Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キリストの犠牲のふたつの面


神はアダムが自らを死に至らしめたもの(単なる自殺の意でなく)と見做したのなら、アダムの魂は永遠に失われたということになる。
一方で、イエスの魂は墓に捨て置かれず、霊の身体を以って復活するに至った。神は忠節な者の腐れを許さなかった。そこで魂は肉体から霊体へとをホクマの存在を引き継いでいる。パウロは聖徒らに、あなたがたはキリストと共に生きるものとなったと言う。彼らは霊者キリストの身体に預かることになっていた。しかし無酵母パンの表象は肉と言う。
では、キリストの肉体が永遠に失われたのはアダムの代価としてか?それとも霊体への復活のためか?
キリストが支払った罪の贖いとしての代価は肉体ではなく魂だったと言える。それゆえキリストの魂は肉体の死によって魂が体を持たない状態に入ったので神の許に捧げられたと言える。そこで神は「死んだ魂」となったキリストに霊体を与えて復活させた。
しかし、アダムの代替となったのは、キリストの肉体であったろう。食事をしたから肉体となったと結論するのは早計⇒Gen18:8

キリストの肉体の提供を表象するのが無酵母パンであったと見ることができる。
復活後に現れたイエスは化肉であったろう。それは最終的に天に去る姿を見せるためであったか? また、復活後の現れで容貌が変化していたという根拠は何か?
キリストの死によってふたつ考えられる。第一は罪の贖いとしての魂の献供。
第二は、アダムという存在者に代り、人類の命の源(父)となるための肉体の提供。
魂の提供は、罪の赦しだけでなく、サタンのような存在を無に帰せしめ、神を至高の座に高めた。また契約の発効のための仲介者の死でもあった。
肉の提供は、まず聖徒らの、次いで千年期後の人々の肉の命の源となった。アダムの命は不完全となって後に消滅しており、そのままでは肉の人は永生を得ることはないが、キリストの肉体がその代替となるよう備えられたので、アダムの子孫の全体に完全な肉の命が伝えられることになる。命は体を介して常に元の命から現れるが、魂は固有のもので、その個体にだけ当てられる。

この推論でゆくと、キリストの魂はアダムの魂の代替ではなかったことになる。罪の源となったアダムの魂はサタン同様失われるべきものであり、贖う必要がないが、子孫に命をもたらした肉には必要がある。

「魂は神に、体は民に」・・そこで葡萄酒を飲む聖徒は、契約に預かるためにその魂の表象を受け入れ、罪の赦しを得たか?これは祭壇供儀に一致する。(但し、脂肪については分からない)
パンは命のための食物・・つまりアダムの命に在っては死に至るために、霊体に入るとはいえ、一度は肉の内にキリストの体に預かる必要があったのでは?そこでパウロが、聖徒らに『彼と共に生きるものとなった』と云うのではないか?これは書簡でよく繰り返されている。

しかし、いずれは、地上の人々もその両方に預かる必要がある。
アダムの命に代る完全な命をキリストの体を通して、罪の赦しをその血の贖いを通して死んだアダムの体が生けるアダムの体に代る必要があったか?魂ではない。

つまり、アダムの魂は罪のゆえに消滅したが、キリストの魂は忠節のゆえに存続した。その魂は死に至るまで捧げられたが、その死が他の者の罪を赦す代価となった。他方、その体はその完全な命のゆえに不完全なアダムの命に代えられた。これで良いか?
キリストの体は代替のために消滅し(Heb13:11)、魂は霊への復活のために保存された。つまり、贖いの子羊の肉はまったく書き尽くされ『残っていてはいけない』、また『その魂は墓に捨て置かれなかった』、当然、キリストは肉で再来することはない。(EX29:14/Rev16:27)

もしそうなら、相当部分を書き換えないといけない。
エゼキエルの『魂は死ぬ』は『死んだ魂』という言葉以上の消滅を意味するのだろう。『死ぬ』というよりは復活もなく二度と生命を持っては存在しなくなる。これは「ハデスにある魂」とはまったく異なることになる。創造物として存在しなくなる。一方で、ハデスに捨て置かれる魂があるのなら、この『死』は復活されないことにおいて、永遠に捨て置かれ、その意味で『死ぬ』。全能の神はあらゆる魂を保持するが、選択的に『罪を犯す魂』を復活させない。その罪はその魂が自ら望んで選択した。これが裁きなら、やはり二本の木への問いと同じことになる。


関連⇒「キリストの体と魂


聖徒がふたつのエレメントに預かる理由もいくらか影響を受ける。
魂は罪の赦しのため、肉(マナ)は新たな命に生きるためか?
たしかにキリストの肉を食するなら永生が可能と言える。
『キリストと共に生きた』はこれを含んだか?

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[ο υμοσ του ανθροπον] は常に「人の子」でイエスを指すか?

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Act9:21
[τοῖς ἀνόμοις ὡς ἄνομος, μὴ ὢν ἄνομος θεοῦ ἀλλ’ ἔννομος Χριστοῦ, ]
「わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが」口語
「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが」新共同
「私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが」新改訳
「わたしは神の律法をもたない者ではなく、むしろキリストの律法の中にあるのだが」岩波委員
"not being without law toward God, but under law toward Christ"NKJV




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