Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖書への言及への幾つかの問題


1.ἄνθρωπε θεοῦ

2Tim3:14-17

[Σὺ δὲ μένε ἐν οἷς ἔμαθες καὶ ἐπιστώθης, εἰδὼς παρὰ τίνων ἔμαθες, 15καὶ ὅτι ἀπὸ βρέφους [τὰ] ἱερὰ γράμματα οἶδας, τὰ δυνάμενά σε σοφίσαι εἰς σωτηρίαν διὰ πίστεως τῆς ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ. 16πᾶσα γραφὴ θεόπνευστος καὶ ὠφέλιμος πρὸς διδασκαλίαν, πρὸς ἐλεγμόν, πρὸς ἐπανόρθωσιν, πρὸς παιδεία:ν τὴν ἐν δικαιοσύνῃ, 17ἵνα ἄρτιος ᾖ ὁ τοῦ θεοῦ ἄνθρωπος, πρὸς πᾶν ἔργον ἀγαθὸν ἐξηρτισμένος.]NA28



[ἄνθρωπε θεοῦ]1Tem6:11/2Tem3:17
[אִ֣ישׁ הָאֱלֹהִ֑ים] Jer35:4 イクダルヤ
[אִישׁ־הָאֱלֹהִ֑ים] Neh12:24 ダヴィドに適用



2.παράκλησεις

Rom15:4
[ὅσα γὰρ προεγράφη, εἰς τὴν ἡμετέραν διδασκαλίαν ἐγράφη, ἵνα διὰ τῆς ὑπομονῆς καὶ διὰ τῆς παρακλήσεως τῶν γραφῶν τὴν ἐλπίδα ἔχωμεν. ]

[παράκλησεις](原)

[παρακλήσει]Act9:31

/paraklesis {par-ak'-lay-sis} from 3870; TDNT - 5:773,778; n f AV - consolation 14, exhortation 8, comfort 6, intreaty 1; 29 1) a calling near, summons, (esp. for help) 2) importation, supplication, entreaty 3) exhortation, admonition, encouragement 4) consolation, comfort, solace; that which affords comfort or refreshment 4a) thus of the Messianic salvation (so the Rabbis call the Messiah the consoler, the comforter) 5) persuasive discourse, stirring address 5a) instructive, admonitory, conciliatory, powerful hortatory discourse /


[מְ נַחֵ ם](メ ナハム)Lam1:2 = [παρακαλῶν]LXX


Act3:20
[ὅπως ἂν ἔλθωσιν καιροὶ ἀναψύξεως ἀπὸ προσώπου τοῦ κυρίου καὶ ἀποστείλῃ τὸν προκεχειρισμένον ὑμῖν χριστὸν Ἰησοῦν,]

[ἀναψύξεως]Act3:20
/anapsuxis {an-aps'-ook-sis} from 404; TDNT - 9:664,1342; n f AV - refreshing 1; 1 1) a cooling, refreshing /


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自由とは
新約での自由は、律法との対比にある。
パウロが「再び奴隷の頸木に就くことのないように」と書き送った相手はあのガラティア人だった。
ペテロも聖徒らが「自由の民」であると書き、ヤコブも「自由の民の律法」について述べるが、もちろんそれはモーセの律法ではない。
パウロはローマ人には「罪から自由にされた」と複数回述べており、これは律法の頸木から解かれたことを言う。
これについてはキリスト自身が「すべて罪を行なう者は罪の奴隷」と語り、そこで「家の子」と「奴隷」を対照している。パウロはそれを二つの契約に集約し、モーセに従い続ける者は「ハガルの子」であるとまで言っている。
従って、「真理はあなたがたを自由にする」というキリストの言葉は、この脈絡において捉えられるものとなる。語られた相手は「契約の子ら」であるユダヤ人であった。
だが、多くの「クリスチャン」方はそうとらないのを好む。信者集めとご利益信仰の為と思われるが、別に律法下になくとも人は「罪の奴隷」となっている。ただ聖徒のように地上に居る段階からその自由を享受はしていないということである。一般人が「クリスチャン」の一部を含めてその自由に預かるのは千年期となるのであり、今が自由ではない事を何ら失望する理由も無い。むしろ、自分が聖徒であるかのように「自由」になったと勝手に勘違いしているのが今日の「キリスト教」と呼ばれる宗教である。聖書に親しむ以上にはほとんど価値を持っていない。


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  • 例え- Rsm

・去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え  
・「賃金」の例え話 後の者が先に、先の者が後に
・富者とラザロの例え 矯正不能の高慢さ
・今日のキリストの不在、将来の帰還  『ミナ』の例え
・『十人の乙女』「盛大な婚宴」の例え
・「小麦と毒麦の」例え 『不法の人』の現われる時
・ローマ国教化で失われたもの 『からし』と『パン種』の例え
・価値観への警鐘 「種まき人の例え」
・不和と軋轢 許さなかった僕の例え
・似て非なるサマリアへのキリストの想い
+種蒔き人
+種の成長
+不義の富
+枯れたいちじく
+羊と山羊
+ロトの妻
+二人か三人の居るところ
+引き網
+葡萄園の園丁
+座って計算
+執拗な訴え
+先をゆくエリヤ
+数の揃う金貨、羊




@それぞれの宣教年度と季節、環境や場所と聴衆の種別


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キリストの初臨の前にエリヤあり、こはバプテストなり
『見よ、YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。』(マラキ4:5-6)からすれば
終末でのキリストの再臨にエリヤに相当する者があると見るのが自然
では『彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。』とは何を意味するか?
バプテストの場合には、律法契約の不履行への悔いを表させ、メシアに民の心を準備させた。イスラエルに対する旧契約の最後の使者とも言える。(ここにイエス以降の水のバプテスマとの相違あり)
再臨によってシャヴオートの時と同じく再び聖霊の注ぎ出しがあるなら、それに準備させるという意義はかつてよりも重要になる。『夜』の期間が1800年以上に亘っているので。

『見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。・・彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。』(マラキ3:1.3)
というからには、聖霊の注ぎ出しの前に、先んじる者が誰かいる。
その「者」と「忠実で賢い家令」は同一か?(そうかも知れない)
黙示録に痕跡はないか?
その者らはイスラエルの残りの者ではないのであるから、ユーフラテス河畔の四人ではないのでは?
それとも、神殿定礎こそがシャヴオートの対型であったのか?
(その蓋然性が出て来た)
新約聖書で、ユダヤ人らは「エリヤが来る」という概念をずっと表していた。
であるなら、あちこち書き直す必要がある。
ああそうか、これはたいへんだ。シオンは一日にして成らず!

三つの事象 「水のバプテスマ」「終末のエリヤ」「忠実で賢い家令」
+ 「四人の使い」?

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ヨハネ3:31-36
これはヨハネ福音書に特有の著者の言葉であろう。
その論理がヨハネ書簡や黙示録に共通している。

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そこで、律法の条項に厳密に従おうとの熱意に正義を感じる宗教家らはこれをどう解釈したろうか?
酵母パンの祭りは21日の日没まで続けられ、酵母が家庭にあってはならないと判断し、この最終日をアツェレト(聖会)また、七日間の最初の日も同じくそのようにしてシャバットと同じ規定を当てはめた。即ち『無酵母パンの祭り』(ハグハマツォート)である。

では、出エジプトの前夜の食事に相当する『過越し』(ハグハペサハ)の食事(セデル)はどうするのか?
過越しでのパンこそは無酵母であるべきである。出立を控えたイスラエルは旅支度の内にパンを発酵させる時間を持たなかったからであった。()
それを記念するペサハは十四日の夜に行われていたことは、旧約中に何度か記録されている。
例えれば、バビロン捕囚後に神殿の再建を終え、献堂を果たした民についてエズラはこう書いている。
『こうして捕囚から帰って来た人々は、正月の十四日に過越の祭を行った。すなわち祭司、レビびとたちは共に身を清めて皆清くなり、すべて捕囚から帰って来た人々のため、その兄弟である祭司たちのため、また彼ら自身のために過越の小羊をほふった。』(エズラ6:19-20)

従って、『無酵母パンの祭り』とそれに先立つ『過越し』とは別のもので月の14日に行われる祭りあったことが分かる。

また、約束の地に入植を始めるに当たり、ヨシュア記にはこうある。
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。
そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。』(ヨシュア5:10-12)
この場合では、過越しで無酵母パンを食したとは書いておらず、子羊のほかに何を食したのかは分からない。だが、翌15日から無酵母の食物を食しており、それは『無酵母パンの祭り』のようでもある。



また、モーセはレヴィ記に於いては確かに『無酵母パンの祭り』が正月15日から始まることをこう記す。
『またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。』(レヴィ23:6)



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