ダニエル書9章25節の『七十週』に関する年代計算の新仮説
概要
アルタクセルクセスの勅令は445年
『まず七週』即ちヨベルを意味すると捉えるべく62週とは別に記載
その後443年にシュミタを迎えたが
もし次のヨベルを407年に迎えたとすれば
そこで『まず七週』は445年を含む一つのヨベルの中に入ると仮定すると
その407年から62週434年が経過するとAD28年
この年に69週年が満了し、バプテストが浸礼を始め
翌29年秋が第70週の開始の年となりメシアが浸礼を受けて聖霊の任命を受ける
そうしてルカ3:15の記述とバプテストの宣言とそれに半年遅れるメシアの受浸に繋げることが可能となる
こうして天使ガブリエルが7週と62週とを分けて語った理由がヨベル待ちであれば、すべての年代が整然と並ぶことになる。
この仮説の要点は、「前445年が属するヨベルの満了年(前407年)」を基準点として62週をリスタートさせることにある
■ 『七十週』の起点
アルタクセルクセスⅠ世の『エルサレムを立て直せ』との勅令が下ったのは445年である。これは以下の史料により確定的である。
◆バビロニアの「天文学日記(Astronomical Diaries)」
大英博物館などに収蔵されているバビロニアの粘土板文書群(天文学日記)には、「どの王の何年・第何月・何日にどのような天体現象が起きたか」が記録された。
特に、アルタクセルクセス1世の父王クセルクセス1世の即位と崩御(暗殺)にまつわる天体記録がある。
バビロニア粘土板(VAT 5047 など)の記録
・クセルクセス1世の即位年(紀元前486年)やその治世中の月食の記録(BC 481年、BC 471年などの月食)
・クセルクセス1世の最後(第21年)の月食と、それに続くアルタクセルクセス1世の即位の記録。
クセルクセス1世の即位年(紀元前486年)や、その治世中の月食の記録(BC 481年、BC 471年などの月食)
クセルクセス1世の最後(第21年)の月食と、それに続くアルタクセルクセス1世の即位の記録あり
現代の天文学的計算からも照合すると、クセルクセス1世が暗殺され、アルタクセルクセス1世が即位した年は「紀元前465年の夏(8月頃)」以外にあり得ない
◆ エレファンティネ・パピルスの二重の暦の一致
エジプトのエレファンティネ島で発見されたユダヤ人植民団の羊皮紙・パピルス文書(紀元前5世紀)には、「エジプト暦」と「バビロニア/ユダヤ(太陰)暦」の2つの暦が併記された二重日付の公文書が多数現存しているが、その中で、アルタクセルクセス1世の「第6年」「第14年」「第21年」などの日付を現代天文学で計算した結果も、「第1年=BC 464年」「第20年=BC 445年」を裏づけている。
(エジプト暦は1年が365日固定で閏年がないため、太陽暦に対して少しずつずれていきます。一方、バビロニア暦は太陰太陽暦でこの「2つの異なる周期を持つカレンダーの組み合わせ」は数正年に一度しか重ならないため、現代天文学者や年代学者(リチャード・パーカーやウォルド・ダブスタインら)にとって絶対的な日付特定(絶対年代学)の基礎とされている)
◆アルタクセルクセスⅠ世は父王クセルクセスの皇太子ではなく共同統治をしていない。歴史家テシアス、アリストテレス、ディオドロスらによって一致している
クセルクセスは長子ダレイオスを皇太子としていた
第一皇太子:ダレイオス(クセルクセス1世の長男)
次男:ヒスタスペス(バクトリアのサトラップ/知事)
三男:アルタクセルクセス1世(三男)
・紀元前465年8月、近衛隊長アルタバノスらが父王クセルクセス1世を暗殺
アルタバノスは、長男ダレイオス(本来の皇太子)に父殺しの罪を被せ、三男アルタクセルクセスをそそのかしてダレイオスを処刑させている
王位に就けられたアルタクセルクセスは、間もなくアルタバノスの陰謀を見抜き、彼とその一族を粛清して実権を握る
以上の理由から、ネヘミヤがアルタクスルクセスの第二十年という以上
その年は前445年であることは動かし難い
これを踏まえ、今日まで様々な曖昧仮説が存在してきた
■ 疑問点
◆分割の謎
なぜ単純に「69週(483年)後にメシアが来る」と書かなかったのか?
城壁再建自体はネヘミヤ記によればわずか「52日間」で完了しているのに、なぜ「7週(49年)」という大雑把かつ巨大な枠組みが物理的再建の期間として提示されているのか?
その『七週』49年間を特定する一次史料(公文書や天文記録)は、なぜ起点のBC 445年のように特定できる年で提示されていないのか?
◆問題のDan9:25が『七週あり、また、六十二週』となぜ分割しているのか?
וְתֵדַ֨ע וְתַשְׂכֵּ֜ל מִן־מֹצָ֣א דָבָ֗ר לְהָשִׁיב֙ וְלִבְנ֤וֹת יְרֽוּשָׁלִַ֨ם֙ עַד־מָשִׁ֣יחַ נָגִ֔יד שָׁבֻעִ֖ים שִׁבְעָ֑ה וְשָׁבֻעִ֞ים שִׁשִּׁ֣ים וּשְׁנַ֗יִם תָּשׁוּב֙ וְנִבְנְתָה֙ רְח֣וֹב וְחָר֔וּץ וּבְצ֖וֹק הָעִתִּֽים׃
"there will be seven ‘sevens,’ and sixty-two ‘sevens.’ "
「油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、」【新改訳】
「油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あって」【新共同】
後代、ヘブライ語聖書のマソラ学者らは、ダニエル書9章25節の「7週」の直後に、節の中で最も強い区切りを示すアクセント記号「アトナハ(アトナハ・アトナフ)」を打ったが、その影響は上記の二つの日本語訳に見られる。
しかし、アトナハは9世紀頃のもので、キリスト教との軋轢が強まった時代である。
やはり死海写本には、この強読点が存在せず、上記のBHSのようになっている。
アトナハの存在はハ ティクネのようなマソリームの作為と言える。その狙いは「7週+62週=69週」という合算を構造的に阻止することにあり、ナザレのイエスをメシアとしないための小細工と言える。タルムード(サンヘドリン 97b)には、「メシアの到来時期(日付)を計算する者の骨は腐れ」という有名な強い呪いの言葉がある
一方で、古代のユダヤ人やその後継としてのクムラン教団も、この「7週=49年」を「ヨベルの年(解放の周期)」という特別な1単位として意識して読んでいた。即ち「七週」は「1ヨベル」と換算される。
「7週と62週」という分割表現自体は、死海写本からダニエル書が著された当初からのオリジナルテキストである
またユダヤ側の年代史録「セデル・オラーム・ラッバー」はペルシアの王名を聖書に見られる4人に限定ダレイオス、ペルシア人キュロス、クセルクセス/ハシュエロシュなどを同一同人物とみなす)、編纂したラビ・ヨセ・ベン・ハラフタ(2世紀頃)は、聖書テキストに名前が出てくるペルシア王だけを抽出し、異なる複数の王を同一人物、あるいは親子の短い治世として統合してしまい、220年続いたアケメネス朝を50年未満に短縮しており、この文書全体を歴史資料としての価値を大いに損なっている。
そのためユダヤ伝承の以下のセデル周期は役に立たない。
第17ヨベル BC 622年 ヨシアの第18年 エラヒン12a-12b
第18ヨベル:BC 573年 神殿の幻の年
第19ヨベル:573 - 49 = BC 524年
第20ヨベル:524 - 49 = BC 475年
第21ヨベル:475 - 49 = BC 426年
第22ヨベル:426 - 49 = BC 377年
○ 想定される答え
ナザレのイエスを特定させないため
それによってユダヤ教が終末まで存続でき、信仰の公平が担保され、終末でのユダヤ教の著しい役割りを担うことができる。
そこで天使はダニエルに伝える際に、年度をぼかすために『七週』と『六十二週』とを分割し、六十九週とはしなかった。なぜなら、それは合計ではなく、ルカ3:15に単純に結びついてはユダヤ教の立つ瀬が無くなる、そのため秘義が込められていると仮定できる
■ 仮説の根拠
ラビらが捕囚後にはヨベルが数えられず実行されていないと主張するのだが、マカベア書第一6:49-53にはシュミタの年が記録されている。これは「ベト・ツルにいた者たちとは和議を結んだ」年であり、アンティオコス5世によるエルサレム包囲は、ギリシャ側の史料やセレウコス朝の年代記から「紀元前163年〜162年」であることが確定している。
マカバイ記第一 16:14-16(シモン・マカバイとその息子たちが義理の息子プトレマイオスに暗殺される事件)の文脈においても、古代の歴史家(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第13巻)はこの事件が起きた背景として「その年が安息年であったこと」を並行して記述、戦争という極限状態において食料不足でもシュミタは守られた
したがって、この時期にはシュミタが守られていた証拠が固い。
但し、「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に自由を布告しなければならない。これはあなたがたにとってヨベルの年である。あなたがたは各自その所領に帰り、各自その家族に帰らなければならない」(レビ記 25:10)
タルムード(エラヒン 12b など)の解釈によれば、この「国中のすべての住民(全12部族)」という文言が根拠とされ、捕囚後はヨベルだけは再開されなかったとラビは主張する。
あとは、この年から七年ごとに遡ることでシュミタの年を得ることができる。そしてそのうちの何れかはヨベルの前年であったことになる。
前455年の近くでシュミタとなる計算上の年は以下のとおり
BC 520, 513, 506, 499, 471, 464, 457, 450, 443, 436, 429, 422, 415, 408, 401, 394, 387, 380,
BC 520年(ダレイオス王の第2年)が計算通り安息年で種蒔きや収穫が制限・禁止される年であったと仮定するならば、ハガイが訴えた経済的・農業的困窮の背景と、マカベア書からの計算上のサイクルが合致する
ここから62週(434年)後が紀元30年近くになる年に目星をつけると408年が浮上
翌年がヨベルとなり、それは407年が求められる
この前407年ヨベル説は、マカバイ時代の確実な史実(BC 163年のシュミタ)と世界史のペルシア年代(ネヘミヤのBC 445年やエレファンティネのBC 407年)を元に数学的に復元した周期である
ネヘミヤが帰還民団の中での高利貸しや奴隷化などを解放するように求めたのは、エルサレム赴任の三年目の443年にシュミタを控えたからと言える。(ネヘミヤ10:31)
したがって、捕囚期でもシュミタのサイクルは記憶されていたことになる。
(BC407の直前のヨベルは456年であり、それは次のヨベル周期の第一年)
457年(シュミタ)・456年(ヨベル)→ 450年(シュミタ)
→ 445年(勅令)→ 443年*(シュミタ)その後(436, 429, 422, 415,が安息年)
→ 408年(シュミタ)・407年(ヨベル)[1ヨベル49年の満了]
*(ネヘミヤ記10:31の負債と隷属の免除の年に近時・ネヘミヤ赴任の3年目)
略記すると
前445年(勅令)→ 前443年(直後の安息年)→ 前407年(ヨベル)
前407年から434年後は紀元28年となり、この年にアルタクセルクセスの勅令の直後のヨベルから62週年が満了する。
その翌年である西暦29年から「第七十週」が開始される
ガブリエルが『六十二週の後にメシア断たれる』として「六十九週」と言わなかったのは、ヨベルの中の七週が49年とは数えられないからと言える。つまり合算しない。
従って、ガブリエルの啓示は「メシアの到来まで、1ヨベルと62のシュミタ(安息年)」と教えていたことになり、一つのヨベルはエルサレム再建の勅令が下った前455年を含む49年を指す。
この一つのヨベルの終了が前年の408年に在ったと算定される安息年を根拠にした場合、翌年の前407年秋がヨベルの年となり、この想定が正しければ、その満了は西暦28年秋となり、ルカ3:15の『皇帝ティベリウスの治世の第十五年』の開始に相当する紀元28年秋以降と合致し、「1ヨベルと62シュミタ」がこの年に満了することになる。
これは、バプテストのイエスとの半年の年齢差から、祭司としての律法の規定年齢を順に受けた場合、イエスの受浸にヨハネが半年先立って紀元29年春に水のバプテスマを開始していた場合に、キリストの受浸が半年後の紀元29年秋となり、メシアが活動する「第七十週」の七年の始まりはこの紀元29年からとなる。
『彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する』とは、キリストの完全な犠牲により、「第七十週の半ば」に律法祭祀が意義を失うことを指している。
したがって、メシアの活動は紀元29年秋に始まり、ヨハネ福音の祭りの記録からその宣教が三年半後の西暦33年春の「過ぎ越し」の日に犠牲が捧げられたことから、メシアの受浸から三年半後という「第七十週」の『半ば』にその地上での活動は中断されている。
ヨセフスは古代史で数多く記録(BC 163年、BC 135年、BC 37年など)を残している。
BC 135年:アンティオコスVIIのエルサレム攻囲の年 13巻
BC 37年 :ヘロデがローマ軍とエルサレムを陥落させシリアの支配を終わらせた 14巻
以降のシュミタは
BC 38 / 37 年(ヨセフス記録のシュミタ / ヘロデのエルサレム攻略)
BC 31 / 30 年(7年後)
BC 24 / 23 年(14年後)
BC 17 / 16 年(21年後)
BC 10 / 9 年(28年後)
BC 3 / 2 年(35年後)
AD 5 / 6 年(42年後)[BC/ADのまたぎ補正]
AD 12 / 13 年(49年後)
AD 19 / 20 年(56年後)
AD 26 / 27 年(63年後)
AD 27 / 28 年[シュミタの満了]
■ この仮説から理解されるところ
加えてメシアは『一週の間多くの者と堅く契約を結ぶ。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する』とあり、第七十週の半ばで、自らの犠牲によって律法祭祀の価値を終わらせ、聖霊降下によって聖徒らと『新しい契約』を締結し、それは第七十週の間中固く守られることになる。
それから『第六十二週の後』の「第七十週」の『半ば』である西暦33年春に『メシアは絶たれ、彼には何も残らない』とあるように、『罪人として数えられ』資産も子孫も残さない。
その後、『やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている』とあるように、メシアを屠った『世代の内に』皇帝となっていたウェスパシアヌスと、共に皇帝と呼ばれた長子のティトゥスによってエルサレムと神殿はまったくの灰燼に帰した。これはメシアの活動の後の事として書かれる。
第七十週は、そのままであれば西暦36年に終わっているはずであるが、この『六十九週』の預言の全体はメシアの到来に関するものであり、メシアの活動そのものは付記のように「第七十週内」と捉えるように記されている。初臨のメシアの活動は三年半で帰天により中止しており、「第七十週」は『半週』を残していると言える。
したがって、メシアの到来としての再臨を考慮する場合、『神だけが知り給う』時節の終末のメシア臨在から、第七十週の残りの三年半が残されていると捉えることが可能であり、黙示録の42ヶ月、1260日にその根拠を見出す。
その第七十週の間中、メシアは『一週の間は契約を固く保つ』とされるが、その意味は「再臨後の三年半も契約が存続する」と捉えるのが自然であり、初臨の帰天以前の三年半は契約の仮の履行が部分的に見られたものの、契約の発効そのものはその年の五旬節であり、厳密には「第七十週」の期間の外にある。したがって『一週の間は契約を固く保つ』とは、「第七十週」の残りの期間についてのみ語っていると捉えることができる。
やはり、ガブリエルの啓示の『七十週』は、『至聖所に油そそがれる』という天界の神殿祭祀を成し遂げるための期間であり、そのために聖霊で油注がれる『聖なる者』の全体が天のメシアの許に招集されるために、『新しい契約』が締結される三年半が依然残されており、それは聖霊でメシアの言葉を語る聖徒らの登場が終末預言に明示されていることに整合することになる。
以上、林 義平による仮説である 2026年8月19日
伝統的な解釈では『エルサレムを建て直せとの勅令が下ってから七週と六十二週』を前445年+七週49年として、前396年から62週(434年)を数え始める。
しかし、この仮説では「445年が属するヨベルの満了年」前407年を起点として62週(434年)を加算することで伝統的解釈から11年を短縮する。
理由は『エルサレムを建て直せとの勅令が下ってから七週』との言葉を、「BC 445年という勅令の年が、当時進行中のヨベル周期(BC 456年〜BC 407年)の途中(12年目)にあった」と解釈する。
その結果、ルカによる福音書3章において、バプテスマのヨハネの活動開始とイエスの受洗が「ティベリウス帝の治世第15年(AD 28〜29年)」と記録されている歴史データと一致するため、前407年から434年を数えて紀元28〜29年に「メシアである君まで」の期間が満了する。