

悪い隣人、わたしがイスラエルに与えた相続物に触れている者ら

エレミヤ52:19

相続物の杖(部族) この言いまわしはイザヤにもある

ミカ7:18

自らの相続物である残りの者の咎を赦し、違反を見過ごされる

 

使徒20:32

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねる。その言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを相続させることができる

使徒26:16

それは、彼らの目を開いて闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって罪の赦しを得、聖なる者とされた人々の間に有る恵みの分け前を相続させるようになるためである。

 

ローマ4:13-14

なぜなら、世界を相続させるとの約束がアブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく信仰の義によるからである

もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば信仰は無用となり、約束もまた無効になってしまう。

 

ローマ8:16-17

霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証して下さる。
 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であってキリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである

 

コリント第一15:50

肉と血は王国を受け継ぐことはない

 

ガラテア3:18

もし相続が律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。

ガラテア3:26-29

 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって神の子なのである。
 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは皆キリストを着たのである。
 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

ガラテア4:6-7

このように、あなたがたは子であるのだから神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく子である。子である以上、また神による相続人である。

ガラテア4:30-31

「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。
 だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。
 ガラテア5:21

非道な事を行っている者が王国を受け継ぐことはない。

 

エフェソス1:11-14

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました

それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
 あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
 この聖霊は、わたしたちが神の国を相続することの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

エフェソス1:15-23

こういうわけで、わたしも主イエスに対するあなたがたの信仰とすべての聖徒に対する愛とを耳にし、 わたしの祈る毎にあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。
 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちが相続すべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかをあなたがたが知るに至るようにと祈っている。
 神はその力をキリストのうちに働かせて彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられるあらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上に頭として招会に与えられた。
 この招会はキリストの体であってすべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ち満ちているものにほかならない。
 

エフェソス3:6

それは、異邦人が福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の王国の相続者となり、共に一つの体となり共に約束に与る者となることである。

エフェソス5:6

すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国を相続することはない

 

コロサイ1:9-12

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

コロサイ3:24

 あなたがた[奴隷]は、王国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 

テトス3:6-7

この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストを通して、わたしたちの上に豊かに注がれた。
 これは、わたしたちがキリストの恵みによって義とされ、永遠の命を望むことによって、王国を相続する者となるためである。

 

ヘブライ6:12

「信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ者」に倣うため

 

ペテロ第一3:7

妻と共に過分の恵みとして命を受け継ぐ者となるため

 

 

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旧約での「相続物」はイスラエルそのもの、つまり、神が相続物として与えるものを指すことが多い。敷衍して言えば、イスラエルそのものが相続物であるとも言える。『神の王国』とイスラエルは不可分であり、旧約聖書中でのダヴィドの王国が相続物と目されるのは、捕囚後に明瞭になり、メシアへと方向づけられてゆく。

対して新約では、『神の王国』が相続物であることがはっきりしている。異例なのは福音書に相続に関しては例えの中に『永遠の命』や『土地』が出るほどで、ほぼ言及されていないことである。福音書を越えたところで『新しい契約』が始まるためと思われる。

 

相続物は、『イスラエル』『永遠の命』『神の王国』『[アブラハムへの]約束』

従って、契約には『聖なる国民、王なる祭司』だけでなく、以上の相続物が関わっていると捉えることができる。

 

もし、聖徒と信徒の区別がないとすれば、それでも信徒が聖徒の役割を担うことになり、救いはやはり信者以外の人類に及ぶ以外になくなる。ならば、初めから両者の相違を認めた方がよほど良い。そうでなければ、キリスト教は信者だけの利己的な宗教となってしまう。それを押し通せば、キリスト教徒の主張は「優越感」に集約され、居丈高な人格を作り出すことになる。だが、西洋キリスト教の歴史を見ると、その植民地支配などで人種的優越性の裏付けとしてキリスト教が作用してきたように見えなくもない。白人至上主義の後ろ盾にキリスト教があったとすれば、キリストがユダヤ人として現れたことに矛盾している。また、欧州人の傲慢を打ち崩す大きな助けになったのは、近代日本の存在であったろう。カトリックは新大陸の地元民を人間か否かを議論しており、ラス・カサスが証言しているように、人間扱いをしたとは云い難い。それで『地のあらゆる民族の祝福』になれるものか。そのキリスト教は大いに問題だ。

諸教会がなぜ聖徒と信徒の違いを認めないかと言えば、その動機が自分の救いに、つまり死後に天国でキリストに迎えられ安楽に過ごすことに向けられているためであり、そこで聖徒にのみ与えられることが告げられている様々な褒章を、その利己心ゆえに横取りしようとするからである。

しかし、聖徒と認めるなら、アブラハムへの人類祝福の器としての神の選民の価値を見出し、キリストの救いを信者に限定すことなく、『聖霊』に対する信仰に基づいて、その赦しと救いは信仰を持って来なかった人々に押し広げられてゆくことになる。

この利他性に反対するのは、そのキリスト教が指導者と信者らの欲と欲とで捻じ曲げられてきたからであり、国家や人種の宗教となったローマ国教化以来、この世の宗教となったことによる当然の結末であった。

キリスト教界に広く暢気な幼稚さが見られるのは、信仰を持ったなら永遠の救いに入ったと教えるからであろう。そこに利己心への安住があり、それは終末の裁きを度外視する危険を冒すことである。

 

 

 

聖なる者、神の子ら

 

 

 

『聖なる者』の用例

旧約

出埃:イスラエルは聖なる者となるべき

出埃:祭壇に触れる者は皆聖なる者

出埃:崇拝の什器に触れる者は聖なる者であるべき

レヴィ:神が聖なるようにイスラエルも聖であるべき

レヴィ:占いに頼る者が居てはいけない聖なる者となれ

レヴィ:食する動物に区別を設け聖なる者となるように

レヴィ:アロンの子らは聖なる者として処女を娶れ

民数:ナジル人は髪を切らずに聖なる状態を保つ

民数:衣に房を付けて聖なる者としてふるまう

民数:神が選ぶ者に聖なる者の証が立つ(コラの件)

申命:民のなかの聖なる者

歴代後:聖なる者であるレヴィ人

ヨブ:天使としての聖なる者

詩編:地に居る聖なる者、その威光ある者たち

詩編:聖なる者、神を恐れる者は何も不足しない

詩編:神は聖なる者たちの集会で畏敬される

詩編:聖なる者アロン

イザヤ:神はイスラエルの聖なる方 ×3

エゼキエル:神はイスラエルの聖なる方

ダニエル:夢の中での見張りの者また聖なる者の要請で×2

ダニエル:聖なる者は攻撃され悩まされる

ダニエル:至上者の聖なる者らに王権が与えられた

ダニエル:聖なる者が答えて2300の夕と朝を経て聖所は回復する

ダニエル:聖なる民は滅ぼされる

ホセア:私は神でありあなたの中での聖なる者である

ゼカリヤ:神が来るとき聖なる者らもそれに

 

新約

マタイ:埋葬されていた預言者を指して

マルコ:悪霊のイエスに対する認識として

ルカ:マリアから生まれる者は聖なる者、神の子

ルカ:悪霊のイエスに対する認識としての聖なる方

 

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神の子

マタイ:平和を求める人たちは神の子

マタイ:悪霊がイエスについて神の子と言う×2

マタイ:ペテロが「あなたは神の子キリストです」

マタイ:大祭司が「お前は神の子キリストか?」

マタイ:神の子なら十字架から下りてこい

マタイ:百卒長が「この人は神の子であった」

マルコ:悪霊が「あなたは神の子です」×2

マルコ:百卒長が「この人は神の子であった」

ルカ:生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれる

ルカ:アダムは神の子であった

ルカ:悪魔が「神の子なら、石をパンに変えよ

ルカ:悪魔が「神の子なら、そこから実を投げよ

ルカ:悪霊が「あなたは神の子です

ルカ:復活する者は娶らず死なず天使のようであり神の子となる

ルカ:長老会が「お前は神の子か」

ヨハネ:バプテストが「その方を神の子と証した

ヨハネ:ナタナエルが「ラビ、あなたは神の子です

ヨハネ:彼を迎えた者のすべてについては神の子となる権限を与えた

ヨハネ:死んだ者らが神の子の声を聞いて出て来る

ヨハネ:自分を神の子だと言ってからと冒涜だというのか

ヨハネ:この病は神の子が栄光を受けるため

ヨハネ:マルタが「あなたが神の子、世に来られるはずの方と信じました

ヨハネ:大祭司の発言が「各地に散る神の子らを集めるため」

ヨハネ:彼は死に値する自分を神の子としたからだ

ヨハネ:この書は神の子キリストを信じるために書かれた

 

 

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カトリックでは

信徒信条に「聖徒の交わり」の語あり

聖霊の恵みは「カリスマ」と呼ばれる

死んだ信者を含んで「キリストの神秘体に属する」と見做す

またキリストの唯一の家族を構成している神のみ許に既に召されたとも

生ける信徒は聖人を含む召された人々とのキリストの一体を構成している

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肉体という『天幕』に仮住まいする聖徒

 

 

ローマ8:15-18

『あなたがたは再び恐れを懐かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
 霊みずから、わたしたちの霊と共にわたしたちが神の子であることを証して下さる。
 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである
わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない』。

 

キリストが『この世』また『神の王国』の相続人であるように、聖なる者らも迫害を共にするなら(1Pet3:6)、『共同の相続人』であり、ダヴィドの王国、レヴィの祭司を継承する『祭司の王国、聖なる国民』となって『地のあらゆる民族の祝福となる』アブラハムの子孫、『神のイスラエル』の一員となり、キリストの兄弟として人類に先立って神を父とする『神の子』の立場を得る。

しかし、その身分を得て『兄弟を得る』には、迫害を避けられず、そこにこの世からの離脱が行われ、彼らは『神の側にあり、この世が邪悪な者の配下にあることを知る』必要がある。これは聖霊を有しない他のあらゆる人々との相違となっている。神の子でない者は誰でも『この世』に属しており、滅びべき『カナン人』の対型を構成する。他方で聖なる者らが『恐れを懐かせる奴隷の霊』から解放されたのは、彼らが死を超克する命の状態に入ったことを示す。彼らが迫害を甘受し恐れないのはこの理由による。

 

 

ローマ8:23-26

『霊の初穂を持っているわたしたち自身も心の内で呻きながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体の贖われることを待ち望んでいる
わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事をどうして望む人があろうか。
 もし、わたしたちは見ないことを望むからわたしたちは忍耐して待つのである。
霊もまた同じように弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないとしても、言葉にならない切なる呻きを、霊自らがわたしたちのために執り成してくれるからである』。

 

『体が贖われることを望む』とは、彼らが体に於いては依然として贖われていない状態にあり、彼らは体から解かれることによって贖いが完了することを指している。

従って、彼らの地上の生涯は『仮住まい』の『天幕』に過ぎない。

これはパウロがコリント第二書簡で

わたしたちの住んでいる地上の幕屋が壊れると神からの建物、すなわち天にある人の手によらない永遠の家が備えてあることをわたしたちは知っている。
そして、天から賜わるその住処を着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
それを着たなら、もはや裸を見られることはないであろう。
この幕屋の中に居るわたしたちは重荷を負って苦しみ悶えている。それを脱ごうと願うからではなく、上からのものを着ようと願うからであり、それによって死ぬべきものが命に呑まれることを願う。
 わたしたちをこの事に適う者にして下さったのは神である。そして、神はその保証として霊をわたしたちに賜わったのである。
 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることをよく知っている。
 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが願わしいと思っている。
 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが心からの願いである。
  なぜなら、わたしたちは皆キリストの裁きの座の前に置かれ、善であれ悪であれ自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである』。(5:1-11)

 

この聖徒の裁きについてはヨハネ福音書の5章の後半にキリストが語る

『父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず裁きは子に任せておられる』。(5:21-22)

ここには父の裁きと子の裁きが並置されている。

即ち、世に対する神の裁きが『義者も不義者も』復活して改めて裁かれるのとは対照的に、キリストに与えられた者である聖徒に関する裁きはキリストに一任されており、その根拠は『新しい契約』にある。従って、「十人の乙女の例え」にように、生涯の間に忠節を尽くさないなら、キリストの再臨に当たって以降『油を買う』には間に合わない。その点をヨハネ5章は続けて

『わたしの言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、裁かれることなく死から命へと移っている
 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
 驚いてはならない。時が来ると墓の中にいる者は皆人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る』と述べている。(5:24-29)

この復活が黙示録の言うところの『第一の復活』であり、それは再臨での残された契約期間の三年半の後に聖徒全体の裁きとして実現する。

それは地上に生き残っている聖徒の天への招集を含むため、地上に『残される』聖徒は肉体に取り残されることによってその裁きを受けることになる。彼らに悔いる余地はない。

 

復活にせよ召天にせよ天に召される者は、キリストに同じく霊の身体を得る。

『愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのかまだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
  彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼が清くあられるように、自らを清くする(Heb2:11)』。ヨハネ第一3:2-3

この聖徒らの肉から霊への体の変化についてパウロは次のように述べていた。

 

『わたしたちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、瞬く間に一瞬にして変えられるのである
 というのは、ラッパが響いて死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着けて、この死ぬものは必ず死なないものを着けることになるからである。
 この朽ちるものが朽ちないものを着け、この死ぬものが死なないものを着けるとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである』。(コリント第一15:49-54)

 

そこで、これらの肉体から霊への裁きを受ける『子に与えられた者』についてヨハネ福音は

『わたしを遣わされた方のみ心は、わたしに与えて下さった者をわたしが一人も失わずに、終りの日に復活させることである。
 わたしの父のみ心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。そして、わたしはその人々を終りの日に復活させるであろう』。(ヨハネ6:39-40)

従って、上に引用したヨハネ5章、6章の句はいずれも『契約の子ら』としてのイスラエルに語られており、キリストの宣教が専らパレスチナに限定された理由も知らせるものとなっている。

それはバプテストが『悔い改め』を促したように、律法の終わりについて『準備された民を備える』ためであり、『子を見て信じる者が、皆永遠の命を得る』とイエスが言われたのはイスラエルを対象としての外部の諸国民である。

キリストのイスラエルへの宣教によって、信仰を示した者が『与えられた者』となり、その者らはキリストの死と復活を通して聖霊の注ぎに与ることを通し、キリストの得た不滅の命を霊によって共にすることになった。

『神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ死者の中からのイエス・キリストの復活によって生きる希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、空しくならない財産を相続する者としてくださった』。(1Pet1:3-4)

 

彼らはなお肉体という仮住まいの天幕に住み、世に対しては『居留民』ではあるが、すでに霊に於いては肉体にある間から永遠の命に与っている。(1Pet1:1)

但し、その最終的成就は『苦しみを共にするならば』のことであり、『新しい契約』順守というキリストへの忠節が条件として付され、その裁きの結審は再臨の後の『第一の復活』にかかっている。

キリストに『与えられた者ら』は地上で試みられることで『自分の十字架を担って』主に続き、同じ栄光に入るという『この道に召された』のである。(Mt10:38-39/1Pet2:21)

 

それは単なる苦行による命の獲得ではなく、彼らにとっては、既に霊によって得ている命への肉体からの脱出を意味し、それは天界に於ける神に次ぐキリストと栄光を共にする完全の義の獲得と意味するものとなる。

 

このキリストとの等質性は『神のイスラエル』という一つの象徴的民族としての同胞、また兄弟関係にあり、それは以下のようにローマ書簡第8章にも記されている。

神は予め知っておられる者たちを、み子の姿に似たものとするよう予め定めて下さった。それは、み子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
 そして、予め定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである』。8:29-30

 

従って、聖徒らは『神の子』でありキリストの兄弟でもあるが、その基を置いたのは『隅の親石』たるキリストである。これはメシアが十二部族を呼び出し一つにするというネヴィイームに散見される概念とも合致する。

 

黙示録の『十四万四千人』が実数であれば(ローマ11章からすれば実数と思われる)、聖霊注がれる人々の間でキリストによる取捨選択が行われるという概念もあることになり、それはエゼキエル第9章の印をつけられるエルサレム市民という幻に例があり、それも黙示録第七章で繰り返される概念とされている。

律法契約の目的が民について選択的であるようにユダヤ教徒が感じ取り、その感覚がパリサイ派などを生んだように、『新しい契約』は更に選択的目標を擁している。その選択は聖徒らが聖霊の注ぎを受けて現れた後の裁きにより確定することになる。

従って、選ばれる聖徒の数より多くの聖霊注がれる者が居るに違いないが、だからと言って、聖霊の注ぎが乱発されるとは思われない。それは余計な負担を負わせて滅びゆく者を増やすだけになってしまう。

 

 

 

 

 

 

ローマ書簡での「霊に生きる」意味

 

ローマ書簡の白眉を第三章と第八章に見出す

特に第八章の前半部分には「霊によって生きる」というキリストの契約に入った聖徒に与えられた超絶的な「命の状態」を説くところで、その以前の数章から論議は準備されつつこの章で一つの山場を形造っている。

これらの内容は、キリストによって語られていたその犠牲に与る者となることによる類稀な命の変化を言い表しており、もはや彼らが神の御前にはキリストを介して『同じ命を生きる』こてでは普通一般の人を超越していると見做されていることを明らかにしている。

当然ながら、これを理解することは聖霊の過ぎ去った後の時代の人々には困難を極めるに違いなく、それはただ奇跡を行う聖霊を注がれ『主の晩餐』の表象を飲み食いするという事柄を遥かに超えている。

この神秘性は、ニコデモスがイエスの説明を受けても面食らったように、今日でも相当の福音理解があってもかなりの困難があろう。その一つの理由には、今日聖霊注がれている者が一人として居ないということ、それに加えて日々肉に生きる我ら世に属する凡人にはこの偉大な秘儀が直接に関わるものとならないこともあろう。

だが、ある程度把握しておけるなら、終末に現れる彼らへの共感を得、彼らの必要が何かを察知することで、その業の助けを与えるところで有用であろうと思われる。

 

 

ローマ6:3-14

『あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
  わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
  キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
  このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである。
  だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
  また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ自分の肢体を義の武器として神に捧げるがよい』。

 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 

ローマ7:4-6

『 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたもキリストのからだを通して律法に対して死んだのである。それはあなたがたが他の人、すなわち死人の中からよみがえられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に実を結ぶに至るためなのである。
 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法により掻き立てられた罪の欲情が死の実を結ばせようとしてわたしたちの肢体の内に働いていた。
 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである』。

 

ローマ8:1-4

『 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
 なぜなら、キリスト・イエスにある命の霊の法則は罪と死との法則からあなたを解放したからである。
  律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のために遣わし、肉において罪を罰せられたのである。
  これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちに満たされるためである』。

 

ローマ8:9-11

『しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
  もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
  もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう』。

 

ローマ8:13-14

『なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
 すべて神の霊に導かれている者はすなわち神の子である』。

 

 

総じて、キリストと共なる者らとして『天に登録される初子の集団』を構成するとは、以前には肉の業を専らとする俗世の者であっても、天界の高みへと召し上げられるのであるから、その罪深さと栄光ある清さとの差は余りにも大きい。だが、そこが贖いであり、イエスの犠牲によって神に買い取られるのであれば、本来、その代価に不足はないはずである。その犠牲の値はそこまで大きいからである。

したがって、彼らには放縦に生きるままでは、その重みを意に介さない不遜を表すことになってしまい、天界の祭司としての基準に達することができない。

それは律法が道徳性を求めたものとは事情を異にする。

彼らに求められるのは犠牲に対する恩や、それを備えたキリストに対する忠節な愛の表明としてそれが求められる。

その原理は隣人愛でもあり、『もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』ことで、初めてキリストに続く『共同相続者』とされる。

それから、もう一つの重要な点は『霊によって生きる』とされる彼らの生き方であるが、これはどのようなものかを推論することが我々霊のない者らには最もむずかしい。

 

キリストは永遠の命について、ユダヤ人には『肉はまったく役に立たない』と言われ、肉を支えるパンの限界を明言されている。それはマナであっても変わらない。

したがって、無酵母パンで表されるイエスの体は肉ではなく霊であることになる。

同時に、その実際の肉体はアダムの体の代替となり捧げられて死に、消滅したと見るべきであろう。そうして人類全体への代価は支払われたと解せる。

しかし、その消失した肉体は、人類に始祖であるイエスという父親を人類にもたらしたことになる。

主の晩餐に於ける無酵母パンはこの限りではなく、キリストの霊体を指すであろう。聖徒らにはキリストの肉体以上のものが求められ、それが復活したキリストの霊体を共にすることであろう。

従って、ヨハネ第5~6章でイエスが語った相手が『契約の子ら』、ヨハネバプテスマを宣明されたユダヤ人であることは常に念頭に置かれる必要がある。

 

他方で血は、神との関係を取り持つために不可欠であり、そこに命の値(体ではなく)や権利が関わっているとみてよいであろう。

肉体と血の双方共が、『新しい契約』に与り『キリストと同じ様になる』者たちの買い取りに用いられたとみてよいように思われる。

キリストの体は、彼らが霊者となる以前に義なる父を与え、キリストの血は彼ら自身の実質的には罪ある状態に対応するための贖い代として捧げられたもので、共に人類に先立って彼らを義と仮承認する働きを為しているであろう。これを葡萄酒に表象し彼らは儀式としてそれを飲む。

そこでイエスは自らを永遠の命をもたらす『天からのパン』と称されたのであり、その体を食し、血を飲む者が永遠に生きるとは、律法に縛られ滅びるしかなかったイスラエルにとっては当時、唯一の救いであったことになる。なぜなら、律法には『祭司の王国、聖なる国民』を生み出す目的を持っており、さらに古くは『地のあらゆる部族が彼らによって祝福を得る』というアブラハム契約の目的とも一致し、それがヤコブ嫡流の十二部族の完成形だからである。

従って、キリストの到来と宣教の時期に、イスラエルはこの重大な転換点に立っていたのであり、それゆえバプテストによる『悔い改め』が急務であり、律法に対して自らを罪人と認め、『子の心を父に向かせる』ことにより、メシアの信仰による契約に備えさせる絶対的な必要が生じていたと見ることができる。さもなければ、火のバプテスマが臨むばかりであった。

 

だが、ユダヤ体制の救いについては不信仰のために成功しなかったが、おおよそどのような国民でも俗世に塗れれば変わりない結果になったであろう。人々の大半というよりほとんどは、利己的であり肉欲的であり、人同士だけでなく神との関係にも無頓着であるから宗教を信奉していても、いや、しているほどに神に対しても利己的なのである。それはユダヤの宗教家らが反面教師となって大いに警告してくれたことである。

 

それでも、小麦として蔵に納められた人々については急激に高められたその立場を認識するべき強い理由があったに違いない。それがこれらパウロ論議の難しさに表れている。

 

契約とは、常に不確定な物事について締結されるものである。そこで聖徒らの不確定さとは、新約聖書の字句の表面上は具体的な道徳的行状を守ることのようには見える。

だが、パウロはそれが『霊によって生きる』ことであるとするのである。

彼らの中に注がれた霊に従って生きるということが、感覚としてどのようなものかは分からないながら、パウロでさえ肉欲の影響から逃れられなかったことを告白しているので、聖徒らにも葛藤があることは分かる。

しかし、その肉の欲を制するのが霊であり、聖徒らは内面の霊と和して生きなければならない。いずれ、彼らは肉体という幕屋を去るのであり、それは契約の終わりを意味するであろうから、彼らにとってキリストの死の様に従って死ぬことは大いなる功績となるのであろう。つまり、その肉体を解くということそのものを喜ばしい事として見做しているのであり、自分の十字架を背負ってキリストに続くのは、単なる悲劇ではない。

これが霊の見方であって、おおよそ信徒には懐き難い目標であり喜びであろう。聖徒はこの世に値せず、その市民権は天にあるので、地上では肉体という幕屋の仮住まいをしている段階である。信徒と聖徒とは地上では同じ人間の外見であるのに、聖霊の注ぎが有るか無いかで内面ではまったく異なっている。聖徒はキリストに与えられた者らであり、契約を介して彼に関わっているが、信徒は神に関わる。

これは、律法契約下に満足し切って来たようなユダヤ教徒には、ますます理解し難い秘儀になるであろう。その秘儀に達したのは、知識に富んだ尊大な宗教家らではなく、彼らが蔑んだ一般人や下層民であった。律法学者らの見解は博学でありながら、まったく陳腐化し、上記のようなパウロの認識からすれば幼稚なたわごとのようにさえ見える。

 

総じて・・

聖徒にとっては、地上で生きている命もアダムからのものではない。もしアダムの命を生きているなら彼らは有罪のままである。従って、彼らにはキリストの犠牲が既に適用されており、それゆえ彼らを『罪に定めるものはいない』。この無罪性を証するのが聖霊の注ぎであり、それは客観的に判断できるものでなければ証の意味を成さない。これが『新しい契約』の意義である。

彼らは、聖霊の降下を以って祭司の任命を受けたのであり、アロンと子らが七日の猶予を与えられたように、地上での待機と試みを経る。(コラの離反は脱落聖徒の予型であろう)、そのため聖徒らには、清さに関する要求があり、その祭司への規定が『キリストの律法』と呼ばれるものであろう。

新約聖書中の道徳規準は、そのほとんどが聖徒への戒めで成り立っている。即ち、新約聖書の目的は、天界の祭司を集め出し、契約を順守させて召し出すことにあり、神の目的に在っては未だ道半ばにある。

黙示録とネヴィイームとは、それらの最終的な成就の様と、そこに至る道程を予告しており、創世記の発端の解決に帰結している。

 

 

 

 

キリストの命を共に生きる聖徒

 

復活したキリストの命を共に生きるとは

肉に在って死に、霊に於いて生きる「キリストに与えられた者ら」とは

 

- ヨハネ5章 -

キリストが復活させる者らとは

Joh5:21-22

『すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた心に適う人々に命を与えるであろう。
 父は誰をも裁かない。裁くことはすべて子に委ねられたからである』。

<子の裁きは、「父から与えられた者ら」に関するものを指す>

『父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである』。同26

<この場面でイエスは繰り返し信仰を持つよう説くが、反応は悪い>

以下は、契約の子らとしてのイスラエルに当てはまる結果を述べている

『墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行なった人々は裁きを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来る』同28-29

<これはキリストによる第一の復活について語っている>

<これは「後の復活」についてパウロが異邦人総督に語ったAct24:15とは対照的に異なっている>

クラウディウス・ルシアスからフェリクス閣下へ」

 

- ヨハネ6章 -(AD32年の過ぎ越しの頃)

神のパンは天から降って世に命を与えつつあるもの

 

信仰を懐いてキリストの許に来るもの信じる者に永遠の命がある

わたしがその命のパンである

わたしの許に来るものは飢えることなく、信じる者は乾くことがない

父がわたしに与える者は皆がわたしのところに来る

わたしに与えてくださった者が皆一人も失うことなく、終わりの日に復活させること

これがわたしを遣わした方のご意志である

信じる者は永遠の命を持っている。

わたしは天から降ったパンであり、このパンを食する者は永遠に生きる

わたしの肉を食し血を飲んだ人はわたしの内に留まり、わたしもその人の内に留まる

わたしが父のゆえに生きているように、その人もわたしのゆえに生きる

霊こそが人を生かすものであり、肉は何の役にも立たない

<この「肉」は人としての肉を指す。転じて肉を支える小麦のパン>

わたしが語ってきた言葉は霊また命である、しかし信じない人々がいる

だから、父から与えられた者でなければわたしの許に来られないと言った

 

◆イエスの言葉に象徴的に人を生かす「霊」が備わり、それが命をもたらす

「父から与えられた者」とはメシア信仰に至るイスラエル人を指す、延いては聖徒であり、聖霊注がれる結果を含意している。バプテストは律法契約からキリストのこの契約への橋渡しの役割を負っていたが、ユダヤの趨勢が定まりキリスト否認に向かう中でその働きを終えた。

「飢え渇きがない」ことを通して、キリストの体と血に与る者らの状態を地的な比喩で説いている。

「マナは天からのパンではない」と発言し、「真の天からのパン」であるご自身について語る。即ち、食しても死ぬべき状態から逃れられなかったマナのようにではなく、永遠に生きる命を得る食物としてのご自身の体と血であり、その表象が無酵母パンと葡萄酒となった。(しかし、『主の晩餐』は未だ行われておらず、聴衆にはほとんど益がなかったので、これは福音書読者への言葉と解せる)

総じて、この場面では実際のパンを求める群衆はその空しさを悟らず、キリストが永遠の命へと生かすペサハでの無酵母パンを教え、またセデル祝杯の葡萄酒としての血に言及されている。

即ち、イスラエルの救いはメシア信仰に到達し聖徒となって真のイスラエルに含まれる以外にないのだが、五千人への給食に目の眩んだこの群衆に、それは余りに次元が高い話であった。

地的食料を得ることを目的にメシアに近づこうとする者らは自らの空虚さを悟らなかった。原因は、なおも印を求める不信仰にある。しかし、イエスが尚話されたのは、彼らが血統上のアブラハムの子孫『契約の子ら』であり、彼らに述べ伝える務めがメシアに残されていたからであり、その子孫らが肉を支えるパンを求めても霊がもたらす不朽の命については眼中にない現実の中で、双方の意識は一致しなかった。分かれ目は信仰であり、彼らは五千人への給食を見て味わいながら、なおイエスに印を求めている。これではもうどうしようもない。

 

しかし、そのペンテコステ以降の使徒時代となると、聖霊の教えによって使徒たちはこの件を悟るようになる。

 

それは、キリストと共に死に、共に復活の命を生きるという概念であった。

Joh14:19
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである
Joh6:58
このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう

 

(キリストの体は代替のために消滅し(Heb13:11)、魂は霊への復活のために保存された。つまり、贖いの子羊の肉はまったく焼き尽くされ『残っていてはいけない』、また『その魂は墓に捨て置かれなかった』、当然、キリストは肉で再来することはない。EX29:14/Rev16:27)

 

1Pet1:3-4
神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。


Rom6:3-11
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである
 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 

1Cor15:42-44
死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ、栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ、力のうちによみがえらされます。 物質の体でまかれ、霊的な体でよみがえらされます。


Phi3:10-12
すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与かって、その死の様と等しくなり、なんとかして死人のうちからの復活☆に達したいのである。☆[ἐξανάστασιν]
 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

 

Eph2:1-7
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中でこの世の習わしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩いていたのである。
 また、わたしたちも皆かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく生れながらの怒りの子であった。
 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。(Col1:13)
 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。

 

2Cor4:7-14
 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが顕れるためである。
 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスの命がこの身に顕れるためである。
 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に顕れるためである。こうして、死はわたしたちの内に働き、命はあなたがたの内に働くのである。
 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみ前に立たせて下さることを知っているからである。

 

 

1Cor15:22

キリストに在ってすべての人が生かされる

Jh6:40

これは即ち」と始まるので、ここでの発言はすべて「キリストに与えられる者」について「子を見て信仰を持つ者の皆に永遠の命を与えることがわたしを遣わした方の意志」との意味である。決定的なのは、イエスが復活させると言われることにある。

わたしはその者を終わりの日に復活させる

τοῦτο γάρ ἐστιν τὸ θέλημα τοῦ πατρός μου, ἵνα πᾶς ὁ θεωρῶν τὸν υἱὸν καὶ πιστεύων εἰς αὐτὸν ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον, καὶ ἀναστήσω αὐτὸν ἐγὼ [ἐν] τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.

従って、新約聖書中では「キリストに与えられる者」に関する内容が大半を占めており、それ以外の人々についての記述は限られる。これは新約聖書に於ける『新しい契約』の重大さを物語っている。

 

これらの深い理解についてはローマ8章前半での濃密なパウロ論議に連なってゆく

 

 

 

 

 

 

バプテストの働き

 

イザヤ40:3-4

『呼ばわる者の声がする、「荒野にYHWHの道を備え、砂漠に我々の神のために、大路をまっすぐにせよ。
 諸々の谷は高くせられ、諸々の山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる』。 ⇒ ゼカリヤ4:7 ⇒ Mt17:20&Mr11:23

 

マラキ3:1-2

『「見よ、わたしは我が使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。

そして、あなたがたが求める主は突然にその神殿に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍のYHWHが言われる。
その来る日には誰が耐え得よう。その現れる時には誰が立ち得よう。彼は金を吹き分ける者の火のようであり、洗濯人の洗剤のようである」』。

 

マラキ4:5-6

『見よ、YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、呪いをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

 

ルカ1:15-17(誕生に際して)

『 彼は主のみ前に大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒を一切飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、み前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう』。

 

ルカ3:1-7(AD28以降、荒野でバプテストとなる)

『皇帝ティベリウス在位の第十五年、ポンティウス・ピラトゥスがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリッポスがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカイヤファとが大祭司であったとき、神の言が荒野でゼカリヤの子ヨハネに臨んだ。
 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪の赦しを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてある通りである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、悪い道はならされ、人はみな神の救いを見るであろう」。
 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆に向かって言った、「まむしの子らよ、誰がおまえたちに迫ってきている神の怒りから逃れられると教えたのか』。

 

マタイ3:1-

『 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、
 「悔い改めよ、天の王国は近づいた」。
 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのはこの人のことである。↑ イザヤ40:3-
 このヨハネは、らくだの毛衣を着物にし腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
 すると、エルサレムユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、 自分の罪を告白し、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けた。
 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人の多くがバプテスマを受けようとして来たのを見て彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、お前たちは逃れられると、誰が教えたのか』。↓ ルカ7:30

 

マルコ1:1-8

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
  預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように ( ↑ イザヤ40)、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。⇒ Act13:39
 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けた。
 このヨハネは、らくだの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のある方が後からおいでになる。わたしはかがんで、その靴紐を解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、この方は、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」』。(聖霊と火と)Mt3:11 ↓ 

 

マタイ3:11

『箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け麦は倉に納め、籾殻は消えることのない火で焼き捨てるであろう」。』

ルカ3:16-17

『この方は、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、籾殻は消えることのない火で焼き捨てるであろう」。』

 

ヨハネ1:19-28

『さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
 これらのことは、ヨハネバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。』

 

ヨハネ1:29-36

『 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれた方である。わたしよりも先におられた方である』とわたしが言ったのは、この人のことである。
わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
 ヨハネはまた証をして言った、「わたしは霊が鳩のように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをお遣わしになったそ方がわたしに言われた、『ある人の上に、聖霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、聖霊によってバプテスマを授ける方である』。
 わたしはそれを見たので、この方こそ神の子であると証をしたのである」』。

 

 

 

ヨハネ3:22-24

『こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった』。

 

 

ヨハネ3:26.28-30

『ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、あなたが証をしておられたあの方がバプテスマを授けており、多くのの者がその方の許へ出かけて行きます』。

『わたしはキリストではなく、その方よりも先に遣わされた者である』と言ったことを証してくれるのは、あなたがた自身である。
 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうしてこの喜びにわたしに満ち足りている。
 彼は必ず増え栄え、わたしは減り衰えねばならない』。

 

 

◆(バプテストの投獄 AD30夏)

Mt4:12 Mr1:14 Lk3:19-20 

<バプテストの警告に沿うかのようにヘロディアの件は後のアンティパス没落の契機>

 

ヨハネ4:1・3

『イエスヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということをパリサイ人たちが聞き及んだ、それを主が知られたとき』『ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた』。(十二使徒召命の一年ほど前)

<「教会史」中の伝承ではヨハネ福音書を著すに当たりバプテスト逮捕の前と後とに拘りを持っていたと>

 

マルコ2:18-20

ヨハネの弟子とパリサイ人とは断食をしていた。そこで人々が来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのですか」。
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は断食はできない。
しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう』。⇒ 旧新の生地のたとえ

<「花婿」に関する発言はバプテストが先行しており、彼の弟子らはイエスの言葉に自分たちの師の以前の発言を確認したことになる>

 ↓

マタイ9:16- (ヨハネ派とパリサイ派の断食からの問いに続いて)

『 だれも、真新しい布切れを古い着物に継ぎを当てはしない。その継切れは着物を引き破り、破れがもっと酷くなってしまう。
 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂けて酒は流れ出るし皮袋も無駄になる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちする」。』

 

ルカ7:26-30

『では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが預言者以上の者である。
『見よ、わたしは使をあなたの先に遣わし、あなたの前に道を整えさせるであろう』と書いてあるのはこの人のことである。
 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより偉大な人物はいない(Mt11:11)。しかし、神の国で最も小さい者も彼よりは偉大である。⇒ ダニエル9:27

(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちもヨハネバプテスマを受けていたので、神の義を認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のご意志を無にした)』

 

マタイ11:11-14

『女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な人物は起らなかった。しかし、天の王国で最も小さい者も彼よりは偉大なのだ。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天の王国は(人々に)押し迫られ、殺到する者たちはそれをもぎ取っている。
すべての預言者と律法とが預言したのはヨハネの時までである。
 そして、もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは来るべきエリヤなのである』。

 

 

◆バプテストの処刑 (AD31アンティパスの誕生日)

Mt14:1-<回想> Mr6:14- Lk9:7-

Jh5:35 『あの人は燃え輝く灯火であった』。

 

ルカ13:31

『ヘロデがあなたを殺そうとしている』<イエスのペレイア入域を狙っていた?>

<おそらくヘロデはこの後で考えを変えたのでは>

 

マタイ17:12 

『エリヤはすでに来たのだ。しかし人々は彼を認めず自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、同じように彼らから苦しみを受けることになろう』。

 

マタイ21:25-26

ヨハネバプテスマはどこからのものであったか。天からか、人からか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのかとイエスは言うだろう。
しかし、もし人からだと言えば群衆が恐ろしい。人々は皆ヨハネ預言者と思っているのだから」』。

マタイ21:32-

ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに後になっても、心を入れ変えて彼を信じようとしなかった』。⇒ 笛吹けども踊らず

 

マタイ27:46-50

『そして三時ごろにイエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
すると、そこに立っていたある人々がこれを聞いて言った「あれはエリヤを呼んでいるのだ」・・・ほかの人々は言った「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか見ていよう」。
エスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた』。

 

使徒19:2-7

『 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ聞いたこともありません」と答えた。
「では、誰の名によってバプテスマを受けたのか」と彼が訊くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを」と答えた。
そこでパウロは言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって自分の後に来るかた、すなわち、イエスを信じるように人々に勧めたのである」。
 人々はこれを聞いて主イエスの名によるバプテスマを受けた。 そして、パウロが彼らの上に手をおくと聖霊が彼らに降り、それから彼らは異言を語ったり預言をしたりし出した。その者たちは十二人ほどであった』。

 

 

◆神殿の清めの事例は共観福音書では最後のエルサレム登城後、ヨハネ福音だけは宣教初期として記述されるが、『契約の使者』としての突然の到来はバプテスト亡き後の共観福音書の時点であるとの論旨は成り立つか? ⇒ あまり意味がない。むしろ、複数回行われたところに、当時の祭司長派が商人と癒着していた程度の深さを読み取ることの方が重い。

 

『契約の使者』としてのメシアの前に別のシュリアッハが用意されたのは、それだけメシアによる宗教の形が大きく変化することへの備えを要したことを表している。

宗教家らがヨハネバプテスマを受けていなかったというのは、何が障害となったのかを示しており、それは律法に対する自分の立ち位置であったといえる。

また、エリヤに例えられるのは、アハブ王の当時のイスラエルとその影響を受けていたユダの宗教環境が、天からの火によって民の心が変わり、YHWH崇拝を見直す契機を与えたところに共通性があるように思われる。

但し、両国とも宗教体制を取り戻すには至らず、七千人の『残りの者』を残すのみであった。だが、この点も聖霊の注ぎに与った小麦の人々が僅かで、体制派は不義な道を正さず、ついに『火のバプテスマ』に焼かれたところは、イスラエルアッシリアに、ユダはバビロニアに滅ぼされたところが予型になっている。

また、エリヤとエリシャの関係性にもバプテストとメシアの共通性が見られる。

しかし、バプテストは律法契約に準拠しており、メシアは律法を成就して終わらせる役割を保持する者としての異なりがあり、それぞれの弟子たちに求められるものも異なっていた。それでも時間の経過と共に進行する神の経綸は、バプテストの役割にすぐに終わりが来ることを示しており、ヨハネは終始一貫律法契約からメシアへの橋渡しをイスラエルに対して行ったといえ、それが断食と祝宴の相違となっている。ヨハネは悔い、イエスは祝うのだが、それは肉に関する限り律法には弱点となるものがあったのであり、それが克服し難い人間の『罪』であった。

この原罪の認識がその後のユダヤ教に現れなかったところが、キリスト教との障壁となり、今日まで両者は袂を分かったままでいる。

従って、バプテストの役割は原罪の認識をイスラエルに促すものであったことになり、そのバプテスマを受けて後、メシアのバプテスマを要していた。

メシアのバプテスマのもたらすものは、「悔悟」を越えてその上の次元である神の「是認」に向かわせる喜ばしいメシア信仰への門出であったろう。

従って、二つのバプテスマは共に欠くことのできないイスラエルの『呪い』からの脱出を意味したであろう。その脱皮は『ダヴィドの家の者らを天の使いのようにする』ほど超絶的な意義をもっていた。

 

 

 

雑記録24-1

 

香油を注ぐ女

 

ルカ7:37

[ἐν τῇ πόλει]「その都市の中で」

 

ルカ10:39

[εἰσῆλθεν εἰς κώμην τινά]「とある村に入った」

 

マタイ21

ロバに乗ったエルサレム入城の後、神殿境内を清めた夜、ベタニヤに宿泊

 

マタイ26

ベタニヤの癩病人シモンの家で接待を受ける

 

マルコ11

エリコで盲人を癒した後、ベタニヤとベテパゲに近づいたところで『向こうに見える村』からロバを用意するよう命じる

エルサレム入場後、『遅くなっていたので』十二人と共にベタニヤに行く

次の日、早咲きのイチジクを見つける

マルコ14

『過ぎ越しの二日前』癩病人シモンの家で接待を受ける

香油の注ぎ⇒ユダは祭司長派に内通

 

ルカ10

ある村のマルタという女がイエスの一行をもてなす。そこにマリアという姉妹がいたマリアはイエスの傍に座って話を聴いていた 32年秋から冬の時期 

ルカ19

ベタニヤとベテパゲに近づいたところで『向こうに見える村』からロバを用意するよう命じる

ルカ24

使徒と直弟子らが集まっているところに現れ自らの体を見せる

その後ベタニヤまで彼らを連れて行き、そこから帰天

 

ヨハネ11

ベタニヤのマルタとマリアのところのラザロが病気になる

ベタニヤはエルサレムに近く15スタディオンの距離にある

ラザロの蘇生『人の子が栄光を受けるためのもの』

蘇生したラザロをも見るために大群衆がその場に押し掛けた

ヨハネ12によると、エルサレム入場はこの四カ月ほど後になる)

ヨハネ12

過ぎ越しの六日前にベタニヤに到着

場所は不明で、食事の席で香油の注ぎを受ける

 

おそらく祭司長派はイエスの宿がベタニヤであることを知っている

しかし、騒動になるのを望まなかったのでは?

ベテパゲはエルサレムから安息日の距離の端

 

『ラザロをも殺そうと目論んだ』。聖書にラザロの危機について記述なし

その後どうなったか  共観沈黙の理由

 

 

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栄光のキリストが再臨する裁き

『いつ、わたしがあなたにそのようなことをしたでしょうか?』

とは、「人として当然のことをしただけです」の意ではないか。

但し、『弟子であるとの理由で一杯の水を差し出す者は』とあり、また『預言者の報い』とある以上、そこに聖徒の現れによる終末時の聖霊信仰も必須である。

そこで『いつ・・しなかったでしょうか?』と問う『山羊』の側に分けられる人々は「自分は、人として当たり前のことをしなかったでしょうか」と尋ねていることになり、双方ともに自らの行動について是認の上でのことを認めていることになる。

ゆえに、この終末の預言には比喩が込められており、「羊飼いの選り分け」だけでなく聖徒らに対する行動について「自己是認」を共に与えていることが表されている。それゆえにも、キリストによる裁きには、各個人本人が自らを裁いていることになる。

本人の価値観、正義感の発露としての聖徒への反応であり、双方共に良いつもりでいるが、羊に分けられた人々にとっては「当然の事をしたまで」という反応であり、山羊の側の人々は「自分は正しい事を行ったはず」と思い込むのであろう。

即ち、裁かれる個人は、上からの判決を下されるのではなく、聖徒を巡って自らの善悪を確信を以って裁定しているので、反論も弁護の余地も無いことになる。

聖霊の到来によって『世に納得させる証拠を与える』とイエスが言われたのは、この『論破する』という意味を含んでいたと思われる。

                                                                                                      Jer25:31           ☜

בָּ֤א שָׁאוֹן֙ עַד־קְצֵ֣ה הָאָ֔רֶץ כִּ֣י רִ֤יב לַֽיהוָה֙ בַּגּוֹיִ֔ם נִשְׁפָּ֥ט ה֖וּא לְכָל־בָּשָׂ֑ר הָרְשָׁעִ֛ים נְתָנָ֥ם לַחֶ֖רֶב נְאֻם־יְהוָֽה׃ ס

[רִ֤יב]=quarrel  dispute  fight 用例 Isa50:8 [יָרִ֥יב] 「誰がわたしと争い得るか」

For the Lord has a controversy with the nations; 【NKJV】

『主が国々と争い、すべての肉なる者をさばき、悪人をつるぎに渡すからであると、主は言われる』【口語】 

単なる「争い」fight [מַאֲבָק]マーヴァク や「戦い」[מִלחָמָה] ミルーハマ だけでない[רִ֤יב]リヴには controversy など論議の衝突の意味がある

 

 

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LXX

「マセケット・ソフェリーム」1:7

「五人の長老たちがプトレマイオス王のために五書を翻訳してしまった。その日はイスラエルにとって金の行使が鋳造された日のように耐えがたいものであった。五書は翻訳できないからである」。

 

LXXを構成するリストは二つ現存しており、一つはサルディスのメリトンのもの、もう一つはオリゲネスによる

メリトンはオネシモス宛の手紙で、自分が東方に旅して旧約文書の構成を確かめたこと

それらが以下のようであったと記す

モーセ五書ヨシュア士師記、ルツ、王の四書、その補遺二書

ダヴィドの賛歌、格言、知恵の書、雅歌、ヨブ記

ヴィイーム(ダニエル・エズラ書含)

宛先のオネシモスは度々にメリトンにトーラーとネヴィイームからの抜粋を所望していたという

 

オリゲネスは、旧約聖典ユダヤ人は22書としており、それは彼らのアルファベットの数に等しいとしている。これはヨセフスの挙げた数字に等しい。

オリゲネスは「(そのほかに)として「サル・ベーツ・サバナイ・エル」と題されたマッカバイカの二書がある」とする

 

プトレマイオスⅠ世のLXX作成の際の翻訳者らへの試験は、エイレナイオスが伝えているが、それはLXXの正当性を裏付けるためのフィクションではないかとも言われる

当初のエジプトでの翻訳はモーセ五書に限られていたというのが通説となっている

 

LXXの影響の少ないとされる黙示録ではあるが、旧約からの文言は120か所以上に上るという

マタイもLXXから引用している節がある

Mt19:4で創世記1:27を引用する際に、『創造した』ではなく『作った』としているところ

また次の節で『妻と一体となり』はLXXの語法と一致している

加えて、ホセア6:6、ミカ5:2、ゼカリヤ9:9、マラキ3:1、イザヤ6:9-10、エレミヤ7:11、など、マタイがLXXから引用したケースは少なくない。

これらのLXXからの引用は、初めにヘブライ語で書かれたとされる時点でそこに有ったかは不明であるが、本人により(?)ギリシア語に訳された時点でLXXに頼ったということは十分考えられる

 

(LXXはあちこち章立てがずれているので一覧が欲しい)

 

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サマリア

 

アッシリア捕囚では、スバルトゥやメディア方面に移住したが

バビロニアほどの強制の徹底が為されず、またユダへの逃げ込みもあり

ごく少数が残留し、メソポタミア特にクタなどユーフラテス流域からの移民と混血

レヴィ族祭司一名の帰郷で、宗教がどの程度の影響を受けたかの記録なく

むしろエレミヤは彼らの多くの部族が、以前の神々への崇拝の方式を用いながら、形ばかりイスラエルの神YHWHを敬っていたとの事情を伝える(列王下17:24-)

キュロスの帰還の勅令に十部族がどう反応したかの記録がほとんど無いが、当時のサマリア人は十部族とは言えず、それはイエスの時代でもそのようである

ゼルバベルの神殿再建事業に抗ったのはこれらの民であり、十部族の帰還民とは言えない。そこで十部族の帰還がどうなったのかを伝える情報がない。

手掛かりになり得るのは、第二神殿の崇拝が及んだ範囲がどの時代にどこまでかとなる

福音書を見る限りでは十部族はサマリアガリラヤ、イツリア、ヨルダン方面まで居住している様子であり、それはガリラヤ方面からもエルサレムへ崇拝に上る民が多かったところに表れている。但し、「サマリア人の都市」とされるところでは、その巡礼に対して協力せず、むしろ反対の姿勢を見せた。

 

アレクサンドロス大王の時代になってから、麾下の将軍アンドロマコスをサマリア人が弑する事件が起きた。331年、大王は下手人を処刑し、以後サマリアにはマケドニア人を入植させたので、以後サマリアギリシア化されている。そのため、旧住民の多くはサマリアを去り、シェケムに移住していた。⇒ Jh4:5 

この時代にサマリア人はゲリツィムに神殿を建立し、その崇拝が機能していたらしい。

最近の研究成果では、この神殿の建設者はネヘミヤ記で悪名あるサンバラトであることが遺構から確認されているという。<彼がエズラ文書を入手していたのでは?>

タルグムがLXXと共通性が高いのは、前三世紀以降に何かの連動があったことを示唆している。<背景に十部族の遅れた帰還があったのではないか?>

 

BC128と107にヨハナン・ヒュルカノスに攻められ、二度破壊されている。

ゲリツィム神殿の破壊は

 

BC63 サマリアポンペイウス支配下に入り、以後ハスモン朝の支配から外れる。

アウルス・ガビニウスにより首都サマリアは再建され、後にヘロデ大王に与えられた。

ヘロデ大王はこの都市を繁栄させようと、兵籍を離れた元兵士と周辺住民六千を誘致し、防備を施し城市とし、この地を賜わったアウグストゥスの神殿を造営し、それにちなんでセバステと名付けた。

ナザレが程近いが、ヨセフが大工職に在った時期と重なるかは不明。

 

⇒ ペテロ第一4:6 - Notae ad Quartodecimani

 

 

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モレシェト:リブラの東、オストラカで有名なラキシュとアゼカという二つの要塞都市の中間にある。エルサレムから南西35kmほど ヘブロンからは西北西20kmほど

アシュケロンと同緯度でシェフェラでは肥沃 しかし、完全な同定にはない 

何度かフィリスティアの勢力下に入っている

 

 

 

 

 

 

無名人の名

 

 


古来、聖書中に登場しながら目立たない人物についての付加情報が伝えられている。

信憑性は高くないが、関心が払われてきた痕跡ではある。

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アポクリファの『ヨベル書』によれば、この女性は実際にはカインの妹で、名前はアワンだった。1290年に書かれた文章を集めた『黄金伝説(聖人伝』にも、アクリマとデルボラの名が記されている。

 


創世記7章にノアの妻が登場するが、彼女の名前は

古代ユダヤの偽典『ヨビレ書』ではエムザラと呼ばれている。創世記ラバと呼ばれる別の非正典的なユダヤ教のテキストでは、彼女の名前はナアマとされている。

 


古代ユダヤ教のテキスト『レビ記注解』にモーセの母となるファラオの娘がビシア(Bithiah)またはビティア(Bitya)と名付けられているのをはじめ、いくつかの文書に登場する。カイザリアのエウセビオスが書いた4世紀の書物『プラエパラティオエヴァンゲリカ(Praeparatio Evangelica)』ではメリス(Merris)と呼ばれ、歴史家フラウィウス・ヨセフスはテルミュティス(Thermutis)と呼んでいる。

 


シバの女王は、伝統的なエチオピアの伝承ではマケダと名付けられ、イスラムの伝承ではビルキスとされている。ローマ・ユダヤの歴史家フラウィウス・ヨセフスもまた、ニカウレーという名前に言及している。

 


ルカによる福音書』2章には、イエスが生まれたとき羊飼いたちがその場所にいたことが書かれているが、その羊飼いたちが誰であったかは書かれていない。『蜂の書』は、彼らをアシェル、バルシャバ、ヨセフ、ユストゥス、ニコデモ、ゼブルンとしている。『蜂の書』は、東方教会の司教であったアクラトのソロモンによって書かれた13世紀の神学的・歴史的テキスト集である。

 


三賢人あるいは三人の王としても知られるマギは、イエスが誕生したときに訪れ、黄金、乳香、没薬という贈り物を携えてきた。西洋の伝統ではバルタザール、メルキオール、ガスパールと名付けられたが、他の伝統では異なるバージョンがある。

たとえば『蜂の書』には、実際には12人の賢者がいたと書かれている。『Excerpta Latina Barbari(ラテン語による異邦人抜粋)』と呼ばれるテキストは、彼らの名前をバスタザル、メリキオル、ガタスパと記している。エチオピアアポクリファルである『アダムの書』には、バサナテル、ホル、カルスダンと記されている。さらに、シリア・キリスト教の民間伝承では、ラルバンダード、ホルミスダス、グシュナサフと呼ばれている。⇒ 「gog」

 


ヨセフの娘らについては、非正典である『フィリポによる福音書』には、マリア(母ではなく妹)という記述がある。『大工ヨセフの歴史』と呼ばれる別のテキストには、アッシアとリディアの名が記されている<これは信じ難い>。マリア、アンナ、サロメという名前はサラミスのエピファニウスのテキストに見られ、テーベのヒッポリュトスの年代記にはマルタ、エステル、サロメという名前が記されている。

 


聖書には、名もなき子供たちが数多く登場する。たとえば、『マタイによる福音書』18章2節には、イエスがひとりの幼子を呼び寄せたときのことが書かれている。この子供は、後にアンティオキアの司教となるイグナティウス、別名アンティオキアの聖イグナティウスであると『蜂の書』に記されている。<これは年代がギリギリな上、信じ難い。ならば彼が旧約に通じておらず、加えてギリシア名でもあるのはどうか>

 


『マタイによる福音書』15章22-28節と『マルコによる福音書』7章25-30節には、悪霊に取りつかれた娘を救ってほしいとイエスに願った女性の話が書かれている。

聖書には名前は記されていない。しかし、3世紀に書かれた『クレメンス偽書』によれば、その女性の名前はユスタ、その娘はベレニケーと呼ばれていた。<ギリシア名であるところは整合>

 


『ニコデモの福音書』と呼ばれる非正典のテキストにある。このテキストによれば、左右の盗賊はゲスタスとディスマスと呼ばれていた。しかし、アポクリファルのアラビア語福音書『幼児記』の中では、ティトゥスとドゥマコスと呼ばれている。

 


マタイによる福音書27章48節、『マルコによる福音書』15章36節、『ヨハネによる福音書』19章29-30節には、イエスが十字架に架けられている間に、一人の男が酢入りのスポンジ(海綿)をイエスに差し出して飲ませたことが書かれている。しかし、この男は誰だったかにつき、10世紀のエグベルト写本はこの男をアガトンと呼んでいる。

 


アポクリファ福音書『ピラトの使徒行伝』には、聖槍として知られるようになった槍を振るった兵士の名前がロンギヌスであったと記されている。<意味合わせ?>

 


ゴルゴタについて、2世紀の非正典である『ペテロの福音書』には、兵士らの名前は記されていないが、ペトロニウスというローマの百人隊長によって監督、監視されていたことが記されている。⇒ (ペテロ福音) 「十四日派人士」

『蜂の書』にはもっと多くのことが書かれている。5人の衛兵がいて、イッサカル、ガド、マティアス、バルナバ、シモンという名前だったようだ。しかし、『蜂の書』にはもう一つの節がある。 「しかし、彼らは合計15人で3人の百人隊長とローマ兵とユダヤ兵でいたと言う者もいる」と。<ユダヤ名が五人というところはユダヤ兵の存在を示唆はしている>

 

 

μεγαλύτερος αδερφός

νεότερος αδερφός 

αδελφή

μικρότερη αδερφή

 

ユダヤ人はローマが帝国となってから安息日の件で徴兵を免除されていたのであれば、これは志願兵か?また神殿警護隊が墓守をしていたのであれば、警護隊は異邦人であったか?

しかし、警護隊の指揮官がユダヤ人であろうところを見ると、すくなくとも無割礼の異邦人は聖所内を警護できず、それはローマ軍が「外の中庭」まで管轄できたことと変わりないので、警護隊はユダヤ兵で構成されていたとみるべきらしい。やはり「外の中庭」は異邦人との接点であったといえる。

総督の兵は『ユダヤ人の王よ』と侮蔑している

この件では、アンティパスの軍はユダヤ人で構成されていたらしくその衛兵らはイエスに『ユダヤ人の王よ』との侮蔑の言葉がない。<もっともアンティパスへの引き渡しに関する記述は少ないが>

 

 

 

 

 

 

 

 

2300の夕と朝 ダニエル8:13-14

 

[וָאֶשְׁמְעָ֥ה אֶֽחָד־קָד֖וֹשׁ מְדַבֵּ֑ר וַיֹּאמֶר֩ אֶחָ֨ד קָד֜וֹשׁ לַפַּֽלְמוֹנִ֣י הַֽמְדַבֵּ֗ר עַד־מָתַ֞י הֶחָז֤וֹן הַתָּמִיד֙ וְהַפֶּ֣שַׁע שֹׁמֵ֔ם תֵּ֛ת וְקֹ֥דֶשׁ וְצָבָ֖א מִרְמָֽס׃   וַיֹּ֣אמֶר אֵלַ֔י  עַ֚ד עֶ֣רֶב בֹּ֔קֶר אַלְפַּ֖יִם וּשְׁלֹ֣שׁ מֵא֑וֹת וְנִצְדַּ֖ק קֹֽדֶשׁ׃]

 

「そのとき、わたしはひとりの聖なる者が話しているのを聞いた。別の聖なる者が、話しているその人に言った、"常供の犠牲[が排され]また荒廃を起こす違背、すなわち聖所と群衆とが[足の下に]踏みつけられることについて、この幻はいつまで続くのか"。
すると、彼はわたしに言った、"二千三百の夕と朝の間である。そのとき、聖所は清められる"」。Dn8:13-14

聖徒への蹂躙と違背とが終わり聖所の回復まで6年4ヵ月

[ עַ֚ד עֶ֣רֶב בֹּ֔קֶר אַלְפַּ֖יִם וּשְׁלֹ֣שׁ מֵא֑וֹת] ←

→ アド エレブ ボケル  アルファイム  ウ シュロシュ メオート 

<特にヘブライ語上には格別なものはない>

但し、日数を「夕と朝」と呼ぶのは例を見ない。これは他の『週』や『時』が年計算に置き換えられてはじめて意味を成すものとは異なるもの、即ち、日数に意味を固定するべきことを表しているとも考えられ、以下そのように推測してみると・・

 

この浄められるべき聖所は、いつ汚されるのか、それは汚される以前が存在していたに違いなく、シリア王によってユダヤ教禁止令が発布され、ゼウス像が安置された事態に相当する時から数え始めると見るのが妥当ではある。

前168年にエピファネスはユダヤ教禁止令を発布し、翌167年に偶像を神殿に持ち込み、164年にハスモン家はシリアから独立を得て神殿の再献納を行っている。

 

ヨセフスはユダヤ戦記で、例によって三年半の間、神殿が汚されたという。この期間信憑性は有り得るらしい。そうであれば『2300の夕と朝』は成就の先例がない。その日付を遡るとユダヤ教禁止令から更に三年以上前になる。

 

前二世紀の成就では、164年12月迄にエピファネスはイスファハンで病死あるいは反乱で殺害されたとのことで、マカベア家による再献納の時期にこの王はユダヤに関わることができず、ローマの圧力によって窮地に追い込まれ、重税を支払うための略奪に失敗して果てた。従って、この暴君の死と聖所の浄めはほぼ同時期となった。

以後シリア王朝はユダヤの宗教主権を認めている。そこにローマのユダエア承認も絡んでいるが、やはりアンティオコスⅣ世の崇拝妨害は異例であったといえる。

 

『2300の夕と朝を経るまで』というのは、上記セレウコス朝の時代の事績の実際より長く、しかし二倍には至っていない。また『常供の犠牲』が絶えている期間とすると、これはますます『三時半』とは別に見るべきようである。

 

従って、これは『二人の証人が証を終えた』時点から始まり、天界の神殿に油注ぎが終わった段階か、雲は晴れ祭司団が崇拝を始めた時かを言うのであろう。

それは終末の聖徒が活動を行っている1260日の後から数え、2300日後と見るのが妥当らしい。その2300日の間に起こることは、騎兵隊の攻撃であり、偽キリストの背教の進行と玉座への登壇、七つの鉢から神の怒りが注がれ、ハルマゲドンへの諸国の軍の招集、それに続いて大いなるバビロンへの攻撃、それから四騎士の禍いと続く。

 

それであるから、聖徒らが地上の活動を打ち砕かれ、天界への招集があってすぐに聖所の油注ぎが行われるのではなく、その後2300日(陰暦6年3カ月2日)が有って、聖所の浄めが行われることになる。これに聖徒の活動期1260日を加えると3560日となり、9年9カ月2日ということにはなる。

 

但し、黙示録では神の怒りを満たした鉢から注がれる前に、天界の聖所が雲に満たされているので、時期としては、その鉢から注がれるのは、聖徒の招集から2300日(6年4カ月20日)を待つことになる。これが正しければ『北の王』が過ぎ去ってから偽キリストの支配の確立まで6年3ヵ月は必要となり、それから短めの不明の期間が続いた後、ハルマゲドンへの招集と、大いなるバビロンの滅びが短期間に続き、ほぼ同じ時期にシオンでの王の戴冠があり、以後四騎士の禍いの大艱難となる。

 

聖徒への油注ぎから活動停止までが1260日(天への招集までが3日半)、怒りの鉢が偽キリストの権力掌握に先んじるなら、それまでが2300日、ここまでで合算すると、9年10カ月20日

しかし、神の怒りを満たした鉢の注ぎに先立つ聖所の雲が、アレゴリーであって天界の祭司団の崇拝の準備の完了でない場合は、以上の後半の計算は当てはまらないことになる。

従って、聖所の油注ぎの前に地上の物事がどこまで進展するのかは不明。その間に大患難が含まれる可能性も考えられる。その根拠は、七十週の目的が至聖所に油注ぐことにあるので、それが七十週の終了以降であると思われるが、その具体的な時は知らされていないことがある。

聖所が再び機能するというダニエル七章の意味が、神の王国の贖罪の始まりと見れば、それが大患難後であると見るのも妥当と言える。

確かに、世界のシステムの変更が行われるのであれば、総計で10年程度は見積もられる道理はあるかとも思われる。

では、2300の夕と朝は何のために知らされたのか?

おそらくは、天界に去る聖徒のためというよりは、地上に生きながらえる人々が、過ぎ去ったこの世の荒廃の中で、希望を得るためではないかと思われる。

そうであれば、1260日後の2300日の間に、地上の物事がどこまで進展するかはなお不明ではある。

 

 

また、2300日の後に『エジプトの十災厄』に相当する『鉢』の不定の期間が続き、それから大艱難へと移ることにはなるのだが、聖所の油注ぎそのものが『七十週』の終了により実現するのであれば、この推論は当てはまらない。しかし、そうなるとこの『2300の夕と朝』の行き場がなくなる。

 

それでも、十年という期間も人類社会の原理の交代を意味するのであれば、短いとは言えず、妥当な長さとも言える。この十年の前にシオン生成の不明な期間が加算されると、もはや今からの年数を考え出すことも難しくなる。

しかし、現時点で『北の王』の特徴を備えた国家指導者は顕在しているので、遠からず『南の王』との戦端が開かれるのであれば、シオンの現れはもはや遅い、というより遅すぎる時期に入っているように思われる。

 

 

ダニエル書の記述

ベルシャッツァルの第一年にアラム語で書かれた第七章はダニエルを三人称で語り、その幻では四頭の野獣を通してバビロニアから継承される覇権国家を列挙している。

それはバビロニア⇒ペルシア⇒マケドニア⇒ローマであり、これは広く知られている。

対して、ヘブライ語で書かれた第八章でダニエルは一人称で語り、時間経過を覗わせ、実際にベルシャッツァルの第三年としており、彼はスーサに居る。

 

この第八章での幻は、先の章での四頭の野獣の幻と似ているようで、ペルシアからマケドニアの覇権が移る場面を描写しており、その主な目的は山羊の描写から始まり顕著な一本の角が四本に分かれ、そのうちの一本の角が小さかったのに急速に拡大し、天に達するまでに成長し、そのために『天の軍勢の幾らかと星の幾らかを地に落とし、それを踏み躙った』。

 

加えて『天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。 また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままに振舞った』という、この場面を特に語ることを目的としている。

 

ここでの『天の軍勢』また『幾らかの星』とは、以上の覇権に蹂躙されるのであれば、天界の天使群を指すのではなく、地上の集団を指すことになり、その実体を明らかに記すのはダニエル書の第11章であり、そこに『彼から軍勢が起って、神殿と要害とを汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる』とあり、同様の事態の発生が繰り返し述べられている。

 

その蹂躙を受けるのが誰かと言えば、ダニエル書のこの部分をダニエルに告げたガブリエルが『末の日に、あなたの民に臨む事を、あなたに悟らせるためにわたしは来た。この幻は、なお来るべき日に関わるものだ 』と告げているように、ダニエルの民の終末で遭遇する事態を知らせている。そして、これらの預言は血統のイスラエル民族に実際に一度起こっている。(ダニエル10:14)

 

それはダニエル書第11章の後半に記される、セレウコス朝シリアの王アンティオコスⅣ世エピファネスによるユダヤ教への介入と迫害、エルサレム神殿へのゼウスの偶像の設置という前代未聞のユダヤ宗教体制への反対運動であった。この西暦前167年に起こったエピファネスによるユダヤ教禁止令の事件をダニエルは未だ新バビロニア帝国の時代である前552年に啓示されていたことになる。

 

在位が前175年から163年であったアンティオコスⅣ世エピファネスであったが、この王によって宗教体制を揺さ振られたユダヤは、以後この王によるギリシア文化への強制を拒否してレヴィ族のハスモン家を指導者に、反ギリシア闘争に入る。

 

その一つの成果として、マカベア家のユダが率いた戦いによってエルサレム神殿を取返し、偶像崇拝から聖所を浄め、神殿聖所の燭台に火を灯したのだが、そのに費やす油は一日分が残されているのみであったという。しかし、燭台の火は八日間も燃え続ける奇跡が起こったことから、以後ユダヤの人々はこの神殿の再献納を祭り、「ハヌキヤ」と呼ばれる八つの灯火(九つとも)を灯して記念し続けてきた。新約聖書には、イエスもその祭りに際してエルサレムに上っている記録が残されている。

 

また、セレウコス朝シリアに対するユダの闘争の成果のもう一つは、七十年ほどの間ユダヤ一国がハスモン朝の下で独立を勝ち取ったことであり、その勢いでエドムを属国化し、ユダヤ教への改宗を強制し、サマリア人のゲリツィム神殿を破壊して、同じ神を奉じてエルサレム神殿に対抗する崇拝を邪魔してもいる。しかし、約180年後に表れたイエスは、『霊と真理による崇拝』についてサマリア人に語り、彼らも聖霊を受けて『神のイスラエル』の一員となる道を拓いた。

 

ダニエル書第八章のセレウコス朝アンティオコスⅣ世の行った暴挙についての予告の記述は精密に歴史を追うことができる。

だが『2300の夕と朝』は次元を異にしているようで、これは終末にのみ関わるものであるらしい。

 

 

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マタイ24章の臨在の印としての戦争

 

マタイ24章・マルコ13章の再臨の印としての戦争と噂

『民は民に、王国は王国に敵対して』が世界大戦を指していないとする根拠の一つ『民』も『王国』も単数で語られている。

 また、それは世界の終末戦争も意味しないであろう件

 

使徒らの問いに答えて

マタイ24章

『「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。世の終りには、あなたがまたおいでになる時に、どんな前兆がありますか」』24:3

[Καθημένου δὲ αὐτοῦ ἐπὶ τοῦ ὄρους τῶν ἐλαιῶν προσῆλθον αὐτῷ οἱ μαθηταὶ κατ’ ἰδίαν λέγοντες· εἰπὲ ἡμῖν, πότε ταῦτα ἔσται καὶ τί τὸ σημεῖον τῆς σῆς παρουσίας καὶ συντελείας τοῦ αἰῶνος;]

[τί τὸ σημεῖον τῆς σῆς παρουσίας] 『そのパルーシアの前兆(τὸ σημεῖον)』

マルコ13章

『「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことが尽く成就するような場合には、どんな前兆がありますか」』13:4

[εἰπὸν ἡμῖν, πότε ταῦτα ἔσται καὶ τί τὸ σημεῖον ὅταν μέλλῃ ταῦτα συντελεῖσθαι πάντα;]

[τί τὸ σημεῖον ὅταν μέλλῃ ταῦτα συντελεῖσθαι πάντα]『それらが尽く成就するどんな前兆が』

使徒らの質問は前兆「セーメイオン」と単数で尋ねたが、イエスの答えは多岐に渡る

 

ユダヤとローマとの対立が背景にある

ここで問われたのは、一つには神殿破壊の時と、一つにはキリストの臨在する時についてであったので、まず神殿破壊では西暦七十年のローマ軍による征服が込められていることを想定する必要があり、それはイエスの『世代』、また『安息日』の避難や『生木』の発言にも表れている。この破壊と戦争また噂が関係する。

(しかし、イエスの語りでは、偽キリストについて複数回述べられ、弟子たちの混乱と選別も語られ、そちらが主要な内容を構成している)

終末予告の成就では、以下にみるように、西暦七十年、前二世紀、終末それぞれに関して、幾らかの相違があるなかで、イエスの終末預言は、ダニエル書、黙示録の各時代の共通する素材を用いながらそれぞれの事態の発生を描いており、これは字句に厳密さを求めるなら自ら全容の理解を放棄することになると思われる。キリストの言葉のほとんどは抽象の霞が掛けられており、それは例え話に顕著であるばかりか、この預言でも暗示が多い。

第一にイエスの予告は西暦七十年の成就を背景としており、第二にダニエル書はセレウコス朝ユダヤへの暴挙を、第三の黙示録はダニエルの『南北の王』の終末に投影される二大覇権国家の姿をそれぞれ描き出している。この点は、イエスの『荒らす憎むべきもの』の発言にダニエルへのリンクがあり、黙示録も聖なる民への『1260日』の迫害と壊滅がダニエルの『三時半』の後の聖なる民の滅びにリンクしている。また聖典外ながらマカベア書中にも紛うことのない証言がある。これらの相互関係を無視するとしたら、その理解は断片に過ぎないものになる。

 

■記された『民』と『王国』が単数であること

Mt24 (偽キリストの惑わしがあると述べてから)

『そして戦争(複)と戦争(複)のうわさ(復)を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こること定まっているが、まだ世の終わりではない。
 民は民に、王国は王国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである』24:6-8

[μελλήσετε δὲ ἀκούειν πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων· ὁρᾶτε μὴ θροεῖσθε· δεῖ γὰρ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω ἐστὶν τὸ τέλος.  ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπὶ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν καὶ ἔσονται λιμοὶ καὶ σεισμοὶ κατὰ τόπους·  πάντα δὲ ταῦτα ἀρχὴ ὠδίνων.]

 

Mk13

『また(その後)、戦争(複)と戦争(複)のうわさ(復)とを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
民(単)は民(単)に、王国(単)は王国(単)に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである』13:7-8

[ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων, μὴ θροεῖσθε· δεῖ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω τὸ τέλος. 8ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν, ἔσονται σεισμοὶ κατὰ τόπους, ἔσονται λιμοί· ἀρχὴ ὠδίνων ταῦτα.]

 

直訳「民(単)は民(単)に向かって(上に)、王国(単)は王国(単)に向かって」共通

[ἔθνος(主格中単) ἐπ’ ἔθνος(対格中単) καὶ βασιλεία(主格女単) ἐπὶ βασιλείαν(対格女単),]

上記はいずれも単数で記されており、諸国相互の乱戦は示唆されていない。むしろ二国家、二民族の対立と捉える方が言葉に沿っており、以下の論を加えると、確定的に思われる。弟子らが『聞く』『戦争と戦争の噂』は複数ながら、それらが二国間のものである可能性は残る。但し、この前の文章は一度終わっていると扱われるのが普通で、後に文章にある内容を二国間の対立の緊張の高まりと捉えると、ローマのユダヤ戦役の始まる前の情勢不安によく当てはまる。

第一次ユダヤ戦役でユダヤは神殿を失うが、その後六十年して二度目の決定的なローマとの戦いが残されていた。この二度目の戦役の規模は一度目を上回り、ユダエア州は廃止されパレスチナと呼ばれるに至る。しかし、イエスは神殿の破壊される一度目の戦争について二国間の戦争を述べている。『戦争と戦争の噂』はシカリオイの暗躍の時代だけでなく、その以前のカリギュラ帝期末に著しい仕方でユダヤに噂が怯えた史実も加えてよいように思える。

 

 

・複数での例

Mt4:8

『次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて』

[Πάλιν παραλαμβάνει αὐτὸν ὁ διάβολος εἰς ὄρος ὑψηλὸν λίαν καὶ δείκνυσιν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τοῦ κόσμου καὶ τὴν δόξαν αὐτῶν]

LK4:5

『悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて』

[Καὶ ἀναγαγὼν αὐτὸν ἔδειξεν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τῆς οἰκουμένης ἐν στιγμῇ χρόνου ]

 

[πάσας τὰς βασιλείας(対女複)] 共通

 

『すべての国民[πάντα τὰ ἔθνη(主中複)]が集められ』Mt25:33

 

■二国家の対立と見るべき理由

従って『民と民、国と国』の敵対関係は、ヨセフスの記述に明解なように、特徴的なユダヤとローマの対立関係と云える。しかし、当時のユダヤは王国ではないが、それを以ってわざわざ『王国と国が』とするには細かすぎる。また、イエスヘブライ語で「王国」[מַלְכוּת]と「国」[מדינה]と差をつけて語ったとしても、対立関係の表現が弱められてしまう。また、「複数の王国」[ממלכות] と語っていたなら、ギリシア語翻訳もそれに連れて複数にされた可能性がある。

そこで、キリストの回答には、ユダヤとローマの鋭い対立が示唆されていることをまず前提に考えなくてはならない。

だからと言ってキリストの臨在の前兆としても訊かれているのであるから、二国の対立が終末に起るとは、この段階では分からない。

しかし、イエスの終末預言の初めの部分での『民と王国』が単数扱いである事から考慮すべき点がまだある。

それがダニエル書11章の南北の覇権国家の対立、プトレマイオス朝セレウコス朝によるマケドニアの二大勢力に託された終末の姿であり、特に『北の王』であるシリアが前2世紀にユダヤ宗教体制に何を行ったか、その結果として契約に『違背』が起り、ユダヤ内部でも分裂が生じた歴史上の事態が終末にも投影されていることについて、『新しい契約』の内部でも起こる『不法』との関連が見出せる。(テサロニケ第二2:3)

即ち、終末に起こる『背教』とは、キリスト教の異端を言うのではなく、聖霊の再降下があって後の『新しい契約』からの『違背』を指すことになる。これは終末の『北の王』、極めて反宗教的な覇権国家が介在することを天使がダニエルに告げてもいる。

 

しかも、イエスは『戦争とその噂を聞くだろう』と語っているうえに、『それはまだ終わりではない』と言われ『恐れてはならない』とも言われる。

この戦争の噂についてユダヤはカリグラ帝末期に現実に経験することになり、既にローマ軍はパレスチナに上陸していたが、奇跡のように直前で実際の戦闘を免れている。同様に、ダニエル書は『北の王』による『南の王』の領域への大侵攻に成功し、『要害』であるシオンに迫るも、突然の権力崩壊により、シオンが救われることを『終わりの日』の出来事として告げている。

従って、マタイでイエスが偽キリストに次いで語った『戦争と戦争の噂』とは、終末での二大覇権国家の対立と実際の戦闘があっても、それはハルマゲドンではなく、『北の王』が突然の退場を余儀なくされ、それに伴い『聖なる民』(聖徒に非ず)が迫害の危機を脱することを述べており、これにはセナケリブの前例がある。このためイエスが『恐れてはならない』と言われた蓋然性がある。⇒ 「突如瓦解する北の王

⇒ 「終末の北の王による三度の軍事行動と自壊

即ち、その二つの覇権国家の対立による緊張の高まりと、実際の戦争とは終末の「神と人との戦い」の相互乱戦には至っていないことを示唆しているし、世界を巻き込む「大戦」とも言えない理由がある。

ダニエル書によれば、『北の王』の下で契約への『違背』が起こされるとあるように、この宗教に敵対する覇権国家が『聖なる契約』に仕掛ける迫害と甘言の罠が有って後に、『契約を離れる者』が出ることを記している。(ダニエル11:29-35)

ここに「終末の背教」の萌芽があり、この件はパウロが度々に警告を発している。またセカリヤ、ハバクク、哀歌、詩篇にこの背教の興りへの描写が散在しており、その悪の結末を、イザヤ63、オバデヤ、などが終末のエドムを介して描き出してもいる。

この『違背』を惹き起こすのに『北の王』が関わるのであれば、『戦争の噂』が聞かれ、ついに戦端が開かれるとしても、そこで優勢となる『北の王』の命運が尽きる様をダニエル書が言うのであれば、『恐れてはならない』というのは『聖徒』に向けての言葉ではなく『信徒』への言葉であることになり、その時点では地上に『聖徒』は居ないと言える。しかし、脱落聖徒らは地に残っており、『違背』は『背教』へと進んでゆく。

 

従って、マタイとマルコ双方の福音書が述べる『民は民に、王国は王国に敵対する』事態が引き起こすのは、世界的な相互戦争ではなく、マケドニア由来の王朝同士の対立に示されたような、二大国家の対立である。たとえ、終末にそれぞれの陣営の同盟国が参戦しても、それはロ七十年のエルサレム攻囲に参加したのがローマ軍だけでなく、アグリッパスⅡ世の軍やアラビア兵の参戦にも見られることではある。

そのためイエスは弟子らが迫害に見舞われること、また、『北の王』に擁立され後に『偽キリスト』と成る者、また『荒らす憎むべきもの』、即ち、「生ける偶像」(テサロニケ第二2:4)を警告する言葉が、二つの福音書に臨在の結果として、使徒時代以来、再び『新しい契約』に入った者らが、著しい困難の中で内部からの脱落者に強権を振われ始める。そこでキリストは臨在していても、その統治を一時的に止めて起こる違背に介入しない。

これは『あなたがたは互いに躓く』とのイエスの言葉にも、『圧政的な狼』の危険を語ったパウロも、『群れをないがしろにする牧夫』の現れを語るエゼキエルやゼカリヤによっても『肥えた牧者』と指摘されている。また、その混乱により『四人が五人に対立』する事態、『実際の敵は家の者』と言われる事態の発生はミカにもイエスの言葉にも見られるものとなっている。

そのためにキリストの終末預言も『聖なる者』の全体が動揺することを警告していると捉えるなら、これら二つの福音書の終末預言の最初の部分の戦争と噂を、ほかの部分の全体、また旧約預言の数々やダニエルに語られた啓示の数々とも総合し位置づけることができる。

だが、この混乱も官憲の捕縛の最中に、忠節を保った『聖なる者ら』の天界への不可視の召しの発生により、『天の東の果てから西の果てまで』集められるに及び、聖徒の苦しみはそれ以上進むことはない。この天への招集がキリスト教界で「携挙」と勘違いされている。ここで問題を作るのが、『一人は残される』という者らのその後の地上での行動となる。即ち『不法』の増大であり、地上に偽の王国を樹立する危険である。

 

■『疫病』がこの印に存在しない理由

従って、この部分で語られている、戦争のほかの『飢饉』と『地震』とが、黙示録の四騎士とは異なるものである蓋然性がある。二つの福音書のこの部分に『疫病』が書かれていないのは、その災いが『大患難』の最終的な審判をもたらす災いであるからであり、それは選択的災害となることが推測される。即ち、「汝の傍らに万人が倒れるとも、その害は汝を襲わず」との句がこの解釈を支える。

確かに、ルカの記したイエスの終末預言には『疫病』が含まれるが、これが大患難のものからの混入した記述でなければ、大患難の最終的『疫病』と異なる段階のものである可能性を含んでいるかも知れない。なぜなら、マルコやマタイが偽キリストについて語った直後にこの戦争に続く印を挙げているのに対し、ルカ福音はその12節で『これらの(戦争や飢饉)の前に』、弟子らへの迫害と聖霊による語りがあることを述べている点では先の二つの福音書と順番が異なっている。そこで、ルカの言う『疫病』が大艱難に属するものを指している可能性は消えていない。しかも、ルカの挙げる『疫病』の順位が黙示録と異なってもいる。『飢餓』の前に『疫病』が来るのはローマ軍のエルサレム攻囲で現れた実態と異なるようにヨセフスは読める。

それに加えて、黙示録では「疫病」を指すであろう青ざめた馬の騎手が「死」(タナトス)と呼ばれ、その後を『墓』(ハデス)が追うのであれば、この順はこの解釈の全体像をまとめ上げることになる。

ここに於いて、『シオン』に群がる民は保護の『奥の間』に保護されると見るべき聖句の重なりもある。

 

◆共観福音書での相違点と相似点

マタイだけが使徒らが質問の中でパルーシアに言及している

マルコ・ルカはイエスの神殿倒壊の時期についてのみ尋ねている

ルカは 「天からの印」を含め

マルコは、患難の後に天が暗くなるという

マタイでは、患難の後に人の子の印が天に現れる

 また、マルコと共に大艱難は荒憎者が神殿に建てられた後であるという

マタイとマルコは、『これらの事が起こったなら、彼が戸口に居る』という

これをルカは『神の王国が近いことを知れ』と言っている

 

三書共に、患難の前兆を尋ねている

また、神の神殿の崩壊について質問を始めている

つまり、崇拝の中心地が如何に機能しなくなってゆくか

その全体像を、旧約の崇拝方式の終わりと新約崇拝の行く末とを重ねている。

キリストの終末預言は、西暦七十年の律法体制の終焉と、セレウコス朝のアンティオコスⅣ世エピファネスによるユダヤ教禁止令と偶像の設置によるユダヤ崇拝の中断を重ね合わせて述べており、その要旨はどの時代のものも、明らかに神への崇拝の行く末を述べている。従って荒憎者を七十年に無理に当てはめる必要はないといえる。

その理由として考えられるのは、メシアの王権の樹立が天のものであり、人が関われるものでない一方、崇拝は人間の行うところであるから、キリストの後に残される弟子、特に聖霊注がれる聖徒らにとって最も重要な情報と訓戒が込められている。

総合すると、マルコとマタイの『印』は『患難』の前の前兆を述べており、その中には『戦争とその噂』を含み、『飢餓』と『地震の頻発』も加える。その時期には『迫害』と『躓き』また『分裂』『裏切り』また『荒憎者』の顕現も含まれる。

『患難』はその後のことであり、それを黙示録六章の四騎士が描く。

『森羅万象振るい動く』というマタイ、『諸国民は到来することに気を失う』とするルカは共に『患難』の結果として現れる事態を指す。

キリストの言葉は、ある程度は進行順を追っているが、そうでない箇所もあり、象徴的に全体を語る場面が多いが、共観福音書のそれぞれの始まりからしばらくは事象の順が整合している。しかし、ルカには注意が要る。

 

 

ものみの塔の主張については

総じて、この句を根拠に自派の教理の土台としたのは、近代プロテスタント系の一部であり、特に「ものみの塔」は21世紀の今日までも1914年臨在開始説を捨てていない。

だが、上記の解釈でゆくと、臨在は弟子たちへの聖霊の注ぎが深く関わっているので、『新しい契約』の残り『三時半』『42カ月』『1260日』が、ずっと迫害との戦いとなるというダニエル書と黙示録の共通の観点からも、それは聖霊注がれた『聖なる者』に含まれる者としてイエス使徒らに『あなたがた』と語ったとの理解を更に展開できることになり、旧約と新約を通した理解の整合性を得ることになる。

他方で、「ものみの塔」では地上に「油注がれた」と称する者らが、依然として地上で『主の晩餐』に与っている現状にあり、王権を得ていないことになる。(ローマ4:8)

これは1914年のキリストの王権拝受説と矛盾を来しており、さらには「油注がれた者」への間断のないという強烈な迫害と甘言に関するダニエルの記述と黙示録の暗示に一致していないことにもなる。その以前に、聖霊は注がれていない。

(ダニエル7:25/黙示録11:2-3)

 

ものみの塔」がこれら二つの福音書にあるイエスの臨在の預言の印を強調するのは、神やキリストの意志を探ることよりも、自分たちの「救い」に主眼があり、その願望が膨らんだミラー派の教理への接近の結果、その根本的な姿勢にも感染してしまったために、「救い」に固執して他の見解に耳を傾けないようにとの指導に信者を従わせるためのものであろう。だが、それは終末に神やキリストの意志とは関係なく、自らの欲に従って行動する危険を冒すことにならないものだろうか。その頑なさが正義になっているのであれば、誰であれ人間の欲望の力とは恐ろしいものに思える。それが『アダムの罪』を増幅させるとしたら、純心な人をさえ意固地にならせる宗教の力とは恐るべきものというほかない。

 

いや、「純心」というのは、単に経験不足である場合も多いのではないか。

カルトの教えの盲信から覚めた後、その人自身の内面がいよいよ露わになり『浄められ、飾り付けられている』状態になると、また別の危険が迫り、最終的にはより悪くなる、ということもあろう。

単なる命惜しさや、良い生活目当てであったなら、ものみの塔の信仰の空白はその人にとって埋め難く大きくなり、単なる俗な人であったとなれば、その落差も大きかろう。その後、その人の内にキリストの精神が育ち得るものかは、再び出発点に着くことになる時に試され、もとよりただ俗な人であったなら、学んだ事柄も水泡に帰する。ものみの塔信仰の本質が、人の欲を引き出すばかりで、「倫理」という神に関わる問題の本質からずれていたことがこれらの原因となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エレミヤ書の構成と登場者

エレミヤ書概説

 

預言者エレミヤ自身は、エルサレムに近いベニヤミン領の祭司の街アナトテ出身であり、満25歳、あるいは満30歳になれば父ヒルキヤのようにザドク系の祭司の任職を受ける立場にあったらしいが、そのような記述は見いだせず、若者であった頃から自国ユダ王国の滅亡と、その後の荒廃した故地から自国民らによってエジプトに同行させられるまで預言者として活動している。

その預言書を通して、モーセの律法体制とダヴィドの王朝の終焉を目の当たりにしつつ、その滅亡に至った国民の問題を厳正に指摘し、延命策を関係者に提示しつつ拒絶され、また、将来の帰還による回復と、それに重ねてメシアによる『新しい契約』をも二重に予告した。

また、神の選民の独立が失われても、不定の将来には神が諸国を裁く時が到来すること、また、敵となりユダの体制を滅ぼし、神殿祭祀を凍結させ、その民を流刑に処したバビロニアが、遂に新興ペルシアによりあっけなく倒されることでその咎を責められる時代の到来をも予告したが、それはこの世の終わりの時期に、象徴的に繰り返されることをも暗示している。

エレミヤ書は、シナイ契約に慢心した民が、実はその履行を怠り、その神YHWHに背を向けていたにも関わらず、その罪の道の行くことを自ら良しとしていたことの重い報いがユダ王国に臨む現場にあって書かれ、当時の実情を伝えるものともなっている。

エレミヤ自身は、列王記上下の著者とも伝承されているが、確かにそれぞれの書中に同一の文言が度々書かれているところからしても、その蓋然性がある。

 

彼は生まれる前から神に到来を予期され、預言者として用いられることは神によって誕生以前から定められたことで、その出生が待たれていたと神は語っている。(1:5)

そのことは、彼の名「イルメヤフ」、即ち「神は胎を緩める」に暗示されていた可能性さえ考えられる。

神によって誕生が待たれたことを示された例は、キュロス大王など他にもあり、神は人の生死によらず『無いものを在るかのように呼ばれる』に相応しい記憶と予知とを持つことでは真に超絶的である。(ローマ4:17)

この神の予期はエフェソス1:4のように聖徒にも当てはまると見るべき理由もある。なぜなら、彼らはバプテストに優って偉大であるからである。

 

ヨシヤ王の第13年、若くして預言者の任を託されたエレミヤではあったが、自分が『ただの若人』であり、ユダ一国の体制の民や指導層らに語ることに躊躇を感じ、それを神に訴えると、神は年長の指導者らを恐れることがないよう、エレミヤを『鉄の柱とする』とまで言われる。実際、エホヤキムの治世から、その預言により命の危険に何度も曝されている。その度に様々な人物が現れては危機を脱し、最終的に彼を救ったのはネブカドネッツァルとなった。

ユダ王国の最後の善王ヨシヤの第13年に彼が預言者として召された時に何歳であったかは分からないながら、その後のゼデキヤに至るまで四人の王が交代される間に、エルサレムユダ王国が自らの預言したように滅亡するのを見届け、さらには亡民となってエジプトに下った幾らかの民の生き残りの中に在って預言を続け、60年以上の長きにわたって預言者であったことから推して、二十歳かそれ以前からユダ王国の不行跡と来るべき滅びとを告げ知らせていたと見てよいであろう。

ただ、任命以後18年間の善王ヨシヤの存命中には、ユダの邪悪な体制を激しく糾弾する必要はなかったのであれば、エレミヤがこの預言書に残されたような本格的な糾弾の激しい言葉を語るころには四十歳に近い堂々たる預言者となっていたことであると思われる。特にエホヤキム王からゼデキヤ王にかけての激動の時代のユダに在って預言者であり歴史の目撃者でもある点で際立って有用な聖書の部分を残した。

それまでの強大な覇権国家アッシリアが倒れ、新バビロニア帝国が東から勃興する中で、ヨシヤ王を失ったユダ王国は風雲急を告げる事態に在って、行くべき道次第では国や宗教体制の存亡が懸かっていた。それはモーセ以来の律法契約に対するイスラエル民族の姿勢が問われる裁きの時期に差し掛かってもいたのであった。

 

 

エレミヤ書の初めで、彼が預言者として召されたときはヨシヤ王の第13年

以下はエレミヤ書中の各預言とその年代

 

1:1- ヨシヤ王の第13年

3:6-6:30 その後のヨシヤ王の治世中

7:1-10:25 不定の時期

11:1-12:17 不明の時期

13:1-13:27

14:1-17:27 旱魃の有った時期

18:1-19:15

20:1- イメルの子パシュフルが神殿管理官であった時期

21:1- 王はゼデキヤ、祭司はゼパニヤ、エルサレムバビロニア攻囲中

22:1- ヨシヤの死後、その子シャルムの治世中

22:18- エホヤキムの治世

22:24- エホヤキン(コニヤ)

24:1- 第一次流刑の後

25:1- エホヤキムの第四年

26:1- エホヤキムの治世のはじめ頃

27:1- エホヤキムの治世のはじめ頃*記述ミス指摘あり

28:1- ゼデキヤの治世の第4年5月

29:1- 第一次流刑の後

30:1- 不明の時期

32:1- ゼデキヤの第10年、ネブカドネッツァルの第18年

33:1- エレミヤが牢獄の中庭に拘留中

34:1- ゼデキヤの治世、バビロニアエルサレム攻囲下

35:1- エホヤキムの治世中

36:1- エホヤキムの第四年

37:1- ゼデキヤの治世のはじめ

39:1- ゼデキヤの第九年10月、第11年4月9日

40:1- バビロニアの占領後、総督ゲダリヤ

41:1- 同年7月

42:7- 同月10日

44:1- 以後の不明の時期

45:1- エホヤキムの第四年

46:1- 不明の時期

49:34- ゼデキヤの治世のはじめ

50:1- 不明の時期

51:59- ゼデキヤの第4年

52:1- 第一次捕囚から38年目以降

 

<年代は順に並べられず、それぞれの預言の集めた集成になっている。原因として考えられるのは、エレミヤが迫害されていたため、また、エホヤキム王の焼き捨てがあり、各々の部分が散失しかけたところをバルクにより復元され、後にまとめられた節がある最終部分は列王記の記述法となっており、同書の著者がエレミヤであるとのユダヤの伝承の裏付けのようになっている52:1-3=1King24:18-30この共通性は2Chrには無い>

 

年代に順じると

 

1:1- ヨシヤ王の第13年

3:6-6:30 その後のヨシヤ王の治世中

7:1-10:25 不定の時期

11:1-12:17 不明の時期

13:1-13:27

14:1-17:27 旱魃の有った時期

18:1-19:15

22:1- ヨシヤの死後、その子シャルムの治世中

26:1- エホヤキムの治世のはじめ頃 預言者ウリヤ

 

22:18- エホヤキムの治世

25:1- エホヤキムの第四年

36:1- エホヤキムの第四年

45:1- エホヤキムの第四年

35:1- エホヤキムの治世中

 

20:1- イメルの子パシュフルが神殿管理官であった時期

21:1- 王はゼデキヤ、祭司はゼパニヤ、エルサレムバビロニア攻囲中

 

 

22:24- エホヤキン(コニヤ) 第一次流刑

24:1- 第一次流刑の後

27:1- エホヤキム(ゼデキヤ)の治世のはじめ頃

29:1- ゼデキヤの治世のはじめ頃

37:1- ゼデキヤの治世のはじめ

49:34- ゼデキヤの治世のはじめ

28:1- ゼデキヤの治世の第4年5月

51:59- ゼデキヤの第4年

 

34:1- ゼデキヤの治世、バビロニアエルサレム攻囲下

39:1- ゼデキヤの第9年10月、第11年4月9日

30:1- 不明の時期

32:1- ゼデキヤの第10年、ネブカドネッツァルの第18年

33:1- エレミヤが牢獄の中庭に拘留中

 

40:1- バビロニアの占領後、総督ゲダリヤ

41:1- 同年7月

42:7- 同月10日

44:1- 以後の不明の時期

 

46:1- 不明の時期

50:1- 不明の時期

 

52:1- 第一次捕囚から38年目以降

 

 

エレミヤ書の特徴

エレミヤの預言の特徴は、エゼキエルと異なりエルサレムに留まった預言者であるため、YHWHへの反抗の現場に在って、何度も拘束や命の危険があったところにあり、預言者の命はその都度現れる助け手により保たれたが、書記のバルクの補佐無しには、エレミヤの預言書は存続も危うかったことが窺える。

それらの預言の巻物は、後に編纂され今日に見られる形に仕上がったに違いないが、その編纂に携わったのが、エレミヤであるのかバルクであるのか、あるいは別の人物であったのかは分からないが、列王記とは対照的に時期が入り乱れているところに、エレミヤの迫害された中での活動という事情が色濃く出ている。

全体は、ヨシヤの治世中のものがまとまっているが、その子シャルム以降、即ち、バビロニアの干渉が始まって以降にエレミヤの預言の本領が発揮されているように読める。

エレミヤへの反対は、エホヤキムの時代からゼデキヤに至るまで続く、エホヤキムが終始預言に反発していたのに比べ、ゼデキヤは優柔不断に描き出されている。

どちらもユダを滅亡に追いやったが、ゼデキヤの周囲では偽預言者らや極端な愛国者の頑なさがゼデキヤを動かしており、それに加えてファラオの慫慂があり、それに周辺諸国が同調したところをユダの頑迷な有力者らも煽られてもいる。エレミヤが正論を唱えていると信じる人々は少なかったが、命を長らえる酬いに与っている。

しかし、当時のエジプトかバビロニアかという二択に於いて、状況判断は非常に難しかったであろう。

 

登場人物

エレミヤ;ベニヤミンのアナトテの祭司ヒルキヤの子で胎児の時から任命され、時代の激動から生涯独身を命じられた

バルク;エレミヤの従者となった書記

 

ヨシヤ王;ヒゼキヤ王の孫、マナセ王の子

アヒカム;ヨシヤ王の時の書記官で神殿改修の祭の律法の巻物の発見に関わったシャファンの子で、ヨシヤ王により女預言者フルダに遣わされている。

エホアハズ(シャルム);ヨシヤの子でエホヤキム王の弟、ヨシヤ亡き後民は彼を王位に就けたがファラオ・ネホにより廃位されエジプトで囚われのまま生涯を終える

 

エホヤキム王;ファラオ・ネホによりエリヤキムから改名され傀儡王となるがエジプトへの重い朝貢と自信の贅沢な悪政で国は乱れ、新バビロニアに攻囲されては属国となったが三年で反逆し、国は更に乱れ最後に民は王として葬らなかった。

 

エホヤキン王;エホヤキムの子、王位を継ぐがネブカドネッツアルにより三か月と十日で廃位、主だった者らと共にバビロンに連行され、そこで七人の男児を得て合計九人の男児に恵まれ、その中にシャルティエルが三男として居たが五男ペダヤとの間でレビレート婚があったかもしれずペダヤの子ゼルバベルはマタイとルカの系図ではシャルティエルの子とされている。メシアへの家系はここに保たれた。ネブカドネッツアルから王位を継いだエビルメロダクは彼を親しみ、王の糧食から配給が施されるようになった。

 

ゼデキヤ王;エホヤキムの弟でエホヤキンの叔父、元のマッタヌヤの名を変えられバビロンの傀儡王とされるが日和見的に振舞い、好戦的なエジプトのファラオ・アプリエスバビロニアへの反抗を煽られた近臣らに動かされ、遂に王朝を終わらせた

 

アヒカム(前出);エレミヤを擁護してエホヤキムから保護する

コラヤの子アハヴ;

マアセアの子ゼデキヤ;

エベド・メレク;宮廷に仕えたエチオピア人でエレミヤを井戸穴から救っている

ウリヤ:預言者でエホヤキム王の怒りから一時エジプトに逃避するも殺害される

パシュフル;預言者として振舞いエレミヤと対立するがその預言は外れる

ヤアザヌヤと兄弟;レカブ人でエホナダブの家訓を守っていたケニ族

アズルの子ハナニヤ;エレミヤの作った頸木を砕いて反対預言を行い、その年に死ぬ

ネヘラムの子シェマヤ;祭司らを扇動しエレミヤに反対させようとして自分の家を断絶される

 

ゲダリヤ;エホヤキムの迫害からエレミヤを守ったアヒカム(前出)の子で、ネブカドネッツァルからユダの総督の任命を受ける。しかし、ダヴィド王家の流れを汲むネタニヤの子イシュマエルによって暗殺される。この事態はユダに残った少数の民にエジプト逃避を目論ませる結果となり、エレミヤも連行されてゆく。