Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

バプテストの働き

 

イザヤ40:3-4

『呼ばわる者の声がする、「荒野にYHWHの道を備え、砂漠に我々の神のために、大路をまっすぐにせよ。
 諸々の谷は高くせられ、諸々の山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる』。 ⇒ ゼカリヤ4:7 ⇒ Mt17:20&Mr11:23

 

マラキ3:1-2

『「見よ、わたしは我が使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。

そして、あなたがたが求める主は突然にその神殿に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍のYHWHが言われる。
その来る日には誰が耐え得よう。その現れる時には誰が立ち得よう。彼は金を吹き分ける者の火のようであり、洗濯人の洗剤のようである」』。

 

マラキ4:5-6

『見よ、YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、呪いをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

 

ルカ1:15-17(誕生に際して)

『 彼は主のみ前に大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒を一切飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、み前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう』。

 

ルカ3:1-7(AD28以降、荒野でバプテストとなる)

『皇帝ティベリウス在位の第十五年、ポンティウス・ピラトゥスがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリッポスがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカイヤファとが大祭司であったとき、神の言が荒野でゼカリヤの子ヨハネに臨んだ。
 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪の赦しを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてある通りである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、悪い道はならされ、人はみな神の救いを見るであろう」。
 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆に向かって言った、「まむしの子らよ、誰がおまえたちに迫ってきている神の怒りから逃れられると教えたのか』。

 

マタイ3:1-

『 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、
 「悔い改めよ、天の王国は近づいた」。
 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのはこの人のことである。↑ イザヤ40:3-
 このヨハネは、らくだの毛衣を着物にし腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
 すると、エルサレムユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、 自分の罪を告白し、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けた。
 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人の多くがバプテスマを受けようとして来たのを見て彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、お前たちは逃れられると、誰が教えたのか』。↓ ルカ7:30

 

マルコ1:1-8

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
  預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように ( ↑ イザヤ40)、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。⇒ Act13:39
 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けた。
 このヨハネは、らくだの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のある方が後からおいでになる。わたしはかがんで、その靴紐を解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、この方は、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」』。(聖霊と火と)Mt3:11 ↓ 

 

マタイ3:11

『箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け麦は倉に納め、籾殻は消えることのない火で焼き捨てるであろう」。』

ルカ3:16-17

『この方は、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、籾殻は消えることのない火で焼き捨てるであろう」。』

 

ヨハネ1:19-28

『さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
 これらのことは、ヨハネバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。』

 

ヨハネ1:29-36

『 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれた方である。わたしよりも先におられた方である』とわたしが言ったのは、この人のことである。
わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
 ヨハネはまた証をして言った、「わたしは霊が鳩のように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをお遣わしになったそ方がわたしに言われた、『ある人の上に、聖霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、聖霊によってバプテスマを授ける方である』。
 わたしはそれを見たので、この方こそ神の子であると証をしたのである」』。

 

 

 

ヨハネ3:22-24

『こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった』。

 

 

ヨハネ3:26.28-30

『ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、あなたが証をしておられたあの方がバプテスマを授けており、多くのの者がその方の許へ出かけて行きます』。

『わたしはキリストではなく、その方よりも先に遣わされた者である』と言ったことを証してくれるのは、あなたがた自身である。
 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうしてこの喜びにわたしに満ち足りている。
 彼は必ず増え栄え、わたしは減り衰えねばならない』。

 

 

◆(バプテストの投獄 AD30夏)

Mt4:12 Mr1:14 Lk3:19-20 

<バプテストの警告に沿うかのようにヘロディアの件は後のアンティパス没落の契機>

 

ヨハネ4:1・3

『イエスヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということをパリサイ人たちが聞き及んだ、それを主が知られたとき』『ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた』。(十二使徒召命の一年ほど前)

<「教会史」中の伝承ではヨハネ福音書を著すに当たりバプテスト逮捕の前と後とに拘りを持っていたと>

 

マルコ2:18-20

ヨハネの弟子とパリサイ人とは断食をしていた。そこで人々が来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのですか」。
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は断食はできない。
しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう』。⇒ 旧新の生地のたとえ

<「花婿」に関する発言はバプテストが先行しており、彼の弟子らはイエスの言葉に自分たちの師の以前の発言を確認したことになる>

 ↓

マタイ9:16- (ヨハネ派とパリサイ派の断食からの問いに続いて)

『 だれも、真新しい布切れを古い着物に継ぎを当てはしない。その継切れは着物を引き破り、破れがもっと酷くなってしまう。
 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂けて酒は流れ出るし皮袋も無駄になる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長持ちする」。』

 

ルカ7:26-30

『では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが預言者以上の者である。
『見よ、わたしは使をあなたの先に遣わし、あなたの前に道を整えさせるであろう』と書いてあるのはこの人のことである。
 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより偉大な人物はいない(Mt11:11)。しかし、神の国で最も小さい者も彼よりは偉大である。⇒ ダニエル9:27

(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちもヨハネバプテスマを受けていたので、神の義を認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のご意志を無にした)』

 

マタイ11:11-14

『女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な人物は起らなかった。しかし、天の王国で最も小さい者も彼よりは偉大なのだ。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天の王国は(人々に)押し迫られ、殺到する者たちはそれをもぎ取っている。
すべての預言者と律法とが預言したのはヨハネの時までである。
 そして、もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは来るべきエリヤなのである』。

 

 

◆バプテストの処刑 (AD31アンティパスの誕生日)

Mt14:1-<回想> Mr6:14- Lk9:7-

Jh5:35 『あの人は燃え輝く灯火であった』。

 

ルカ13:31

『ヘロデがあなたを殺そうとしている』<イエスのペレイア入域を狙っていた?>

<おそらくヘロデはこの後で考えを変えたのでは>

 

マタイ17:12 

『エリヤはすでに来たのだ。しかし人々は彼を認めず自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、同じように彼らから苦しみを受けることになろう』。

 

マタイ21:25-26

ヨハネバプテスマはどこからのものであったか。天からか、人からか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのかとイエスは言うだろう。
しかし、もし人からだと言えば群衆が恐ろしい。人々は皆ヨハネ預言者と思っているのだから」』。

マタイ21:32-

ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに後になっても、心を入れ変えて彼を信じようとしなかった』。⇒ 笛吹けども踊らず

 

マタイ27:46-50

『そして三時ごろにイエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
すると、そこに立っていたある人々がこれを聞いて言った「あれはエリヤを呼んでいるのだ」・・・ほかの人々は言った「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか見ていよう」。
エスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた』。

 

使徒19:2-7

『 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ聞いたこともありません」と答えた。
「では、誰の名によってバプテスマを受けたのか」と彼が訊くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを」と答えた。
そこでパウロは言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって自分の後に来るかた、すなわち、イエスを信じるように人々に勧めたのである」。
 人々はこれを聞いて主イエスの名によるバプテスマを受けた。 そして、パウロが彼らの上に手をおくと聖霊が彼らに降り、それから彼らは異言を語ったり預言をしたりし出した。その者たちは十二人ほどであった』。

 

 

◆神殿の清めの事例は共観福音書では最後のエルサレム登城後、ヨハネ福音だけは宣教初期として記述されるが、『契約の使者』としての突然の到来はバプテスト亡き後の共観福音書の時点であるとの論旨は成り立つか? ⇒ あまり意味がない。むしろ、複数回行われたところに、当時の祭司長派が商人と癒着していた程度の深さを読み取ることの方が重い。

 

『契約の使者』としてのメシアの前に別のシュリアッハが用意されたのは、それだけメシアによる宗教の形が大きく変化することへの備えを要したことを表している。

宗教家らがヨハネバプテスマを受けていなかったというのは、何が障害となったのかを示しており、それは律法に対する自分の立ち位置であったといえる。

また、エリヤに例えられるのは、アハブ王の当時のイスラエルとその影響を受けていたユダの宗教環境が、天からの火によって民の心が変わり、YHWH崇拝を見直す契機を与えたところに共通性があるように思われる。

但し、両国とも宗教体制を取り戻すには至らず、七千人の『残りの者』を残すのみであった。だが、この点も聖霊の注ぎに与った小麦の人々が僅かで、体制派は不義な道を正さず、ついに『火のバプテスマ』に焼かれたところは、イスラエルアッシリアに、ユダはバビロニアに滅ぼされたところが予型になっている。

また、エリヤとエリシャの関係性にもバプテストとメシアの共通性が見られる。

しかし、バプテストは律法契約に準拠しており、メシアは律法を成就して終わらせる役割を保持する者としての異なりがあり、それぞれの弟子たちに求められるものも異なっていた。それでも時間の経過と共に進行する神の経綸は、バプテストの役割にすぐに終わりが来ることを示しており、ヨハネは終始一貫律法契約からメシアへの橋渡しをイスラエルに対して行ったといえ、それが断食と祝宴の相違となっている。ヨハネは悔い、イエスは祝うのだが、それは肉に関する限り律法には弱点となるものがあったのであり、それが克服し難い人間の『罪』であった。

この原罪の認識がその後のユダヤ教に現れなかったところが、キリスト教との障壁となり、今日まで両者は袂を分かったままでいる。

従って、バプテストの役割は原罪の認識をイスラエルに促すものであったことになり、そのバプテスマを受けて後、メシアのバプテスマを要していた。

メシアのバプテスマのもたらすものは、「悔悟」を越えてその上の次元である神の「是認」に向かわせる喜ばしいメシア信仰への門出であったろう。

従って、二つのバプテスマは共に欠くことのできないイスラエルの『呪い』からの脱出を意味したであろう。その脱皮は『ダヴィドの家の者らを天の使いのようにする』ほど超絶的な意義をもっていた。