Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

肉体という『天幕』に仮住まいする聖徒

 

 

ローマ8:15-18

『あなたがたは再び恐れを懐かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
 霊みずから、わたしたちの霊と共にわたしたちが神の子であることを証して下さる。
 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである
わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない』。

 

キリストが『この世』また『神の王国』の相続人であるように、聖なる者らも迫害を共にするなら(1Pet3:6)、『共同の相続人』であり、ダヴィドの王国、レヴィの祭司を継承する『祭司の王国、聖なる国民』となって『地のあらゆる民族の祝福となる』アブラハムの子孫、『神のイスラエル』の一員となり、キリストの兄弟として人類に先立って神を父とする『神の子』の立場を得る。

しかし、その身分を得て『兄弟を得る』には、迫害を避けられず、そこにこの世からの離脱が行われ、彼らは『神の側にあり、この世が邪悪な者の配下にあることを知る』必要がある。これは聖霊を有しない他のあらゆる人々との相違となっている。神の子でない者は誰でも『この世』に属しており、滅びべき『カナン人』の対型を構成する。他方で聖なる者らが『恐れを懐かせる奴隷の霊』から解放されたのは、彼らが死を超克する命の状態に入ったことを示す。彼らが迫害を甘受し恐れないのはこの理由による。

 

 

ローマ8:23-26

『霊の初穂を持っているわたしたち自身も心の内で呻きながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体の贖われることを待ち望んでいる
わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事をどうして望む人があろうか。
 もし、わたしたちは見ないことを望むからわたしたちは忍耐して待つのである。
霊もまた同じように弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないとしても、言葉にならない切なる呻きを、霊自らがわたしたちのために執り成してくれるからである』。

 

『体が贖われることを望む』とは、彼らが体に於いては依然として贖われていない状態にあり、彼らは体から解かれることによって贖いが完了することを指している。

従って、彼らの地上の生涯は『仮住まい』の『天幕』に過ぎない。

これはパウロがコリント第二書簡で

わたしたちの住んでいる地上の幕屋が壊れると神からの建物、すなわち天にある人の手によらない永遠の家が備えてあることをわたしたちは知っている。
そして、天から賜わるその住処を着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
それを着たなら、もはや裸を見られることはないであろう。
この幕屋の中に居るわたしたちは重荷を負って苦しみ悶えている。それを脱ごうと願うからではなく、上からのものを着ようと願うからであり、それによって死ぬべきものが命に呑まれることを願う。
 わたしたちをこの事に適う者にして下さったのは神である。そして、神はその保証として霊をわたしたちに賜わったのである。
 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることをよく知っている。
 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが願わしいと思っている。
 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが心からの願いである。
  なぜなら、わたしたちは皆キリストの裁きの座の前に置かれ、善であれ悪であれ自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである』。(5:1-11)

 

この聖徒の裁きについてはヨハネ福音書の5章の後半にキリストが語る

『父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず裁きは子に任せておられる』。(5:21-22)

ここには父の裁きと子の裁きが並置されている。

即ち、世に対する神の裁きが『義者も不義者も』復活して改めて裁かれるのとは対照的に、キリストに与えられた者である聖徒に関する裁きはキリストに一任されており、その根拠は『新しい契約』にある。従って、「十人の乙女の例え」にように、生涯の間に忠節を尽くさないなら、キリストの再臨に当たって以降『油を買う』には間に合わない。その点をヨハネ5章は続けて

『わたしの言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、裁かれることなく死から命へと移っている
 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
 驚いてはならない。時が来ると墓の中にいる者は皆人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る』と述べている。(5:24-29)

この復活が黙示録の言うところの『第一の復活』であり、それは再臨での残された契約期間の三年半の後に聖徒全体の裁きとして実現する。

それは地上に生き残っている聖徒の天への招集を含むため、地上に『残される』聖徒は肉体に取り残されることによってその裁きを受けることになる。彼らに悔いる余地はない。

 

復活にせよ召天にせよ天に召される者は、キリストに同じく霊の身体を得る。

『愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのかまだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
  彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼が清くあられるように、自らを清くする(Heb2:11)』。ヨハネ第一3:2-3

この聖徒らの肉から霊への体の変化についてパウロは次のように述べていた。

 

『わたしたちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、瞬く間に一瞬にして変えられるのである
 というのは、ラッパが響いて死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着けて、この死ぬものは必ず死なないものを着けることになるからである。
 この朽ちるものが朽ちないものを着け、この死ぬものが死なないものを着けるとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである』。(コリント第一15:49-54)

 

そこで、これらの肉体から霊への裁きを受ける『子に与えられた者』についてヨハネ福音は

『わたしを遣わされた方のみ心は、わたしに与えて下さった者をわたしが一人も失わずに、終りの日に復活させることである。
 わたしの父のみ心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。そして、わたしはその人々を終りの日に復活させるであろう』。(ヨハネ6:39-40)

従って、上に引用したヨハネ5章、6章の句はいずれも『契約の子ら』としてのイスラエルに語られており、キリストの宣教が専らパレスチナに限定された理由も知らせるものとなっている。

それはバプテストが『悔い改め』を促したように、律法の終わりについて『準備された民を備える』ためであり、『子を見て信じる者が、皆永遠の命を得る』とイエスが言われたのはイスラエルを対象としての外部の諸国民である。

キリストのイスラエルへの宣教によって、信仰を示した者が『与えられた者』となり、その者らはキリストの死と復活を通して聖霊の注ぎに与ることを通し、キリストの得た不滅の命を霊によって共にすることになった。

『神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ死者の中からのイエス・キリストの復活によって生きる希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、空しくならない財産を相続する者としてくださった』。(1Pet1:3-4)

 

彼らはなお肉体という仮住まいの天幕に住み、世に対しては『居留民』ではあるが、すでに霊に於いては肉体にある間から永遠の命に与っている。(1Pet1:1)

但し、その最終的成就は『苦しみを共にするならば』のことであり、『新しい契約』順守というキリストへの忠節が条件として付され、その裁きの結審は再臨の後の『第一の復活』にかかっている。

キリストに『与えられた者ら』は地上で試みられることで『自分の十字架を担って』主に続き、同じ栄光に入るという『この道に召された』のである。(Mt10:38-39/1Pet2:21)

 

それは単なる苦行による命の獲得ではなく、彼らにとっては、既に霊によって得ている命への肉体からの脱出を意味し、それは天界に於ける神に次ぐキリストと栄光を共にする完全の義の獲得と意味するものとなる。

 

このキリストとの等質性は『神のイスラエル』という一つの象徴的民族としての同胞、また兄弟関係にあり、それは以下のようにローマ書簡第8章にも記されている。

神は予め知っておられる者たちを、み子の姿に似たものとするよう予め定めて下さった。それは、み子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
 そして、予め定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである』。8:29-30

 

従って、聖徒らは『神の子』でありキリストの兄弟でもあるが、その基を置いたのは『隅の親石』たるキリストである。これはメシアが十二部族を呼び出し一つにするというネヴィイームに散見される概念とも合致する。

 

黙示録の『十四万四千人』が実数であれば(ローマ11章からすれば実数と思われる)、聖霊注がれる人々の間でキリストによる取捨選択が行われるという概念もあることになり、それはエゼキエル第9章の印をつけられるエルサレム市民という幻に例があり、それも黙示録第七章で繰り返される概念とされている。

律法契約の目的が民について選択的であるようにユダヤ教徒が感じ取り、その感覚がパリサイ派などを生んだように、『新しい契約』は更に選択的目標を擁している。その選択は聖徒らが聖霊の注ぎを受けて現れた後の裁きにより確定することになる。

従って、選ばれる聖徒の数より多くの聖霊注がれる者が居るに違いないが、だからと言って、聖霊の注ぎが乱発されるとは思われない。それは余計な負担を負わせて滅びゆく者を増やすだけになってしまう。